匠の時代の終焉、企みの時代もすでに終末だ

 【雷鳴抄】匠の時代 9月に亡くなった経済評論家、内橋克人(うちはしかつと)さんの著書「匠(たくみ)の時代」は日本の技術革新を支えた「モノづくり」の現場を描いた傑作だ。1970年代半ばに執筆が始まった▼今では当たり前の存在である日本発の技術が産声を上げるさまを捉えた。核となるのは独創に関わる人間の営みだ。観察眼は細部に及ぶ。例えば販売促進のため街頭でカメラ操作を実演する男性が登場する。客のクレームは改良に生かされ、名機を生む▼一方で内橋さんは「幻想の『技術一流国』ニッポン」という文章を80年に発表している。その頃「日本の技術は欧米を超えた」と盛り上がっていた「自賛論」に冷や水を浴びせる内容だった▼当時世界を席巻した日本の半導体産業の実態を、米国から買った技術と生産設備で量産品を作って米国に売る「世界最優秀の賃加工産業」だと見抜く。韓国や台湾の企業に競り負けたのは必然だった▼政府は今、台湾の半導体大手を日本に誘致し、最大8千億円もの建設費の半額程度を補助することを検討中だという。産業政策の失敗のつけを納税者に回すようなもので大いに疑問がある▼内橋さんは独創的技術への挑戦をもっと真面目に評価すべきだと訴えた。その提言は今も有効だ。挑戦する人を大切にする、内橋さんが理想とした匠の時代は再びやってくるのだろう。(下野新聞・2021/11/04)

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 昨日の続きのような、しかも、こんな駄文しか書けないのは、われながら、どうにも仕方がありません。まさに自嘲するばかりです。昨夜、京都の友人から電話がありました。数日おきにかけてくださる。有難いというほかありません。なかなかの人物であると、先ず言っておきます。どこかで書きましたが、在日二世の男性。京都生まれで、京都育ち。やがて東京に出てきて、旧帝国大の大学院に学び、いくらかの曲折を経て神奈川県下の。私立大学教員になった方。ぼくと同年生まれ。大学を定年で辞されてから、出生地の京都に戻られた。もう三十年以上も交流・交際が続いています。まあ、勝手な言い分を吐くなら、「君子の交わりの淡きこと、水の如し」と言います。(京都の堀川に、茶道関係の書籍を出している「淡交社」という名の出版社がありました。まだあるかどうか、ぼくには、なにかと印象の深い会社でした)

 ぼくはマジメではない人間ですから、彼の「マジメさ」が際立ってしまうのだといつも思っていたり、それを彼に話したりしているのですが、話はうまく通じない、一種のもどかしさを感じているのです。世間では「マジメ」は肯定されますし、「フマジメ」は忌み嫌われる傾向が強い。ぼくは自分の経験から、それを痛感していた。マジメとフマジメの分岐点は「遊びの有無」にあるというのが拙論の核です。文字通りに「遊び」です。人によって、その内容は違うかもしれない。酒を飲むのが「フマジメ」だとは思わないし、「マジメにお酒を飲んで、何処がうまいの」と勘繰りたくなったこともしばしばでした。世に、遊びには事欠かないのですから、あまり単純化しても誤解されるだけでしょう。

 既にどこかで触れて置いたように、それを「センスとナンセンス」だととらえてもいいでしょう。「常識と非常識」とも考えられるかもしれない。そのままに言い換えると「意味と無意味」です。ある人が「これは意味がある(大事な)のだ」といったとします。それをぼくは受け入れがたいと考える際に「意味ある(大事な)もの」とされている事物や状況を「無にする」「無化する」こと、それが「ナンセンス」だとぼくは考えています。「人間に優劣があるのは当たり前じゃないか」、それが世間の常識だとする。それに対して「人は値打ちにおいては平等だよ」「優劣なんてナンセンス」と切り返すのです。さらに言えば、誤解されそうですが、世間の常識(センス)に従順であることが「センス(マジメ)」であるとするなら、その常識を疑いただす立場こそが「ナンセンス」の所以だと思っています。自分が書いている文章は「駄文」であり「雑文」、あるいはそれ以下だという自覚を持っています。(それがぼくの信条とする「正直」の表れかもしれません)

 マジメはコワい、とぼくは若い頃から身に染みて感じていた。理由は単純です。マジメになるというのは、ぼくに言わせれば「表向き」「表面上」のことだからです。心底から「マジメ」というのは、まず稀有の存在だし、幸か不幸か、ぼくは、そういう人に出会ったことがない。ぼくの生きてきたのは極小の範囲に限られていましたから、世には「マジメを画に描いた」存在が五万といるのでしょうが、さて、あらためて「マジメ」とは何ですかと問い直さなければならない羽目に陥るようです。ある時はマジメで、ある時はそうではない、それがもっとも当たり前の「マジメの姿」ではないですか。では、どんなときに「マジメ」であり、どんな場合に「マジメでない」のか、その分岐点によって評価は違ってくるでしょう。人前では、あるいは世間体を慮って「マジメ」を装うというのが一般的ですね。夜寝るときも、誰もいない時も「マジメ一辺倒」という人がいるのかどうか。たぶんいないでしょう。それが自然ですから。

 ぼく自身は「自己評価」の基準を「正直」に置いています。「マジメ」には置かない。どうしてか「マジメはコワい」から。「マジメに」人を傷つける、「フマジメに」という場合は「手加減」する部分がある。「あれは冗談だった」と、いじめ事件が起こると加害者たちはそういういい方をするのがよく聞かれます。本当にそうでしょうか。まさか「死ぬとは思っていなかった」というが、「死なない」とも思っていなかったんじゃないですか。つまり「マジメにいじめた」、その結果が悲劇を起こすのではないでしょうか。「フマジメ」や「冗談」だったら、きっとそこに「遊び」の気分があり「手加減」が働いているとぼくは思っているのです。(ここはもっと考えてみたいところです)

 「いいわけ」や「弁解」までマジメを装う、しばしば、ぼくたちはそれを見ています。一国の総理が「虚言」「虚偽」を国会で、堂々と展開してきましたし、今もしているでしょう、官僚も含めて。それをどうして咎められないのか、「マジメ(を装っている)だ」からです。総理の発言に重みや権威があると、ぼくは露とも思いませんが、世間ではそうではないでしょう。「あれだけいっているのだから」「嘘のはずがない」と、一応は受け止める。そこが嘘つきのねらい目です。「マジメ」ではなく「マジメを装う」のが、世間で言う「マジメ派」なんでしょうね。だから「マジメ」はコワいんだと、ぼくは口癖のようにいっているのです。

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 昨日も触れました、内橋克人さんの「匠の時代」、ぼくはくり返し読んだものでした。「匠」「匠たち」という名称は職人の勲章なのかもしれません。いまはその内容には触れませんが、たくさんの職人芸の披歴のルポが、数冊の著書になるというのも、それだけの数の「匠」がいたことの証明です。いまでは「職人芸」は流行(はや)らない、いやそれは絶滅種となったのかも知れません。ぼくが小さいころ、田舎(能登半島)で家を建てるのは「素人」でした。たぶん「建築基準法」などは存在していなかったか、あっても事細かくは規制していなかったに違いない。土台を築くのは村総出で、後は瓦や漆喰、その他、普段は百姓仕事をしている人たちが、分業で担当していたと記憶しています。何度も土壁塗りの作業を見ていました。今でもその土と切り藁と水の加減が小気味いいように(あるいは靴を脱いだ素足で)按配され、竹で編んだ壁面の下地部分に塗りこめられていったのです。

 この十数年の間に携帯電話が爆発的に普及したのは、日本の下町の工場で作られリチウムイオン電池を収納する「ボックス」の金型プレスの成功からでした。都内の岡野工業という、社員数人の町工場の仕事でした。この工場から「痛くない注射針」も作られた。今更の感がしますが、数年前までは半導体はこの島社会の置お家芸だったし、太陽光パネルも液晶画面製造も、ながらくは一人勝ちの状況を謳歌していたのです。

 今はその影はとっくに消え去りました。理由は単純明快です。海外製品を買った方が商売(金儲け)的にうまくいくという「儲け主義」の蔓延・横行だったでしょう。あるいは一円でも安い人件費を求めて、島から製造業が脱出した結果、技術開発も含めて、製造業は空洞化してしまったのです。その流れは「新自由主義」の説くところだったかもしれない。人件費を節約し、正規社員を削減して、その穴埋めに「非正規社員」を大量に雇用し、それを景気の調整弁とした結果でもありました。この三十年、島社会の会社員の給与はほとんど上昇していません。人間を機械以下としてしか扱ってこなかった、人間性否定の経済の横行の結果ではなかったか。

 その「利益至上・儲け主義」の風潮に警鐘を乱打してきたのは内橋さんでした。「匠の時代」は、あらかた終わってしまいました。もちろん孤軍奮闘を続けている分野もありますし、孤立無援状況で精進されている方々もおられますが、体制は「空洞化の時代」に入って久しい。それにとって代わったのが「儲け主義」「会社至上主義」という、新たな偽装経済の時代です。会社が儲かり、社員は苦しむというのはどういうことでしょうか。「匠の時代」を牽引していた中核企業は見る影もなく没落・堕落・墜落・頽落していきました。その中には名だたる世界に技術や商品を誇っていた企業群も割拠していたのです。つい最近、わが身一個を守るために、会社を他国に売ろうという大企業の経営者まで出る始末です。「国破れて、人心荒む。城春にして、雑木跋扈す」

 「匠の時代」は確実に終焉しました。それにとって代わったのは、ひたすら利権を漁る「企(たくら)みの時代」です。浮華を追い求め、実に就くことを潔しとしない時代が始まったのは、何年前でしたろう。手間暇かける、それが仕事に就く姿勢や態度だったという思いを深くしています。今は、時間当たり「いくら」という時代です。仕事の内容は問わないのかもしれません。人が人を呪うような、強がり威を言う人間が邪悪者だと見下す人間を粗末にしか扱わない時代、それは、多くは政治のなせるわあ座であったかもわかりません。でも、そのような、人命軽視人権蹂躙の「政治」を「唆(そそのか)した「経済学」を広めたのは誰だったか。

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 実は、この数日パソコンの調子がすこぶる悪く、いよいよ修理に出すかと思案していた時でした。なかでもウェッブページが勝手にスクロールしてしまい、なにもできない状態が続いていました。いろいろと調べてみても、いっかな調子は戻りそうもなく、大阪に住んでいる(三十歳年下の)友人に電話をかけました。朝の八時過ぎでした。彼は、ぼくのパソコンを作ってくれた人で、何かと助けられている、いわばぼくの「先生」で、現在は大阪摂津市に住んでいます。いろいろと世間話をしている合間、ひょっとキーボードを見ると、なんと「テンキー部分の3」が引っ込んだままになっているではありませんか。押されたままの状態だったんです。それを見た瞬間、犯人が特定されました。ぼくの狭苦しい仕事場を「塒(ねぐら)にしている黒猫のカズオ君」だった。ぼくが黒いキーボードを使っているので、気が付かなかったんですね。「あいつもパソコンを使っていたんだ」

 早速、もとに戻しました。いまのところ勝手にスクロールはなし、です。また、やたらに重くなったのか、反応が極めて鈍いのが気になっていました。ファイルやアプリで、何かと不要なものを片端から削除している最中で、これもあれもと、ゴミ箱に入れています。そのうちにまったく動かなくなるかもしれないと、少々心配でもありますが、何、大したものがあるわけでもないからと、適当に除去作業をしている。その昔は、機器には興味もあり、自分でもオーディオなどを制作していたのですが。今はすっかり機械音痴になりました。「匠の時代」は、ぼくの中ではとっくに終わっている。(この駄文は、さらに続きます)

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 未利用果樹・放任果樹ってなんだ

 【談話室】▼▽今年も隣家より柿を頂戴した。家族で手分けして皮をむき、縄に挟んで物干しざおにつるせば、冬支度の第1弾が完了の感。漬物用の野菜の確保などと同様に、食べ物の備えは庭木の雪囲いなどより優先すべき事項だ。▼▽田舎とはいえ住宅街では柿の木も少なくなった。ご近所の好意がなければわが家の干し柿は作れない。“地の物”を手ずから加工する生活の楽しみが分かり始めたが、原材料の入手は意外にハードルが高い。一方、郊外に目を転じれば実をつけたまま放置された木が目立つ。▼▽人が活用しなくなったこれら果樹は「放任果樹」「未利用果樹」などと呼ばれ、早急な対策が求められている。実を食べようとするクマやサルなどの鳥獣を集落内に引き込んでしまうためだ。それが繰り返されることで人間と獣の生活圏が重なり結果的に深刻な衝突を招く。▼▽他県では近年、放任果樹の伐採に関して経費の補助制度を設ける自治体が増えつつある。少子高齢化で木の管理が及ばなくなる中、抜本的な解決策と言えよう。切るのが忍びないなら、自由に実をもいでいい木に印を付けて周知するのはどうだろう。喜ぶ人はいると思うが。(山形新聞・2021/11/05付)(上の写真は九十九里浜海岸から昇る「朝日」です)

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 いつにもまして、雑談というか駄文というか。先月半ばに子猫が生まれた。家の裏の物置代わりにしている棚の下段に段ボールを入れて、その中に布団や毛布を敷いておいた。もしここで産んだらと前もって考えていたのです、数日前に「子猫を、親が押し入れにいれている」とかみさんがいう。いよいよ寒くなって来たので、親猫が触らせないかもしれないが、とにかく子猫を家の中にと思案していたところでした。用を済ませて帰ったら、かみさんがそういうので、ならば一気に外の子猫を取り出してしまえとばかり、親が怒っていたが無視して子猫を取り出した。まだ、半月程度だろうと思う。外にいたのが四匹でしたから、無事で四つとも育つといいなと思っていたら、親が家の中に連れ込んでいた一匹を忘れていた。後で、仰天、なんと五人も生んだのだ。以来、親猫は授乳を放棄、家にあまり寄り付かなくなった。食事だけ取りに来る。(数日前、かみさんが興奮した面持ちで、「今家の前を、イノシシが駆けていった」という。ぼくはいつも見ているから驚かないが、イノシシがこのところ、道路のわきの土を掘り起こして回っているんですね。冬ごもりの準備でしょうか)

 子猫が家に入ってからは、俄(にわ)かに忙しくなった。ぼくは毎日、朝の五時前後に起きます。早ければ四時、遅くとも五時半。猫が食事を要求するので、無視はできません。普段だと、かんづめかなんかを五人分用意して、それでことは足りるのですが、それぞれに好き嫌いがあるので、何でも一緒というわけにはいかない。人間とまったく同じ。加えて、子猫のミルクを作る。熱いお湯で粉を溶かし、適温にして飲ませる。その前に排尿。まだ自分で出せないので、少し刺激する。五回(匹)分です。その後にミルク、まだ産まれたばかりだから、飲む量は少ない。一人で五人分を面倒見るのだから、時間がかかる。昨日などは、全部飲み終わらせたのが二時間後。今朝もルーティンワークをやりながら、日の出を見る。この山中に越して以来、恵まれた日には「朝日(日の出)」を見る。家から真南の、遥か彼方に九十九里海岸があるので、そこに登った太陽が、やや遅れて、拙宅の前の雑木林の上に出る。ほぼ五分遅れで、のびやかなきな「日の出」を見ることが出来る。(上の「日の出」は九十九里片貝中央海岸(千葉県山武市)。(https://www.surf-life.blue/weather/613/ から拝借しました)

 日没は辛うじて見える(市原市の方角)が、なにかと雑用をしているので、まずゆっくりと眺めたことがない。その「日の出」です。どういうわけだか、本日はかみさんが六時前に起きてきた。(一瞬、雨天を想ってしまった)どうしたのかと訝ったが、また布団に入る気配もない。子猫の鳴き声が喧しく、寝ている気にならなかったのかもしれない。そのうち、ミルクをやるのを手伝い出した。その直後、居間から見える「日の出」を教えた。「見てごらん、美しいよ」「まあ、なんてきれいな!」とか何とか言っていた。だったら、毎朝もっと早く起きればといいかけたが、止めた。朝日のあまりの見事さになかなかに感心していました。さらに子猫の授乳の続き。その合間に朝食をとるのですが、何だか食べた気がしない。終わって、時間を見たら九時を過ぎていました。

(耕作放棄地・歩いていたら、放棄地の雑草を助走している造園屋さんがおられました)

 ウォーキングに出かけると言って、家を出ました。爽快な好天で、歩くのが楽しい。このところ、ほぼ一時間半(前後)くらい歩いています。万歩計なら約一万数千歩。距離にすると、十キロ弱でしょうか。稲刈りを終えた田圃の周りを回ったり、ブドウ園やブルベリー農園の近所を通ります。少し汗ばみながら、見るともなく見渡しては歩くのですが、収穫されない柿の木が、あちこちに立っています。そのどれもが実に豊作で、まさしく「たわわにみのる」という風情でした。コラム氏が言うところの「放任果樹」「未利用果樹」です。誰も見向きもしないというのでしょうが、いつか、これを好まれて、奪い合う時代が来ないとも限りません。すでに盛りを過ぎた栗の実を付けた栗の林が数か所にあります。市場に出すには手間も暇もかかるし、金銭にならないからというのか、あるいは栽培しようと植林したが、手が足りなくなったので放置しているのでしょうか。年々、この近隣でも「耕作放棄地」が広がっているような気がします。

 昨日だったか、ある新聞のコラムで、先日亡くなられた内橋克人さんのことが出ていました。実は、本日はそれをネタにして、内橋さんの「匠の時代」を思い出しながら、この島社会の「ものつくり」がまことに落ちるところまで落ちて行ってしまった現状を、「昔日の感」という観点から書こうと思っていました。(「匠の時代」ではなく「企みの時代」への凋落あるいは堕落ということについて。内橋さんの名前が出てきたので、その連想で佐高信さんについても触れようとしていたら、山形新聞の「談話室」にぶつかったというわけです。山形は佐高氏の出身地。父親は校長さんで、佐高氏もしばらくは高校の社会科の教師をしていた。「生活綴り方」的教師だったとか。何の脈絡もなく、単なる思い付きでこの駄文を書き始めたのですが、歩いている間、いろいろな人や出来事が脳裏に浮かんでは消えていきました。ものつくりで思い出すのは、ソニーの井深大さんやその相棒だった盛田さん(ウォークマンの生みの親)。何時の日か、これらの人については書いてみたいですね。ソニーは「ものつくり」ではなく、保険や銀行などで利益を得る会社になってしまいましたね。(井深さんとも少しばかり因縁がありました。彼に連なる人ですべての人は亡くなりました。ぼくにはいつまでも懐かしい人々であります)

 佐高さんには一度だけお逢いし、ぼくが担当する授業で話していただいたことがあります。教室の学生は積極的ではなかった(と、ぼくも思った)、佐高氏はいたく機嫌を損ねた。「君達はバカか」とまで言っていた。ぼくも教室に入っていました。彼は、当時まだ「経済評論家」として活躍されていた。いまはこの看板は使われないようです。「自分の師は城山三郎、内橋克人だ」と明言されていました。それに対して、自分の反対側に位置して、ダメな経済評論家や学者に長谷川亀太郎、竹中平蔵らがいると、辛辣にこき下ろしていた。たしかに佐高さんの指摘はその通りだと、その時も思ったし、今でもその思いは変わっていません。「新自由主義」というものの中身は、よく知りませんというか、いったい学問なんだろうかという強い疑心がある。それを簡単に言えば、「弱肉強食」「優勝劣敗」という、とんでもない「強面の」主張であり、それを政治や経済に適応しただけではないかと思っている。「自助」などと喧しく叫ばれたのと同一の、デモクラシーを破壊する単調主義、利権漁り本意でしょう。社会保障や社会福祉などというのは、無駄な投資にしかならないから、そんなものを切って捨てよと言わぬばかりに、目の敵にしてきました。その点では、それを真っ向から否定している佐高氏に、ぼくは同調・同意しているのです。

 今回の選挙でも、同様の主張がくりかえされました。「格差社会」の絶対的是認であり、「優勝劣敗」的経済競争の積極的肯定です。面倒ですから、これ以上は言いませんが、ようするに、「働かないもの食うべからず」という、とんでもない「格差社会」への再号砲でもあったのでしょう。こんな乱暴な手法が国民の賛意を得たというのもぼくには驚きです。「放任果樹」「未利用果樹」とは、社会的に「有用・有益ではない」と判断された「弱者」そのもののように、ぼくには映るし、第一にぼく自身もその中に入れられているのです。そんな非道な政治や行政を看過していいとは断じて考えられない。田圃道や栗林を横に見ながら、ぼくは身も心も怒りに熱くなるのを覚えたほどです。帰宅するなら、子猫の授乳再開。ぼくたちの身近に「有用・有益でない」ものなど、果して存在しているのだろうか。

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 いくつもの「あたりまえ」がある社会に生きる

 【明窓】当たり前の社会 先日の本紙に結果が掲載された島根県中学生人権作文コンテストの審査に携わった。最優秀賞は、足が不自由な祖父のことをつづった生徒の作品。一緒に出掛けたときに、祖父が差別的な対応を受けた経験などを振り返り、祖父は歩けないことが「あたりまえ」で、私は歩けることが「あたりまえ」と記す。「人によって『あたりまえ』は違います」「みなができないことを補い合って誰もが堂々としていられる世の中」を望む▼障害のある叔母について書いた別の生徒は「私たちの基準が『健常者』にあるから、障害者は不幸だとか何か違うというような見方をしてしまっている」と指摘する▼「『知らない』ということが、思い込みや勝手な解釈による偏見を生み、『自分との違いを認められない』ということで差別の心が生まれる」と訴える作品は、生まれつき障害のあるおじの話だった▼本質に迫る生徒の言葉に学んだ。審査員8人が最終選考対象31点から選んだ上位5点は、いずれも障害のある家族と過ごす中で生まれた体験談。身近で大切な存在の家族を通して世の中に対する疑問が芽生え、よりよい社会へ行動を呼び掛けた。実体験に基づく言葉は力がある▼ただ、全て家族関係の作品だったことは一つの現状を示した。学校や事業所、地域などに障害のある人々が当たり前にいて、日常的に触れ合う中で作文の題材になる社会が理想だ。(輔)(山陰中央新報・2021/11/4 04:00)

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 長く勤めていた学校で、ぼくは小さな授業クラスを担当し、およそ三十年近くにわたって「人権問題」をテーマにして、時に応じて、そのテーマに関係のある人々をゲストに招いては、公開授業の形式を取りながら、ささやかな問題関心を維持しようとしてきました。北朝鮮による拉致問題では横田めぐみさんのご両親を招いたことが、二度ほどありました。あるいは、いじめによる自殺事件の被害者遺族、あるいは飲酒運転による交通事故で大きな被害を蒙った方々の、その後の活動など、数えられないくらいに小さな実践を重ねたのでした(おそらく百回ではきかないでしょう)。在日韓国朝鮮人(民族差別)問題や部落差別問題など、いまなおこの島社会の根源にある宿痾のような、あるいは歴史の網目に縫い込まれているような困難な課題にも関わってきました。ささやかすぎる小さな窓を開放するのが、せめてものみずからの役割である、そのお手伝いをする、そんな気持ちで問題に関りつづけてきたと言えます。

 島根の中学生が語った「当たり前の社会」、いわれれば、たしかに「障害がある者」も「障害がない者」も同じ時代や場所で、当たりまえに自らの存在の「あかし」を表明できる、そんな瞬間が生まれてくれば幸いであると、当時も考えていましたし、今もその考えに変わりはあません。島根県の中学生たちの言われる「人によって『あたりまえ』は違います」「みなができないことを補い合って誰もが堂々としていられる世の中」「私たちの基準が『健常者』にあるから、障害者は不幸だとか何か違うというような見方をしてしまっている」「『知らない』ということが、思い込みや勝手な解釈による偏見を生み、『自分との違いを認められない』ということで差別の心が生まれる」という根本そのものの指摘は、「我が意を得たり」という具合に、まさに問題や課題の「肯綮(こうけい)に中(あた)る」というほかありませんし、これ以外に「偏見や差別」への視点はないと言ってもいいほどです。「自分たちはこう考えている」「あなた方は、どうか」と、いつでもぼくたちは問題を投げかけられているのです。このような問題意識がいかにして涵養されてきたのか、そこに大きなヒントがあります。

 (言わないでもいいことかも。このコラム「明窓」で感じた疑問というか、これは違うのではないですか、という点があります。お分かりかどうか。どうして「人権問題」に関して「作文コンテスト」なんですか。これはぼく一個の愚見ですから、とやかく言うのではないのですが、「人権問題」を扱って「優劣をつける」というのは(最初からそんなことは考えていなかったが、結果的に序列をつけることになってしまったということだったか)、文字通りに、悪い冗談ですね。愚見の本意は外でもありません、「上位」とか「下位」という「優劣」を明らかにすること自体に、「人権」を考える「催」しの主催者側に立った時、違和感を持たなかったとしたら、(誰も持たなかったから、「コンクール」になったのですね)お粗末ですね、と言っておきます)(それにしても、「コンクール」や「コンテスト」が異常に好きな島社会。その背景には何があるんですかねえ)

 ぼくはずいぶん昔、まるで笑い話のような逸話を聞いたことがあります。ある人が「目の見えない人」と一軒の家に入り、廊下を歩いていた。階段を降りて別の棟に行こうとした際に「ここは暗いですから、お気をつけてください」と口添えしたというのです。親切も、これくらいになると、少々、的が外れているというか、「親切ごかし」というのかもしれませんね。島根県の開いた、せっかくの「催」しに水を差すようで気が引けるのは事実ですが、中学生に「作文」を書かせ、それを大人が「審査する」という、その姿勢が「人権問題、あるいは人権意識に悖(もと)る」と言ったらどうでしょう。ぼくはこれ見よがしに文句をつけているつもりはないのです。なかなか難しいなあと、わが身を振り返っているのです。

 これも務めているときの、わがは恥ずべき経験です。国立大学法人付属の「視覚特別支援学校(付属盲学校)(現在)」当局から、ぼくは呼び出しを受けたことがありました。当時、入試担当の役職に関わっていたからでした。細かい点は略しますが、入学試験の「受験資格」に「お前の学校は、いろいろと条件を付けている」が、それはいかにも「おかしい、変えられないか」ということでした。学科ごとに、障害の程度で受験を認めたり認めなかったりしているではないか、と「糾弾」されました。この指摘は何年にもわたって受けていたのですが、まったく「是正」されていないという「お叱り」でした。早速に学校に戻って、いろいろと議論を重ねたのですが、「是正」はされなかった。その後は、どうなったか、ぼくは事情を把握していません。希望者すべてに受験してもらおうというのが、ぼくの考えでしたが、担当者(教員)の立場からすれば、それはなかなか困難だったのかもしれないと、今でも思っています。「是正」の努力が足りなかったのは事実です。だから、他人のことをとやかく言えないのは、身に覚えがあるからです。でも、…、と思案投げ首。

 「ただ、全て家族関係の作品だったことは一つの現状を示した。学校や事業所、地域などに障害のある人々が当たり前にいて、日常的に触れ合う中で作文の題材になる社会が理想だ」というコラム氏の指摘は「もっとも。大賛成」と言いたいところです。しかし、ここにも一抹の不安や不信は残ってしまうのです。「障害者」に関わるばかりではありません。老人や弱者もまた、当たり前に存在が認められる社会になっていないことこそが、現下の大問題じゃないでしょうか。「いたるところに障害者がいて、みんな支え合っていくのが理想の社会」と言って終わりなら、いうまでもないでしょ。法律を作り、それに合わせて制度を作る。これは政治の領域の問題であり、そのような「理想の社会の実現」を望まない人は、まずいない(かもしれないとしか言えないのが悲しいね)と思いたい。でも現実は「弱肉強食」「優勝劣敗」「適者生存」という、紛れもない闘争になっています。それを認めたうえで、「~のできる社会が理想」と言って下さるな。

 若い頃から「養護」教育に関心をもち、各地の、いいろいろな学校に出かけては、その実際を学んできました。また友人にもかなりの数の人が「特別支援学校」の教員をしている。ぼくが小学校の頃から見て、「特別支援教育」は格段に進んだのか、ぼくには断言できません。「養護教育義務化」という時代を画期として、ぼくたちの社会は「健常者」専(only)用の社会になったと錯覚させたのではなかったか。実にお悍(おぞ)ましい「教育行政」であり、それを容認する社会の風潮は弱まる気配を見せてきませんでした。ぼくに特段の考えがあるわけではありません。それぞれが「課題を自分に引き付ける・引き受ける」ことからしか、ものごとは始まらないようにも思います。「人権問題」に近道も横道もないようで、誰もが、問題を自分に重ねる地点ら、つまりは「隗より始めよ」という、実に平凡で陳腐なところに嵌っていくばかりです。

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● 障害者教育(しょうがいしゃきょういく)special education=心身障害をもつ児童生徒および成人を対象とする教育。視覚障害教育,聴覚障害教育,知的障害教育,肢体不自由教育,病弱教育などを総称する。欧米では 19世紀に入って保護的教育施設が設置され始め,19世紀末には義務教育制の導入もはかられるようになった。第2次世界大戦後は,国際連合の世界人権宣言および障害者の権利宣言で障害児の諸権利の保障が承認・奨励されたことで,各国の制度や行政措置に前進がみられた。 1982年 12月の国連総会は「障害者に関する世界行動計画」を採択し,障害者に対する教育的サービス開発の基準を示している。日本では明治5 (1872) 年の学制に「廃人学校」の規定が設けられ,1890年には「盲唖学校」に関する規定も加えられた。その後,特別学級の設置が進められ,第2次世界大戦後,盲学校聾学校養護学校,普通学校特殊学級の義務制を経て,1979年の養護学校教育義務制実施にいたった。学校教育法では 2006年の法改正により,従来の「特殊教育」に代わり,「特別支援教育」の語を用いるようになった。これに伴い 2007年,盲学校,聾学校,養護学校を一本化して特別支援学校が設置され,特殊学級は特別支援学級に再編された。(ブリタニカ国際大百科事典)

●【障害者教育】より=…この2種類の学校は1923年の盲学校及聾啞学校令によって各道府県に設置義務が課せられ,その義務履行は戦前にほぼ完了した。障害児教育が本格的に発展するのは第2次世界大戦後であり,すべての障害児が義務教育の対象とされるのは79年,養護学校教育義務制の施行によってである。健常児に比べて,障害児が著しくその学習権,教育権を侵害されてきたことが明瞭であろう。…(世界大百科事典)

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 これは余談ですが、人権問題を話題にするとき、アメリカがモデルのようになっていると、ぼくは考えています。いい意味でも悪い意味でも。毎年「銃」による犠牲者は三万人とか言われています。アメリカは銃社会であることは事実で、公然と「銃」が売られているし、何よりも、自らの安全を銃によって防衛している国でしょう。さらに昨年も一昨年も<BLACK LIVES MATTER>、これまでもこれからも、「黒人のいのちは大切だ」と主張しつづけなければならないし、それでもなお、「いのちが粗末にされている」社会です。これが「民主主義」の本家だというのも、看板の偽装じゃないですか。「看板に偽りあり」で、その偽りの看板に止まった「蚊」か「アブ」みたいなのが、この島社会の「寸法」「分際」でしょうね。

 ぼくは、このようアメリカを、どうしたら「人権が尊重される社会」になり、「銃の不要な社会」にできるか、そうして初めて、この小さな島にも「理想の社会の光」がほの見えるのかもしれないと、密かに考えている。「人権外交」といって「人権(を)尊重(する)国」というマヤカシの態度で、中国と渡りあうのがアメリカの常。「人権問題」は世界共通の課題ですが、それぞれの時代や社会にも、独特の「人権問題や課題(現状)」があります。この狭い島社会においても事情は変わりません。まず身のまわり、そこからしか、問題に手を付けつることはできないと、ぼくは考える。やれるところから、やれる範囲で、そして「手を抜かず」に。自分から遠く離れたところに見えるのが「人権問題」ではありません。「左上の図」に書かれていることを、ほんの少しばかり読んでみても「おやっ」と思わされます。「嫁にやる」「嫁を取る」「嫁を貰う」「〇〇家」とか「✖✖家」という家単位(それは形式だけといわれるかもしれない)「夫婦同姓」その他、見逃してもなんということはない、そんな問題が、実は「人権」の根っこを腐食してきているんですね。長く歴史に留められてきただけに、個人の判断や理解では動かせない問題でもあります。でも、まず第一歩から、自分で始めることでしょう。誰にとっても、人権問題は身の回り、半経数メートルの範囲内に生じているのです。(それにしても、「作文コンクール」というのは、「人権問題」に関しても、なんか変ですね)

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 バッジをつけてから本当の勝負、それじゃ遅いさ

 【国原譜】「馬淵さん『再誕』7選」「高市さん盤石」「田野瀬さんV4」や敗北、黒星といった見出しが躍動した。本紙1日付の社会面である。▼衆院選挙の紙面は、まるでスポーツ面のようだった。選挙もスポーツも勝ち負けの結果であるのは同じなのだが、この二つは根本的に異なっているのではないか。▼五輪にしても野球、サッカーなどプロスポーツにしても、運動競技は結果がほとんどすべてである。選手は勝つことを目標に日々練習している。勝ち負けに伴うドラマが人々を感動させる。▼しかし、政治家の場合はどうだろう。今回、県の1区小選挙区は前代未聞の結果ではないか。選挙戦は馬淵さんが制したわけだが、敗れた小林さん、前川さんも党の比例代表で復活当選し、立候補した3人すべて代議士に。▼1区投票者は満足だろうが、個人的に何か解せないところがある。ただ、政治家は選挙に選ばれた時がスタートではないだろうか。大切なのは、議員として何をなすかである。▼公約を実行できるか。いかに県民、国民のために尽くせるか。バッジをつけてからが本当の勝負である。(栄)(奈良新聞・2021.11.02)

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 本日は「文化の日」だそうです。もちろん、この「休日」(祝日とも祭日とも「旗日」とも、国民の休日とも)戦後にできたもので、それ以前は「明治節」あるいは「天長節」と呼ばれていました。明治天皇の誕生日だからだと言います。ある個人の誕生日が、「国民挙って祝う日」というのですから、なるほど「天皇制」というものの片鱗が、こんなところに垣間見えるのかもしれません。天皇制問題はともかくとして、先般の衆議院選挙の、いわば後遺症と言いたいところですが、実際はそんなことはなくて、法律が適正に機能した結果というべきでしょう。小選挙区比例代表並立制のことです。奈良選挙区の一区では、馬淵さんが当選。他の二名は落選したにもかかわらず、近畿ブロックでの「比例」で復活当選だと言います。法の規定ですから、問題はない。本選で負けたのに、別の土俵が用意されていて、まわしもつけず、四股も踏まない(土俵に上らない)で当選するという芸当です。奈良の選挙民は、いったい何を選んだのか。だれを議員にしたかったのか。奈良一区選挙民の「権利の侵害」じゃないですかね。

 本拠地で負けたのに、それ以外のなじみの薄い土地の選挙民に救われるというか、選ばれるというのは「腑に落ちない」というべき。奈良県以外の「近畿ブロック」の選挙民が「維新がいい」と政党名を書いたので、小選挙区で負けても「復活」するというのは、まやかしであり、八百長であり、ごまかしであり、ぼくは、この制度のいい加減さが、この島社会の政治状況を著しく阻害してきたといいたいですね。一人が「二票」というのも受け入れがたいのですが、一方では「個人」を選び、他方では「政党」を選ぶ、間尺や平仄があっているようで、実は「絡繰り」以外の何ものでもなさそうです。

 今回の選挙で維新の会は大躍進とか、ホントにそうですかな。この政党が出来た最初の選挙は五十数議席だったし、つぎの選挙では今回と同じではなかったか。やっと出発点に戻っただけ。その「大躍進」の中身は「復活当選」です。維新の中で突出して幸運だったのは徳島一区の吉田知代候補でした。選挙区では二万票で落選。しかし比例四国ブロックで「復活」、「惜敗率」(なんというフザケタ名称でしょうか)、は20%でした。(実際は「落選率8割」ではないですか)この算出法にどんな根拠があるのか。他地区の例を出せば、9割9分の惜敗率なんというのもありました。ぼくは「維新の会」の応援者でもなければ、妨害者でもない。しかし、この島にもこんなに出鱈目な政党が出てきたという状況に、大きな不信と不満を抱いているのは事実です。それはまた別の問題でもあります。これも、れっきとした「与党」でしょ。 

 いたるところに「一票の格差」が出現しています。選挙である限り、この格差問題の解決は不能でも、可能な限りで格差を縮小する必要がある。それが出来なければ、全国をいくつかの「ブロック」に分けて、すべては「比例選挙」とすべきです。「党より人」なんて言うほどの人材はいませんから、「人より党」で行くのが、ちょっとはましかなという程度ですが。実際は、どちらも変わらないでしょうが。学校のクラス委員を選ぶ選挙で、一組ではB候補は落選したのに、三組では、人気があって、なんと委員に「選ばれていた」というような、まるで「お風呂でおならをする」みたいなフヤケタ話です。こんな例は維新ばかりではないから、誰も関係者は文句を言わないんでしょ。美しくないというより、汚いね。

 誰でも立候補できる選挙制度は大切だし、門戸を閉ざしている、今の状況も変えなければならないでしょう。供託金の問題です。他国に比べて、べらぼうに高額にすぎます。これだけではない、選挙運動などに要する、もろもろの費用を考えると選挙費用は数千万円です。一億五千万円も出してくれる政党には、逆立ちしても勝てない。なんでこんなことになるのか。きっと「お上意識」が永田・霞が関両町にあるんですね。運天免許更新制にも金がかかるのは、この島ぐらいだし、車検にも、つまりは「お上」という器官(機関)は収奪できるところから大枚をくすねる根性を持っている人間のたまり場、人民の健康や幸福を考えるはずがないじゃないですか。

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● せきはい‐りつ【惜敗率】=小選挙区選挙で、当選者の得票数に対する落選者の得票数の比率小選挙区比例代表並立制で行われる日本の衆議院議員総選挙では、一人の候補者が比例代表と小選挙区の両方に重複して立候補でき、政党は比例代表名簿に複数の候補者を同位で並べることができる。比例代表選挙では、政党が獲得した議席数に応じて比例名簿上位から順に当選者となるが、同順位に複数の重複候補者がいる場合、小選挙区での惜敗率が高い順に当選となる。(デジタル大辞泉)

● 供託金(きょうたくきん)=選挙に立候補する者が届け出の際に納入しなくてはならない一定の金額。町村議会議員選挙は除かれる。選挙で得票数が一定数に達しないと没収される。無責任な立候補の乱立を防止するための制度である。供託金の額と没収の基準は選挙によって異なり,衆議院議員総選挙では,供託金は 300万円で,候補者の得票がその選挙区の有効投票総数の 10分の1に達しないと没収される。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 日本のプロ野球では「クライマックスシリーズ」とかいうのがあります。アメリカで、というかアメリカに倣ったのでしょう。リーグ三位までが「日本シリーズ」への挑戦権を得るという仕組み。何年か前にある球団がペナントレースでは二位だったか三位だったのに、日本史シリーズで優勝したことがあった。この「日本一」は本物ではないとか何とかケチを付けられていました。ことは野球だからというのではありませんが、人気を煽るための「愚策」だと、ぼくは見ていました。今ではすっかり関心の外のことにになりました。野球はまず見ませんから。政治はどうか。プロ野球並みの「人気商売」のようでもあり、もう少し娯楽味の薄い「客寄せ商売」のようでもあります。「代議士」というのですから、少なくとも選んだ人の「意向(民意)」という観点からすれば、このへんてこな制度は直ちに改正するべきだと、再言しておきます。「一流代議士」と「二流代議士」とでも言っているんじゃないですか。そもそも、月給に差があるわけでもないのに、いたるところに「格差」「差別」を好んでつけたがる輩に、「平等な社会」というものがどんなものか、分かるはずもないんですね。ともかく、この選挙法は、「数は力」で、「力は正義」などという出鱈目を許す素地にもなっています。

 しかし、この「復活当選」はいかにも珍無類の「自党中心主義」の賜物でしょうね。こんな問題につきあうのも、政治的関心が旺盛であるからではありません。投票に行くのは、ぼく一個の「権利であり義務である」と確信しているから、ともかく、その「権利と義務」の「行使や履行」にふさわしい制度がなければならぬという問題意識からの駄文です。こんなことは言うまでもないのですが、やるとすれば、「比例か小選挙区か」どちらか一つ、あるいは「衆議院は小選挙区選挙、参議院は比例区選挙」か。あるいは衆議院だけで、参議院は廃止か(一院制)。その他無数の選択肢がありますが、それをあえて取ろうとしないところに、この島の政治の堕落・頽廃があるのです。もちろん、「政治家になろうという人材」の問題がもっとも等閑視されているでしょうね。誰が出てもいっしょは、だれでなければならないか、そんな関心や問題意識が育っていないという根本のところに戻ってきます。「選挙民」の質ですな。「選挙民目ざまし」を兆民が書いた所以です。

 まずは「選挙制度」の適切化を図る(そのためにはどんな「政治家」を選ぶか)、次いで「選挙民」の自覚と教育の実践(倦まず弛まず、選挙に行くこと)。さらに、しかしこれがもっとも大事なことでしょうね、「選挙に出て、政治家」になろうという人間の育て方と職業意識の確かさ(この部分が最も遅れているというか、欠けていますね)、それらをぼくは、今の段階では、というより、ずっと昔から願ってきました。いっかなそれが実現しなかったのは、この「三点セット」の問題でもありますね。「北斗七星」氏が書かれている「某代議士」、ご存じですか。ぼくはよく知っています。いつでも「敵を攻撃する」に急先鋒ですが、弾がいつ自分に飛んでくるか、あるいはブーメランを恐れてか、敵に塩を送るようで、実に腰が砕けている方です。これは「野党の議員」ですか)

 *余話ながら 先月の半ばに「子猫」が生まれました。家の裏にある物置きの棚の中で。親猫はずっと早くに野良になり、もう何年になるのでしょうか。拙宅の車庫や近間で産んでは、少し大きくなると、なんと拙宅に連れてきます。生まれたのは「五匹」、二日前に数がわかりました。気温が下がって来たので、家の中にでもいれましょうと、親猫と喧嘩しながら子猫を出そうとしたのでした。猫好きでもなければ、ペットとして飼う趣味もないのですが、なんとか元気でと「授乳中」です。親はどうしたわけか、育児放棄の気味で、なかなか寄り付こうとはしなくなりました。前回も前々回の出産後もそう思ったのですが、今度こそ、彼女(親猫)を病院に連れて行かなければと、すでに病院の医者には「手術」の件は話してあります。人間の幼児も大変ですが、子猫もなかなか、です。(今は十人の猫族と共同生活、育ててくれるという奇特な人がいました。さらに募集しています)

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 制度が歪なら、どう工夫しても埒はあかない

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 本県自民の敗者、なぜ全員復活?衆院選比例代表 他県で大勝し「枠」多く

 31日に行われた衆院選では、北陸信越ブロックの小選挙区で敗れた自民候補者は新潟県の4人を含めた5人全員が比例での復活当選を果たした。惜敗率が80%にも届かなかったにもかかわらず、復活できたケースもあり、小選挙区比例代表並立制のあり方に議論を呼びそうだ。/ 同ブロックは本県と長野、富山、石川、福井の5県で構成される。この5県には19の小選挙区があり、ここで敗れた自民候補は新潟1、4、5、6区と長野2区の計5人だった。

 一方、同ブロックの比例で自民は前回より多い6議席を確保。比例単独1位の前職鷲尾英一郎さんが当選し、残り5議席を選挙区で落選した新潟6区の前職高鳥修一さん、4区の新人国定勇人さん、5区の前職泉田裕彦さん、1区の新人塚田一郎さんと長野2区前職で埋めた=表参照=。

 いずれも比例2位の重複立候補だったため、議席が足りない場合は惜敗率の高い順から復活枠を得る。今回は、落選者全員分の復活枠があったため、惜敗率にかかわらず当選した。/ 130票差で涙をのんだ高鳥さんの惜敗率は99・86%、238票差で敗れた国定さんは99・76%と高い。一方、泉田さんは約1万8千票差で76・58%、塚田さんは約3万票差で75・84%と低かった。/ 比例ブロックで3議席を得た立憲民主党は、比例復活した全員が惜敗率90%を超えた。復活できなかった3区の前職黒岩宇洋さんの惜敗率は86・53%。泉田、塚田両氏よりも10ポイント近く高いが、及ばなかった。


 ◎「いびつな制度、やめるべき」 政治アナリスト・伊藤さん

 政治アナリストの伊藤惇夫さん(73)に、本県の小選挙区で敗れた自民党候補の全員が比例で復活した結果を踏まえ、比例復活制度の評価などを聞いた。/ 改めて、有権者の意思に反して当選するという、とてもいびつな制度だと感じた。小選挙区の候補者は本来、選挙区の有権者の信任を得て国会議員になりたいという思いがあるから立候補するはずだ。それにも関わらず、投票で有権者から国会議員としてふさわしくないと烙印(らくいん)を押された候補者が、なぜか復活する。有権者には釈然としない気持ちが残っただろう。/ 小選挙区比例代表並立制導入につながる政治改革の議論に自民党職員として関わったが、当時は単純小選挙区制が軸だった。比例代表はあくまで中小政党に配慮した制度だった。/ 現行制度で行われてから25年。今では選挙区で勝てなくても比例で復活すればいいと考えている候補者さえいる。小選挙区制は一つの議席を争う制度だ。複数当選すると、有権者の民意がどう反映されたのか分かりにくくなってしまう。/ 比例復活の仕組みはやめるべきだ。重複立候補を認めず、比例には政党に功績のあった人や専門分野に特化した人らを各党が推薦すればいい。(新潟日報・2021/11/01 19:35)

 *ヘッダーの写真は「戦後第一回衆議院議員選挙の投票風景」(昭和二十一年四月一日)(NHKWEBより)

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● 小選挙区比例代表並立制【しょうせんきょくひれいだいひょうへいりつせい】=小選挙区制と比例代表制を合わせた選挙制度には大きく分けて並立型と併用型がある。並立型は小選挙区と比例代表区でそれぞれ別々に選挙を行い当選者を決める。それに対して併用型は比例代表区の投票結果が小選挙区の当選者の決定に影響するもの。1994年3月に成立した日本の衆議院議員選挙の小選挙区比例代表制は並立型で,小選挙区で300,比例代表区で200(2000年法改正で180に削減)をそれぞれ選出する。日本と同様の並立制を採用しているのは韓国など。また併用型の国はドイツなどがある。ただし,日本の場合は比例代表区と小選挙区の両方に〈重複立候補〉ができるという変則型(一方で落選しても他で当選することがありうる)。その場合,小選挙区の当落を優先するが,重複立候補者については比例区の政党名簿で同一順位に並べることができるため,〈小選挙区での得票によって決定される惜敗率=自分の得票÷当選者の得票×100(%)〉によって同一順位者の優劣を決定する。なお,2000年の公職選挙法改正により,小選挙区での得票が供託金没収の基準に満たなければ,重複立候補した比例区で当選できないと改められた。(マイペディア)

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 どの分野によらず、いったん作られた制度には長短があり、弊害が大きくなれば、変えざるを得ない。そはが当然です。この島社会の「選挙制度」などはその最たるものです。「小選挙区」「比例代表」「並立制」と、趣旨あるいは目的が異なったものが、文字通り、(和と洋と折衷が)「並存」しているのですから、法律を作る側にも「智慧者」がいるから、こんな制度ができるのでしょう。加えて、次々に建て増しし、そのすべてが「建築基準法」に違反しているという具合です。この小選挙区制が議論され、曲折を経て採用された経緯は、それなりに分かっていたつもりでした。「政権交代」が可能になる、そんな売り文句でした。確かに、たった一度だけ、「政権は移動」しましたが、どの政権も、根っ子の部分では「民意」などはまったくの無視するだけのものでした。国民(選挙民)の意志よりも、まったく別方面の「意向」に媚びるような恰好で政治が実行されてきたのです。「政権の移行」が容易になるから結構というのではなく、どんな政治家が政治を担うのかという、根本の問題がまったく等閑視されているのです。党派がちがっていても、議員の資質が代わり映えしなければ、政権交代とは言わない、仲間内の「盥回し」と言うべきものでした。

 長い間、あるいは戦後はずっと「野党」は存在しなかった、そのようにぼくは見ています。権力を持つ政党に近侍する、それが「野党」だというのでしょう。一つの正党を除いて、この社会には「野党」は存在しないも同然です。「小選挙区制」が導入されたのが、94年。以来四半世紀以上が経過しました。当初の法律も何度か「改正」されて、初期の目的や方向から逸れてきた、そんな感じをぼくは持っていました。この制度の弊害として指摘されてきたのは「重複立候補」制であり、そこから生まれる「復活当選」の問題でした。あるいは「51対49」で当落が決まるから、民意が損なわれるとも。そんなことは、いつだって言えることで、どんな投票数で勝とうが、勝ちは勝ち。

 スポ―競技などには「敗者復活戦」というものがしばしば見られます。五輪のレスリングや柔道などにもあったと記憶しています。準決勝で負けた選手同士が戦う、あるいはもっと前の段階で敗退した選手が敗者同士の勝負で勝ち上がってくることがあります。どうしてそのような仕組みを考えるのか、いろいろと理屈は立ちそうですけれど、要するに、そうでもしないと試合数や選手の数が限られていて、あまり面白みがないからでしょう。では、選挙の場合はどうか。これは根本から「敗者復活戦」とは意味合いが違います。敗者同士が、もう一度戦う(この場合は、再選挙ですね)、その結果によって当落が決まるなら、理屈はともかくとして、ありうることとです。しかし、現行の選挙法では「再選挙(投票)」はしていませんから、敗者復活という趣旨には反している。負けたものが、もう一度戦って「勝つ」のではないからです。いかにもまやかしであり誤魔化しです。力の強い政党の多い方が有利になる制度だというほかありません。これを「ホームタウン・デシジョン」と、ボクシングなどでは言います。さて、この選挙のホームは「政権党」というのでしょうか。政権を持っているものは、なんだって勝手に法制化できるというのなら、それは直ちにやめるべくだと、ぼくは思いますね。

(毛筆で候補者名を記入。驚きますネ。戦後初、参政権を得た女性の投票)

 小選挙区と比例代表の両方に立候補することは可能になるもので、小選挙区の投票で「落選」したにもかかわらず、別の理屈でその候補者は「当選」することになるのです。「落選」は「落選」というのは当たり前の「常識」ですけれど、政治の世界では「落選」は「当選」であるという、とても当たり前の感覚では受け入れがたい「永田町」「霞が関」の非常識がものを言ってしまっているのです。典型例として初めに例示した「新潟」のケースは、この制度の不真面目極まりない「品質」「品評」を証明しているでしょう。入学試験で「不合格」になった人間が、何かの加減で、次の日には「合格」になるという仕組みは「イカサマ」「(種が丸見えの)手品」です。中江兆民氏やや柳田国男さんが盛んに言った「選挙人」「投票者」の「目覚まし」「教育」も、じゅうぶんに尊重されないままで、ぼくたちは、かかる制度に付き合わされているのです。

 しましば「民意」という。それを受け入れるも入れないも、すべては「選良」の口舌先三寸とでもいうのでしょうか。今でも「(投票の)一票の格差」が裁判で争われています。最高裁でも判断は分かれている。この選挙制度の「公平」「公正」「平等」の原則を貫くことはきわめて困難な状況にあるのはわかります。それをいいことにして、国会はいつでも姑息な「改正(実際は改悪)」という弥縫策でお茶を濁してきました。選挙制度の根本にある矛盾を是正しないできたのが国会(議員諸氏の仕事場)でした。近年では「合区」などという新手の「針の穴(弥縫策)」も使い出しています。

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 「1票の格差」で一斉提訴 全289区の無効求める

 人口比例に基づかない区割りで「1票の格差」を是正せずに実施された今回の衆院選は憲法違反だとして、弁護士グループが1日、選挙の無効(やり直し)を求めて札幌高裁や福岡高裁那覇支部などに提訴した。一斉に全国289選挙区全てについて14の高裁・高裁支部に訴訟を起こす。  10月18日時点での最大格差は2.09倍で、区割り変更により1.98倍に抑えられた前回2017年の衆院選より拡大した。最高裁大法廷は18年12月の判決で、17年選挙を「合憲」と判断した。  議員1人当たりの有権者数が最も少ないのは鳥取1区で23万1313人、最も多いのは東京13区の48万2445人。(共同通信・2021/11/01)

 立候補するつもりの人間にとって「有利か不利か」というのが、法律改正の眼目です。誰だって「有利」と見れなければ、その法律を変えることはしないものです。弥縫策という、名前ばかりの「改変」で誤魔化してきた国会議員さんたちです。その選出基準の「正当性」、議員資格の妥当性が問われているのです。復活当選制も、即刻廃止すべきです。何よりも「議員定数」が多すぎます。衆議院議員は現行で465名、適正な定員を割り出すことは至難ですが、少なくとも今より議員数を減らしても政治のレベルは落ちも上がりもしないと、ぼくは確信しています。この何十年の国会を見ていれば、誰が見ても直感しますよ。政治家になりたい人が集まってなされる「政治まがい」を、「政治」であると錯覚してしまっている。選挙民も候補者も。ぼくは国会はいらないとまでは言いませんが、「政府」はいらない。その意味では「アナーキー」です。つまり今のようなカネばかりを使う政治や政府はいらないが、それに代わる「議決機関」や「執行機関」は必要で、簡素にしかも能率を上げることが出来る仕組みを考える時期でしょう。(ぼくは、昔から、「町内会」の規模や役員選出法、さらには分担制など、それを下敷きにして考えてきました。ある種の「直接民主制」ですね)

 「代議制」の課題は永遠に続きます。だからそれに代わる仕組みを、というのですが、これはまだまだ、未知の世界です。初めに述べたように、どのような制度にも「欠陥」はあります。それが致命的なものかどうか、誰にでもわかるとは限りませんが、こと「選挙制度」に関して言えば、その欠点や欠陥は、誰にだって一目瞭然です。制度そのものが「歪(いびつ)」なら、多くの努力は水の泡と消えるでしょう。投票率が低いという現実の問題はありますけれど、それはもっと深刻な問題の「表れ」でもあると考える必要がありそうです。その制度に覆いようのない弱点や問題点があるなら、それはもう、即刻手直しするほかありませんね。政治も選挙も、当たり前に整った「埒(らち)」があってはじめて機能するのですから、「埒外」にしろ、「埒」はあるのだ(現行選挙法)と強弁し、それをいいことにして「惰眠を貪っている」のは誰だというところに、批判が行きそうではないでしょうか。「選挙と国会」の問題(来し方行く末)はぼくたちにとっても、見ないふりはできないんでしょうね。それにしても、「復活当選」、なんともみっともないし、それが国会議員(小選挙区選出か比例区選出か)としても「差別の対象」となるというのだから、「✖✖に付ける✖✖✖はない」んですなあ。(「✖」の部分には何が入るんでしょうか)

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 一粒の麦もし死なずば

 【卓上四季】天使と悪魔と豚犬と 選挙権のある者は日本国という名前の政治的一家の家族であるけれども、選挙権のない者は家族ではなくて食客である。東洋のルソーとうたわれた自由民権思想家、中江兆民の名著「選挙人目ざまし」の冒頭にある▼第1回衆院選が行われた1890年のことだ。有権者は25歳以上の男性で直接国税15円以上を納める者に限られていた。人口比ではわずか1%にすぎず、多くの人々には法律を作ったり廃止したりする権利がなかった▼国会を立派なものにするか、しないか、良くするか、悪くするか。その権利は誰の手にあるのか。明白である。兆民は「君たちがもし万一にも立派でない国会を製造するときには、他の同類の兄弟に恥ずかしくないことがあろうか」と呼び掛けた▼選挙権を有する者には、選挙権のない者の暮らしも考えて投票する責務があるということだろう。棄権など論外である。候補者と公約を吟味し、社会の利益も考えて1票を投じることの意義は現代も変わるまい▼第49回衆院選の投開票がきのう行われた。近年の投票率は2014年に戦後最低の52・66%を記録するなど、有権者が責務を果たしたとは言いがたい状況が続いている▼兆民は「一片の投票用紙は、天使を買うことも、悪魔を買うこともでき、あるいは天使でも悪魔でもない無益無害の豚犬をも買うことができる」と説く。果たして今次の国会の行方はいかに。(北海道新聞・2021/11/01)

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 「選挙権は政治的人民たるの権なり、故に政治上より言へば衆議院議員を選挙するの権有る者即ち直接国税十五円以上を納むる者のみ日本国民にて、其他は日本国民に非ざるなり。府県会議員を選挙するの権有る者即ち五円以上を納むる者のみ府県人民にて、其の他は府県人民に非ざる成り、彼れ選挙権無き者は請願書を上(たてま)つる外絶て政権に預るの権無きなり、彼れ日本国裡に生活するも某府県裡に生活するも、政府に対し府県庁に対し唯消極的に生活するのみにて積極的に生活するに非ず、唯法律の保護を受くるの権あるのみにて法律を興廃するの権有るに非ず、彼れ選挙権有る者は日本国と称する又は某府県と称する政治的一家の家族なるも、彼れ選挙権無き者は家族に非ず食客なり、特に衆議院議員を選挙する権の如きは他の選挙権に比して最も貴重なり」

 「抑々代議士とは其名の指示する如く公等(選挙民)に代はりて事を議す可き者なり、左れば其第一の資格は政事の綱要に関して公等と所見を同ふすうるの処に在り、若し政事の綱要に関して公等と所見を異にし又は反対の意見を持するに於ては正(まさ)しく公等の政敵なり、一歳十五円以上の税金を出して丁寧に慇懃に他日の政敵を買取るが如きは智者は為さざるなり、政事の綱要に関して公等と所見を同くして、其人且つ智有り勇有り学識有り口弁有るに於ては是れ天実に公等に賓(たま)ふに神使を以てせしなり、公等と所見を異にし又は反対の意見を持して、其人且つ智有り勇有り学識有り口弁有るに於ては、是れ天実に公等に賓ふに悪魔を以てせしなり、否な公等自ら天使を買取りしなり、一紙の票箋は以て天使を買ふ可く以て悪魔を買ふ可く、又或は以て天使にも非ざる悪魔にも非ざる無益無害の豚犬をも買ふ可し」(兆民「選挙人めざまし」)

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 このままいけば、兆民の文章を全部引用しなければならなくなりそうです。「選挙人めざまし」は明治二十三年刊、前年の二月に「帝国議会」が発布され、この年(二十三年)の七月に最初の衆議院議員選挙が実施されようとしていた、その時期に出されました。「自由民権」の主導者でもあった兆民の主張は、この時代にあっては相当に進歩的であったかもしれません。その内容はかなり複雑であり、彼自身が「自由党」の再建に深くかかわっていたり、あるいは代議士に出るとか出そうとか言われてもいましたから、きわめて微妙な時期の微妙な内容になっていると考えられます。

 いまは、兆民論を語る時ではありません。彼が国会論や選挙論、あるいは政治論を執拗に書いていたのも、民権というものが「たなぼた式」に付与されるのではなく、人民の長い間の政治的犠牲に基づくということを、誰よりも知悉していたからです。

● 中江兆民(なかえちょうみん)(1847―1901)=明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土着民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。[松永昌三]『『中江兆民全集』全17巻(1983~85・岩波書店)』(ニッポニカ)

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 百三十年前の「国政選挙」の状況は、今日から見ると比較を絶する差があります。詳細は略しますけれど、納税額や性別による差別は、今では皆無になりました。それだけ「選挙権」の普及が行きわたったということもできる。「国会は国権の最高機関」(「「国権の最高機関で、国の唯一の立法機関」憲法41条)と明記されています。立法は言うまでもなく、法律の(改廃をも含めた)制定を指します。この国会を構成する議員を選ぶための選挙が昨日、投開票されたのですが、結果はどうでしたか。与党とか野党とか言います。ぼくは、何回も述べているように、現状は「与野党対立」などは見たくても見られない、一党(共産党)を除けば、すべては「与党」に位置づけられると考えてきました。悪のかぎりを行おうが、いっかな犯罪にならない。好き放題にふるまってきたのが、この数十年でした。身を挺して「悪政」に挑むという政治的行動は、この島社会では絶えて見られません。(暴力を行使すべきだというのではありませんよ)

 国会は言論の機関ですから、言葉を駆使して「政治を実践する」ことは選ばれた議員たちの義務ではないかと、まるで「寝言を言うような」締まりのない気分に襲われます。兆民さんはみずからが体験した結果を書き残してもいます。それは今は置くとして、選挙権を行使するという練習がほとんどなされていない現状に、ぼくは発狂しそうです。その昔、柳田国男という人は「国語の将来」という短い文章だったかで、「国民が間違いのない選挙(投票)をするための力をつけるのが、国語教育の責任である」という趣旨のことを強く訴えたことに、ぼくは大きな刺激を受けてきました。学校教育の狙いはいろいろですが、なかでも大事なのは「よき選挙民を育てる」ことだと、明言したのです。偏差値や受験学力なんかでは、断じてないんですよ、いまも昔も、一貫して変わらない視点ですね。

 柳田さんの指摘からすると、選挙に行かないというのも、一つの選挙権の行使ですから問題はないということになるのかどうか。ここは大いに考える必要がありそうです。兆民の「選挙民目ざまし」の意図は明白です。「一紙の票箋は以て天使を買ふ可く以て悪魔を買ふ可く、又或は以て天使にも非ざる悪魔にも非ざる無益無害の豚犬をも買ふ可し」というのは、何よりも投票権を行使したうえでの話です。投票場に行かないのは、おそらく兆民の視野には入っていなかったでしょう。とすれば、いくら「目覚まし」をかけても覚醒しないのですから、万策も尽きると言うべきでしょうか。投票率が低いより高い方がいいに決まっているけれど、どのような判断で投票するか、それがまず先決でしょう。今回の投票率も決して高くはありませんでした。戦後では低い方から三番目だとか。実に厄介な状況に陥っていると、ぼくは嘆くのではありません。嘆いても始まらないし、やがてこの島社会は、引きかえすことが不可能な事態にはまり込んでいるのが、見て取れるでしょう。回復はきわめて困難です。選挙以前の問題があるんでしょうね。

 「一粒の麦若し死なずば」という、アンドレ・ジッドの小説がありました。若い頃に読んで、こんなことまで作家というのは書くのか、と驚嘆した記憶があります。ここで持ちだしたのは、その自伝的な描写ではなく、タイトルそのものに興味を持っていたからでした。また賀川豊彦にも「一粒の麦」という作品がありました。

● 一粒の麦もし死なずば(ひとつぶのむぎもししなずば)Si le grain ne meurt=フランスの作家アンドレ・ジッドの自叙伝。1920年に上巻12部、翌年に下巻13部が著者秘蔵本としてつくられたが、26年にようやく公刊された。幼年期から26歳で婚約するまでの回想で、自分の欠点や悪癖が吐露されているので、周囲の者は極力刊行中止を勧めたが、彼は敢然として公刊した。彼の自己愛や同性愛の趣味がいささかのためらいもなく語られていると同時に、彼の一生を通じて変わることのなかった美しいものや弱い者に対する共感や憐憫(れんびん)などが、その萌芽(ほうが)の状態において語られている。その点において、彼の複雑きわまりない精神や作品を研究するうえに絶対欠くことのできない作品である。(ニッポニカ)

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と、ヨハネ伝では語られています。もちろん、この「一粒の麦」は「キリスト」その人を指して言うのです。たった一粒の麦は、そのままであれば、実を結ばないままで枯れ死する、でもそれが地面に落ちで(実を結べば)たくさんの人の空腹を満たすことになろう、たった一粒といえども、どこに落ちるか、何処に生きるか、それによって、運命は大きく異なるのです。きっと、別の理解もあるのでしょうが、ぼくは単純にこう読んでいます。

 ジッドの小説やヨハネ伝を使って、何かを言いたいのではありません。選挙権を行使するとかしないとか、それはどうでもいいことであるのか知れない。しかし、ぼくたちは「たった一人」で生きているのではなく、自分がしあわせに生きるためには他者を犠牲にして、という考えは全く乱暴であり、看過できない自己中心主義に毒されている、それに少しも気づかないからこそ、ぼくたちは必要以上に、生きづらいという嘆きを託つのでしょう。一人くらい選挙に行かなくても「体制・大勢」に影響なんかはないんだと言えますし、そうかもしれないと、ぼくも言ってみます。

 でも、一人一人の権利が大切にされなければ、それは他者の権利を侵害してしまうことになります。また、選挙権は一つの権利であることはその通りです。しかし、それを正しく(と判断して)行使することは「義務」でもあるのではないでしょうか。当然でしょ、権利の行使だから、勝手に売り買いしても構わないとはならないんですから。今更こんなことを言うのも、惨めであり、浅ましいかぎりですが、やはり、ぼくは柳田国男さんの心情(あえて、それは憂国の情だったと言ってみたい)が、いまさらのように痛く感じられるのです。学校教育がどうして大事か、それは「よき選挙民を育てるため」、こんな教育論を言い続けた人を、ぼくは改めて尊敬するのです。もちろん、兆民さんも含めて、です。

 「一紙の票箋は以て天使を買ふ可く以て悪魔を買ふ可く、又或は以て天使にも非ざる悪魔にも非ざる無益無害の豚犬をも買ふ可し」という言説を、ぼくはくり返し味読する、投票権を行使るべく権利を持っている人間として、それは自らへの戒めとして、「一票の意味」を忘れないためにも読んでいるのです。

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