なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?

 本日は、柄にもなく、少し面倒な、しかしとても重要な問題を扱った、一冊の書物を紹介しながら、ことの核心に少しでも迫ってみたいという思いを以て、駄文を重ねようとしています。その書物の原書はすでに三十年前に出されています。少し読んでは、身につまされながら、時間をかけては問題を追っかけてきたと言っていいでしょう。本のタイトルは WHEN BAD THINGS HAPPEN TO GOOD PEOPLE.「いい人(善人)に悪いことが起こる時」(邦訳のタイトルは「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」岩波現代文庫版、2008年刊)作者はラビ(ユダヤ教の教師)であるH,S,クシュナーという人です。本の帯には「不幸に打ちひしがれる人を励まし続けてきたラビの言葉」とあります。宗教の本というよりは、人生の難問、あるいは謎を、生活する人の目の高さで求めようとしている姿勢を一貫して保ったものと、ぼくには考えられました。自身が「不条理な不幸」に遭遇しているだけに、真実に迫る真摯な姿勢に強く打たれます。

 何度かに分けて、この「現代のヨブ記」の意味するところを考察してみようとしています。旨く行くはずがないことを、最初にお断りしておきましょう。(今日から拙宅前の元農道(現町道)の舗装と拡幅工事が始まり、工事車輛や道具類を宅地内に保管。その対応で、何やかやの雑用が重なりました。クレーンやショベルの音がうるさく、じっくりと問題をとらえることは少しできない雰囲気がありますので、何回かに小分けして、という寸法です。工事は年内で終わるかどうか)

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 「モーセがイスラエルの民を率いて紅海を渡ったという聖書の記事を教わった子供が、日曜学校から家に帰って来た時の話です。

 なにを教わってきたのとたずねる母親に、その子は答えました。『イスラエル人たちがエジプトを脱出しちゃったんで、パロとその軍隊が追っかけたんだ。イスラエル人たちは紅海まで逃げてきたんだけど海を渡ることが出来なくて、エジプトの軍隊がどんどん近づいてきちゃったの。そこで、モーセは無線機を取り出して救援をたのみ、イスラエル空軍はエジプト軍に爆弾攻撃をしかけ、イスラエル海軍は浮き橋をつくって人が渡れるようにしたんだってさ』。驚いた母親が『紅海の話をそんなふうに教わったの?』とたずねたところ、その子は、『ちがうよ。でも、習ったとおりに話したら、お母さん、きっと信じないと思うよ』と答えたのだそうです」

 いきなり話の本筋に入ってしまいました。いったいこれは、この子が考えた答えか、それとも、…。神の力、あるいは奇跡を起こした神の御業が、今日の世界でどのように語られ、信じられて(または否定されて)いるか、ぼくはこの方面には疎く、状況は十分に把握しているわけではありません。(今でも、いくつかの地域で「宗教戦争」の様相が見られます)日本でも、まるで悪い冗談のように、以前なら「因果応報」「親の因果が子に報い」などと言いました。天罰や仏罰があたったのだということも日常的に言われてきました。果たして、今日は、それよりは少しは上等というか、ましな受け答えが出来ているのでしょうか。

 この本の主題は明確で、実に単純。「なぜ、善良な人が不幸に見舞われるのか?」「なぜ、義人(正しい)人が苦しむのか?」「なぜ、いい人が災いに襲われるのだろうか?」(これは著者が立てた柱です。ここには「悪い人が不幸になるのは当然です」というニュアンスが感じられます。そこへいくと「悪人正機」の法然や親鸞とは、やはり違うんですね。この点にも、触れてみたい気がしています。いい人と悪い人の差は、親鸞さんたちでは零、キリスト教でも一ミリありますか、というのがぼくの疑問、あるいは理解です、殆んど差はないでしょ、といいたいのですが)

 これらの問いに、明快な答えがあると思われますか。初めにお断りしておきますが、ぼくはキリスト教の信者でもなければ、仏教徒でもない。あるいは、多彩な新興宗教の、どれ一つも受け入れていない人間です。そんな人間に「どうして、このわたしだけが」という苦悩というか煩悶が起ころうはずがないと、不信心者は愚考してきました。病気になるのも、災害に遭うのも、あるいは交通事故に遭遇するのも、すべては「神の差配」「仏(阿弥陀様)の思し召し」などとは、いまだ思い及んだこともない。原因や理由は、自分にある時もあれば、他人に因る事故もあるでしょうが、それをあえて「神・仏」を引き合いに出して云々しようとは、まったく思いもよらないことです。

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● モーセ(Mosheh; Mōsēs)=前 13世紀頃在世のイスラエルの立法者,預言者。エジプトでレビ族の家系に生れ,エジプト圧政下のヘブライ人を率いて脱出に成功した指導者。イスラエルの子孫の力を恐れたエジプトのパロ (王) は出生した男児の殺害を命じたが,モーセはパロの娘 (モーセの命名者) に救われ宮廷で成人した。しかし彼は苦役に従事する同胞を見,同胞を打ったエジプト人を殺したことからミデヤンに逃れた。同地の祭司エテロの娘チッポラを妻として亡命生活をおくっていたが,シナイ (ホレブ) 山で神が彼に現れ,イスラエル人のエジプト脱出を命じたので再びエジプトに戻った。兄アロンの助けによって人々の説得に成功した彼は,パロの頑強な反対にあいつつも,出エジプトを決行,奇跡によって紅海の水を分け脱出を成功させた (出エジプト記1~14章) 。出エジプトの3日後,モーセはシナイ山で神と契約を結び十戒をはじめとするさまざまの掟が示された。酬恩祭として捧げられた雄牛の血は契約の血と呼ばれている。その後もモーセは約束の地カナンへ向けて長く困難な移動を指揮したが,40年ののちカナンへの途次モアブの地ネボ山に没した。享年 120歳と伝えられる (申命記 34章) 。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 「これはほんとうにあった話です。私の知人の子供で十一歳になる男の子が、学校で眼の定期検査を受け、近視だからメガネを使用したほうがよいと診断されました。彼の両親も娘もメガネをかけているので、だれも驚きませんでした。しかし、どういうわけか、その子は深く思い悩み、だれにもその理由を話そうとしませんでした。でも、とうとうある夜、母親がその子を寝かしつけようとしていたとき、話はじめました。

 眼の検査を受けるちょうど一週間前、その子は、二人の年長の友人といっしょに、近所の人が収集日に外に出していたゴミの山を物色していたのですが、『プレイボーイ』という雑誌が出てきたというのです。少年たちはなにか後ろめたい思いを抱きながら、それでも裸の女性の写真にしばらくのあいだ見入っていました。数日後、学校の眼の検査でメガネが必要だと告げられたとき、その子は、あんな写真を見た罰として神が自分の眼を見えなくしようとしている、これはその前兆だ、と思い込んでしまったのでした」(同書)

 これは「いい子」なのか「悪い子」なのか。もし「プレイボーイ」の裸の写真を見たという理由で失明にさせられるなら、ぼくはとっくに、しかも何度も失明しておりましたね、それがわかっているなら、そんな「神」など信じるものか、不信心のぼくなら、きっとそんなところだったでしょうね。日曜学校で「モーセの紅海の渡り」を教わった子と、この子のケース、それのどこが問題なのでしょうか。差し当たって、これは宗教の問題であるというよりは、道徳や倫理の方面に属する事柄なのかもしれません。幼児教育というと、なんだか気軽に考える向きもありますが、これはとても恐ろしい「しつけ」であり「強制指導」にほかならない時もあるんですね。「三つ子の魂百まで」って、いまでも、いいすかいな。

 いずれにしても「どうして、このわたしだけ(ばかり)が、こんな不幸に襲われなければならないのか?」という問いかけに、誰がどのように答えられ、それを、人はどのように受け止めれば、苦悩は収まるのでしょうか。切りのない問題に、さてどうしたら、少しでも近づけるのか、お手本も、見取り図もなしに、ない知恵を絞ることにします。ここに「ラビ教師」の書かれた、一冊の本を横に置くばかりです。

 この島には恒例のように「自然災害」「人為災害」が襲来します。きっと多くの人が犠牲になる。自分がその中に入らない限り、ぼくたちは「スゴイ災難だった」と、文字通り他人事としてやり過ごします。ときには、「どうしてあんなにいい人が、災難に遭うのか、理不尽だ」という気持ちは生まれますが、それ以上に何かできるか、あるいはしようとするか。まだまだ、ぼくには行き届かないことばかりです。不運なことだったと片付けることはできるが、それで片付かない人が、いつでも、必ず存在することを忘れたくないし、そうなると、また別の思案も出てくるのかもしれない。(この稿は続ける予定です)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。