哀しみを味わったことのない家庭へ行って、…

 お金の引き算=幸せの足し算 名優八千草薫さんの他界の折に、晩年の彼女は「引き算」だったと小欄で紹介した。演じる時にも、お化粧は最小限に。「重ねて重ねて…よりも余計なものを少しずつ減らしていって」と随想集にある▲きのう訃報を聞いた作家新井満(まん)さんも「お金の引き算=幸せの足し算」と考えた。家族のためにお金の足し算、余裕ができたら何かのために引き算する。米東海岸を旅した新井さんは、湖を守るために大農場を営む資産家を知って感銘し、日本で土地を買って野鳥の宝庫を守った▲「千の風になって」の訳詞と作曲で広く知られる。私はお墓の中にはいない、と歌う▲あの大津波で家を失い、施設で暮らす認知症の夫は「千の風」を聞いて突然涙し、妻の手を握り返したという。ジャーナリスト萩尾信也さんのルポにある。と思うと、「お墓の前で手を合わせて拝んでいる時は、仏様はたしかにお墓にいるのです」と作家で僧侶の玄侑(げんゆう)宗久(そうきゅう)さんは雑誌で異を唱えた。日本人の琴線に触れた、はやり歌ではある▲先週は作詞家喜多條忠(まこと)さんの訃報も届く。洗い髪が芯まで冷えた銭湯通いを「神田川」で思い出す人も、きっといる。寒くなれば余計に染みる、言の葉の力を思う。(中国新聞デジタル・2021/12/5 6:37)

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 この世に「神」も「仏」もいないのかと、深い嘆きに打ちひしがれる人もあれば、「神」の思し召し、「仏」のご利益と、「仏恩」や「天恵」を感謝する人もいます。宗教・信仰というものに対する姿勢は人それぞれ、宗教家と言われている人に、俗人顔負けの「大立者」もいるのが、この世でしょう。反対に「妙好人」などと呼ばれ、生き仏とまで言われるような在家人もいました。信仰があるかないかというのも、見かけの問題ではないし、教会へ行く回数や念仏を百万遍も唱えたということで測られるものでもないでしょう。ぼくはくり返し、自分は無宗教・無信心だと言っています。その言い方には、お寺にも教会にも、先ず無縁であるという生き方を選択しているということです。別に坊さんや牧師さんを忌み嫌っているというのではありません。信仰のスタイルもまた、その人に「独自」なものではないでしょうか。

 既存宗教とは、世間におけるお付き合い、その程度の交渉・交流はしてきたが、それ以上には一歩も進みませんでした。理由は単純です。形式が嫌いだし、自由をはき違えているという直感が消えなかったからです。神や仏に見られているぞ、縛られているなという束縛感がぬぐい切れなかったのです。本日の「コラム」で、新井満さん(右下写真)が亡くなられたということに触れて、彼の行状や足跡を回顧しておられます。ぼくは新井さんとは縁もゆかりもない人間ですから、特段の感慨があるのではありませんが、いくつかの彼の歌は聞いたことがあります。啄木の短歌に歌詞を付けられたのなど(『啄木・組曲ふるさとの山に向かいて』)、人並みにいいなあと感じた記憶は新しいままです。あるいは「千の風になって」も、何度も聞いたことがあります。「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」と歌われた。その通りだと思えば、いい歌だなあと感想が湧いてきます。とにかく、才能豊かな人だったことは確かです。

 それに対して、現職の坊さんが「お墓の前で手を合わせて拝んでいる時は、仏様はたしかにお墓にいるのです」と「反論」したという。これが反論かどうか、営業政策の問題だとは言いませんが、墓にいるのは「仏様」ではなく、「お骨」でしょ。墓があるというのは、そこに亡き人のお骨があるという証拠で、墓に「仏」がいるというのではないとぼくは思っています。その証拠に、お墓はいらないという人が多くなってきました。ぼくも墓はいらないと考えている人間です。(さらに言えば、葬式も戒名もいらないと考えています)これらの「形式」は、宗教、あるいは仏教と言われものとは何のつながりもないと言いたいくらいで、いわば「葬式仏教」という(江戸期に発生した)新興宗教のようなもの、だから、ぼくはそれとは縁を結びたくないのです。

 墓があることは否定できないし、ぼくも墓参りには出かけます。浮世の義理でもあるからです。家にも墓がありますが、それをずっと守ろうという考えはまったくありません。守る人がもうすぐにいなくなる。それでいいと考えている。いずれ、すべては縁者から切れて、「人間の一人」として(誰とも区別もつかないままで)葬られていることが明らかとなるからです。豪勢な墓を建てるのは、墓石屋と残された遺族の心持ちの問題で、死者には関りはないものです。(*「千の風」の詩の元になったもの(「原詩」、あるいは「原詩」の『原詩』」)に関しては諸説があり、いまだ誰が作ったかは確定していません(作者不詳)。ここで「原詩」あるいはそのもとになった「原詩の原詩」は亡き人(のお墓)、それを発表したとされる人、あるいは新井さんも含めて、すべて「遺族」とみなすとどうなるか。「原詩」や「原詩の原詩」には、それがどのように扱われようが関係のないことになりませんか。新井さんがどのような経緯で「作詞(翻訳)」したかについても、疑義が出されています。ぼくはそこまでは調べてはいないし、興味もないのです。さらに、「お墓の前で泣かないで」とした点に関しても、仏教関係の本で、新井さんが非難されています。「墓そのものの否定」だといわれているのです。つまりは「営業妨害」だというのでしょう)(何かと難しいですね)

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〇 せんのかぜになって【千の風になって】=《原題 Do not stand at my grave and weep》作者不詳の英語詩新井満が日本語に翻訳し、曲をつけた作品。私家盤として平成13年(2001)に制作された後、新垣勉、秋川雅史、中島啓江などの声楽家がカバーし有名となった。(デジタル大辞泉)

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 教会も同様です。これはぼくの偏見でありますから、正当化しようとしませんし、正当化はできません。「教会の外に救いなし」というのは、ずいぶんな思い上がりだと思うし、「神」の占有権、独占使用権を主張しているとしか思えない。寺と同様に、「お布施の強要」もいかがですか。教会位牌いると、まるで入場料のように「お布施」がついて回ります。キリスト教界の実情はどうか。いたるところで教会関係者の不信心な行為が暴露されてきました。これは仏教も同じで、「聖戦」「義戦」といって「人殺し」を教団挙って支持してきました。教会は「十字軍」と名付けた戦争行為を何度も繰り返してきました。「正義の戦争」というのがあるのかどうか。単純化すれば、戦争は、なんと言おうと「殺戮合戦」です。それを「神」の名において正当化する。今日でもイスラム原理主義が「殺人行為」を宗教(神)の名の下に行っています。これでも「神を信ぜよ」「仏を拝め」というのでしょうか、と寝言を言ってみます。

 「お金の引き算=幸せの足し算」という、本日のコラムの趣旨がわからない。最後は「神田川」の作詞家に触れて「言の葉の力を思う」と結んでいます。何が言いたいのか、ぼくにはよく理解できないし、それはまことかという気がしてきます。「神田川」にケチをつけるのではない。その歌を、ぼくはあまり好まないのは事実ですが、だからそれはダメというのではない。ぼくは好きではないけど、「四畳半フォークソング」があってもいいし、青春の「一瞬」を切りとるのもいい、「老後の楽しみ」だから?それを無下に否定はしない方がいい。しかし「言の葉の力」をいうとなると、それは好き嫌いではないと言わざるを得なくなる。どこに「言の葉の力」があるのか、と。「あなたはもう忘れたかしら」のどこに…。筋が外れてきましたので、この件はここで止めておきます。(左写真は喜多條忠さん)

 神や仏がいるかいないか。いると思う人にはいる、いないと思う人にはいない。同じ人間でもいると思う時もあれば、そんなものは存在しないという時もある。頑固一徹で、神はいる、仏はいる、あるいはその反対に、そんなものは「絶対にいない」と言い張る、どちらも維持するのは疲れるし、ぼくも付き合いかねる。これまでに(若い頃)、ぼくはこんな付き合いを強要されたことが何度もありますが、いつだって「話半分」で逃げ出していました。これは「宗教」問題のようでいて、実は「教条(イデオロギー)」の問題なのだとぼくは見ています。「天動説」は死滅してはいないのです。大学生の時期は、こんな「埒もない」話を延々とづづけていた記憶があります。睡眠時間を無駄にしたような、バカバカしい「青春」でした。

 過日の駄文で、ブレンナーという、アウシュビッツからの生還者の話に触れました。彼は「アウシュビッツと神は無関係」と明言されていたと、クシュナーというユダヤ教のラビによって紹介されていたことにも触れた。「神とは関係ない」「神に責任はない」とはどういうことか、これがぼくたちに提示された問題であると、ぼくは受け取るのです。またこのようにも言っていました。「私たちこそ、私たちの人生について神に責任を負っているのだ」と。 自分の人生をどのように生きるか、その責任は自分にあると、ぼくたちは考えます。それが「神に責任を負っている」と言われるのです。自分の人生だ、自分に責任があるとは誰もが言うことです。自分で自分の生き方(人生)に責任があるというのは、どういうことか。その「責任」とは誰に対してかというと、自分に対してという「矛盾」「撞着」したことしか言えなくなります。アウシュビッツの大虐殺(ホロコースト)の「責任」が神にはないというなら、当然のこと、誰彼にあるわけではないでしょう。(当然、ナチやヒトラーにはある)隣家の火事で死者が出た、「火元」の隣人だから「責任を取れ」と火元から言われたらどうでしょう。「自分にかかわりがないのだから、責任の取りようがない」ということになるはずです。自分に関わる事と、そうではないことの識別はつけなければならない。

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〇 責任(せきにん)=人間の行為が自由な行為であり、その行為の原因が行為者にある場合に、その行為ならびに行為の結果に関して、法的または道徳的な責任が行為者に帰せられる。したがって、外部から強制された行為や、幼児や精神錯乱者の行為に関しては、その原因が行為者の自由な決定のうちにはないとして、責任が問われないのが普通である。そしてこの二極の間に、行為の責任をどこまで問いうるかに関して、さまざまな段階が考えられる。行為に関して、その意図よりも結果を重視するのが責任倫理であって、意図の善(よ)さに重きを置く心情倫理に対立する。サルトルも実存の自由な創造には責任が伴うことを強調した。また責任は英語ではリスポンシビリティresponsibility、ドイツ語ではフェルアントボルトゥングVerantwortungで、いずれも他人に応答する責めを負うことを原義とするが、人間の本来的関係を「我(われ)と汝(なんじ)」に置く見方からは、責任は本来、汝に対する我の応答であるとされる。(ニッポニカ)

〇 せきにん【責任】=責任ということばは,それが用いられる文脈に従って,多少とも相互に異なった内容を指す。哲学的概念としての責任は人間の自由と相関する概念であり,政治的概念としての責任は立憲主義と相関する概念(たとえば内閣の責任)である。しかしここでは,われわれの日常生活に最も関係の深い道徳責任について述べる。 〈法は道徳の最低限〉という表現があるとおり,法とくに刑法の規定する罪,たとえば殺人窃盗誘拐詐欺などは,人が犯してはならない道徳的規則の最も基本的なものである。(世界大百科事典第2版)

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 この問題は、これまでの人生の中で嫌になるほどくり返してきました。何十年となく、扱ってきた問題ですが、それは、明白な正解などあるはずがないということの証明でもあるでしょう。ここでそれをくりかえすのは無駄ですし、駄文の性格にも釣り合いません。クシュナ―は一つの例を出して、この問題のヒントを示そうとしています。「古い中国の物語に、一人息子を亡くした母親の話があります。彼女は深い悲しみにあってひとりの聖人を訪ね、つぎのように問いかけました。「どんな祈り、あるいはどんな呪文を唱えれば、私の息子が生き返ってくるのでしょうか?」聖人は慰めを与えたり、追い返したりしないで次のように言った。「哀しみをまったく味わったことのない家庭へ行って、からし種を一つもらってきなさい。それを使って、あなたの悲しみを追い払ってあげよう」と。

 本日は、ここまでにします。この後、彼女にどんな事態が生じるのか、おおよその見当は付くのではないでしょうか。「神」はいたるところにいる、何時だっているのです。もっと言うなら、ぼくのような夫人人な人間にも「神」派いるのだ、何時も離れないで。だから、不信心者は思う、教会に行くことも、牧師のところに行く必要もないのかもしれないと。「自由と責任」の問題に、ぼくは直面しています。(もう少し続くかも。的外れではあれ、大体のところは駄弁りましたが)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。