【明窓】刺し身と豆腐「料理をしないことこそ料理の理想である」。逆説的で、何やら禅問答のような言い方だが、これが日本料理の料理観なのだという。今年の文化功労者に選ばれた食文化研究の第一人者で、世界の隅々まで食べ歩いた石毛直道さん(元国立民族学博物館長)の見立てだ▼石毛さんが代表例に挙げるのが刺し身。新鮮な魚に「切る」という最小限の技術を加えて醤油(しょうゆ)とわさびで味わう、なるべく自然に近い状態で食べる文化だ。刺し身は昔から日本料理の王座とされ、会席などでは欠かせない。このため料理長が自ら手掛けていたようだ▼その分、こだわりも強い。刺し身を「引く」という言い方があるのもその一つ。切る際の包丁さばきから生まれた表現らしい。世界では珍しい片刃の包丁が発達したのも、魚の柔らかい身が潰(つぶ)れてうま味が逃げないように切るためだという。プロに言わせると、素人が切った刺し身は断面が滑らかではなく、身が潰れていて醤油がすぐに染み込むそうだ▼「料理をしない料理」のもう一つの例が冷や奴(やっこ)。豆腐を切っただけの淡泊な味を刺し身と同じようにして味わう。寒くなると湯で温めて食べる。「畑の肉」と呼ばれる大豆で作った豆腐は、肉食を避けていた明治維新までは魚以上に身近なタンパク源だった▼ここまで書き進めてきたら、もう今夜は刺し身と湯豆腐で一杯の気分。魚はアジにするか、ブリがいいか。(己)(山陰中央新報デジタル・2021/12/04)

本日も家の前での道路工事が続けられています。年末いっぱいかかるかもしれない。あるいは年明けになるかも。もともとは、車がすれちがえないような細道だったでしょう。あるいは、人が歩く前は「獣道」だったかもしれません。だから、その道をわがもの顔に歩いたり、拡げたりするのは「先住権」の侵害ということになる。道を広げてくれというのはぼくではない、拙宅前に住んでおられる方が繰り返し町役場に陳情されたとか。そのために、拙宅の敷地をいくらか町に譲渡した。ぼくは狭いままでも結構という気持ちでしたが、救急車も消防車も入れない道は「町として、どうなんだ」とさかんに言われていました。(左上写真は「カツオ」)
その人は茂原市に住んでいる。つまりは隣町。家にはご尊父が一人、今年、九十七歳とか。つい最近までは自家用車の運転をされていたが、この数日は車がなくなっているようですから、あるいは運転を止められたのか。その娘さんは毎日、車でここに来られる。親のお世話ということかもしれません。母親もおられますが、現在は誉田(ほんだ)という外房線の駅前の施設に入所されているそうだ。なかなか大変なお世話ぶりで、ぼく自身、頭が下がる思いがしているのです。その女性の陳情が、何年越しかで受け入れられ、工事中というわけです。おそらく、距離にして五百メートルほどの道ですが(町道)と名がついているのですから、規格もそれに合わせて四メートルか六メートルということになるのだそうです。大した道ではなく、一番奥に一軒、そこへの途中に三軒あるかぎりの田舎道です。

ところが、毎日決まって何台かの車が通ります。狭くてまっすぐだから、スピードを出す。事故が起こる。ときどき、猫や狸が轢かれる。そんな時はよく拙宅に電話が来る。「何とかしてもらえまいか」というのです。ぼくが「猫好き」(ホントは猫好きではない、嫌いでもない。しかし生きているものを放置しておくことが出来ないだけ。それが死んだのだから放っておけるかというと、そうはいかない)とみなされていて、それで電話がかかってくる。スコップと軍手と段ボールを準備して出かけるという仕儀になる。今現在、拙宅の裏庭には五人分ほどの「猫墓」がある。まだ埋葬していない四人分の「お骨」も家中にある。つまらない話(いつだって、そうですね)になってきました。
よく「猫が好きなんですね」と言われる。あるいは「猫を飼っているんですか」と言われる。かならず「好きではない」「飼ってはいない」と答えます。「飼育する」「ペットにする」という姿勢や態度は、ぼくにはない。共棲者だと心底から見なしている。好き嫌いで「生き物」を扱うという趣味は、ぼくにはないんですね。最近のニュースで「フランスでは犬猫等の動物販売禁止」「イルカショウ」なども禁止という。いいことですね。人身売買禁止に並んで動物売買も禁止されることを願っている。血統書付きだなんて、なんという時代錯誤の、能天気なんでしょう。これまでに出会ってきた猫(すべては野良育ちでした)は、おそらく三十は軽く超えているでしょう。保険制度のない時代ですから、医者通いには、何かと苦労している。現に、一人、毎日のように通院している。食事代も安くはない。これは慈善事業でもなければ、環境美化運動でもない。あるいは「小さな親切」運動でもない。その「猫」が大嫌いだというのが、拙宅前の住人(女性)で、彼女の子息さんは「猫アレルギー」だと言われます。よりによって、そのお宅の敷地内に入って、ぼくのところの猫たちが自由に走り回っているので、いささか気が引けているのです。(猫たちは、なかなか言うことを聞いていくれない)

よく「〇✖運動」と言われる。ぼくはそれを全面的に否定はしませんが、「あいさつ運動」「交通安全運動」などと言われると逃げ出したくなる。何時だって必要におうじて「あいさつ」、車に乗れば「安全運転」これだけ。「あいさつ」はラジオ体操やフィットネスではないから、そんな運動はご免被っている。すべからく「運動」なるものは、一人でするものという観念がぼくにはある。つまり「徒党を組む」のが大嫌いなんです。夫婦だって仲良くもあり仲が悪い時もあり、実に「スリル満点」です。実際には、少々しんどい時もありますが。相手も同じですね。つまり「徒党を組まない」という一貫性が夫婦間にも出る。
よく「飲み屋」なんかにあった「仲良きことは良いことなり」とかなんとか、ああいう掛け軸みたいなのが掛かっていると、酒がまずくなるので、そんな店には、まず入らない。知らないで入って、途中でトイレに入る、そいつがかかっていると、ぼくはきっと店を出ます(もちろん勘定を払って。自分の金で飲むのがぼくの呑み方。ただし、行きたくないのに誘われたら、当方はカネは出さない。それをケチだと勘違いしているのがいっぱいいました。そんなのとは酒を飲みたくないね)
ようやく、本題(というほどのものではありません、何しろ駄文ですから)です。「刺身と豆腐」と来ました。お説の通りですね。おそらくぼくは、「刺身と豆腐」で三十年、いや四十年でしょう。学生時代から「晩酌」はやっていた。勤め人になってからは「飲み屋通い」でした。四十を過ぎてからは、行く店は決まっていました、元魚屋さんの「Mちゃん」が開いていた。今もあるかどうか。魚はうまかったというか、不味い魚は出さなかった。彼の店に鮪問屋の社長も来ていました。何時も魚談義。面白かったですね。ぼくは、決まって「鰹(かつお)」年中ある魚ではなかったけど、ほぼ半年くらいは、毎晩のように堪能しましたね、三十年以上。「舌の上小判消えゆく鰹かな」という川柳のような句があります。江戸の将軍にでも献上しようという魚でしたから、庶民の口にはいることは滅多になかった。お金をためて、やっと鰹にありつけたというのです。
志ん生の「まくら」にこんなのがありました。職人が鰹を食ったというので評判がたった。それを聞いた友達が、「どうだ、旨かったか」ときく。いや、「寒かった」と答えた。「どうしてだい」「着ているものを質に入れて、食ったから」当節はどうなんでしょう。海水温がやたらに高かったり低かったり、そのために異常をきたしているのは「気圧」ばかりではなさそうで、サンマがだめ、サケも見られない、もうどうしようもないほどの「異常状態」が日常になっているのです。これが、人間の行動・振舞いに影響しないなんてことがあるでしょうか。

ぼくは豆腐もよく食べました。町の豆腐屋さんから、ほぼ三十年以上は求め続けてきました。豆腐屋が驚いていました「そんな豆腐を食べてもいいんですか」って。ある時は「豆腐は、そんなに美味いんですか」とも。豆腐屋が言うのだから、驚きます。使っている大豆もニガリもごく普通のもでした。作り方が好かったのかな。その豆腐も食べられなくなったのが、ぼくが酒を飲まなくなった理由かもしれません。山中に越したからでした。また、四十年ほども飲みつづけていた酒(「黒帯」という金沢の純米酒)も、山中に住みだしてからは、手に入りにくくなった。通い詰めた飲み屋がおいていた酒が「黒帯」で、これをいつだって少し冷やして飲んでいました。大体「一升」前後です。飽きが来ませんでした。ほかの酒は見向きもしなかった。山の中に来る前に、引っ越し先で飲む酒を探した。「梅一輪」という山武市の地酒がありましたから、それをしこたま仕入れてしばらく飲んでいた。しかし「刺身と豆腐」が手に入らなくなった。近間にスーパーはありますが、それは本物とは別種の「刺身と豆腐」、加えて「黒帯」、この三点セットに事欠いてしまって、ある日突然、「酒は止めや」となった。 小指を一本だして「これで~を辞めました」というのではなく、指三本で、酒を止めた。ついでに煙草も。それを信用しない悪友が、東京から山の中まで確かめに来ましたね。
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というわけで、本日も無駄話。ぼくは雑談大好き人間で、これならいくらでも話せるんです。まるで「黒帯」みたいです。いくらでも飲める。雑談の締めくくりになりそうでもありませんが。このところ読みながら考えてきた「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」の終わりの方で、著者は一つの「戯曲」を紹介します。アーチボルド・マクリーシュという多彩多能な詩人でもあった人が書いた戯曲、「J・B」。

「ヨブを思わせる人物 J・Bは、成功した実業家で、魅力的で愛情豊かな家族にも恵まれています。ところが、子供たちが一人、また一人と死んでいくのです。事業は失敗し、健康も損なわれます。ついには彼の住む街、それどころか世界の大半までが核戦争によって破壊されてしまうのです」(左写真はマクリーシュ)
聖書の「ヨブ記」同様に、そこに三人の友だちが、彼を慰めに来ます。しかし、彼はその人々の誰からも慰めを与えられなかった。「慰め」とは言うものの、実は、それらはすべて、自らの立場や主張の押し付けでしかなかった。何時だって、困っている人を助けると言って、やってきて、実際に助けられるのは稀なんですね。精魂尽き果てた J・Bは神に抗議し、その不幸の理由を聞こうとするが、「竜巻の中から答えてくる神の荘厳さに圧倒」されるばかり。神は、彼の失ったものをすべて回復させて、苦しみから、ついに J・Bが解放されるというのではなかった。神からの祝福・報奨はこなかった。「J・Bは妻のもとへ帰っていき、二人でもういちど生きていく決意をし、新しい家庭を築いていくのです。神の寛大さではなく、彼らの愛が、死んでいった子供たちに代わる新しい子供たちをはぐくんでいくのです」
聖書の「ヨブ」はなにか罪を犯したのではなかったにもかかわらず、あらゆる苦難に襲われた。しかし「義人」であることを少しも放棄しなかった「ヨブ」に対して、神は「苦しみの代償」として「新たな健康と財産と子どもたち」を与える。しかし「現代のヨブ」である J・Bはそうではなかった。神は何ものも与えはしなかったのです。その代わりというのでしょうか、J・Bは「神を赦した」のです。自らの受難を受け入れ、再び生きていくことを選ぶのです。
J・Bの妻は言う、「あなたは正義を求めていたのね。正義など、どこにもなかった…あるのは愛だけ」マクリーシュの戯曲は、じつに暗示的に終わっています。宗教・信仰・神というものを、ぼくたちはどうとらえてきたのか、どうとらえているのか、それを、もう一度根本から考えなおさせてくれるのです。その点について、クシュナーは言います。「マクリーシュのヨブは、人間の苦悩という問題に対して、神学や心理学ではなく、生き続けて新しい人生を築きあげようと選択することで答えたのです。彼は、正義が貫かれる世界を創らなかった神を赦し、あるがままの世界を受け入れる決心をしたのです。世界に正義と公平を求めることをやめ、愛を求めたのです」(前掲書)
神に奉仕し、神から祝福されようと求める人間ではなく、「不正や不公正」を見逃している神、そんな神を赦して、自らの責任で生きようとする人間の生き方が、暗示されるのです。「現代のヨブ記」と呼ばれる所以ではないでしょうか。

教会のろうそくは消え、 夜空の星もまたたかない。 心の灯をともしましょう、 そうすれば、やがて見えてくる…
○ アーチボルド マクリーシュ(Archibald MacLeish)(1892.5.7 – 1982.4.20)=米国の詩人,劇作家,官僚。元・ハーバード大学教授。イリノイ州生まれ。大学卒業後弁護士を経験し1923年パリに渡る。エリオット、イエーツ等の影響を強く受け作詞に没頭、’24年「幸福な結婚」、’25年「土の壷」等反戦の詩を発表し名声を確立。’28年帰国、’32年「征服者」でピュリッツア賞受賞、またローズベルト大統領の信任厚く、’39〜44年国会図書館長、’44〜45年国務次官補を歴任、’49〜62年ハーバード大学教授、’62年から名誉教授。他に詩集’53年「1917-1952」、’58年「J B」等の作品や評論、TV劇、伝記等広い分野で活躍。(20世紀西洋人名辞典)
クシュナーさんの誠実な、彼自身の経験からの言葉を、ぼくは肝に銘じて生きてきたその軌跡と重ね合わせています。「人生はなにかに敵対して生きるべきものではなく、なにかのために生きるべきなのだ」(前掲書)
「どうして私が苦しむのですか?」と問うのではなく、「この苦しみの中で、私どうすべきなのか?」と問いなおすこと、そこから「責任」(responsibility)という語が有する深い意味が現れてくるのでしょう。
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