世の中のあらん限りやスエコ笹

 【三山春秋】▼園芸店をのぞいたらシクラメンがずらりと並んでいた。本県は昨年の出荷量が全国6位、出荷はいま最盛期を迎えている▼原産地は地中海沿岸で、明治初期に日本に入ってきた。和名はカガリビバナ。歌人の九条武子が「篝火(かがりび)のよう」と話すのを聞き、植物学者の牧野富太郎が命名したという▼植物分類学の世界的権威だが、学歴と学閥の壁に阻まれ苦労の人生を送った。東京帝大の植物学教室に出入りを許されたが、主任教授から教室の書物や標本を見ることを禁じられた。抗議は聞き入れられず帰郷。教授が学内の権力争いに敗れて罷免され、月給15円の助手として呼び戻された▼結婚し、子どもが13人生まれたが給料は据え置き。家族が多いうえ、大量の標本と書物があって小さな家には住めない。借金は2千円に膨らみ、家財道具を競売に掛けられた▼篤志家の援助で救われたが、研究成果を発表するようになると、教授にねたまれ、悪口を言いふらされるようになった。困ったのは昇給を阻まれたこと。最後は大学から辞めるよう引導を渡された。47年間勤めて月給は75円。大卒の初任給と変わらなかった▼妻の寿衛子は文句を言わずに支えた。亡くなると新種のササを「スエコザサ」と名付けた。〈草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して五十年〉。生涯に発見した新種は1千種、新変種は1500種。植物への恋心は最期まで冷めなかった。(上毛新聞・2021/12/06)

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〇 牧野富太郎(まきのとみたろう)(1862―1957)=植物学者。土佐国(高知県)佐川(さかわ)村(現、高岡郡佐川町)の酒造家の生まれ。幼くして父母、祖父を失い、祖母に育てられ、6歳で明治維新を迎えた。9歳のとき寺子屋に入り、植物に興味を覚え始めた。1872年(明治5)寺子屋廃止に伴い藩校の名教(めいこう)館に入りヨーロッパの科学に接した。2年後、学制発布に伴い名教館は廃止となり、新制の小学校に入学(12歳)。2年間で教程を終えて退学、植物の調査・採集に熱中した。1879年、17歳で師範学校教諭永沼小一郎(ながぬまこいちろう)に師事、近代科学の精神について自覚、本草(ほんぞう)学から植物分類学へと転進、1881年、東京で勧業博覧会を見学の際、田中芳男(たなかよしお)に面接、東京大学植物学教室を訪ね、標本と海外の文献に接した。郷里に帰り理学会を創立、科学思想の普及に努めた。/ 1884年、再度上京、東京大学教授の矢田部良吉に認められ植物学教室に出入りを許され、植物分類学の専門的研究頭した。1888年『日本植物志図篇(へん)』創刊。以後、精力的に新植物の発見命名、記載の業績を積み、植物分類学の第一人者となった。1890年、一時、教室出入りの差し止めを受けるなど圧迫があったが耐え、1893年帝国大学助手、1912年(明治45)講師となる。教務のほか、民間の植物同好会による採集会を指導し植物知識の普及に尽力し影響を残した。1927年(昭和2)65歳で理学博士、1939年77歳で退職した。1950年(昭和25)日本学士院会員、翌年文化功労者、1953年東京都名誉都民となり、95歳で死去するとともに文化勲章を受章。[佐藤七郎]『『牧野富太郎選集』全5巻(1970・東京美術/複製・2008・学術出版会)』(ニッポニカ・再掲出)

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〇 シクラメン(Cyclamen persicum; sow-bread)=カガリビバナとも。地中海東部沿岸地方原産のサクラソウ科の多年草。扁球形の球根から群生する葉は柄が長くハート形で,表面には銀灰色の紋があり裏面は紫色。冬〜春,次々に花柄をのばして咲き続ける花の花筒部は下向きだが,5裂した花冠の裂片は上にそり返る。鉢植草花として普通にみられるのは園芸的な改良品種で,代表的な巨大輪のパーシカム咲,花弁の縁が縮れているパピリオ咲,花弁の縁に細かい切れ込みのあるロココ咲などがあり,花色も白,緋紅(ひこう),(さけ)肉色等で,八重咲もある。さらに近年は,小輪系品種(ミニシクラメン)の人気も高い。栽培は9月に種子をまき温室内で育て,次第に小〜大鉢に植え替えると翌年末には花をつける。(マイペディア)

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 拙宅の窓際にも、シクラメンの鉢植えが四つか五つほどあります。かみさんがとても好きな花で、毎年何かと世話をしている。ぼくは嫌いではないのですが、むしろ花を落としてしまった後の処理をすることを旨としています。というとなんだか、本格的に花弄りをしていそうですね、実はそんなものではなく、また次の暮れに咲かせたいという、それだけの「花好き心」だというばかりです。この花がどうして人気があるのか、おそらく「胡蝶蘭」ほど高価でもなく、手入れも難しくないからでしょう。以前に住んでいた近所には、この花をハウスで育てている花屋があり、ときどきそこに出かけては育ち具合を眺めていました。はからずも、牧野富太郎さんの名前が出ていたのを目にし、またまた、彼に触れてみたくなりました この雑文集では三度目ではないでしょうか。この人の「生涯」を、書物を介してみるとき、植物好きが高じて「花の精」になったと言われたほどの、花(植物)への打ち込み方でした。コラム氏が書いておられるように、「艱難辛苦」「波瀾万丈」「千辛万苦」「悪戦苦闘」といった形容がふさわしいような「牧野富太郎」の生涯だったのでしょう。ご本人も、あちこちでそのように述べておられます。

 牧野さんの生き方というものを表現するのは簡単ではないと思われます。明治十七年に郷里の土佐から上京、二十四年にはいったん帰京します。さらに二十六年に再上京し、帝国大学の助手に任命される。月給は十五円だったという。当時と比較することはあまり意味はなさそうですが、参考までにいうと、明治半ばころの一円は、現在の二万円相当だとされます。年季のは入った職人の給料が二十円程度だったとされますから、牧野さんの十五円がどれくらいであるか、想像はされます。

 しかし、ぼくが言いたいのは、他人の人生を根掘り葉掘り、こと細かく詮索するのはいかがですかという話です。あまり興味はないし、それで彼の人生の何がどのように測れるのかということです。貧しい生活を強いられたにもかかわらず、牧野さんは見事に人生の花を咲かせたと言いたいのかもしれないし、ご本人にも、そういう点がまったくなかったとは思われない。しかし、そんなのは当たり前じゃないですか。彼自身の記述によれば、植物学に興味を持ち、様々な標本や関係資料を収集するのに、実家から相当な出費を重ねたとあります。土佐のつくり酒屋の一人息子だったから、それなりの余裕があったのです。でもそれ以上に出費がかさんだけれども、土佐出身の三菱財閥や田中光顕(伯爵)らの計らいで、膨大な借金も帳消しにできた。帝国大学の並みいる総長(菊池大麓、浜尾新など)の助力を得たし、杉浦重剛などの助言などもあって、貧窮塗炭の苦しみを経験することなく、植物学に専心できたともいえそうです。もちろん、これは牧野さんの性格や人柄にもよったでしょうし、彼の持って生まれた天稟などが大きく影響したと思います。

 「捨てる神あれば、拾う神あり」(「神」もいろいろであって、なかなか油断はできなんですよ)というように、世の中にあって、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」だったということもできるでしょう。牧野さんが裕福であり、さらに帝国大学の教授であったら、「牧野植物(分類)学」が成就していたかどうか、それは怪しいと言えるのです。まして、そんな想像・空想は無意味でもあります。つまり、人生は、いずれにしても「一巻」であり、「一貫」なんだろうと、ぼくは言いたいですね。その牧野さんを「捨てた神」は帝国大学のケチな根性で意地悪が生き甲斐のような教授連中であったし、「拾った神」の第一は妻の寿衛子さんであったろう。この間の事情を詳細にたどったのが、大原富枝さんの「草を褥(しとね)に」でした。雑誌連載を一本にまとめられたもので、これが彼女の絶筆だったという。残されていた「夫婦の手紙類」を丹念に読み解いて書かれた小説で、「手紙や日記」も小説のネタになるのですから、よほど気を付けたいと、ぼくはひとり勝手に考えています。この書物を読めば、牧野さんがどんなに破天荒で性格破綻を来していたか、それが納得できます。「一将功なり、万骨枯る」というのは適切な言葉ではありませんが、枯れる万骨がいてこその、一人の人生というものもあるという一例でしょう。(万骨にしてみれば、たまったものではない)

 いかなる人生にも「両面」があるでしょう。世間に通用している(通用させている)「表向きの顔」と、外では見せない「内向きの顔」があるのです。それを「外面(そとづら)」と「内面(うちづら)」とも言いますし、「公的」「私的」と言い換えることもできます。多くの場合には外にはいい顔をして、うちでは強情な、わがままな顔をして、というようですが、いかがでしょう。よほどの付き合いや興味がない限り、「外面」あるいは「仕事ぶり」で人を判断します。それでいいのでしょう。「一将功成り万骨枯る」という、凄いことにも視野が及ばないことはざらにあることです。(「《曹松「己亥歳」から》一人の将軍の輝かしい功名の陰には、戦場に命を捨てた多くの兵士がある。成功者・指導者ばかりが功名を得るのを嘆く言葉。」(デジタル大辞泉)「一人の将軍」の戦功はおおくの兵士の犠牲によって成り立つというなら、一夫の功績は、妻をはじめとする家族の「犠牲」「支え」によって成り立つと言えるでしょう。ぼくには才能は皆無ですけれども、妻や子を犠牲にして(苦労を掛けるばかりで)、おのれの成功を期するという気は、微塵もありませんでした、幸か不幸か、そんな人間には生れつかなかったんですね。第一、将も兵もあるものかという、そんな感覚が染みついているんですよ。

 仕事さえできれば、大きな業績が上げられるならば、その他は問わないというのも、人生の選び方だし、人物を判断する、一つの方法でしょう。でも、業績を上げるために、誰かを犠牲にするという人生は、ぼくにはまっぴらで、つまり、そうまでして、「業績」を求めたくないし、成功を期したくもないというのです。ぼくがそんな人生を選ばなくとも、誰かがそれを大々的に遂行してくださるでしょうから。それぞれに「持ち分」というか、「持ち場」というものがある。あるいは「分際(ぶんざい)」という言葉を使ってもいい。ぼくが一貫して求めてきたのは「分際」を弁えるということでした。ここで、ぼくが好きな「風情(ふぜい)」という語も使いたいですね。「お前風情に」という気味あいで、妻子を犠牲にしてまで人生を賭けるようなことが許されるかという、一種の「自問」がついに消えなかった。この場合の「風情」とは「他人を卑しめる、あるいは自嘲」して使うような例としてです。「お前ごときが」と、きっと誰かが言うはずだという気分です。人を踏み台にしてまで、自分を突き出したくないという、それだけの意気地なしの生き方を、ぼくはしてきたというのです。

 この駄文には結論はありません。人でも物でも、どこから見るか(判断するか)、それによって実に雰囲気や景色、さらには評価までもが変わってきます。「表」専門の人もいれば、「裏」専門の人もいます。できれば、一人の全体をとらえたいと願ってはいるのです。昵懇の仲であれば、それは可能でしょうが、それ以外はまず不可能です。だから余計なものを材料にして詮索するのでしょう。それを「研究」「作品」と言っていいんですかという、一種の「後ろめたさ」もぼくにはありますし、昔もありました。「著作権」というものの理解が行き届いていなかったから書かれた論文や文学作品はきわめて多いでしょう。著作権の有効期限が切れたから書かれたというものもあるでしょう。これは、ぼくにとってはなかなかの難問題で、「評伝」ものや「人物論」には、かなり怪しいものが混じっているのは避けられないという気がします。(右の写真は、ぼくの好んだ著者の、もっとも好んだ著書です。「書名」が粋ですね。民俗学の泰斗だった柳田国男さんに「本屋風情めが、…」と罵られたように感じられたことがあった、その岡さんが、みごとに「切り返した」一番でした)

 牧野さんのこと(に限りません)を語ると、いつでも、語るに落ちるところに逢着します。つまりは「牧野さんを語る」のではなく、自らの「卑しい魂胆」を白状してしまっているということです。この、「表現」は面白いというか、含蓄があって、なかなか「人情の機微」というものを穿っています。「《「問うに落ちず語るに落ちる」の略》問い詰められるとなかなか言わないが、かってに話させるとうっかり秘密をしゃべってしまう」(デジタル大辞典)ぼくなんかは、まさにそのままであって、この駄文がそれを証明していますよ。「業績は凄いけれど、私的な生活もまた見事である」という存在がいるのでしょうが、寡聞にしてぼくの耳目には届いてこないですね。ここに、「類は友を呼ぶ」という慣用語を持ってくるのは不適切ですかね。(参考文献:牧野富太郎「花物語 続植物記」ちくま学芸文庫版。2010年刊)

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