何もなく過ぎてしまえば、勿怪の幸いです

 【日報抄】ことしも残すところ、あとわずか。やっと2021年がしっくりくるようになったと思ったら、あすからは22年である。21年にも令和3年にもやっと慣れたのに、とぼやきたくなる。物事に慣れるのに時間がかかるようになった、わが身を棚に上げつつ▼何かに慣れたり、なじんだりすると楽になる。スムーズに進められるようにもなる。習うより慣れよという。長年の動きが体に染み付いた職人は、考えるより先に手が動く。正確無比の技を生む▼とはいえ、慣れには落とし穴も潜む。慣れが油断を呼ぶことがある。初心忘れるべからずともいう。慣れが緩みにつながれば、思わぬ誤りを呼ぶ。注意深く、丁寧な姿勢を忘れがちになる▼慣れには大切さと怖さの両面がある。だとすれば、年を重ねて慣れるのに時間がかかるようになることも、必ずしも悪いことばかりではないような気もする。ゆっくりと慎重に慣れていけば、油断のデメリットも少しは抑えられるのではないか▼慣れの怖さを心に刻む上で、暦も重要な役割を果たしているのかもしれない。1年は地球が太陽の周囲を一回りする365日。この間に物事に慣れ、この時間が経過したら、気持ちを新たにする。慣れの怖さを知らせてくれる、そんな機能も暦にはあるようだ▼この1年、新型ウイルス禍は収束しなかった。マスク着用にはすっかり慣れた半面、感染対策が緩みかねない。慣れながらも、初心を忘れずに-。今夜、日付が変わるころ、自分に言い聞かせてみたい。(新潟日報・2021/12/31)

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 このコラム(「日報抄」)を熟読玩味する。我ながら珍しいし、しおらしいとも思う。「習うより慣れよ」という。自分で何事かを為す、その「経験」が尊いということです。教育の根底になる姿勢でしょうね。「慣れの怖さを心に刻む上で、暦も重要な役割を果たしているのかもしれない。1年は地球が太陽の周囲を一回りする365日。この間に物事に慣れ、この時間が経過したら、気持ちを新たにする。慣れの怖さを知らせてくれる、そんな機能も暦にはあるようだ」という指摘は、その通りだと、ぼくはわが意を得たりと首肯する。一年単位の区切り(年越しの大晦日に次ぐ元日の朝)が、こんなところに、その意味を潜めていたということを知らせてもらっただけでも、いい夢が見られそうです。この一年の間に、ぼくは少しも賢くなれなかったなあと痛感します。「残り少ない日数を胸に」と、まるで「高校三年生」の気持ちで、わが明け暮れを送りたいと念じてもいます、もちろん、アンダンテで。

 しかし、そうはいっても、ぼくは殊勝なことを言うつもりもないし、言えそうにもありません。そんな「よくできた人間」じゃないんですね。せいぜい憎まれ口をたたくこと、それが記憶力の衰退を、束の間でも遅らせてくれそう。ぼくの「自主トレ」は、なお続くのでしょう。

 何もなく過ぎてしまうか去年今年(無骨)

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 大晦日に因んで、大好きな俳人の句をそれぞれ二句。

木枯(こがらし)や何に世渡る家五軒 (蕪村)

・いざや寝ん元日は又あすのこと (同上)

どこを風が吹くかと寝たり大三十日 (一茶)  

・うつくしや年暮れきりし夜の空 (同上) 

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◉ よさ‐ぶそん【与謝蕪村】=江戸中期の俳人、画家。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)の農家に生まれた。本姓谷口、のち与謝。別号宰鳥、夜半亭二世。画号四明・春星・謝寅など。一七、八歳のころ江戸に出て、画や俳諧を学び、俳諧の師巴人が寛保二年(一七四二)に没してからは江戸を去り、一〇年あまり東国を放浪した。宝暦元年(一七五一)京都に移ってからは、しだいに画俳ともに声価を高め、明和七年(一七七〇)には夜半亭を継ぎ宗匠の列につらなった。さらに安永二年(一七七三)には「あけ烏」を刊行し、俳諧新風を大いに鼓吹した。俳風は離俗、象徴的で美的典型を示しており、中興俳諧の指導的役割を果たした。一方、画にすぐれ、大雅と並び文人画の大成者といわれる。著「新花摘」「夜半楽」「玉藻集」など。句集に「蕪村句集」がある。享保元~天明三年(一七一六‐八三)(精選版日本国語大辞典)  

◉ こばやし‐いっさ【小林一茶】=江戸後期の俳人。通称、彌太郎。本名、信之。信濃柏原の人。三歳で実母に死別し、八歳以後継母の下に育てられる。一四歳の時、江戸に出る。のち二六庵竹阿(ちくあ)の門に入り、俳諧を学ぶ。全国各地に俳諧行脚の生活を送ったが、晩年は故郷に帰り、俳諧宗匠として安定した地位を得た。しかし、ようやくにして持った家庭生活は妻子に死なれるなど不幸であった。その作風は鄙語、俗語を駆使したもので、日常の生活感情を平明に表現する独自の様式を開いた。著に「おらが春」「父の終焉日記」など。宝暦一三~文政一〇年(一七六三‐一八二七)(精選版日本国語大辞典)

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 一年間、何も考えずに、ただの思い付きで駄文や雑文を書きなぐってきました。実に恥を忍ぶと言うべきで、少しは精進をして(慣れるより習え)「文章(ことば)」にあたりたいと、書いているときは反省するのですが。にもかかわらず、たくさんの方が目を通してくださっているように、ぼくには思われ、望望外、いや望外外の喜びというほかなし、です。ひたすら感謝するばかり。その上で、来る年も、皆さまに、ご健康が授かりますように。ありがとうございました。(「記憶の射程」番外編)

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 大名は一年置に角をもぎ(柄井川柳)

 【水と空】豆腐の歳月 名文家で鳴らした人は目の付けどころが違うもんだ、と作家の故向田邦子さんの「豆腐」というエッセーを読んで思う。ひと月を〈豆腐を何丁も積み上げたもの〉と例えている▲その昔、豆腐屋の店先で、巨大な豆腐の塊におじさんが包丁を入れるのを見ていた。切り分けた1丁を「1日」とすれば、心にかなうことがあった日はスウッと包丁の入った、角の立った豆腐で、うまくいかなかった日は角がグズグズの豆腐に思えたという▲それが何丁、何十丁と重なってひと月になり、1年になる。今年も残りわずか、スウッと包丁の入った日はさて、どれくらいあったろう▲鍋の中で豆腐が煮崩れるような日もあったな、と省みることしきりだが、またもコロナ禍に覆われたこの1年、多くの人が心にかなう満足よりも、ままならないもどかしさ、先の見えない不安の方が大きかったとお察しする▲向田さんの文はこう続く。歯応えも味もなくて子どもの頃は苦手だった豆腐だが、大人になると〈形も味も匂いもあるのである。崩れそうで崩れない、やわらかな矜持(きょうじ)がある。味噌(みそ)にも醤油(しょうゆ)にも、油にもなじむ器量がある〉と見方が変わる▲豆腐には柔軟さも、いろいろ味付けできる幅の広さもある。来年の日々の“風味”はどうだろう。最後の1丁、2丁を積んで今年も終わる。(徹)(長崎新聞・2012/12/30)

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 本日は大晦日。もっと古風(でもなんでもないが)にいえば「おおつごもり(大晦日)」です。晦日(みそか。つごもり)は月末、一年の末が「おおつごもり」。この語を見たり聞いたりすると、ぼくは樋口一葉の短編を思い出します。「大つごもり」。内容は、それぞれがお読みになることをお勧めします。初出は明治二十七(1894)年。いかにも「貧窮・赤貧洗うが如く」の生活で、その貧乏に窮した余り、主人公の小峰は奉公先から「二円の窃盗」、窮迫している伯父の依頼を果たせなかったための挙に出て、…。一葉は浅草の龍泉寺生まれ。かみさんの生まれた地でもありました。その昔話を、ぼくは何度も彼女から聞いている。吉原は近くだし、浅草は目と鼻の先。一葉はその後、本郷丸山町に引っ越し、小さな雑貨店を出し、文章を書き溜める。ぼくが学生時代からの十年間、本郷に住んでいましたから、丸山町、初音町、真砂町、さらには菊坂と、いつでも歩いてましたが、それは一葉の足跡を追っかけていたような塩梅でしたね。

 百年前の大晦日も、二百年前の大晦日も、貧乏人にはつらい年越し前の、年越しのための一苦労だった。その昔は、多くは現金払いではなく「通い」といって、買った分を「ツケ」にし、月末には支払う。月末には少しばかり払って、大晦日には、すべてを支払い終える、そうしなければ年が越せなかった。このような金の工面や苦労話が落語のネタになり、芝居や講談の材料にもなったのです。「芝浜」をはじめ、いくらでもこの手の噺は切りがありません。それほどに大晦日は、超えるに辛い「山」だったのでしょう。今は、借金取りはのべつに攻めまくりますから、年の瀬の「江戸風味」も雲散霧消してしまいました、いいことかよくないことか。

 「水と空」は、ぼくの愛読する「コラム」で、長崎が親しく感じられてきます。本日の「お題」は「豆腐」でした。向田邦子という人の作品は苦手です。あまりにも趣向というか技巧が勝っていたような、そんな「賢さ」が苦手だった。それは好き好きですから、どうでもいいんですが、「こう書けば、受ける」ことがわかりすぎていたんでしょうか、ぼくは、その技巧がどうしても受け入れられなかった。「名文家で鳴らした人」と、お墨付きを与えておられます。さて、主題は「豆腐」です。と、書いていくと、酔ってもいないのに、よろよろの千鳥足はどこに向かうか知れたものではありませんので、ここまで。

 ただ一言だけ。「豆腐」といい、「納豆」といえば、すべてが同じでうまいものはうまい、そういうことはまずありえません。一例ですが、多くのスーパーで売られているものは「豆腐」という商品名がついていますが、本当にトーフですか。水を白い塗料で固めただけのもんじゃないんですか。ぼくは酒を飲まなくなった大きな理由は、口に合う「豆腐」が食えなくなったからでした。歯がなくなったからではなく、三十年、毎日「肴」にしていたものが手に入らなくなったから。豆腐・納豆・油揚げ、これは三食、年中食べても飽きなかったのは、同じ店のもの、まったく味が変わらなかったから。変哲のない、当たり前の材料(大豆)、にがり、水などで作っていたのですが、転居したためにそれが食べられなくなった。瞬時に「酒は止した」という仕儀に至りました。

 今日は、いつも以上に思いつくままに、駄文重ねをしておきます。(断ることもないのに)

 起きがけの五時前に、ラジオから「本日の誕生日の花(植物)はアオキ」、「花言葉は若々しさ」「長命」とか何とか、女性アンカー(というらしい)が言っていました。植物の「アオキ」は知らなくても、苗字はよく知られています。苗字には実に「木」が多い、まるで植木屋さんのよう。まず青木、黒木、白木、赤木、帚木、山木、植木、桜木、椹木、その他いろいろ、まさかこんなのがと思う、「茶木」という苗字もありました。ぼくはこの名の一人を知っていました。茶木繁、じつに若々しい、何時までも栄えるようなお名前でした。この人は薬会社に務めながら、詩を書いていた。そのうちのひとつが「メダカの学校」になります。(これについてはすでに触れています)苗字のつけ方は、実に端的明快で、日本人の育ててきた「性格」が滲み出ているようでもあります。手近で間に合わせる。

アオキの花言葉には、「若く美しく」「初志貫徹」「変わらぬ愛」「永遠の愛」
の4つの意味があります。
アオキは常緑樹で耐寒性も高いため、初志貫徹、永遠
の愛といった花言葉が生まれました。
アオキの基本情報
 学名:Aucuba japonica
 科・属:ミズキ科・アオキ属
原産国:日本 別名:青木 (https://greensnap.jp/article/8664)

 この植物は生命力の強いもので、日陰では一層その青が引き立つような成長ぶりを示します。青が引き立つと言えば「万年青(まんねんせい)(おもと)」がありますが、これも早くから、ぼくは植えていました。拙宅の庭にも二、三株。「万年青」は、ほとんどが鑑賞用なのが、ぼくには残念。随分と昔、まだ小学生の頃、この植物(万年生)は、「便所」の隅(脇)植えるのだと、おふくろから聞いた覚えがあります。それ以来、その理由は忘れてましたが、この植物を観ると(トイレを)連想するようになりました。花言葉は「長寿」で、一年中、青葉を枯らさないでいるからだそうです。「縁起」がいいかどうか、ぼくには縁がなさそうで、いくら飢えていても幸運に恵まれませんでした。

オモトは昔からとても縁起の良い植物だと言われていて、鬼門に置くと邪気を払ってくれます。よって鬼門である北東方向に置くのが望ましいでしょう。
オモトを庭に植えるとその家はずっと栄えるとも言われているので、地植えで育てられる環境ならそちらにも注目してみてください。
また、江戸時代に徳川家康が江戸に移る際にまずオモトを持ち込んだことから、他の荷物より先にオモトを新居に持ち込むと、運気が開けるとされています。
玄関に飾る新居祝いの植物としても、オモトはおすすめです。(https://greensnap.jp/article/8434)

◉ おもと【万青】=ユリ科の多年草。山地に自生し、肥厚した地下茎から多数の濃緑色の葉を出す。葉は長さ30〜50センチで、厚くつやがある。春、短い茎を出して淡黄色の小花を穂状に密集してつけ、実は丸く赤色、まれに黄色。園芸品種が多い。《 実=秋》「花の時は気づかざりしが—の実/几董」(デジタル大辞泉)

◉ アオキ(青木)【アオキ】=本州(関東以西),四国の林中に自生するミズキ科の常緑低木。葉は広披針形で革質で光沢がある。雌雄異株。花は3〜5月,枝先の円錐花序につき,径8〜10mmで紫褐色。冬にが赤くなり美しい。庭木,また寒地での室内観葉植物として多く栽培されており,斑入(ふいり)その他園芸品種も多い。半日陰地のほうが生育よく,繁殖は実生(みしょう),またはさし木による。大気汚染に強い。(マイペディア)

 アオキはいまも、庭のあちこちに何株も植わっている。自生する力が強そうで、知らぬ間に、赤い実をつけて大きくなっているのを発見するのです。青木も万年青も、いつに変わらぬ旺盛な生命力ですね。

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 少し買い物をするために出かけましたが、こんな田舎町でも、人出がありましたので、這う這うの体で、ぼくは帰ってきました。なにしろ、何でも「待つ」ということが死ぬほど嫌いな人間です。食事するために「並んで待つ」などというのは、ぼくには耐えられない苦痛です。切符を買う、タクシーを待つ、そんなことは四六時中でしたが、ぼくは列というか、並ぶということは鬼門(凶)だった。だから深夜の道を、何キロであろうと、歩き通したことは何度もあります。本日は「大晦日」だというので、近所のスーパー(十キロ離れています)に行きましたが、駐車場に車が多く、それを見て、店に入らないで、ぼくは引き返しました。それを二、三軒。何処もダメで、手ぶらで帰宅し、この駄文を書いています。アミンの孝子さんは「待つわ」と歌っていますが、「私待つわ、何時までも待つわ」という気が知れないね。(ただ今、午後十二時半ころ)

 じつは昨日、「川柳」「狂歌」に引き付けられて、久しぶりにもっと読んでみたくなり、昨夜遅くまでと、本日は早朝から、「日本古典文學大系57 川柳 狂歌集」(岩波書店)を繙(ひもと)いているのです。これはぼくが大学生になって、いきなり「百巻」をまとめて買ったうちの一冊。(昭和三十三年十二月に初版発行)「川柳」も「狂歌」も、いわば江戸期に開花、俗にいう「都の花」というものは、「火事と喧嘩」だけではなかったと言うべきか。柄井川柳についても、大田南畝についても、ぼくは知るところがほとんどありません。たった一、二冊の本を元手に、何かを騙るつもりはないのですが、知ることが多くなればなるほど、彼ら、とりわけ南畝の「凄さ」「狂気と正気」の並存に驚かされます。いずれゆっくりと書いて見たくなりました。

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・唐紙へ母の異見をたてつける   ・緋の衣着れば浮世がおしくなり   ・しばらくの声なかりせば非業の死
・鶏の何か言ひたい足づかい  ・日本の狸は死んで風起し (「俳風柳多留 初篇」)

  

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・今さらに何かおしまん神武より二千年来くれてゆくとし  ・年波の今やこえんと門々にたてし師走の末のまつやま  ・ねてまてどくらせどさらに何事もなきこそ人の果報なりけり
・世の中はさてもせはしき酒のかんちろりの袴きたりぬいだり   ・世の中はいつも月夜に米のめしさてまた申し金のほしさよ (以上は、「蜀山百首」より)  

  本日もまた、ご愛敬です。「時世時節よ変わろとままよ、吉良の仁吉は男じゃないか」というほどに、変わらぬものは「世間の薄情 人情の厚情」と。それを、いつでもぼくは祈るや切ですね。

蛇足 表題句の心は。いまなら「単身赴任」の夫の「身持ち」を疑う、妻の「角(つの)」を取ろうとする、いいわけしながら、「鬼」をなだめる風情ですかな。さすれば、劣島に流行る宮仕えの「単身赴任」は、江戸風「参勤交代」の遺産か、あるいは威風(遺風)なのかも。参勤交代は「一年置(おき)」だったが、今流は無期限もあるそう。ぼくには未経験の役回りですが。

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 じれったく師走を遊ぶ針とがめ 

【談話室】▼▽柳誌「川柳やまがた」の2022年1月号が手元に届いた。何げない日常の描写や風刺の効いた世情観察に毎号共感、感心させられる。今号では〈切れ味の落ちたハサミと何処(どこ)までも〉(相田みちる)が印象に残った。▼▽目を通したのがたまたま新聞記事の切り抜きの合間で、はさみを手にしていたのが理由だろう。四半世紀近く使い続け、切れ味が鈍ったと気になってもいたところだ。句の作者は時事吟も鋭いだけに、同じように記事のスクラップに使っているのかもなどと想像が膨らんだ。▼▽19世紀後半から20世紀初めにかけて英語圏の女性の間でスクラップが流行した。「赤毛のアン」シリーズの作者モンゴメリもその一人。新聞、雑誌の記事や写真だけでなく、気に入った詩や美しい布地、押し花など、気分が上がるお気に入りの素材を集めて冊子に仕立てた。▼▽河出書房新社から出ている解説書によれば、当時世間の話題だった戦争に関するものは皆無という。今年の筆者の切り抜きは政界の不祥事や温暖化など気分が沈む話題が多かった。21年も明日付の新聞が最後だ。モンゴメリに倣いグッドニュースの切り抜きで締められれば。(山形新聞・2021/12/30)

HHHHHHHHHHHHHHH

 毎日の味気ない「駄文」を書いている、その本人に嫌気がさしてきています。本日は「大晦日(おおつごもり」」一日前。いかなる感慨や感傷もありません。束の間の陽だまりを利用して、猫たちが好き放題に破り呆けてしまい、そのままに放置していた「障子」を張り替えました。こんな仕事は何年ぶりですか。前に住んでいた家では、そこでも猫の悪行が絶えなかったので、かみさんは「障子戸」を、ぼくも知らないうちに処分(多分、粗大ごみに)していました。この家ではどうなりますか、襖も障子も畳も、被害は甚大ですから、ぼくは下手なりに「DIY」です、でも「畳」までは無理でしょう。張り替えた障子も、いずれすぐに破られるでしょうが、そうなれば、こちらも「破れかぶれ」です。

 連日の気が沈む世上の事件や事故、それを払拭はできないにしても、験直しに「江戸の粋人」に学びたいと。川柳と狂歌の胆は「粋」でしょうか。ぼくにはいささかの素養もないので、ひたすら鑑賞専門です。そして、いささかの「精進潔斎」にも無縁ですのに、まあ、気の早い「精進落とし」のつもり(気分だけは)、江戸の先人に学びましょうという次第。新聞も「かく、あれかし」、江戸川柳や狂歌の万分一でも、教養や知性というものが欲しいと。それは、けっして「学校教育」からは生まれません。そこから離れなければ、ね。どうも、そんな気もしますね。

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◉ せんりゅう センリウ【川柳】=[1] ⇒からいせんりゅう(柄井川柳)[2] 〘名〙 (「川柳点」の略) 江戸中期に発生し、一七音を基準として機智的な表現によって、人事、風俗、世相などを鋭くとらえた短詩型文学。もともと俳諧の「前句(まえくづけ)」に由来するが、元祿(一六八八‐一七〇四)以降、付味よりも、滑稽、遊戯、うがちなどの性質が拡充された付句の独立が要求されるようになり、一句として独立し鑑賞にたえる句を集めた高点付句集が多く出版され、新しい人事詩、風俗詩となった。享保(一七一六‐三六)頃から、点者の出題に応じた「万句合(まんくあわせ)」が江戸で盛んになり、その点者、柄井川柳が代表的存在であったところから「川」の名称が生まれる。文化・文政(一八〇四‐三〇)頃、「狂句」とも呼ばれた。川柳点。※黄表紙・金々先生造花夢(1794)「仰向いて搗屋(つきや)秋刀魚(さんま)をぶつり食ひ、とは川柳の名句であった」(精選版日本国語大辞典)

◉ 柄井川柳( からい-せんりゅう)=1718-1790 江戸時代中期の前句付(まえくづけ)点者。享保(きょうほう)3年生まれ。江戸浅草竜宝寺門前の名主をつとめるかたわら,宝暦7年初の万句合(まんくあわせ)を興行。明和2年付句(つけく)を抜粋した句集「柳多留(やなぎだる)」が人気を得,付句は短詩として独立し,点者の俳号から,のちに川柳とよばれた。寛政2年9月23日死去。73歳。名は正道。通称は八右衛門。別号に緑亭,無名庵。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

◉ 誹風柳多留(はいふうやなぎだる)=江戸中・後期順次発刊された川柳集「俳風柳樽」とも書く。1765年初編刊。1838年167編で終刊。初代柄井 (からい) 川柳(24編まで)から5世川柳までの投句を板行した『川柳評万句合 (まんくあわせ) 』の中から数万句を収録。初編から23編までの編者呉陵軒可有 (ごりようけんかゆう) で,初代川柳生存中の24編までにこの小文芸の本質は出つくした観があり,以後狂句調になり,文学性を失った。江戸庶民の生態を知るのに好適な史料。(旺文社日本史辞典三訂版)

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 以下、年忘れにはなりませんが、「柳多留」で、かってに「おだ」をあげましょうか。

 誹風柳多留初篇

 序
 さみだれのつれづれに、あそこの隅こゝの隅より、ふるとしの前句付のすりものをさがし出し、机のうへに詠むる折ふし、書肆何某来りて此侭に反古になさんも本意なしといへるにまかせ、一句にて句意のわかり安きを挙げて一帖となしぬ。なかんづく当世誹風の余情をむすべる秀吟等あれば、いもせ川柳樽と題す。 
                              于時明和二酉仲夏     浅下の麓呉陵軒可有述

古郷へ廻る六部は気のよわり                                        じれったく師走を遊ぶ針とがめ                                       よい事を言へば二度寄り付かず                                       習ふよりすてる姿に骨を折り
無いやつのくせに供へをでっかくし                                     病み上がりいただく事が癖になり                                      神代にもだます工面は酒が入り                                       雪見とはあまり利口の沙汰でなし                                        四日から年玉ぐるみ丸くなり                                         初雪に雀罠とは恥知らず

 余計な詮索はしません。川柳はくり返し読んでみると、やはり「川柳なんだなあ」と思われてくる、そこに行くまで気長に読んでみることでしょうねえ、ぼくの経験ですが。一句目は、作家の藤沢周平さんの評論に出ていたので知りました。その雰囲気が「いいなあ」と。「六部(ろくぶ)」は、元はお経の巻数でしたが、やがてそれを運ぶ坊さんに同化した。その坊さんであっても、人の子です、ですから「里ごころ」がつこうというもの。とても気に入ったものでした。その藤沢さんは俳句もよくされました。

 「雪見とは…」に、ぼくは共感するんです、その延長で「寺社や観光地の電飾」には強い違和感、あるいは「嫌悪感」を抱きます。わざわざ凍える心地までして、何で「雪見」なんですか、それは「風流」というものでしょうか、という江戸趣味人の「揶揄」でしたね。「接待に酒はつきもの」というのは、神代の昔からですからね、といっかな悪びれる風もなく。終わり二句は、どんなもんでしょう。二百五十年前の世情、人情を好きなようにあしらったり、洒落のめしたりしているのを、後生(こうせい)の凡人がうっとりとみとれているという景色ですか。「人間というものは、変わらないものだなあ」と、嬉しくもあり哀しくもある、まことに悲喜こもごもの感想・感傷が湧いてきます。

◉ 六部(仏教)(ろくぶ)=六十六部の略で、本来は全国66か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された66部の『法華経(ほけきょう)』のことをいったが、のちに、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことをさすようになった。別称、回国行者ともいった。わが国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)のときとも、最澄(さいちょう)(766―822)、あるいは鎌倉時代の源頼朝(よりとも)、北条時政(ときまさ)のときともいい、さだかではない。おそらく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代にとくに流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した。(ニッポニカ)

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 川柳と同じような趣向が働いているのが「狂歌」でした。(もちろん、今日も、よく詠われてはいます)

◉ 狂歌【きょうか】=滑稽(こっけい),洒脱(しゃだつ),風刺を主旨とし,用語,題材とも自由な短歌形式の文学。源流は《万葉集》に求められるが,ことに近世に盛行。近世狂歌は,元禄前後から上方中心に流行の浪花(なにわ)狂歌,天明年間江戸中心に流行の天明狂歌の2流がある。明治以後すたれる。主作者は,前者では油煙斎貞柳ら,後者では唐衣橘洲,朱楽菅江(あけらかんこう),四方赤良(大田南畝),平秩東作(へずつとうさく),宿屋飯盛(石川雅望)ら。(ニッポニカ)

白河の 清きに魚も すみかねて
もとのにごりし 田沼恋しき(大田南畝)

今までは 人のことだと 思ふたに
俺が死ぬとは こいつはたまらん(大田南畝)

 「大田南畝の業績で最も知られているのは、五七五七七の歌を面白おかしく詠んだ狂歌でしょう。例えば、「世の中は酒と女が敵(かたき)なり どうか敵にめぐりあいたい」という歌には、時代を越えても変わらぬ面白さがあります。大田南畝は、狂歌、さらには、狂詩や戯作など、笑いに溢れた文芸作品をたくさん執筆し、ベストセラー作家として人気を博し、ついには物語の登場人物にもなりました。しかしそれはあくまで裏の顔。表の顔の南畝は、身分の低い幕臣(御徒歩職)として、70歳の高齢を過ぎても幕府への勤めに励んだ、真面目で実直な役人だったのです。昼は真面目に仕事に励み、夜は大勢の仲間たちと戯れる文化人。二つの世界を南畝は巧みなバランス感覚で渡り歩いていました」(太田記念美術館:http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/)

◉ 大田南畝【おおたなんぽ】=江戸中・後期の文人。本名覃,通称直次郎。狂歌名四方赤良(よものあから),蜀山人。狂詩号寝惚(ねぼけ)先生。戯号山手馬鹿人。幕臣。19歳で平賀源内に認められ,以後,狂歌,狂詩,狂文,黄表紙洒落(しゃれ)本,随筆,また正統的な詩文の各方面で文名をあげ,特に天明調を代表する狂歌作者として有名。江戸の文芸界の盟主のような活躍ぶりであったが,松平定信の時代には狂歌界などから離れ,晩年は江戸の代表的な知識人として認知され,随筆・考証に業績を残した。狂詩文に《寝惚先生文集》,狂歌文に《四方のあか》《蜀山百首》《狂歌百人一首》や朱楽菅江と共編の《万載狂歌集》,黄表紙評判記に《菊寿草》《岡目八目》,随筆に《一話一言》《俗耳鼓吹》《奴師労之(やっこだこ)》,洒落本に《甲駅新話》《粋町甲閨》などがある。(マイペディア)

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 川柳や狂歌を「生業(なりわい)」にできるとは考えてもみませんでしたが、できるなら、そんな世界というか境地にいささか浸ってみたいなと、若い頃に痛感したのでした。もちろん、先立つものは「天稟」、つまりは能力ですから、とてもじゃないけど、ぼくには無理だと、あきらめも早かった。それ以前は「俳諧」とか「俳句」などと考えてもいましたが、これもまず「飯のタネ」にはとてもなりそうにないという、第一に世間が、そんなヤクザな稼業を許さなかったと、勝手に諦め、何もできない「勤め人」に終始してきました。実をいえば(ここだけの話)、ぼくは「大田南畝」にとても惹かれたし、憧れの人でもありました。「表の顔(役人)」と「裏の顔(自由な文化人)」を持っていたでしょ。裏と表は、本人においてすら、「相通じて」いなかった気配があるのです。今でも「表は代議士」「裏は金貸し」という、見上げたくない輩もござったし、「表は管吏」で「裏は詐欺師」という若手官僚もいるし、と、何が出てきても驚かなくなった、「己の感覚」の鈍麻が怖いね。

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 「枯れ木も山の賑わい」とはいいますけれど

 手紙でも日記でも、どんなものでも時間をおいて再読すると、それを書いた時とは別個の、いろいろな感想や感情が湧いてきます。新聞もそうではないですか。それを読んだ当時(新聞)とは、まったく違う印象を、再読する際(旧聞)に受けることもある。それは、ぼくには面白い経験ですね。精神も肉体も若かったころ(あったんです)、ぼくは、新聞はA紙やM紙やY紙などを購読し、その後は、A紙の購読を長い間つづけていました。何故三紙かといえば、宅配に応じてくれたのが、それだったから、それ以外の理由はありません。いまから三十年以上も前のこと。それ以来、新聞購読は止めたままで、再開する気もない。どうして購読しなくなったか、「全国展開」という寡占化・独占化状態を新聞社が求めたからであり、やがてテレビが、それにくっついてから、報道(をはじめとするいマスコミ)の堕落は止まるところを知らないまま、今日に至りました。スーパーやコンビニ並みの「営業感覚」だったのだろうし、経営する側は「報道や娯楽の私有化」を目指したのだと、ぼくは考えたくなった。誰にでも受け入れられる新聞、それはどんな新聞でしょうか。新聞は「八方美人」である必要がどこにあるのか、そういう不信の念が消えなかった。

 たくさんの「水増し」をしてでも、Y紙が千万部の購読者を誇り、A紙が八百万部(を勲章の如くに)ひけらかしているのを見て、「アホくさ」という苦々しい、悪寒に似た感情を経験した。いろいろな意見や異論がそれぞれに掲載されなくなったら、それはどこかの「機関紙」あるいは「業界紙」でしかないでしょう。それがいけないとは思わないが、ぼくがそれを読む、いかなる根拠も義理もありません。テレビ界が過激な意見や権力批判の強い人物を登場させなくなったのも、同じように、テレビ自体の衰退というか終焉を加速させてきました。質の悪い共産主義国や社会主義国には「意見は一つ」「議論は皆無」という格率というか「(死に至る)鉄則」がありますが、この島社会はいずれそういう境地に達するんでしょうかね。意にそう、そわない、それが価値判断の唯一の基準になるとしたら、それは社会集団の死を来しますね。

 学生時代に住んでいた文京区本郷の住まいの隣が「運動具店」でした。とくに野球球団「YG」の用具類を扱っていました。ある時、こんな靴(スパイク)があると見せられたのがジャイアント馬場さんの十六文、記念か何かに残しておいたのかもしれなかった。ぼくの倍はあるような、桁外れの大きさだった。すでにプロレス界に入っていましたが、彼を見るとその靴を思い出します。そのお隣さんから、ときどき巨人戦の「入場券」をいただくことがあった。住まいの二階からは後楽園球場(ドーム以前のもの)の照明が漏れてきたし、観客の興奮するドヨメキが聞こえることもありました。もちろん、新聞がついてきました。少し読んだ気がします。まだその時分は「プロ野球全盛時代」でしたから、往年の名選手を見ることが出来ました。(左グラフ:The Videography・https://videographyosaka.com/end-of-newspaper-2034/)

 やがて「ドラフト」が始まり「人身売買」がいっそう著しくなったのと時を同じくして、ぼくはプロ野球に興味をまったく失いました。野球賭博や八百長試合、ドラフト制度を悪用した「空白の一日」などと、球界全体を揺るがす不祥事がたてつづけに生じましたが、腐った根は除去されないままで、今日まで来ました。好きだった大相撲も同じような経緯をたどり、すっかり興味を失った。栃若時代などという昭和三十年代頃の相撲も、土俵上で、廻し一本で取るのですから、今日の相撲も変わりがないのでしょうが、すべてが「金次第」という風潮に毒されて、まことにつまらない興行に成り下がった。事情通から伺った話ですが、大学出が相撲界に入ることが頻繁になって以来、状況はおかしくなったと。N大出身の横綱が誕生しましたが、彼と昵懇の兄弟分だった人が「脱税」で逮捕されたと報道されました。高校・大学と相撲界とは切れない縁で結ばれています、それが「金」だったというのです。今の国技館は、もとN大講堂の跡地に建てられた。(今や高校野球も、サッカーもラグビーも駅伝もバレーもバスケも、その他、文科系も含めて、全国大会というものが、すべては新聞屋さんに牛耳られている。奇妙な社会ですな)

 一度だけ国技館のマス席で観覧しましたが、勝負には目もくれないで、お酒ばかりを飲んでいたことがあった。その昔は「大相撲」のテレビ中継は連日、三局が実況放送をしていたのです。これも新聞が大きく関わっていたでしょう。(想像できますか、日本シリーズを、同時に三つのテレビ局が実況していたという、あり得ない現象でした)だから、a局では贔屓チームが負けていても、b局では勝ってるんじゃないか、さらには、c局ではとっくに試合が終わっていたなどということがあると、面白いねというバカ話に興じていたことが思い出されます。

 つまらない話が、滔々と流れ放題になっていますが、新聞やテレビを語ると、ぼくはいつでも捨て鉢になるのかどうか、とにかく腹が立つのです、奇妙ですね。民間の企業でも、とにかくデカくしたがる、全国展開したがる、これはいいことではなく、「井の中の蛙」現象であり、末期症状の始まりでしょう。「こんなことが出来るのは、俺しかいない」という見え透いた自惚れ根性が判断を曇らせ、事態を誤る結果になります。企業の「不正行為」は、一つの象徴的な出来事で、楽して儲ける、汗をかかないで稼ぎたいという「金権根性」が剥き出しになった社会ではあるでしょう。いくら稼いでも、一人前しか食えないのだがなあ。

 序論が冗論になりました。言いたいことはたった一つ。「新聞と政治」「政治と民主主義」「民主主義と新聞」という三題噺の一席を、お粗末ながら騙りたい(語りたい)という、埒もない「駄文」調のお披露目です。じつは、三題は一題なんです、新聞の堕落は止まらない、座して死を待つのか、というお粗末です。

 太平洋の彼岸の国で「異色・異質・異様な大統領」が登場した時の「余録」さんのコラムを見ています。まさしく「旧聞」ですけれど、ホントに「これが旧聞か」と疑いたくなるし、それはアメリカのことですかと質問したくなるほど、あらゆるところで、同じような「政治腐敗」「民主主義の不熟」「新聞の自家中毒」という現象が出来(しゅったい)していることが確認できた。まさに、新聞は旧聞にしかず、を見せつけられるように読みました。いつでも、どこでも、同じような事態が生じるというのは、国や民族の違いを超えて、人間社会の、同じような軌跡を画く「サイクル(DNA)」運動が機能しているからでしょうか。以下は、少し「旧聞」ですが、まるで昨日か今朝の出来事のようにも思われてくるのはどうしてかな。

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 【余録】「真実もあの毒された器(である新聞)に入れると怪しくなる。新聞をまるで読まない人間は読む人よりも真実に近い」。こんなことをいう米国大統領といえば、今ならばメディアを「偽ニュース」とののしるあの人を思い浮かべるだろう▲ところがこれ、米国の建国の父で第3代大統領、報道の自由や人権を定めた憲法修正条項(権利章典)の生みの親ともいえるトーマス・ジェファーソンの言葉という。その彼にして奴隷の女性との間の隠し子スキャンダルを追及する新聞がよほど憎たらしかったのか▲奴隷制に反対しながら、大農場で多くの黒人奴隷を使役していたように白黒矛盾した面のあるジェファーソンだった。新聞についても先の言葉とは正反対の「新聞なき政府か、政府なき新聞か。いずれかを選べと迫られたら、ためらわず後者を選ぶ」との言葉もある▲こちらは一部メディアを「国民の敵」と断じ、共和党の重鎮からも「独裁者はそうやって物事を始めるものだ」と非難されたトランプ大統領だ。だがその後も報道官の懇談から一部のメディアを締め出し、記者会恒例の夕食会の欠席を表明するなど対決姿勢を崩さない▲入国禁止令を司法に葬られ、人事も迷走する新政権である。今やメディアとの対決は「トランプ劇場」の貴重な当たり演目なのだろう。だが建国の父の醜(しゅう)聞(ぶん)を追った昔からメディアの方もヤワでなかった。もうこの先、安定した政権運営は望んでも得られなくなろう▲言論と報道の自由は権利章典の第1条が掲げる米国文明の魂である。新聞をくさすのはともかく、自由を守る闘いを侮っては大統領も長くはつとまるまい。(毎日新聞・ 2017/2/28)

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 自分を実際以上に「大きく」「立派そうに」見せたがるのは大半の人間のケチな根性で、それは権力を手に入れた人間だって、あるいは並み以上にそうしたいのでしょう。「自己肥大化願望症」で、その確実に効果ある方法は「新聞」「テレビ」で、大きく報道されることでしょう。ジェファーソンだって人の子、大きく見せたいし、「彼は気が小さい男だ」などと、ホントのことを書かれると、へそを曲げるのは不思議ではありません。トランプとかいう存在は論外ですが、論外が案外に、ということになることがあるのが、四年前の大統領選挙でした。さすがに、民主主義の国だけのことがある。やがて、魑魅魍魎が選ばれないとも限りません。何、もう選ばれているって。どっちみち、他国だから、必要以上に関心は持たなかったが、彼を狂信的に信じる、支持する人間がアメリカにも日本にも、他国にもたくさんいたという事実は、「侮れない」「看過し得ない」世界の現状認識です。現下の大きな課題は「アメリカを、いかにして民主的な国家にするか」であると、以前も今もとらえている。もちろん中国もそうですが、「民主主義のお手本」が世界のあらゆるところへ出かけて、戦争を仕組む、仕掛ける。国内では黒人差別や人種差別は従前と変わらないような深刻さです。これが「民主主義社会」なら、ほとんどの国は「民主化」されているといってもおかしくないさ。

 民主化や民主主義というものは、野球でいえば、打率や防御率のようなものであり、少しでも調子が悪かったり、手を抜くと成績(到達点)は下がる。それは打点やホームラン数、あるいは勝ち星などとはわけが違う。だから、どんなに文明国だと誇示しても、超高層ビル街で「殺人事件」や「暴力抗争」は起る。素敵な洋服を着ていながら、お猿さんにも劣るような卑劣残虐な行為をするのです。いつでも、どこにいても、注意力を失わない、ある種の「社会的緊張感」を維持していなければならないのです。まるで「雲をつかむような」思想であり行為、それが「民主主義」なんでしょう。でも常に「雲をつかむような」、そんな姿勢を維持しようとする人々を応援し、それに抗う側に向けて警鐘を鳴らす役割、それが新聞(やテレビも、かつてはそうだったが)の存在理由だったが、その役割を放棄しているのが、多くの社会で観られる「新聞まがい」です。この劣島の事情も、右に同じ。

ooo

 以下は、「新聞」二つです。旧聞との違いがどこにあるのでしょうか。三十年前五十年前の「旧聞」を出してもいい。要するに、何時だって「地平線(民主状態)」を目指して歩みを止めない、そうでなければ、どんなに高い見識や思想を並べても「空腹は満たされない」し、「不平・不公正」は質されることは、断じてないのです。「ミャンマー」で起こっていることに、国際社会というか、他国や国際連合はどう考え、何をしようとしているんでしょうか。この島国では、そこに経済利害が絡んでいるから、何一つ手を出そうともしなければ、問題の在り処を訴えようともしない。軍事独裁に轡(くつわ)を並べて、彼の地の民衆を弾圧しているのといささかも変わらない。民主化闘争と言えば、香港。蟻を踏み潰すのに、ブルドーザーを動かすような、完膚なきまでの弾圧だったし、それに加担する、内なる「中国派」は自らの首を絞めているという残酷な芝居を見せられているようです。これが果たして、何時になれば「旧聞」になるのか。ぼくはかならず、雨傘運動に参加していた若者が、自らの権利を奪還する日が来ると確信しているし、命ある限りは、それを応援しようとさえ考えているのです。

 「一国平和主義」は非難・揶揄されましたが、「一国民主主義」は、そもそも成り立たないのです。軍事独裁政権と結託する「民主主義国」、そんなものがあるはずもないからです。「民主主義の手入れを怠れば、すぐに専制が幅をきかせる。わが足元は揺らいでいないか。来年も注視が欠かせない」と【日報抄】氏は言われます。ご指摘、ごもっともですが、「来年も注視」って、そんなんでいいのですかと、ぼくは言いたいですね。ていねいに「注視」していて、「人権蹂躙」「独裁闊歩」となりませんか。いや「独裁が生まれる瞬間を、じっくりと注視していた」と言われるんでしょうかね。 

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 【日報抄】自由や平等を尊び、多くの人々の意思に基づいて政治が執行される。日本に暮らす私たちが当然のように考える民主主義が、世界各地で危機にさらされている。この1年を振り返れば、そんな事実を何度も実感させられた▼中国政府による統制が進んだ香港では、立法会(議会)選挙で親中派が議席をほぼ独占した。民主派は事実上、選挙から締め出された。ミャンマーでは国軍がクーデターを起こし、民主派への弾圧を続けている▼米国では、トランプ氏が敗北した大統領選の結果を信じようとしない支持者が議会を襲撃した。民主主義の本丸ともいえる大国で起きた暴挙は世界に衝撃を与えた▼ストックホルムに本部を置く「民主主義・選挙支援国際研究所」によると、この10年ほどで民主主義の「後退国」は倍増した。ことしは米国もその一つに初めて分類された。昨年は権威主義に向かう国の数が民主主義に向かう国の数を上回った▼米国が「民主主義サミット」を開いて民主主義陣営に結束を呼び掛けたのも、そうした危機感があったからのようだ。一方、中国は「国情に合った民主制度を実施している」とする白書を発表した。興味深いのは中国も自国は「民主」を実践していると主張したことだ。実態はともかく、「民主」の価値は認めているらしい▼では、わが国は。国民の声は政治に十分届いているだろうか。民主主義の手入れを怠れば、すぐに専制が幅をきかせる。わが足元は揺らいでいないか。来年も注視が欠かせない。新潟日報モアe・2021/12/28)

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 【滴一滴】米国で“砂漠”の拡大が深刻な社会問題となっている。地方紙が経営難などで次々に姿を消し、地域に必要な情報が枯れてしまう現象「ニュース砂漠」である▼ノースカロライナ大の調査によると、2004年以降、全体の4分の1に当たる2100余りが廃刊した。プロの取材記者がいなければ行政や選挙に関する報道は激減する。住民は足元の課題を知る機会を失い、投票率も下がりかねないという▼代わりに人々が頼るのはインターネット上の情報だ。ただ、そこは、より多くのアクセス数を得るために刺激的な内容を競う空間でもある。偽ニュースも紛れている▼砂漠化は「民主主義の弱体化につながる」としてバイデン政権の危機感は強い。看板の大型歳出法案に気候変動対策や幼児教育の負担軽減と並び、地元ジャーナリストを雇用する地方メディアへの税制控除案が含まれるのはそのためだ▼法案は与党・民主党内の路線対立で成立が見通せていないが、既に補助金などで経営支援に乗り出した州もある。もっとも「行政からの独立性が失われる」と懸念を表明している記者は少なくないが▼やっかいな砂漠は、首都ソウル一極集中が進む韓国でも出現の恐れがあると聞く。ネットが浸透する時代に地域密着型の記事をどう維持していくか。異国の話だからと捨て置けないものがある。(山陽新聞digital・2021年12月28日)

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 実は、この「砂漠化」を本日は、じっくりと「注視」したかったのです。「異国の話だからと捨て置けないものがある」と「敵一滴」氏は言われています。ということは、自国はまだ大丈夫という認識があるということを示していますね。ホントにそうだと思っているんですか、とぼくは尋ねたい。毎日、ぼくは各地域の新聞に目を通します。その記事をすべてというのではなく、コラムはほとんど、記事や話題については時によりけりですが、目を通す程度。それでも、この島の「新聞の状況」がどういうものであるか、それなりに分かっているつもりだし、たくさんの地方に生まれた「新聞」の来歴も、おおよそは知りえていると考えています。まるで郵便局設置の新聞版のような塩梅がそこには見られていました。現在はあらゆるところから「自立」「独立」していると明言できる新聞社はいくつあるのか、まったくないのか、まことに心細い。さらに、新聞を購読しない人が数多く出てきています。それはネット社会だからという理由で片づけられない問題でしょう。さらに言えば、消費税増税(2019/10 導入)にもかかわらず、新聞は「軽減税率(8%)の対象」品目となった経緯はどうなんでしょう。政府と二人三脚かな、カメラではあるまいし。

 面倒なことは言いませんが、要は新聞が生き残るためには「品質」をとやかく言わないで、とにかく状況にうまく適合できるような新聞づくりを心掛けるということでしょう。その典型が全社一丸の(ではなかったが、「五大紙」はほとんどが)「五輪の協賛スポンサー」でした。政府や権力批判は適度にやればいい、大事なのは、権力から睨まれないことなんだ、そんな姑息な姿勢で一貫しているのが新聞をはじめとする「マスメディア」の姿です。これをして「ニュース砂漠」とは言わないんですか。新聞社の数は減ってはいないが、部数も内容も「ガタ落ち」だと、ぼくなんかは痛感してます。上げ底商売。(左は DIAMOND ONLINE:https://diamod.jp/articles/-/265806?page=2)

 通信会社である「時事通信」「共同通信」の配信記事も、つねに目を通します。その役割がどういうものであり、いかなる経緯を経て今に至ったか、それを知るとおよその特質が分かろうというものです。その是非を言うのではなく、やはり「お里」が知れるなあという印象はぬぐい切れないのは、ぼくの僻目(ひがめ)かも。

 各地にも固有の地域新聞があり、全国紙も健在だ、だから、それでも、油断めさるな、というのが大方の新聞人の反応かな。「ニュース砂漠」は生まれていないという状況認識なんか、ぼくは持っていません。見渡す限り、一面の砂漠には見えない、そこには緑も豊かだし、オアシスもふんだんにあると。しかし、実際に、緑やオアシスが必要な時に、あると思っていたのが「蜃気楼」のように消えていたり、まるで「雲をつかむ」ような手ごたえのなさを感じた時は、すでに終わっています。ぼくの実感からすれば、「終わりが始まっている」ということになります。手遅れで、何をしても始まらないかどうか、それはぼくには判断できませんが、「まず隗より始めよ」と、どこまでもいつまでも、その心がけとこころざしを失うことがなければ、「捲土重来」ということもあるのでしょうねえ、いやあ、それはもうあり得ませんな。

 ぼくは、ここで桐生悠々の「肺腑の言」を再引用しようとしていたのですが、彼には申し訳ないような気がして、出すことを控えました。「言いたいことを言っていれば、気が晴れるだろうけれど、言わなければならぬことをなぜ言わぬか」と。言いたいことを言うのは「権利」だが、言わねばならぬことを書くのは「義務」だと、彼は捨て身で、あるいは身を賭して書くのです。それが本来の新聞人なんだと、ぼくにはとても言えないんだね。時代がちがいすぎる、緩すぎる、新聞は「茹で蛙」状態にあるんだから、「そっとしとこ」、ぼくの背後から、囁く声がします。

 「浦賀にペリー」が来て、「大和民族」が目を覚まさざるを得なかったのが一八五三年七月です。百七十年ほど前の夏でした。「令和のペリー」は来るんでしょうか。何処から、どんな風に、いやもう来ているんだよ。

 枯れ木も山の賑わい、こんなことを申しますが、枯れ木に、何かしらの効用があるのでしょうか。枯れ木は「薪」がいいところ、古新聞は「再生」はしないが、「再生紙」にはなるのでしょうか。もう、業者によって回収されなくなったのかな。

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 冬の夜、内も外も吹雪に襲われ、

 【筆洗】<燈火(ともしび)ちかく衣縫ふ母は春の遊びの楽しさ語る>−。尋常小学唱歌の「冬の夜」。厳しい冬の夜の家族だんらんを歌っている▼作詞、作曲者は不詳だが、作詞者は北国出身と想像する。<囲炉裏(いろり)火はとろとろ 外は吹雪>。家の中で母や父の話に耳を傾ける子どもの姿が浮かんでくる。外の厳しい寒さとのコントラストで家族の様子がより温かく感じられる。言語学者の金田一春彦さんがその詞を見事と評していた▼暖かい家を離れ、吹雪の外へと避難しなければならぬのか。無情な想定に穏やかな歌がかき消された気になる。北海道から東北地方の太平洋沖にある日本海溝・千島海溝沿いで巨大地震が起きた場合の想定被害である▼政府によると「冬の深夜」に発生した場合、津波による死者数は日本海溝の地震で最大十九万九千人、千島海溝の地震で同十万人に上るという▼雪深い地域での巨大地震。深夜に降り積もる雪の道を避難するのは大変なことで生死を握る避難速度はどうしても遅くなる。考えてみれば家を出る際、防寒着を身に着けるだけでも時間は余計にかかる▼極寒の中での避難は低体温症によるリスクも高い。想定はあくまで「冬の深夜」という最悪の場合だが、被害を最小限に食い止めるための知恵を急いで絞りたい。家族が気の毒だからと、「冬の深夜」だけは見逃してくれるほど、地震は心やさしくはない。(東京新聞・2021/12/26)

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 折しも劣島各地に記録的な大雪が降っています。車に閉じ込められたままの人もいるでしょう。雪降ろしに骨を折らなければならない人もたくさんおられます。何十年ぶりという大雪です。「囲炉裏火は とろとろ」というのはどこの家の話でしょうか。明治四十五年といえども、自然環境とそれがもたらす気象状況は、いまと似たようなものでしたろう。あるいは、昨今の研究報告等から見れば、さらに悪化しているかもしれません。唱歌に描かれる「雪」「冬」は、あるいは牧歌的、あるいは郷愁を誘うような、現実には見られない情景であり、なんとも観念的な「歌心」を育てていこうという傾向(狙い)が見て取れる。学校唱歌だから、それは当然だという向きもありましょう。この「冬の夜」は、いかにも田舎の「冬の夜」の定番のような風景画を詞に書き、歌にしているのではありませんか。まるで絵ハガキのようです。

◉ 冬の夜=日本の唱歌題名文部省唱歌。発表年は1912年。歌いだしは「燈火ちかく衣縫う母は」。(デジタル大辞泉) 

 これは明治四十五年三月、尋常小学校三年生用には発表されました。当時、すでに、「臣民」は挙って、「戦勝」に沸いた・舞い上がった、その「日清戦争」も「日露戦争」も「過ぎし昔」になっていたのです。この「二番」の歌詞が、戦後になって問題視され、「過ぎしいくさの手柄を語る」は「過ぎし昔の思い出語る」と変えられたという。しかし、その部分だけを変えたのですから、歌詞の前後が整わなくなったので、いつかしら「元の木阿弥」となったようです。いとも簡単に変更します、さらに変更を取り消します、これも簡単に。つまりは「朝令暮改」のオンパレード。この悪弊は、この島社会の拭い難い「慣習というか習慣」(悪習)(風俗)になっているんですね。

 歌詞にある「過ぎしいくさ」が「日清戦争」か「日露戦争か」は議論のあるところですが、論証なしに言うと、「日露戦争」だったと、ぼくは見ています。夜なべ仕事に「縄綯(な)い」をしている父が、居並ぶ子どもたちに語って聞かせた「手柄」とはどういうものだったか。ぼくには実感がわきません。いろいろな文献や資料などを読んでみた限りでは、「武勲」であるというものの、内容はそれぞれで、しかし「おれは敵兵を殺した」という報告は、ぼくの知る限りでは極めて少ないようです。第二次世界大戦時と日清・日露戦時とでは、多分、出兵兵士の「戦争感情」(奇妙な言い方をしています)は異なっていたと思われます。それに、いくら戦争であっても、人を殺したと自慢する人が、ホントにいるとはぼくには考えられません。語るにしても「仕方なかった」というばかりだったと。それを「手柄話」で子どもたちに語った場面が唱歌に登場するとは、怖いことでしたね。(「敵や仲間の傷病兵を助けた」「鉄砲は空に向けて撃った」「上官の命令に背いた」などというのは「手柄」にはならなかったでしょうね。いまなら「ノーベル平和賞」ものなんですがねえ)

*「冬の夜」歌鮫島有美子(ソプラノ)(https://www.youtube.com/watch?v=vsrgx7U7ABk

 子どもたちに語って恥じない「手柄」の内容がどんなものであれ、戦争に勝った、それも「大国相手の戦争に」という事大主義が「唱歌」に登場していることは否定できないでしょう。何時も言うように、「歌」や「言葉」が旗になる、あるいは「旗になる」ような「歌」や「言葉」が生み出されて、戦争を忌避する感情よりも、戦争に勝つ(敵を倒す)という闘争心や戦勝国の「優越性」を摺り込む意図があるとしたら、「唱歌」といえども、「唱歌」だからこそ、唾棄すべきでしょう。唱歌のすべてが「軍艦マーチ」や「露営の歌」のような、人民を根底からそそのかすものだというつもりはありませんが、そこを狙って、「国威発揚」「戦意高揚」「大国意識」を、子どもたちの中に徐々に育てていった揚げ句に「大東亜戦争」という、話にもならない「不正・不義」でしかなかった戦争に駆り立てられていったのも事実です。「兵隊さんは強かった」「兵隊は格好いい」「ぼくもなるんだ、若鷲特攻隊」「英雄、爆弾(肉弾)三銃士」「木口小平は死んでもラッパを放さなかった」と、ことあるごとに聞かされ、歌わされていたのが、学校現場でした。

 これはどこかで触れていますが、京都の小学校の三・四年生の担任だった男性教師が、授業を脇に置いて「日露戦争」「日本海海戦」状況を、熱心に板書までして「講談」並みの一席をいつでも語っていたのを、ぼくは子ども心に忘れません。脇に置かれた「授業内容」はほとんど記憶にないのです。それによって、大きくなったら兵隊さんになるという気持ちは、惰弱なぼくには微塵も生まれなかったし、そんな言葉は知らなかったが、この教師を「軽蔑」さえしていたと言えます。まだ、このような教師がたくさんいたのでしょう。昭和三十年(敗戦後十年ほど)になる頃までは。「いろり」「よなべ」「縄綯い」「藁打ち」「草鞋(わらじ)・草履(ぞうり)つくり」等、いずれもぼくも経験してきました。薪(まき)をくべながら、いろりを囲んで、といかにも田舎の定番風景ですが、ぼくは嫌だった。貧乏だったからという以上に、その雰囲気が好きになれなかった。いかにも家の中が「暗かった」からです。その生活の隅々までが暗い印象を、ぼくに植えつけたのではなかったか。もっとも住んでいた家が「納屋」だったか「蔵」のようなところだったから、なおさらそのように感じたのです。(ぼくの記憶では、田舎の村で「電燈設備」が敷設されたのは戦後もかなりたってからでした。正確な日時は覚えていませんが、提灯行列にぼくも参加した)

 少し前に紹介した「冬景色」あるいは「冬の星座」などにも、いかにも「唱歌」の狙いが貫通しているような歌でした。「麗しい日本の景色」「四季の豊かさ」を、じゅうぶんな経験を踏まえないで「歌わせる」、それがいつしか「懐かしい唱歌」になるのでしょう。「歴史体験・生活経験抜きの観念主義」教育の実例です。あるいは「現実」を作り変える偽装主義でもありました。学校教育というものは「感情」「情感」に訴えて、それでよし、とするものなのか。「観念」が人間を駆り立てるというのは、けっして正常なことではないのだと言いたい。最近は、学校においては、「唱歌」も軽視され、忘れられているのではないでしょうか。あるいは、従前ほどではないにしても、さまざまな経験や歴史を塗りつぶして「懐かしい日本の歌」というのはどうかといいたいですね。「歴史忘れ」「歴史離れ」「歴史の美化」を促進させるための恰好の手段になってきたのが「小学校唱歌」であったと、ぼくは考えてきました。

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 「<囲炉裏(いろり)火はとろとろ 外は吹雪>。家の中で母や父の話に耳を傾ける子どもの姿が浮かんでくる。外の厳しい寒さとのコントラストで家族の様子がより温かく感じられる。言語学者の金田一春彦さんがその詞を見事と評していた」というコラム氏の指摘に対してコメントはない、というか、コメントのしようがない、というか。この「歌詞」のどこが見事だというのでしょうか。内と外の「温かさと厳しさ」の「対比が見事」というのですか。驚くほどの低劣さ加減だし、吹雪というものの「怖さ」「激しさ」を知らないものが作った歌であり、その「合作」のちぐはぐさを「見事」と評する言語学者もいたものですね。ぼくは、ほんの少しだけですが、「吹雪」を体験しました。家を浚(さら)っていかれる怖さを感じ、囲炉裏にあたっていられるものではなかった。家の中で「春が来るとこんな遊びができるよ」「この前の戦争で、俺はこんな活躍をしたぞ(武勲功成り)」という父や母、その周りに居並ぶ子どもたちの観念過剰な追従ぶり(という陳腐な歌の姿ではないか)。この「長閑(のどか)」ですらある唱歌のどこに、「外は吹雪き」の厳しさが現れていますか。

 「筆洗」は、唱歌「冬の夜」ののどかさと、推定「冬の夜」の地震津波の被害の残酷さを並べた、その「対比」の筆さばきは「お見事」とは義理にも言えないし、言わない。東京にいて、暖房の利いた仕事場で「政府によると『冬の深夜』に発生した場合、津波による死者数は日本海溝の地震で最大十九万九千人、千島海溝の地震で同十万人に上るという」予想を、悲惨そうに装って語ってはいますが、被害者の数を数量化する(数字弄り・数字遊び)ことに腐心している「政府」「官庁」と、それを黙って報道する(垂れ流す)マスコミに、はたして人命の「尊さと儚さ」への想いがあるのでしょうか。それは、たくさんの「唱歌」にも通じる「観念の遊戯」です。いまなお、原発事故の被害者は、蒙った傷跡を、物心両面で抱えています。この数年来の台風や水害、地震の被災者も苦しんでおられる。「家族が気の毒だからと、『冬の深夜』だけは見逃してくれるほど、地震は心やさしくはない」と書いたコラムに、この「文末」に至って、「してやったり」と快哉を叫んだかどうか知りませんが、そんなことを言ってる場合ですか、いくらコラムだって、書きようがあろうというもの。 

 新聞やテレビの方こそ、「過ぎしいくさの手柄を語る」という愚を犯しているんじゃないんですか。歴史に学ぶと、時には声を大にして、正義を振りかざすが如くに叫びます、マスコミは。でも、いまのような態度でいいんですか、と老衰いちじるしい年寄りは、その非を鳴らしたい。「唱歌」だから、頭から懐かしいというのでは、その「唱歌」に付託された国家意思は見逃されるどころか、易々と肯定されてしまうのです。君は神経過敏じゃないかといわれるでしょうが、戦争の惨禍を再現させない・しないためには、ぼくたちは何をすべきか、何をしてはいけないか、そこに意識を当ててほしい。安易な不注意が「災厄」を呼び寄せる、その危険性は、いかにも些細だと思われるところに潜んでいるのです。

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 「外は吹雪き」の寒々とした荒々しい気配を詠んだ句を、順不同に、無差別に。「外は吹雪き」で、しかし、もっともっと「内は地獄」の報告が、ぼくのところにも、連日のように届いています。シングルママたちの SOS です。ぼくは、なけなしの財布の底をはたいています、いくらもあるものではありませんが。宝くじに縋(すが)るものの、あたったらすべてを「シングルママたちに」という夢を見ている、年の暮れです。

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・一瞬の地吹雪に地の動きけり( 瀬野美和子 )

・人死にし山月明の雪けむり (高須茂) 

・地吹雪の渦巻く芯に村一つ (相馬沙緻)

・地吹雪や柱のきしむおしら神 (小原啄葉)

・元日は大吹雪とや潔し(高野素十)

・宿かせと刀投げ出す吹雪かな(蕪村)

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 世界で一番恐ろしい病気は、孤独です

 仏の顔は何度でも クリスマスのにぎわいに、かえって物寂しさが増す人もいるのだろう。〈クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり〉大野誠夫(のぶお)▲お寺にとっては、人目を引く門前の掲示板も仏の道へと導く「灯の窓」らしい。広島都心部に立つ超覚寺の和田隆恩住職は、「掲示板職人」の異名を持つ。含蓄に富んだ寸言や人生訓を毎日のように張り替えるからだ▲3年前に仏教伝道協会が始めた「輝け!お寺の掲示板大賞」でもことし、大賞に選ばれた。受賞作は〈仏の顔は何度でも〉。仏様は慈悲深く、腹など立てぬそうだ。「仏の顔も三度まで」のことわざを裏返した職人技が光る▲やはり広島都心部にある妙慶院清岸寺の掲示板〈置かれた場所で/咲けないときは/逃げてもいいよ/咲けるところへ〉も入賞した。こちらはノートルダム清心女子大の元学長、故渡辺和子さんの本「置かれた場所で咲きなさい」が下敷きとみえる▲対面がはばかられるコロナ禍で、うつむき癖のついた人もいよう。脇目を振れば、胸打つ掲示板に行き当たるかもしれない。きのう超覚寺の掲示板は何と、マザー・テレサの警句だった。〈世界で一番恐ろしい病気は、孤独です〉(中國新聞デジタル・2021/12/26) 

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 ただいま12月27日、午前5時半を過ぎたところです。ようやく猫たちに食事を準備し、猫のトイレを掃除し終わり、パソコンの前に座って、ある音楽を聴きだしました。これが「生き物係り」のルーティンワーク、一日の始まりです。それぞれの食欲や体調なども、この時(出欠点検の際)にじっくり見ます。ただ今「八人」、出入り自由ですから、全員がそろわないこともしょっちゅう、朝帰りや数日帰らないものまでいます。もちろん朝寝坊もいる。ですから、大変といえばそうですが、当たり前というなら、こんな当たり前のことはありません。人間ほど心を痛くすることはあまりない。遊んで。学んで。疲れて。食事をとって。じっくりと睡眠に入る。これの繰り返し、猫でも人間でも変わりはまったくありません。(かみさんは熟睡中、誰よりも起床は遅い)ただ、猫たちはひとりで(by oneself)、何かをすることができる範囲が限られますから、その足りない部分をお手伝い、その反対もあるというわけで、「お互いさま」という気持ちが大事ですね。掃除を手伝ってくれます、ごみを増やして。「いつでも猫の手を借りています」「猫も人も命に変わりはない。教え教えられですよ」というのは「掲示板大賞」には及びもつかないが、その心持や姿勢は、大事ではないでしょうか。

 駄文を書くときはもちろんですが、それ以外に、本を読むときも、いわゆる「BGM」を流しつづけています。ぼくは「ながら族」で、住まいも「長柄族」であり、「長柄俗」でもあります。ぼくが流すBGMにはおおよその傾向があって、Kポップや演歌は先ずダメ。ジャズもあきません。体が勝手にスウィングしてしまう。駄文といえども一字も書けませんし、読書をする雰囲気そのものが壊されることになるからです。ぼくの定番は、ほんの二つか三つ。今流しているのは、もっともお気に入りの<Peder B. Helland>さんという、ノルウェイの作曲家のものです。タイトルは「Soothing Relaxation」。実にたくさんのライブラリー(作曲)があります。ぼくは起きている、パソコンで何かをしている、その時はつねに彼の「音楽」が流れています。もちろん、猫たちも耳を傾けている、ほんとかなあ。(彼のHP:https://www.pederbhelland.com/)

 その中で、いまこの瞬間には「Soothing Relaxation によるビューティフル リラックス曲・ピースフル ピアノ、チェロ&ギター曲」という曲が鳴っています。(*https://www.youtube.com/watch?v=6GVgncA9oiw)ぼくの老衰いちじるしい「脳力・能力」を、かろうじて支えてくれていると、いつも感謝しながら聞(聴)いているのです。今この部屋には、「四人」が遊んでいます。要するに、猫の遊び場で、ぼくは肩身を狭くしながら、「駄文・雑文」をため込もうとしているのですね。

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 本日の話題は「仏の顔は何度でも」という、ありがたい「お言葉」です。先日、どこかで紹介しておきました。このコラム、「天風録」は広島地方を販売中心にした新聞社のものですから、「掲示板」の受け止め方に気合が入っています。多分、広島のお寺さんは「輝け!お寺の掲示板大賞」の順位争いではで鎬(しのぎ)を削っているのではないでしょうか。ほかにも「お勤め」があると思いますので、手抜かりなく、ですね。それにしても、なんと「掲示板職人」がいらっしゃるんですね。大工さんかと思いきや、僧侶でした。「仏の顔も…」に拮抗するように、同じく広島のお寺さんは「置かれたところで…」を生み出されたと。なかなかやるじゃんと言いたいのですが、この「作品」が実行されるためにはどうするか。その「精進」こそ「仏の思し召し」ではないでしょうか。気の利いた箴言や洒落た表現は、目にはいると楽しいものですが、さて、それをいかにして「わがもの」にできるか、それが肝心ですね。

 「対面がはばかられるコロナ禍で、うつむき癖のついた人もいよう。脇目を振れば、胸打つ掲示板に行き当たるかもしれない。きのう超覚寺の掲示板は何と、マザー・テレサの警句だった。〈世界で一番恐ろしい病気は、孤独です〉」とコラム氏は提示しています。どうして「何と」なのか。ぼくにはよく理解できません。当たり前に読みとるなら、お寺さんであるにもかかわらず、キリスト教のテレサさんじゃないか、なんとまあ、広い視野をお持ちのお坊さんでしょう、そういうことになります。特に、広島での事情があるのかどうか。あるいは、単なるコラム氏の驚きと感動だったのか。このテレサの「言葉」が警句であるかどうか、ぼくには判断できませんが、「孤独」という病気そのものがあるのではなく、実際は「孤独(だと一人で決める)という思い込み、短慮」による「寄る辺なさ(helpless)」「心細さ」ではないでしょうか。それこそが「一番恐ろしい病気」だと言えるのかもしれません。

 この駄文用の文字をキ-ボードで打っている最中に、Helland さんの healing music が流れています。彼はどのような気持ちで、あるいは、今何をしておられるか、いろいろなことが気になっています。この音楽の作曲家の存在を、ぼくは知らず知らずに意識している、その意味では「孤独」とは別個の人間関係が成り立っているとも言えませんか。(こんな批判のようなものも、マザー・テレサに関してはありました)(*「マザー・テレサは聖人ではなかった」H.Post・2016年04月12日:https://www.huffingtonpost.jp/krithika-varagur/mother-teresa-was-no-saint_b_9658658.html)「虚実の綯(な)い交(ま)ぜ」とでもいうほかない存在、それが人間だし、その人を見る人が「虚を実に」「実を虚に」取り代えるということもあるでしょう。マザー・テレサは「聖人」であるというのは、一つの教団の決め事、それをとやかく言うほどのこともないだろうと、ぼくは考えています。あるいは、「毀誉褒貶」交々でも、それにもかかわらず、「マザーは立派だった」というべきか。

 「孤独」あるいは「孤立」というものが、いったいどこにあるかというと、お叱りを受けそうですが、ぼくがいいたいのは「孤独である」「孤立している」「だれとも話せない(話す人がいない)」と、狭い了見で自己限定をしている、その自己意識にしか「孤独感」は宿らないということでしょうが、現実には、そういうことはないのであって、いろいろな人と、いろいろな形でつながっている自分というものを再発見する、自分の傍(そば)にだれもいない、しかしどこかにいる人(にかぎらなくていいさ)たちとつながっているという感覚、視野の広さを持つ。そのためにはカネも暇もかかりません。実際に、ぼくには親父やおふくろ、兄弟姉妹がいたし、いまも健在でいる(と思っている)、かみさんがいて子どもたちがいる、猫もたくさんいる。友人知人も、滅多に会うこともないが、きっと元気で、あるいはつらい人生を送っているかもしれない、そんなよしなしごとを想うだけで、「ぼくはたった一人だ」という閉鎖してしまった「空間」や「境涯」から解放・開放されていると実感するのです。こんな愚昧なことはいくら言われても、何の足しにもならないと非難されるかもしれない。それで、結構。しかし、現実に「傍(そば)にいる人」に関心が向かず、かえって「孤独」を託(かこ)つという、まことに罰当たりな所業に出るのも人間です。

 今、何冊かの本を同時に読んでいます。その本を書いた人の「文章」を読むと、それを書いているときの著者の思考や動作をなぞるような気がするのです(それが何年、何百年前に書かれたとしても)。これから、駄文で扱おう・書こうとしている人が何人もいます。その一人がヘレン・ケラーです。彼女の「自伝」やその他の関係本を数冊、並行して再読三読しているところです。ぼくは、いかにも奇妙なことですが、小学生の頃、ヘレンに会ったという「幻想」(ではないつもり)を長年持ってきました。彼女の来日の履歴を調べてみると、会っていても不思議じゃないんです。京都の小学校に来られたという「錯覚」(かもしれない)が抜けない。彼女の姿がありありと「浮かぶ」のです。それはもう少し調べてからの話ですが。(ヘレンにアメリカで会って話をした人を、ぼくは知っています)

 ここでぼくが言いたいのは、彼女の書いたものを読んでいると、そこにヘレンがいて、いろいろな仕草をしているのを感じ取ることが出来る、それが読書という体験だと、ぼくはそのように本を読みます。(そういう経験を生まない読書は、少しぼくにはつらいですね。例えば物理の本だとか、数字の羅列本など、でも、その書かれたものの中に入れば、そうではないでしょうが)

 さらにまだ数冊、ある人が書かれたものを読んでいると、その人の生活や世界に、ぼくも近いづいているような感覚を持つのです。「孤独」「孤立」と、勝手に決めないことが大切じゃないですか、それだけがいいたいのです。生まれるときも一人、死ぬ時も一人、本当ですか?ぼくが「記憶の自主トレ」をしているのも、ぼくが思い出せないけれど、無数と言っていい人や物事が、きっとぼくの「記憶の貯蔵庫」には保存されている。ある種の「冷凍保存」です。それを取り出せない(忘れる)だけです。「貯蔵庫」は故障してはいないが、その蓋を開ける仕組みやあ明け方がおかしいから、「記憶されているもの」が取り出せないのがほとんどでしょう。しかし、いろいろな刺激を受けて、貯蔵庫に「他者と無関係に保存」されていると思っていたものが、呼び戻されて生き返ると、実は隣の貯蔵庫棚の人や物とつながりがあったのが、明らかになります。

 この駄文・雑文を重ねてきて、ぼくにはいいことがあったとは思いませんが、すっかり忘れていた記憶が、「呼び水」あるいは「誘い水」または「迎え酒」の効用によって、意図されない収穫がありました。これはちょっとした驚きでした。何か一つの記憶が蘇ると、それに付随して(連鎖していて)、こんなことがと思われるものがはっきりと、ぼくの脳裏に浮き出てくるのです。(このあたりの事情には微妙な仔細がありそうです。いずれ、ゆっくりと、そのための時間はいくらもないが、考えてみたいですね)(右上図は「認知症ネット」:https://info.ninchisho.net/symptom/s20)

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