旧来ノ陋習ヲ破リ,天地ノ公道ニ基クヘシ

 この「駄文録」では初めてのこと、山陰中央新報の「明窓」というコラムを二編一気に取り上げる。各都道府県にはそれぞれの地域新聞(「地方紙」「全国紙」というのは、都会方面からの発想法。「全国紙」という名称は「堕落の程度が全国レベル」という意味か)があり、それぞれに個性的な歴史を有しています。明治維新以後、自由民権運動が各地(都会からではなかった)から勃興し、「言論(政論)の自由」が強く求められたのでした。「山陰中央新報」もその一つ、明治十五年「山陰新聞」として発刊。松江においてでした。その後、幾度かの合従連衡があり、昭和四十八年に「山陰中央新報」と改名され、現在に至っています。来年には創刊百四十年を迎える。日本各地の大学(特に私立大学、その前身は「専門学校」とされた)の多くも、この明治十年代以降に創立されました。この私立大学のそれぞれが「創立の趣旨」を高々と掲げてきましたが、近年では完膚なきまでに権力の「軍門に降る」為体(テイタラク)、その後を負う(後塵を拝する)ように各新聞紙も「権力の威光」に靡いてきました。その意味からいうと、この島社会には「言論の自由」「民主主義の発露」がまったく失われてしまったということです。せめて、全国のなかで「一紙」だけでも「言論で抵抗し」「言論を死守し」、もって「腐った権力」に「一矢」を報いてくれないものか、と覚醒中にして「寝言を言う」始末です。

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 ● ごかじょう‐の‐ごせいもん〔ゴカデウ‐〕【五箇条の御誓文】=慶応4 (1868) 年3月 14日,天皇が天地の神々に誓うという形式で示された明治新政府の本方針。5ヵより成るのでこう呼ばれる。由利公正が起草し,福岡孝悌が修正を加え,木戸孝允が訂正したものとされ,内容は「一,広ク会議ヲ興シ,万機公論ニ決スヘシ。一,上下心ヲ一ニシテ,経綸ヲ行フヘシ。一,官武一途庶民ニ至ル迄,各其志ヲ遂ケ,人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。一,旧来ノ陋習ヲ破リ,天地ノ公道ニ基クヘシ。一,知識ヲ世界ニ求メ,大ニ皇基ヲ振起スヘシ。」というものであるが,会議とは列侯会議のことであり,また庶民とは豪農豪商であって,全体としては国民の政治参加をきわめて限定的に認めたものといえる。「教育勅語」「軍人勅諭」とともに昭和初期まで国民の指導理念とされ,1946年1月の天皇人間言にも引用された。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 この島にも「国会」はある。しかし、このところ、まじめに国会を開こうとしない輩たちが政権を掌握(盥回し)しているという仰天すべき事態が続いているのです。「万機公論に決すべし」ではなく、密かに、夜陰に乗じて「お手盛り」まがいの政治が罷り通っているのですから、「言論の自由」も地に堕ちたというほかありません。本日は、本当はこんな御託を並べるつもりではなかった。「全国紙対地方紙」のアナロジーで「標準(共通)語対方言」の問題を取り上げようとしていたのです。(「明窓」その①)

 因みに「明窓(めいそう)」はどこかで触れたことがあります。明るい窓、光が差す窓のことで、「寒炉に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する」(道元)欧陽脩「試筆」に出る言葉。ここから、「明窓浄机」という語が生まれた。ぼくが駄文を綴っている部屋は、南向きで、窓も二間幅をとってありますが、とても「明窓」とは言えない。窓の前には濡れ縁があり、そこには野良用の「猫部屋」が備えられているし、その机は「浄机」とはお世辞にも言えません。今このパソコンを使っている机は一間半の幅ですが、(この瞬間に、自分用の部屋だと錯覚している「ネコ君」が帰ってきた。つい先ほどまでは、生後一か月の「四人組の幼猫」(「一つ」は川崎にもらい子されました)が暴れまわっていた)

 「明窓」というコラムもよく読みます。数日前には、寂聴さんについて書かれていましたね。「人生の妙味を知り尽くす」というタイトルでした。本日は「方言の効用」としてありました。内容は以下の通り。

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 明窓・方言の効用 増える一方のカタカナ語はすぐに忘れるのに、子どもの頃に接した言葉は、不思議なことに今でも覚えている。「おんぼらと」という言い方もその一つ。先日、雑談の場で年配の人が使うのを久々に聞いて懐かしかった▼国語辞典に載っていない方言らしく、穏やかなや、ゆっくりの意味だと記憶している。出雲地方だけでなく北陸地方や滋賀県では「おんぼらぁと」や「おんぼりと」という言い方をするそうだ。辞書などを手掛けた国語学者の故山田俊雄さんも、自分の母親が使っていたと書いていた▼あまりいい言葉とは言えないが、ばかやばか者を意味する「だらず」や「だら」は、子どもの頃には怒られる際だけでなく、軽い口調でも使っていた。「いけず」も、いたずらや悪さを注意されるときなどに何度となく聞いた。「いけず、すーなよ」といった具合に▼「いけず」は辞書では意地悪や悪者のことで、元々は大阪の方言らしい。使う地域や人によってニュアンスの違いがあり、芸者さんなどが使う場合は、好意的な意味が潜んでいるケースもあるとか▼方言や訛(なま)りは、料理で言えば「だし」のようなものだと思う。パソコンで打ち出す文字に比べ手書きの文字には人間味や温かさが感じられるように、方言には標準語とは違う味わいや温かみがある。子どもを叱るときや政治の言葉に、そんなぬくもりが交じると、聞く側にも伝わる。(己)(山陰中央新報・2021/11/18) 

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 「おんぼらと」という語は、おそらく初めて聞くものでした。どこかでいつか、耳にしたのかもしれませんが、まったく記憶にない。あるいは石川県で使っていたのか、それもわからない。おふくろがいれば、聞けたのですが。「だら」という語は使った記憶がある。おそらく石川県ではよく使っていたらしい。京都に来てからも使っていた。 「いけず」は今でも使う、関西弁の三役格じゃないですか。「いじわる」という気味もありますし、「あの人、いけずしはったんや」とか何とかいっては、笑ったことが思い出される。根性が悪いという意味にもなった。

 コラム氏の仰せのように、「方言」が「だし」かどうか、ぼくには判断できない。もともと、その言葉しかなかったものだし、地域地域でふんだんに使われていたものです。これ、すなわち方言はりっぱな「日本語」だと、ぼくはずっと言いつづけてきました。日本語は、数百もある、実に言語感覚の豊かな地域だった。それを「撲滅」しようとしたのが、あるいは「五箇条の五誓文」の狙いの一つではなかったか。「方言」は汚い、遅れている、共通性がないなどと非難され、学校教育を通して、一貫して忌避されてきた。その典型が「方言札」でありました。近代社会となり、文明開化を成功させるには、「旧来ノ陋習ヲ破リ,天地ノ公道ニ基クヘシ」というくだりは、その気味が濃厚です。「方言には標準語とは違う味わいや温かみがある」と言われるのはその通り、おそらく数百千年を経て「育てられた」ことばだからです。地場育ちという語がすっかり当てはまります。「流行語大賞」などという決死済みのような毎は似ても似つかない、言葉には、驚くばかりの力があるんですね。

 ぼくは石川・京都・東京・千葉と、それぞれに長い時間を生活してきて実感するのは、土地の「老人(昔の若者)」たちの「普段着の言葉」で、つまり方言の使用感覚でした。一番耳にうるさく聞こえたのは「江戸弁」というか「東京言葉」でしたね。まったくの歴史も地域性も感じられない、即席の「共通語」だった、一面ではまるで「エスペラント」だったとも言えます。そこへ行くと、千葉県は言語数は豊富で、その感覚は鋭敏だった。房総半島にもいくつもの「地域語」がありましたし、今でも使われているものがあります。細かいことは略しますが、方言は「だし」などでがはなく、むしろ「主食」だったのだ。というか、たとえがまずいからそういうのですが、方言は「人間言語」「生活言語」だと言うべきでしょう。それを使用禁止(厳禁)にしたがったのが学校教育で、その責任には軽くないものがあります。寧ろ「標準語・共通語共通≒天皇の言語≒国語」という人造言語は「0と1」で作られた「二進法言語」のように味気ないですよ。奥行きもないし広がりもない。

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 ここまで来て来て、少し面倒になったのと、雑用に取り掛からなければならないので、中途半端ですけれど、本日はここまでにします。中根千枝さんに関しては、あまり間を置かないで触れてみることにします。「タテ社会の人間関係」は、もっともはやい時期に読んだ「文化人類学」の本だったと思います。一読後の印象は鮮やかだった。いまとなれば、いろいろと問題を指摘することもできますが、当時、ぼくは大学に入りたての頃。中根さんについても、いろいろと文献を漁った記憶があります。

 本筋ではありませんが、このコラムで気になるのは(ここだけではなく、いつも、どこにでも見られることです)「女性として初めて東京大教授」式の言い草です。このコラムの筆者は男性でしょ。

 まず女性記者なら、こんな書き方はしないね。これは「日本人(男性)の悪癖」です。少しも治らない。あるいは、「~初の文化勲章」とか。そのように言って、どうしたいんですか。「落語家初の人間国宝」とか「野球人として初の文化勲章」とか。なんの躊躇もなく、こういう記事を書くという、そもそもが遅れている、いや止まっているんだ。「知識ヲ世界ニ求メ」というのは「寝言」でもなければ、「掛け軸」でもない。生きた現実を表わす言葉であるわけで、もしそうでなけれな、言葉を使って何をしようというのか、なにがいいたいのか。

 男性優位を図らずも明示する表現は、それこそ「撲滅」すべきでしょ。新聞がそれをしないでどこがするんですか。それから、順位争い、ランキング競争の大肯定です。まったく気が付かないで書いているとするなら、もはや救いはない。「一番」病の感染力はえげつないし、何処までも後生大事に「一番病」を病んでいるがいいと、いまさらいうのも癪にはさわりますね。「男性だから」、「女性だから」と言っている時代はとっくに過ぎています。つまり、男社会は、存在しているように見えて、中身は腐っている、そのあおりで女性でも腐っているのがいます。下品な物言いですが、男だとか女だとか言っている、暢気で遅れた時代や社会は、確実に「絶滅種」なんですよ。もちろん、人類史で見れば、百年や五百年は「夢の内」ですからね。盤石に見えている「なにごと」も、すでに、とっくに「終わりが始まって」います。それは明治維新期であったかも知れないし、第二次世界大戦の敗戦時であったかもしれない。残滓(かす)は残りますけどね。

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 明窓・日本の癖 智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される―。夏目漱石の『草枕』は、処世の愚痴で始まる。理屈っぽいと敬遠され、かといって情をかけてばかりでは、足をすくわれかねない。このくだりについて、先月12日に94歳で亡くなった社会人類学者の中根千枝さんなら「半分当たっているが、残り半分は外れ」と見立てたのではないか▼中根さんの代表的な著作『タテ社会の人間関係』(1967年刊)は、人間関係を中心とする日本社会の特徴をあぶり出している。日本人がうすうす感じながら言葉に表現できなかった社会の「癖」のようなものを筋道立てて見える化し、日本を理解する手引として国際的にも高く評価された▼その癖の代表格が、論理より感情を優先させる日本的な組織風土。企業などで実務能力は抜群でも、やたらに筋張れば「面倒くさいやつ」になり、仕事ぶりは目立たないが、人間的に周囲を引きつける「情の分かる人」が出世頭になる▼冒頭の一節に中根論を当てはめれば、前段の「智に働けば…」はその通りだが、後段は意味が逆転する。「情に棹させば流される」どころか社会の勝者になる▼女性として初めて東京大教授になった中根さんは「学者の世界も論より情。世の中には変わるものと変わらないものがある」と説く。組織同士のヨコの連携は苦手で、部課長など上下のタテ関係にこだわる日本社会の癖は変わりにくい。(前)2021/11/17 04:00

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 写真を決定づけるものはなんだろうか

 【北斗星】 リアリズムを追究した昭和を代表する写真家、木村伊兵衛(1901~74年)は戦前戦後を通じて人間の暮らしを撮り続けた。ドイツ製小型カメラ「ライカ」を愛用し、被写体の自然な姿を瞬時に切り取る。その撮影術は「居合」とも称された▼木村の生誕120年を記念した回顧展が秋田市の県立美術館で開かれている。国内外で撮影した白黒写真の数々は市井の人々の表情を豊かにとらえ、当時の息遣いを伝える。スマートフォンで色鮮やかな画像を簡単に撮ることができる時代だからか、モノクロが逆に新鮮に映る▼代表作の一つで戦後の本県の農村を題材にした「秋田」シリーズは20点余りが展示されている。県のPRポスターにもなった「秋田おばこ」(53年)は多くの人の記憶に焼き付いているだろう▼シリーズの撮影行は52~71年にかけ、計21回に及んだ。案内役を務めたのは「秋田派」と呼ばれた地元のアマチュア写真家たち。「案内してくれた人がいたから木村は農村の自然な姿を写すことができた」。木村の弟子で、写真家として初めて文化勲章を受章した田沼武能(たけよし)さん(92)=東京都=は解説する▼回顧展には秋田派の写真も並ぶ。秋田シリーズ同様、多くが50年代の農村を題材にした作品だ▼戦後の高度経済成長は日本を経済大国に押し上げ、人々の生活は豊かになった。一方で農村は人口流出が進み、衰退の道をたどった。木村と秋田派が残した写真は農村の失われた情景の貴重な記録でもある。(2021/11/16)

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 写真の母親は、仕事の合間に子どもを寝かしつけているところだろうか。少し疲れがにじんでいるように見える。農作業に家事、育児と多忙を極める農村の女性を正面から捉えた一枚だ。「私の写真は、みんなの生活の延長線上にあるもの」と語った木村。作品から、日常に対して愛情のあるまなざしを感じるのである。(秋田魁新報・2021年11月12日 掲載)

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● 木村伊兵衛【きむらいへえ】(1901-1974)=写真家。東京生れ。1924年,日暮里に営業写真館を開業,かたわらアマチュア写真家として活動。1930年,花王石鹸広告部に嘱託として入社し商業写真を始める。同年,ドイツ製小型カメラ〈ライカA型〉を入手,これをきっかけにスナップ・ショットで市井の人々の姿を記録し,日本の写真に新しい表現を切り開いた第一人者となる。1932年,伊奈信男,野島康三らとともに写真同人誌《光画》に参画。〈日本工房〉〈中央工房〉を拠点に報道で写真家としても精力的に活動。戦中は,東方社で日本の対外宣伝雑誌《FRONT》の写真を担当した。戦後は,カメラ雑誌をはじめ幅広く活動,代表的なシリーズに《秋田》《街角で》などがある。初代日本写真家協会会長。没後,1975年に木村伊兵衛賞(朝日新聞社主催)が設立され,日本の写真家の登竜門となる。

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 写すのも観るのも、写真には興味があった。それで何かをしようとしたわけではなかったが、雑誌の付録についてくる簡単な写真機のキットなどをいじるのが好きだったから、それが広がっていったのかもしれない。もっとも初歩的な写真機の構造に触れたのである。以来、兄貴がカメラをいくつも所有していたせいもあって、ぼくもいっぱしにカメラマニアになりかけた時期もあった。今では、まったく触らない。写真を撮ることは皆無だし、撮られることも嫌いになった。ひたすら「写真」を鑑賞するだけの生活がずっと続いています。

 木村伊兵衛さんにはいつごろ関心が向いたのだろうか。おそらく土門拳さんなどと同時期のような気もする。高校生の頃か、あるいは大学に入ってからだったか。このコラムにある写真集「秋田」には理由は定かではないが、今も惹かれているのだ。写真集が、書庫のどこかにあるはずだ。「なんでもない写真」「平凡な写真」というものがあるとは思わない。撮られた写真は、いずれも貴重な記録であり、作品だとぼくは考えてきた。名のある写真家のものだから、「さすがだ」というのは、具合が悪いんじゃないだろうか。

 どんなものでも「作者」があるのは、その通りだが、時にはそれはどうでもいい、名前なんか知らなくても、観る側には無関係、それがもっとも素朴は作品の鑑賞法だと言いたい。ぼくは民俗学を開いた宮本常一さんの写真も好んで観てきた。彼は専門的に写真を学んだ人だとは思わないし、彼の興味や関心から「撮りたいように撮る」という態度で一貫していた。だから一枚の写真を出されて、撮影者の名前が伏せられているとき、ぼくたちは、もっとも素直な態度で作品に応接するのだ。木村と宮本を比べれば、「そりゃあ、木村さ」というのは、鑑賞法としては純粋じゃないな。(右上の写真は木村さんの「横手」、1952年6月に撮影)

 写真は、絵画や文学、あるいは音楽とは決定的に異なるともいえよう。作者の才能以上に「機器(カメラ)」がものを言うこともあるだろうし、偶然性が作品の価値を決めるということもあろう。そのことをとやかくいうのではない。いわゆる「決定的瞬間」(というもの)の格率の高さが、プロとアマを明確に分ける基準のようなものだともいえる。しかし、そういって「写真芸術」(この名称も無条件では受け入れられないかもしれない)を軽視しているのでもなければ、貶めているのでもないのは、いうまでもない。たくさんの写真を興味本位に眺めてきた結果、結論というものではないけれど、ぼくにはそのように思えるのである。ここに岡本太郎氏を持ってきてもいい。「芸術的才能」があるからというのは、的が外れている。誰にだって「才能」はあるからだ。問題は「経験の場数」(それだけではなかろうが)によるのではないか。(左の写真は山口県萩の見島の一場面。宮本常一さん撮影、1960年代)

 いつでもこんな問題が出てくると、ぼくは法隆寺を思い浮かべる。この寺の設計士も建築家も誰一人分からない。いずれも渡来の「無名の職人」たちと、民衆の共同作業だったろう。作者がわかるだけ、余計ではないかとさえ言いたいのだ。「名所」「旧跡」の作者はだれか。「自然と時間」としか言いようがなかろう。「写真」はそれと同じだというつもりはないが、どこかで符合するところがありはしないか。くわえて、被写体の質量というか、重量感というか、それは決定的に重要な要素でもあろう。文学や絵画(彫刻なども)、あるいは音楽(作曲や演奏)などとは根本のところで成り立ちがちがっているのが「写真」だ。素人がいきなりバッハを演奏することは不可能だし、絵筆の心得が生半可なら、まず画はまともには描けけない。カメラなら、誰だって(犬や猫でも)シャッターは押せるのである。だから、「偶然」「瞬間」という「間」の見付け方(捉え方)が、写真家の生命なのかもしれぬ。これは決定的ではあるだろう。(右は、木村作「秋田おばこ」1953年撮影)

 「戦後の高度経済成長は日本を経済大国に押し上げ、人々の生活は豊かになった。一方で農村は人口流出が進み、衰退の道をたどった。木村と秋田派が残した写真は農村の失われた情景の貴重な記録でもある」(コラム氏)ということは本当だし、だからこそ、木村は「報道写真家」と呼ばれたのであろう。写真は一面では「芸術」であり、他面では「記録(歴史)」でもあるといえるだろう。「芸術であろうがなかろうが、「歴史」を映さない「作品」は、なんと呼べばいいのか。

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 余話ながら 下の写真と新聞記事について。右の写真は「素人写真家(撮影当時)」の大野源二郎さんが写したもの(1952年11月)。「秋田ビジョンコンテスト」があり、その後で出場者の撮影会があったそうだ。大野さんも急遽参加して、映したのがこの写真。この写真を見て木村伊兵衛さんは、この女性(当時高校生)を取りたいと、翌年八月に来秋し、時間をかけて撮影。それが「秋田おばこ」になったという。大野さんは素人写真家で、手に入れたばかりのカメラで、「秋田ビジョン」を撮ったと言われます。木村さんの案内役を務めたそうです)(上の「傘を被った女性」と下の「写真」は同じ人物。「写真」というのはむずかしい、ぼくには、よさも悪さも、よくわからないですね。理屈はつけられそうですが。新聞記事の左は「洋装」の「秋田おばこ」だそうです)

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 七つまでは神の内

<あのころ>七五三にも戦時色   国民服で参拝

 1940(昭和15)年11月15日、子供の成長を祝う「七五三の日」。数え年で男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳に神社にお参りし健康を祈った。泥沼化した日中戦争下の時勢で、太平洋戦争に突入する約1年前。子供の晴れ着も国民服ともんぺの戦時服だった。(共同通信・2021/11/15)

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 そもそも「七五三」とはどういう行事だったか、今あるような形はいつから始まったか、そんなことにはお構いなしで、お宮に出かけて、「千歳あめ」を買って、写真を撮って帰ってくる、そんなことらしいですね。それで結構なんですが、せっかくですから、その縁起や由来なども少しは知っておいても毒にはならないでしょう。いろいろないわれや民俗伝承がありますので、これぞ「七五三(「しめた」ともいう)」という決定版はなさそうです。ヒントは「七つまでは神の内」「七つ前は神の内」という言い習わしです。医療があまり進んでいなかった時代、幼時の生存率はきわめて低かったと思われます。したがって、三歳・五歳・七歳という節目に、世間に対して子どもの無事を「お披露目」する意味合いがあったとされています。あるいは、この子はわが家で大事に育てますよという「子育て宣言」でもあったのです。その裏には「悲惨な子殺し(間引き)」の影もあったかと思われます。

 今日のような習慣が定着したのは「江戸期」とされます。これは「冠婚葬祭」の華々しい、厳かな展開と同じように、このような慣習を大きく商業用におぜん立てする風が始まったからです。今日の「(旗日の)商戦」の賑わいを見れば、納得がいこうというもの。(昨年来のコロナ禍で、少しは「自粛」というか、「控えめ」が当節の仕来りとなりました。いずれ、旧に復して「大賑わい」が戻ってくるのかどうか。成人式や結婚式、あるいはお葬式も、「準備万端」一切お任せという商業主義派、フランチャイズ派の面々は、捲土重来を帰しているはずですから、昔日の賑わいが戻るのではないでしょうか。「我が子」だけの無事ではなく、地域の子どもの成長を祈る日を、それを社会全体で祝ったということがあったらしいのです。

 このような行事に、ぼく自身が参加した記憶もなければ、証拠(記録写真)もありません。まずは放ったらかしだったでしょうね。誰も構ってくれなかったし、そんな暇もなかった時代の子どもでした。我が家の子どもたちはどうだったか。世間並みに、近所のお宮に伺った記憶はあります。そのおかげで成長したのか、神の加護があったのか、ぼくにはよくわかりません。

● 七五三(しちごさん)= 幼児の成長期における重要な儀礼の一つ。一般に男児は3歳と5歳,女児は3歳,7歳で行う。男児はハカマギ,女児はオビトキ,オビムスビまたはヒモオトシの祝いと称して,それまでの一つ身の着物から三つ身,四つ身などに着替えたり,新しい帯を締めて宮参りをすることが各地の習俗にみられる。「七つ前は神のうち」というや幼児葬法にみられるように,この時期に袴や帯を幼児の身に着けて成長を祝う儀礼である。霜月祭の日 (11月 15日) が一般に選ばれ,こうした儀礼が七五三としてまとめられたのは,江戸時代中期以降のことで,商家の営業政策の影響が大きい。今日ではますます華美になりつつある。(ブリタニカ国際大百科事典)(左上の絵は鳥居清長・天明四(1784)年ころ)

● 七つ前は神の内=数えどし七歳未満の子どもはに属する存在で、わがままや非礼があっても責任は問われない。(ことわざを知る辞典)(*この説明には、少しばかり異論があります。「神に属する存在」はいいとして、この先も無事に生きていけるのか、あるいは神のもとにいることになるのか、まったくわからない存在として受け止められていたのです。神から授かった児ども(子宝)、つまり神の「使い」として、神事にはさまざまな参加が、幼児や児童に求められていたこともあった)

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 何はともあれ、我が子の無事を祈り、この先の健康を願う行事として「定着」した感がありますから、傍からとやかく言わない方がいいでしょう。しかし、いつなんどき、「護国」のため、「しこのみたて【醜の御楯】」とならないとも限りません。くれぐれも、地上の平和も、深く祈願したいものです。もちろん、「一国平和主義」などは、あり得ないことも忘れたくありません。

 お宮参りならどこでもいいというのも、今日流の「おおらかさ」でしょうか。京都の八坂神社の主祭神は「スサノオノミコト(素戔嗚尊)」です。各地にあります護国神社は、いわずとしれた「国事および戦争殉難者の霊を祀った神社」です。今日でも、各都道府県には一社以上が存在しています。その他、土地土地の「産土(うぶすな)神社」など、お参りするののツアーを組む必要がありそうなほどに、お宮(神社)は林立・乱立という風情ですね。

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●護国神社=1939年(昭和14)、従前の招魂社(しょうこんしゃ)を改称したもの。幕末から明治維新前後の国事および戦争殉難者のために、各藩はそれぞれ招魂場を設けて慰霊祭を行った。また1868年(明治1)には京都東山に霊祠(れいし)(現在の京都霊山(りょうぜん)護国神社)が設けられ、各地の殉難者の霊が合祀(ごうし)された。翌年には東京招魂社(現在の靖国(やすくに)神社)が創立された。これらの招魂社は全国に100余社となり、75年にはすべての招魂社の祭神が東京招魂社に合祀された。1939年、招魂社の制度の不備を改めて護国神社と改称。第二次世界大戦前は内務省の管轄で、府県社、村社に準じて扱われたが、戦後は独立の宗教法人としてほとんどが神社本庁に所属する。(ニッポニカ)

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 處世不必邀功、無過便是功、

 この雑文集では、何度か触れています「菜根譚」。久しぶりに手に取りました。深い仔細があってのことではなく、机の横にあったからというだけの理由です。これはぼくの愛読書というのではありません。時たま目を通すという、新聞記事のような扱いをしてきました。著者の洪応明という人の履歴もよくわかっていません。日本では、信長から秀吉を経て家康に至る時代に当たります。兼好さんよりは三百年ほど後代の人。、ある本によれば、この人は若い頃に科挙の試験に合格し、仕官したが、中途で止めたとされています。そのことが、この本の内容に影響を与えているのかどうか、それもわかりませんが、そういうふうに読めば読めてくるという程度の怪しさでもあります。その「菜根譚」から二つ三つばかり。取り立てて、大仰に言うこともないものです。たまには、こんなものを、という程度。これが「処世訓」になるんですか。それらしく書きとめられるのは、事実に基づく経験があるからであって、経験に裏打ちされた行動の言語化と、自らの言動に依拠しつつある経験との符節・符号があって、はじめて学ぶべき教え(訓)となるのです。経験もしないのに、本に横線を引くような具合に「処世訓」は読まれるべきではないでしょうね。このような機微というか、脈絡は、若い頃からしばしば身に染みて学んできたところです。何のための傍線を施したのか。 

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 交友、須帶三分俠氣、作人、要存一點素心 (十五)

 (友に交るには、須(すべか)らく三分の侠気を帯ぶべし。人と作(な)るには、一点の素心を存するを要す。)(読み方も訳も、岩波文庫版による。以下同じ)

 ぼくが大学に入ったころ、六十年代半ば当時、しばしば、鉄幹の「人を恋ふる歌」を飲み会などで、蛮声を張り上げては歌っていました。どんな歌だか、深い意味はけっしてわかってはいなかった。「妻をめとらば才たけて みめうるわしく情けある 友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」という。観念のかたまりを丸呑みするような、若気の時代の想い出であります。「妻をめとらば」は手のとどかない世界だった。「六分の侠気四分の熱」というところにうなされたのですね。ひどいものでした。

 この短文の「主意」は言わないでもいいでしょう。「友人とは義侠心を以て交わる」、義侠心とは、弱きを助け強きを挫くということか。侠気というのは、今では見失われてしまいましたが、どこかで、いいつでも求められる「困っている人がいれば、助ける心意気」のことでしょう。いっぱしの人間になるには、疚しい邪念はいけない。得荒くなりたいとか、他人の評価をもらいたいとか、世間・世評頼みでどうしますか。「素心」とは素志、あるいは初心というもの。自分はこれだけはやり遂げたいというような志を持つ必要があるということでしょうか。(いずれも、世間の荒波に揉まれているうちに、どこか行方不明になってしまったなあ、そんな情けない心持を持ちながら、ようやっとよろけながら歩いている始末です)

 處世不必邀功、無過便是功、與人不求感德、無怨便是德 (二八)

 (世に処しては必ずしも功を邀(もと)めざれ、過(あやま)ちなきは便(すなわ)ち是れ功なり。人と与(とも)にしては徳に感ずることをも求めざれ、怨みなきは便ち是れ徳なり。)

 解釈も解説もいらないでしょう。そのままに読みとれば「いかにも、結構でした」というような、「処世術」となるのでしょう。ところが、渡る世間は鬼ばかり、「そうは問屋が卸さない」と言わぬばかりの難題が攻めよって来るのです。「成功(功名)」したいと焦りなさんな、過ち(まちがい)がなければ、それが「成功(功名)」なんだというのです。あるいは「他人に対して徳を施した(「他人が恩を受けた」という)などという、他者からの見返りを求めるな」「他人から怨み買わなかった、そんな付き合いが出来るなら、それが徳(恩恵という)なんだ」。そうなんですかね。恩着せがましくするのではなく、「怨み」を持たれなかっただけでも幸いなりと。この交わりを「淡いこと、水の如し」というのでしょう。

 数日前の駄文で「淡交」ということに触れました。「君子の交わりの淡きこと」と。それに関して、京都の友人がまた電話をくれました。「淡きこと水の如し。それはどういうことや」というのです。「與人不求感德、無怨便是德」ーー 俺がしてやったとか、俺のおかげだぞと、たがいに自分の利点(ほどこし)を主張しないように。おたがいに「さっぱりした気持ちが続けば、それで十分」ということでしたね。水の如しかどうか、よくわかりませんが、「べたべたしない」「媚びない」「オベンチャラを言わない」、自分だけがそう思っているのかもしれないが、そんな付きあいをしてきたことは、おそらく確かですね、もう三十年をはるかに超えています。

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● 君子の交わりは淡きこと水のごとし=立派な人物の交際は淡泊であるが、その友情はいつまでも変わることがない、ということ。[使用例] 君子のは淡きこと水のしと云ってな、余りしつっこくならない方が好いのだ[森鷗外*灰燼|1911~12][由来] 「荘子―山木」に載せるたとえ話から。あるとき、孔子が、自分が苦難にあって以来、親しかった人たちが離れていってしまったと嘆いていました。すると、ある賢者が、「君子の交わりは淡きこと水のごとく、小人の交わりは甘きこと(あまざあけ)のごとし(立派な人物は水のようにさっぱりした付き合いをするが、そうでない人物は、甘酒のようなうまみを求めてしか付き合わない)」と言って、利益で結びついた関係は信頼がおけないことを教えたのでした。(故事成語を知る辞典)

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 よく「処世訓」と言い、「処世術」と言います。その言わんとするところは何ですかね。ぼくにはよくわかりかねます。若い頃から、「君は青臭い」とか「分(分際)を弁えろ」とか、歳上から詰(なじ)られてきました。いつまで「とがってるんだ」というのか、「いい加減に、矛を納めろ」というのだったか。ぼくはいっかな理解しなかった。連中の先輩面が気に入らなかったし、この「ゴマすり野郎」という悪態をつくのが常でした。「そっちこそ、分を弁えろよ」という気概でしたね。もちろん、ひとえに自分自身の不出来と欠陥がそうさせたのですが、とにかく生意気でした。功名心もなければ、義侠心もなかった。まるで「鉄砲玉」のようで、何処に飛んでいくのか、自分でもわからなかった。そして今、幸か不幸か「いい加減に、年齢を考えろ」と言ってくれる人は、もういません。自分で言うほかないようですね。「(小過は数知れず、であっても)大過なく過ごせれば、以て冥すべし」ということでしょうかねえ。(こんな駄文を書く羽目になったのは、瀬戸内寂聴さんの訃報に接したからでしょうか)

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● 菜根譚(さいこんたん)=中国、明(みん)代の末期に流行した「清言(せいげん)」の書。著者洪応明(こうおうめい)は、字(あざな)は自誠(じせい)、還初道人(かんしょどうじん)と号し、万暦(1573~1619)ごろの人。四川(しせん)省成都(せいと)府の出身。儒教的教養を基礎とし、そのうえに道教、仏教に通じて三教兼修の士となることは、明代中期ごろからの流行であったが、著者はその優れた一人であった。本書は、前集は222条、後集は135条、合計357条の「清言」からなる。前集は、主として世間にたち、人と交わる道を述べて、処世訓のような道徳的な訓戒のことばが多く、後集は、自然の趣(おもむき)と山林に隠居する楽しみを述べて、人生の哲理や宇宙の理法の悟了をくことが多い。この人生の哲理、宇宙の理法は、儒仏道三教に通じる真理であり、それを語録の形式により、対句(ついく)を多用した文学的表現をするのが「清言」である。書名は、宋(そう)の汪信民(おうしんみん)の『小学』における「人常に菜根を咬(か)みうれば、すなわち百事をなすべし」からとったものである。中国よりむしろ、江戸末期の日本で多くの人に愛読された。洪応明にはほかに『仙仏奇蹤(きしょう)』4巻(『消揺嘘(しょうようきょ)』『長生詮(ちょうせいせん)』『寂光境』『無生訣(むせいけつ)』各1巻)の著がある。(ニッポニカ)

 「物言えば唇寒し秋の風」、そうなんですか

 【明窓】人生の妙味を知り尽くす 「作家として私は生きている限り書き続けます」。今年3月11日付の本紙に載った東日本大震災10年の特別電話インタビューでの締めくくりの発言だ。その言葉の主、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなった。徳島市出身の99歳。書くという業を生きたような人生だった▼『夏の終り』『美は乱調にあり』など情熱的な愛と女性を描いた小説や『源氏物語』の現代語訳など、幅広い分野で数多くの著作を手掛けた。自らも、東京女子大時代に結婚した後、夫と幼い娘を捨てて愛に走るなど、波瀾(はらん)万丈の生き方を経験。2年前に出した著書『寂聴 九十七歳の遺言』でも「生きることは愛すること」「愛することは許すこと」と説いた▼51歳の時に出家して、本名も晴美から改名。京都・嵯峨野の寂庵に暮らし、岩手県天台寺の住職も兼ねた。東日本大震災の後には被災地を訪ね、避難者のつらい体験に耳を傾けて一緒に涙したり、原発の再稼働に抗議してハンストをしたりするなど社会活動にも参加し、発言もした▼長年続けた法話は、人生の妙味を知り尽くした人の言葉だけに、多くのファンや悩みを抱える人たちを勇気づけた。テレビ番組で紹介された、90歳を超えてなお肉好きだった一面も、どこかほほ笑ましい▼何より印象的だったのは、ちゃめっ気のある、あの温かい笑顔。長い間、本当にお疲れさまでした。合掌。(己)(山陰中央新報・2021/11/)

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 長い人生行路を、少しも無駄にしないで、みごとに生き抜かれ、様々な方面で思う存分の活動をされた、とはた目には映ります。お見事というほかなさそうです。京都の嵯峨嵐山の近くに住まわれて、多くの著作をものされもした。何かと教えを受けた瀬戸内さんに、いろいろな思いを込めて、深く哀悼の意を表します。ぼくはが毎日のように「閲覧」している地方紙の多くが瀬戸内さんんの死を悼むコラムを書かれていました。当然のことですね。おそらくニ十紙は下らない各紙が、彼女の人生に満腔の賞賛を送っていると読みました。上に掲げた山陰中央新報のコラム氏の「人生の妙味を知り尽くした人」というのも、その代表的な一つです。ぼくごときが、瀬戸内さんの死について、あるいはその生き方について、とやかく言う資格もなければ、義理もありません。ひたすら、哀悼の想いを重ねるばかりです。

 どんな人間の生涯、あるいは存在にも「毀誉褒貶」はつきもの。彼女は、そのような喧しい世間を無視したというより、その中にあって、敢然と思うがままに生きようとされたと思う。評判を気にするのも「一つの生き方」なら、それを乗り越えて、あるいはそれに打ち勝って、その都度、自らの活力を蓄えて生きるのも、また「一つの人生」、彼女は、まさしくそのように生きた人という気がします。だから、ぼくが彼女の「一挙手一投足」になにかを言うというのではなく、彼女の言動を細かに報道する周囲の扱い方に、あるいは異を唱えたくなるのかもしれない。それは「揚げ足取り」というものではないつもりで、以下に、たった一点だけ言及しておきたいのです。(誰に対してであれ、ぼくは「プライヴァシー」には言及しないようにしています。最大限に尊重されるべきもの、それは「私権」ですから)

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 死刑や憲法9条改正の反対運動も 瀬戸内寂聴さん

「法話の会」を開く瀬戸内寂聴さん=平成27年9月
(平成27年9月)

 9日に99歳で死去した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは、女性の業(ごう)を描いた小説の執筆や法話を通じた多彩な活動を続ける一方で、死刑や東日本大震災後の原発再稼働、憲法9条改正に反対する運動にも積極的に参加していた。/ 平成28年10月に福井市内で開催された日本弁護士連合会の死刑制度に関するシンポジウムでは、ビデオメッセージで「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。殺したがるばかどもと戦ってください」と発言。犯罪被害者支援の関係者から批判が上がり、後に「お心を傷つけた方々には、心底お詫(わ)びします」と謝罪した。

 東日本大震災をめぐっては、義援金活動や被災地訪問を重ねつつ、原発再稼働に抗議するハンガーストライキに参加したこともあった。被災地支援について、「お見舞いや寄付などできることはなんでもしてきましたが、それは、仏教徒ゆえの義務です」と語っていた。/ 憲法9条改正にも反対の立場で、25年に東京都内で開かれた宗教者による集会では「今後も日本は戦争をしない国として生きるべきです」とのメッセージを寄せた。27年には国会前の安全保障関連法案反対集会に参加した。(産經新聞・2021/11/11)

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 「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」このようなメッセージを認(したた)められた、彼女の心中はどうだったのか。本人ですら、後になって、それを忖度することは困難かもしれないのですから、まして他人がとやかく言うことは、よほど気を付けないと…、そんな気持ちを十分に持っているつもりです。(あくまでも「つもり」ですから、それがまちがいのもとになるのでしょうね)。

 この発言が物議を醸したのですが、直ちに瀬戸内さんは「謝罪」(弁明・弁解)をされた。それに関しても特に何かを言う必要性を、ぼくは感じません。要するに、「謝罪」するのは当然であると認めたうえで、その「謝罪」には、きっと「弁明・弁解」が含まれていることがありますので、それを見逃したくないのです。「謝罪」はいいけど、「弁明」はダメというわけではありません。どうしても、その二つ離せないんですね。さらにいえば、ともすると「弁解」や「弁明」は「開きなおり」になります。瀬戸内さんの場合がそうだというのではありません。「謝罪」には幾分かの「言い訳」が混じっているから、謝罪できるんですね。「いい分・申し開き」と言うものです。自分の言いたかったのは、「ホントはこういうことだった」「真意が伝わらなかったのなら、言葉が足りなかったとしたら、申し訳ない」「誤解されたとしたら、その点はお詫びします」、こんな物言いは、ぼくたちはしょっちゅう政治家の会見で聞かされてきました。「もし誤解を与えたとしたら、謝ります」というんですよ。「誤解を与えたのなら」、でも本当は、「誤解する方がおかしいんじゃ」と言いたいらしい。

 よく注意して聞くと、「あの人は謝っていないじゃないか」「話を聞きそこなった、そっちの方が悪い」と言いたい気持ちがありありです。瀬戸内さんの「謝罪の言」にも、ぼくはそれを嗅ぎ取るのです。だから許せないというほど、ぼくは人が悪くはないつもり。ぼくだっていつ何時そうなるか、いつでもそんな思いで「自戒」するのです。この「自戒の念」が宿るようになるのが、成熟というか老成というか、年齢を重ねるということでしょう。寂聴さんは「若かった」んでしょうね。歳の取り方が足りなかった。「弁解」や「弁明」を言うこと自体が、そもそもの間違い。「94歳にもなって、こんな発言をする私はおおバカ」とか。そのとおりです、だから、発言は控えればよかったと言っても、時はすでに遅いんですね。

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 「94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと、深く反省している」「発言の流れからしても『バカども』は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである」

 「もの言えば唇寒し秋の風」
     「だから長生きは厭(いや)なんだ」

 「そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。耄碌のせいだなどと私は逃げない。お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」(引用は;https://www.j-cast.com/2016/10/14280702.html?p=all)

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 瀬戸内寂聴さんという「稀有の存在」にして、この「過ち在り」ということでしょうか。「もの言えば唇寒し秋の風」「だから長生きは厭(いや)なんだ」、寂聴さんにして、この言あり、なんですね。そう言いたくなる、彼女の気持ちは、いったい何だったのか。「物書き」にしてこの弁明ありですから、世の中に、自尊心を持して生きるというのはなかなか難しいよ、誤解の種を蒔くようなものですから。きっと「己に対する悔しさ」だったか、あるいは、わが意を受け止め損ねた「世間」への当てつけであったか。「謝罪」なのか「弁解」なのか、混然としていますね。人間は、何処まで行っても「唯我独尊」という邪気から解放されないようです。「作家で僧侶」と言われていますが、くっついているんですね。「表裏一体」だったと思う。それは彼女の、世間に「生きる方便」であったかも。「物言えば唇寒し」と、芭蕉は言いましたが、その真意はどこにあったか。寂聴さんは、この句を「謝罪」の道具にして、実は、自己の発言を誤魔化されています。

 「芭蕉の句で、貞享年間(一六八四‐八八)に成ったといわれる「座右の銘」、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」のあとに添えられているもの。人の短所を言った後には、なんとなくさびしい気持がする。転じて、なまじよけいなことを言えば、そのためにわざわいを招くということ。口は禍の門」(精選版日本国語大辞典)

 これも言わないでもいいことに属します。でも一言したい。ぼくの疑問とするところですから。彼女は「殺したがるばかども」とは「死刑制度を温存している、国家権力」という趣旨で述べたと言われました。その「殺したがるばかども」が、栄誉として、優秀な「国民」に配る「文化勲章」を受けられています。これも、ぼくには解せない行動の一つ、さらに「僧侶」なのだから、「文化勲章はおかしい」というのではないのですが、寂聴さんは「両刀使い」だったか、すこし怪訝でもありますね。はたして、どうでもいいことなのかどうか。

 「人生の妙味を知り尽くした人」ということが出来る、そんな存在は、人間の中にいるのでしょうか。(合掌)

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 「クロヨン」と「トーゴーサンピン」と

 【水や空】足元を見る 主要な交通手段が「徒歩」だった時代、旅の長さや疲労の度合いは旅人の履物や足取りを見れば一目瞭然だ。悪徳運送業者は考える。あんなに疲れているのなら、法外な値段をふっかけても大丈夫…人の弱みに付け込む〈足元を見る〉はそこから来た言葉▲だって欲しいでしょ、だったらカードを、と露骨に足元を見られている気分だ。新型コロナウイルス経済対策の一環として政府が打ち出したマイナンバーカードによるポイントの給付▲一昨日の記事によると、新規取得時に5千円分、健康保険証として使うと7500円分、預貯金の口座と連結するとさらに7500円分。どれも、キャッシュレス決済の利用が前提らしい▲この給付策が目指すのは生活支援なのか、景気の刺激か、それともカードの普及か。もらえるポイントが段階的に増える辺りに政府の意図が見える▲カードが皆に広く行き渡ることで暮らしや社会はどう変わっていくのか、その変化は誰にとって好都合なのか、個人情報保護の不安は解消されたのか。言葉や機会を尽くしてなされるべき説明や説得は省略されて、代わりに配られる2万円分のポイント▲〈カネが欲しいか、そらやるぞ〉-どこで聞いたのか思い出せないが、あまりに身もふたもない童謡の替え歌、一節が耳から離れずに。(智)(長崎新聞・2021/11/13 )

 猫なで声で、「配りますよ」「お得ですから」「申請するなら今がチャンス」と、気持ちが悪いことおびただしい、その猫なで声に「貰えるのるのなら」と、「民草」たちが殺到しているという。衆議院選挙の投票には行かないが、カネがもらえるなら、なんだっていいさ、というのでしょうか。これもまた一つの「民度」ですね。民度に合った政治であり、政治家であり、役所であり役人なんですから、それに不足があるわけでもありません。不満もあるのではない。こんなもんですな。「足元を見」られているし、「お里も知れ」ている。開きなおって、どうせどう生きたって、たった一回の人生だということもあるのですかねえ。(そんな大げさなことじゃないよ、という声があります)

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足元(あしもと)を◦る=相手の弱みにつけこむ。「—◦見られて高い値をつけられる」
[類語]付け入る乗じる付け込む尻毛を抜く

● あし‐もと【足元/足下/足許】= 足が地についている所。また、その周り。「暗いから—に注意して下さい」「—に犬がうずくまる」 足の下部。「—に泥はねを上げる」「—が寒い」 ある人の、ごく身近な所。身辺。「まず—を固めて仕事にかかる」 足の運び方。歩きぶり。足どり。「—がふらつく」「—がおぼつかない」
 苦しい立場。差し迫った状況。弱点弱み。「—につけ込む」 物事を行うためのよりどころ。立脚地。足掛かり。足場。「事業の—を固める」家屋の地面に近い部分。縁の下土台など。 近いこと。直近。最近。「—金利の安定」「—の企業業績は好調」「—の搭乗率は平均でも5割程度」

● あ‐もと【足元/足下】その人の家柄身分。(以上は、デジタル大辞泉)

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 「足元(足下・足許)」という語にはたくさんの語用があり、ぼくなんかは嬉しくなります。「足元を見る」というコラム氏の解説には、合点がいくといおうか、「なるほどそうだ」と、一瞬は、膝を打ちたくなります。この「足元」という語を見ていて、意外にも「その人の家柄や身分」と出ていたのには少しばかり意外の感がした。あるいはそうだったのかという思いも同時にありました。足元(足下・足許)には「その人の生活の程度が出ている」というのでしょう。どんな履物を履いているか、あるいは身分により家柄によっても異なっていた時代や社会があったが故の「言い草」だったと思う。「身形(みなり)」というものも、じつは身分のあかしでもあったし、それはある人々にとっては「烙印」でもあった。一例は「囚人服」、今でもあるのかどうか、ぼくは詳らかにはしないが、これなどは一目瞭然でした。だから、「足元を見る」というのは、「こいつは何者か」という値踏みであり、低い身分だとわかると「無理難題を吹っ掛ける」という寸法だったでしょう。「人は見た目が…」というように、その人間が何ものであるか、服装や身形から判断する習慣がついてしまっているのが、この社会の来し方でした。「ユニフォーム」がこんなに普及したのも、来歴は明らかなんですね。

 これによく似たような言い方に「お里が知れる」というのがありました。ありましたというのも、今ではあまり使われなくなったように思われるからで、すべてが「お里が知れ」ているというのが現代人なのでしょう。何処で生まれてどんな育ち方をしてきたか、それは今日とは異なって、生涯にわたって「住処(すみか)」を変える習慣(制度)がなかった時代の産物です。今でも犯罪容疑者の報道に「住所不定」と出てくるのも、ぼくなどは大きなお世話だと言いたいのですが、これも住所は定まっているのが当たり前の時代や社会の歴史からくる、一種の「偏見」ではないかと見ています。大半はそんなことは意識してはいないんですが。

 前置きはこれくらいにして、「マイナンバーカード」です。いったいこれは何ですか、と訝(いぶか)る向きがあるし、ぼくなどは触れたくもない代物だと考えています。だから、「新規取得時に5千円分、健康保険証として使うと7500円分、預貯金の口座と連結するとさらに7500円分」というのは、いったい政治政策なんですかと問い返したくなります。日常生活になくてはならない「カード」なら、給付金などつけなくとも、国民の義務として交付を受け入れるのはとうぜん。しかし、いろいろと手を変え品を変えてまでも、「国民皆背番号」をともかく打ちたいから、何兆円も使って強行するという魂胆で、まさに「お里が知れる」ていますよ。ここで使いたいのは、政府・役人どもの「お里が知れる」ということです。江戸時代には「マイナンバーカード」はなかったが「宗門人別改帳」というものがありました。まさしく「個人識別一覧表」です。それと結託したのがこの島の宗教教団だった。その意味では、なんだかんだ言ってもそれは「国家宗教」と基本は変わらないんです。今でもそうかもしれないと、ふと思う時があります。

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● 宗門人別改帳【しゅうもんにんべつあらためちょう】=江戸時代,村(町)ごとに作成,領主に提出された戸口の基礎台帳。宗門人別帳・宗旨人別帳・宗門改帳などともいう。元来は別々に行われていたキリシタン禁圧のための宗門改と,領主による夫役負担能力把握を目的とする人別改とが,寛文期(1666年―1673年)以降,複合化し制度化された。幕府領の場合には家ごとに戸主・家族成員・奉公人・下人などの名・年齢,各人ごとの檀那寺を記し,キリシタンでないことを証明する檀那寺の印が押され,戸主には身分持高・牛馬数なども併記されるのが一般的であるが,藩により形式は様々であった。1872年に壬申戸籍が作成されるまで,現在の戸籍台帳の役割を果した。(マイペディア)

● 寺請制度【てらうけせいど】=江戸時代,個人が寺の檀家でありキリシタンや禁制宗派である不受不施派などの信徒でないことを,檀那寺に証明させた制度。農民の住居移転,奉公,結婚,旅行などの際には,この制度によって檀那寺から発行される寺請証文を必要とした。寺院は,幕府の庶民支配機構の末端の役割を果たした。(世界大百科事典第2版)

● 檀家制度(だんかせいど)=江戸時代寺請制度確立とともに強化された宗教制度
一家が必ず一定寺院檀家となり,これに布施して寺院の財政を助ける制度。中世以来,寺院と民間との接触が強まってから成立し,江戸時代,キリシタン禁圧の手段として寺請制度が成立すると,全国的に制度化された。この制度により江戸時代の仏教は事実上国教化した。(旺文社日本史辞典三訂版)

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 ここまで書いて来て、もうこの先はいいだろうというふうに思えてきました。どうしていま、この時代に「宗門人別改帳」が復活するんですか。この時、現在の「旦那寺」はどこのどいつだということになります。「旦那寺と檀家」、なんとも忌まわしい結びつきが思い出されますね。国民皆保険ならぬ、国民皆宗教派でしたが、それをいま復活させようというのです。旦那寺とは、この島のいくつかの総本山の下に蝟集してきた各地の末寺でしたが、今日の総本山は「大蔵省(現財務省)」か「厚生省(現厚生労働省)」か。この二つの役所にも、あまり明らかにしたくない歴史が営々と築かれてきました。何時も犠牲にされるのは「庶民」「民草」でしたね。あまりの苛斂誅求に、民草は「一揆」で権力に反旗を翻しましたが、さて今はどうなんでしょうか。反権力というのは、じつは「半権力」だったり「汎権力」だったり。

 江戸の「人別改帳」のお目当ては、一面では「キリシタン禁制」でした。キリスト教には仏教各派は闘士を燃やしたんでしょうね。現代の「禁制」はなんでしょう。いろいろとありそうですが「キリシタン禁制」ではなく「脱税撲滅」なんじゃないですか。この島の税制はでたらめもいいところ、その昔、「クロヨン(9:6:4)」と「トーゴーサンピン(10:5:3:1)」という語呂合わせのような隠語(かな)がありました。今でもあるんのかしらね。(左上は「踏み絵」の図、役人たちが「足元」を凝視しているでしょ、「足元を見る」の始まりです)

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● クロヨン(くろよん)=自営業や農業などの従事者に比べ、サラリーマン世帯の重税感を表すことば。昭和40年代なかばから使われ始めた。所得から必要経費などを差し引いた課税対象所得のうち、税務当局による所得捉(ほそく)の業種格差についての不公平感を表現した数字とされる。「クロヨン」は給与所得者、自営業者、農業世帯の課税所得捕捉率が、おおむね9割対6割対4割になることを意味する。/ サラリーマンなどの給与所得者は原則として源泉徴収されているうえ、所得控除などもガラス張りで、課税所得の捕捉率は約9割に達するとされる。これに対し、自営業などの事業所得者は家屋、車両、交際費など、事業と私生活の区別がつきにくく、私的支出が必要経費に算入されやすいため捕捉率は6割にとどまるとされる。また、農林漁業従事者の捕捉率は約4割に低下するとみられている。さらに、サラリーマン世帯の重税感はクロヨンより重いとして生まれたのが「トーゴーサン」(10対5対3)という表現である。政治資金がほとんど課税対象とならない政治家を加え、「トーゴーサンピン」(10対5対3対1)という表現もある。ただ税務当局は捕捉率を公表しておらず、クロヨンやトーゴーサンはあくまで国民の経験や実感に基づく概数値である。クロヨンに象徴される課税不公平感の解消が、1989年(平成1)4月に消費税(間接税)が導入された理由の一つとされた。(ニッポニカ)

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 ぼくは、もちろん「カネモチ」でもなければ、「カネの亡者で」もない。でも政治的不公平や不公正にははらわたが煮えくり返りま。たしかに、すくなくとも「税制」に関して、誰もが納得する制度はできないことはわかっているけれど、取れるところからさらに取ろう、あいつらは税金逃れ、脱税をしているのではないかと人民に疑いをかける、それが権力者なんだ。その結果。もっと税を取れるはずだから、それを取りやすい制度に改めようではないかと、「国民の代表」が導入を決めたのが「マイナンバーカード」だという次第。お分かりでしょ。二兆円やそこらを浪費したところで、後々もっと、何倍にもなって入ってくるんだから、これを逃す手はないさ、とコロナ禍を悪用している、さらに「罠を仕掛けて」まで仕留めようというのです。それが権力亡者であり金権亡者ではないですか。どうぞ申請したけりゃ、どんどんすりゃいいさ。

 いずれ「踏み絵」なるものが必ずやってきます。ぼくには連中(権力亡者)の「お里が知れている」のですよ。この制度の導入に積極的に加担しているのが「宗教政党」です。この宗教の開祖は日蓮さん。江戸時代の「宗門人別改帳」や「寺請制度」の際、この宗派の一派「不受不施派」は幕府の弾圧によって厳しく取り締まられた。キリシタンと同様に「禁制」を受けたのです。令和版の「キリシタン禁制」に大いに力を注いでいるのが日蓮宗の一教団ですから、変われば変わるものですね。もとを糺せば、いっしょじゃないかと言いたくなるのもむべなるかな。

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● 不受不施派【ふじゅふせは】=日蓮宗の一派。派名は《法華経》を信じない人からは布施を受けず,法を施さないとする教義に由来。1595年豊臣秀吉の千僧(せんそう)供養の際,日奥(にちおう)〔1564-1630〕が不受不施を唱えて参加しなかったことに起源。以後,日蓮宗は日重の摂受派と不受不施派に分かれて,正統性を争った。1665年その排他性のゆえに幕府の禁圧を受け,キリシタン同様地下生活に入った。1682年には清濁論争が起こり,日指派と津寺(つでら)派に分裂,日指派はさらに奥方,里方に分裂した。江戸時代を通じて数次の弾圧を受け,明治維新後1876年日正は岡山県金川(かながわ)妙覚寺本山に日指派を,1882年日心は津寺派を再興した。(マイペディア)

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 ここまでにします。税金を取るのが権力者の役目。それに協力するのが、可愛い「民草」というわけですか。騙されているのにさ。可愛いな、と頭をなでられ、「尻毛を抜かれている」間に、奈落の底に落とされるのよ。未曽有の災厄を、まさしく「千載一遇」と悪用するのが「本物の悪代官」です、これもまた歴史が証明しています。

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