きみのため用意されたる滑走路

 【筆洗】真夜中、台所に忍び込み、師匠のお酒を飲んでいるところをおかみさんに見つかり、こっぴどく叱られる。別の日には、泥酔して師匠の家の玄関を汚し、あまつさえ、ふんどしを師匠の机の上に置き忘れる−▼この人の芸歴はしくじりの連続である。落語家の川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)さんが亡くなった。九十歳。あの高座が二度と聞けないとは寄席ファンには寂しかろう▼「客にウケなければ意味がない」。ソンブレロをかぶり、ギターを抱えた川柳さんの芸に対し、古典一筋の師匠、円生さんはいい顔をしていなかったと聞く。弟子の昇進は師匠にも喜びだろうに円生さんは川柳さんの芸を否定し、「真打ちにできない」と昇進に反対したこともあった。一九七四年、真打ち昇進を果たしたときも円生さんは披露興行にさえ出演していない▼しくじりの数々や師匠との折り合いの悪さが師匠とはまったく異なる芸をこしらえたのか。師匠に遠ざけられながらも明るく陽気なその高座はわれわれを笑わせるばかりではなく、人生「なんとかなるよ」と安心させるようなところもあった▼代表作「歌でつづる太平洋戦史」(通称・ガーコン)では戦中から戦後の流行歌の変遷を聞かせていた。ご機嫌良く歌う川柳さんを見ていると、こっちまで楽しい気分になれた。不思議な芸だった▼今ごろは円生さんと顔を合わせているかも。ほめてくれたらと願う。(東京新聞・2021/11/24)

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 川柳川柳さん、90歳で死去 「ガーコン」で人気の新作派 故人の遺志で 献体

スポーツ報知

 落語家・川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう、本名・加藤利男=かとう・としを)さんが肺炎のため、17日午前0時48分に都内の病院で90歳で亡くなったことが19日、明らかになった。  故人の生前の意志により、献体され、お別れの会などは予定されていない。  埼玉・秩父出身の川柳さんは、1955年に昭和の名人とうたわれた6代目・三遊亭円生に入門し三遊亭さん生を名乗る。2009年に亡くなった5代目・三遊亭円楽さんに次ぐ2番弟子だった。58年に二ツ目に昇進してからは、ソンブレロをかぶりギターを手に、ラテン音楽「ラ・マラゲーニャ」を高座で披露して人気を博した。74年に真打ちに昇進。師匠・円生が落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立する、いわゆる“落語協会分裂騒動”では、落語協会にとどまり、5代目・柳家小さん門下で「川柳川柳」と改名した。 新作派として活躍、軍歌や昭和歌謡などを歌う「ガーコン」や「ジャズ息子」などおなじみの自作の落語で人気を呼んだ。陽気な高座の一方で、若い頃から酒での失敗も多く、破天荒な芸人人生を歩んだ。 数年前から介護施設に入居し、高座からは遠ざかっていた。(報知新聞社・2021/11/20)

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 直接のつながりはまったくない「二人の死」の報道に接して、いろいろなことが想われてきました。川柳さんの落語は聞いたことがない。円生氏の弟子で、ずいぶんと変わった弟子がいるという噂は何度か聞いた、その程度です。したがって、彼の死について、何かを言う材料が皆無なんです。ただ、円生という落語家の「気風」についてはそれなりに知っていると、ぼくは勝手に考えていますから、型破り、破天荒を地で行くような落語家を生かすのには、その師匠の下では、なかなか目が出るのは大変であったろうという推測をするばかりです。世に師弟関係といいますが、芸事の世界では、ことのほかうるさいことだったと、なけなしの知識を持ってしても想像されます。型通りの世界ですから、型から入って、型に極まるのが当然。理屈抜き。それがいやなら「出ていきな」と言われるのがオチでした。

 川柳さんの履歴を一瞥して、何があろうと「自分流」の噺家になるんだという決意を持つように追い込まれていったとしか、ぼくには考えられないのです。彼の落語家人生の生き方にどんな影響があったか、川柳さんは「尋常高等小学校卒業」でした。奇妙な言い方ですが、師匠や兄弟子などが寄ってたかって、彼を「ガーコン落語」に導いたと言えます。出発点は、きわめてまっとうな、つまり落語の伝統に則った道を歩いていました。それが途中から、歯車が狂い出した。兄弟弟子であった(先代)円楽さんを見ていて、それが好くわかりそうに思われるのです。もちろん、師匠との関係にも破綻を来すだけの事情があったのでしょう。円生さんは「超優等生」の落語家(ではなかったが)という型にはまり切っていました。四角四面というか五月蠅いところが大いにあったように言われています。また「当代随一」自信家でもあったでしょう。そのような噺家であったかどうか、決してそうではなかったと、ぼくは彼の落語を聴いて理解はしますが、詳しいことはわかりません。「肝胆相照らす」とは、まったくいくはずもなかった。

 いろんな事情が重なって、川柳さんは「破門」という事態に陥る。ぼくが感心するのは、、落語家界からの「いじめ」に遭いながら、それに反発するように、一層羽目を外す(と世間の目には映った)方向に、ほとばしる水流の如くに流れて行った。それが「ウケた」から、なおさら批判が強まったとも言えます。それでもなお、彼は節を曲げないで、「新作」に突き進んだのでした。少し傾向がちがうでしょうが、ぼくは柳家金五郎さんのことを想い出しました。彼は途中からは落語を止めて、タレントになり、ある意味では時代の寵児(寵男)になった。伝統的・正統派落語の世界からは大いに逸れていったのでした。落語は「こうでなければならない」というものがあるという噺家と、そんなものは構わないんだという噺家がいても一向に問題はなさそうですが、幸か不幸か、狭い世界、狭すぎる世界でしたから、目に立ちすぎたんでしょうね。たいして事情も知らないで勝手なことをほざいています。変な傾向ですが、ぼくは「新作」はいけない派です。どんな話(噺)も、始めは「新作」だったんですけれど。

 川柳川柳さんの死に際して、「好きこそものの上手なれ」という俚諺がひとりでに浮かんできました。好きだからこそ、我慢が出来たともいうのでしょうか。「上手下手」は、誰が決めるのか、権威筋でもなければ、お役人でもない、お客さんです。だから、彼はつづけられたのでしょう。人に使われる人ではなく、自分で工夫して物事を進める人間であったからこその、広く受け入れられたからこその「大往生」だったのかも知れない。川柳さんの破天荒ぶりに、あの談志さんも手に負えないで投げ出したというのですから、さぞかし、えげつなかったのでしょう。(ひょっとして、それは「アル中」が原因だったのか、あるいは…と余計なことを考えてしまいそうです。

 まったくの余談になります。「今ごろは円生さんと顔を合わせているかも。ほめてくれたらと願う」というコラム氏。なんという単純な発想だろうか。仮に「あの世で逢瀬?」となったとしても、「相容れない」のが当たり前じゃないでしょうか。互いの強情を「褒め合う」ことはあるかもしれないが、師匠が川柳を「ヨイショ」するはずなんか、あるものかと、ぼくなら言うね。

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 【日報抄】〈今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ〉。非正規の歌人と呼ばれた萩原慎一郎さんの短歌に引き込まれるのは、非正規雇用やいじめを経験し、理想と現実のはざまで悩む若者の等身大の姿や心象風景を映し出しているからだろうか▼〈ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる〉。こうした歌を収め、2017年に刊行された初の歌集「滑走路」は遺作でもある。同じ年に命を絶ったからだ。都内の中高一貫校に進学するも、いじめに遭い、卒業後も精神的不調は続いたという。まだ32歳だった▼先ごろ発表された自殺対策白書で、20年は働く女性らの自殺が増えていた。背景に、新型ウイルス禍で打撃を受けた飲食店や観光業に従事する人に女性が多いことも考えられるという。2千万人を超える非正規労働者のうち、約7割が女性だ▼例年以上に働く環境が厳しさを増す中で迎えた勤労感謝の日である。日ごろ出会う働く人に「ありがとう」の気持ちを伝えられているか。職場の仲間には気を配れているか。そんな気持ちが湧き上がる▼萩原さんの歌集には、伸びやかな想像力にはっとさせられる作品もある。〈きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい〉。同時代を生きる、働く者へのエールか▼決意を示す一首もあった。〈抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ〉。鳥になって滑走路から羽ばたき、若者らの心の叫びをもっと代弁してほしかった。(新潟日報モア・2021/11/23)

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 萩原信一郎さんについて知るところはきわめて微小です。自死の報道と、死の直後に刊行された一冊の歌集「滑走路」、それだけです。中高時代に執拗な「いじめ」に遭ったとされています。これはいかにも異常であり、彼の死への導きとなったともいえるでしょう。短歌に向かい合うための精進や、それに対する世の評価をもってしても、彼を引き留めることが出来なかったのは、どうしてだろうか。「いじめ」も「非正規」も時代が作り出した「災厄」だと言いたくなります。それに向かうには、あまりにも人間は繊細であり、過敏です。時代が、社会が、というだけでは何を言ったことにもならないのは確かです。それでは、どうするか。ぼくに応えというか、いや手がかりすら持ち合わせていない。非正規を呪い、いじめを呪う、それはよくないとは言わないけれど、他になにかできることがあるかと聞かれれば、自分は「非正規を逃れた」「いじめに遭いたくない」と予防線を張るだけかもしれません。 短歌」が救いにはならなかったという事実を、校正はどう見るのか、ここに愕然とするような事態が進行していると、ぼくは慄然としています。

 〈抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ〉と彼は歌った。鳥になって、抑圧からは解放されたか。人生の苦しみ(それは他者からもたらされたものだったか)からは、確かに解放されたと思ったでしょう。しかし、逆に、辛いまま、閉ざされたまま、飛べない鳥になって死地に赴いただけだったというのが、ぼくにはあまりにも苦しいのです。もちろん、萩原さんは川柳さんとは違う。だからソンブレロを被って飛翔することはできなかった。人間に滑走路はあるのだろうか。それがあったらどんなに嬉しいことだったか、と萩原さんは、心底から詠むのです。ぼくは少し離れたところにじっとしていましたから、「萩原慎一郎現象」というようなブリザードには遭遇しないままでした。以来、五年近くが経過して、彼の死と、残された「滑走路」に送られた世評の高まりに、一種の恐怖心を抱いているところです。

 彼が残した歌、それは慎一郎さんが黙々と、あるいは切々と綴りつづけた「遺書」だったとしか、ぼくには思われなかった。自分自身への「遺書」だったのではなかったか。時として、このような理不尽な事態が生じては消えるんですね。(下の画像はNHKニュースから) 

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 年輪を加えるのは病気じゃないよ、生死一如さ

 【筆洗】一生のうちに何回ぐらい、試験を受けるものだろう。入試、就職試験、いやでもたくさんの試験という門をくぐる▼人生の最晩年にも「試験」を受ける。人によってはこの試験の問題を解くのはなかなか容易ではない▼今は何年の何月何日ですか。百から七を順番に引いてください。知っている野菜の名前を挙げてください−。答えられず、もどかしそうな本人。それを見てうろたえる家族。こんなに切ない試験はないが、これによって認知症の早期発見が容易になる▼認知症にかかわった方なら、ご存じだろう。「長谷川式簡易知能評価スケール」。一九七四年、この検査法を開発するなど認知症医療に長く貢献した医師の長谷川和夫さんが亡くなった。九十二歳▼長谷川式の開発のみならず、患者の尊厳を重んじたケアの大切さを訴え、侮蔑的な痴呆(ちほう)症という呼称を認知症に改めることにも取り組んだ。認知症は年を重ねれば誰でもかかりやすい症状で決して恥ではない。認知症に対する社会の見方を変えた方である▼ご自身も認知症にかかっていたことを公表し、その経験を書き残している。認知症になっても終わりではない。人前に出るときは少しウソをつくような感じで大丈夫なように振るまうと案外大丈夫なこともある。認知症になってみなければ分からぬ話だろう。最後の最後まで認知症に取り組んだ人生に頭が下がる。(東京新聞・2021/11/21)

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 「認知症」に罹っているかどうか、それを判定するための一つのテストが「長谷川式簡易知能評価スケール」と言われるものです。この「基準」テストを開発した長谷川さん人が「認知症か、そうでないか」断定することはできないとされています。区別が曖昧であることがしばしばだからです。当然であろうとぼくにも思われます。そもそも「認知症」が何であるか、その発症のメカニズム、あるいはどうして発症するのか、今でも十分に解明されていないのですから、この「病気」(と言っていいかどうか、ぼくにはわからないというほかありません)に対して、誤解や偏見だけが独り歩きしているような状況にあるのではないでしょうか。「脳・神経細胞の萎縮(いしゅく)や脱落」は、老齢化と無関係なのか、個人差があるということなのか。誰にも年齢と共に不可避になってくる「状態」というものがあります。

 長谷川和夫さんが亡くなられたというので、いくつもの報道がなされていました。そのどれもが似たような、あるいは同じ類の紋切り型であったのは、どうしたことだったか。あるいは、いまのマスコミの世界に属する人々の、この問題にかかわる関心や究明への姿勢のレベルでは致し方ないと言うべきなのかもしれない。

 もう何年も前になりますが、一冊の本を読んで、この「病気」に大いに関心を持つようになった。それ以降、ぼくはあまり勉強していないので、この方面の類書や新研究がたくさん出ているのだろうと思います。書名は「アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡」(コンラート&ウルリケ・マウラー著。1998年、原著公刊。日本語翻訳は2004年・新井公人監訳・保健同人社刊)(右上は読売新聞。2018/09/12)

 先日、この問題に触れたばかりでした。ふたたび取り上げたのは、コラム「筆洗」のせいだというのではなく、著書「アルツハイマー」のことを語りたかったからでした。この「病気」に関しては、いよいよ社会的関心が高まるにつれて、この「病気」の発見者であるアルツハイマーにはほとんど触れられていないのが、ぼくには奇妙に感じられて仕方がなかった。アロイス・アルツハイマーが活躍した時代は、フロイトやユングなどの華々しい時代でもあり、「精神(分裂)病」(今日では統合失調症)「精神分析」がさかんに論議されている時期に重なっていました。というより、精神病的な問題関心(フロイトなどは「精神分析」と言っていた)が圧倒的に優勢で、「痴呆症」(当時の欧州の医学研究者の世界でもそう呼ばれて、なかば軽侮の念を込めて用いられていた。それは罹患した人そのものを軽視する風潮につながっていた)なんか、という雰囲気だった。そんな中で「敬虔なカトリック教徒の両親のもとで育ったアルツハイマーは、ひたむきな医者であり学者でもありました。昼間は忍耐強くそして親切に患者に接し、夜は深夜まで顕微鏡に向かって、自ら作成した脳標本の研究をしました。同時代の人々は、アルツハイマーのことを『顕微鏡をかかえた精神科医』と呼びました。なぜなら、アルツハイマーは『精神病は脳の病気である』と確信していたからです」(同書「序文」)

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● アルツハイマー(Alois Alzheimer)=[1864〜1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによってアルツハイマー病と命名された。(デジタル大辞泉)

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 長く埋もれたような状態にあった「アルツハイマー病 第一症例(アウグステ・D)」のカルテ(それはアルツハイマーによって書かれていた)が、このマウラーによって、1995年に大学病院の地下書庫から発見された。それ以降、ようやくにして「アルツハイマー病」が認知されるようになったと言ってもいいでしょう。この著書の巻末に、二例の「アルツハイマー病」に罹患した著名人が出てきます。一人は往年の女優・ダンサーであったリタ・ヘイワーズ(1987年5月に死去)、もう一人はアメリカ大統領であったロナルド・レーガン(2004年6月死去)。さらに、イギリス元首相マーガレット・サッチャー(2013年4月死去)を、ここに加えてもいいでしょうか。この三人は、自分が何者であり、どんな仕事をしていたか、すっかり記憶を失っていたとされます。「認知症」というより、むしろ「アルツハイマー病」が広く知られる機会となったのでした。

 病気が確定した後に、レーガン元大統領は書簡をしたため、アメリカ国民に「サヨナラ」を告げた。「先日、ある人から私はアルツハイマー病にかかっている数百万のアメリカ人のうちの一人である、と告げられた。ナンシー(註、妻の名前)と私は、私人としてこの事実を公表すべきか、決心しなければならなかった。そして私たちは、世間に公表することが非常に重要だと感じた」(同書)その時、彼は八十四歳であった。リタ・ヘイワーズはどうだったか。彼女はある時、隣人だった俳優のグレン・フォードに「酔っぱらってジンの空き瓶を投げ付けるという、寂しいアルコール中毒者のゾッとするような光景を見せつけた。荒れてビバリー・ヒルズの通りをさまよい、どこにいるか分からなくなってから、彼女は住所が書いてあるメモをバックに入れて持ち歩くようになった」(同書)

 有名人だからどうこういうのではありません。また、年を取ると、誰でもこの「病気」にかかるものでもないでしょう。それはどの病気でも同じことです。ただある病気には似たような傾向があるだけです。いまだに解明されていない病因、何時罹患するかかわからない怖さ、そんなものがないまぜになって、いろいろな中傷や非難が、この「病気」そのものに投げかけられてきました。ひいては、その罹患者にも、です。先日の駄文にも書きましたが、ぼくは、近いところ(親戚・縁者・友人・知人)で多くの罹患された方々を見てきました。素人だから、無責任の謗(そし)りを受けそうですが、アル中や薬物依存なのか、それともアルツハイマー病なのか、どうしてわかるのか。リタ・ヘイワーズ(左写真)はずっと(アル中)と誤解されていました。うつ病や統合失調症であって、アルツハイマー病ではないと断定もできません。脳の断層写真等で見れば明らかになるとされますが、それでもわからないことはいくらでもあるでしょう。

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 「アウグステ・D 婦人 ー 鉄道書記官カール・D 氏夫人、住所メールフェルダー・ラント通り ー はかなり長期にわたり記憶力減退、被害妄想、不眠、不安感に悩まされております。患者はいかなる肉体的精神的労働にも対応できないものと思われます。彼女の状態(慢性脳麻痺)は当地の精神病院でも加療を必要とします。 医師 レオポルト・L フランクフルト 一九〇一年一一月二一日」

 この「患者の病歴紹介」は、精神科医のアルツハイマーが、(最初の症例となった)夫人のかかっていた開業医が書いた(アルツハイマーが勤務していた病院への)入院紹介状に記載されていた事項です。ここから、アルツハイマーは彼女との交流を始め、それが「アルツハイマー病」への長い道を歩くきっかけになったのでした。今日の「認知症」が認められた時から、まだ一世紀です。その過半は無知や無関心で、この「病気」は十分な研究や診察の対象にはなってこなかった。ひるがえって今日、果して、旧来の無関心は払拭され、「罹患者」派尊敬されつつ、正当な医療行為を受けられるようになっているか。ぼくは貧弱な経験ではありますが、まだまだ無理解や誤解が幅を利かせているというほかないように思うのです。「物忘れ外来」などという診療科目は、最近になって「認知」されてきたばかりです。

 「認知症になっても終わりではない。人前に出るときは少しウソをつくような感じで大丈夫なように振るまうと案外大丈夫なこともある。認知症になってみなければ分からぬ話だろう。最後の最後まで認知症に取り組んだ人生に頭が下がる」(「筆洗」氏)ここは、よく理解できません。「ウソをつくような感じで大丈夫なように振るまう」というのは、どういうことですか。これはご自身の経験談なんですか。「認知症」の受け取りの程度がここにも表れていませんでしょうか。「ウソをつくような感じ」というのは、ぼくにはわからないし、わかりたくないね。ウソではないけど、ウソ臭い振舞いというのなら、この「病気に罹患している」人にはできないんじゃないですか。ウソをつけるくらいの厚かましさを言うのなら、それは政治家に任せておきたい。ウソのようなウソの話の持ち主は国会議員に蔓延しています。「カネをもらって」いても、貰っていないという。「やっただろう」と証拠を突き付けられても、「秘書が」とか何とか誤魔化して逃げ切りを図る。「ウソをつくような感じで大丈夫なように振るまう」と大丈夫だったというのが、ソーリ大臣を筆頭にした政治家の常ですからね。(左上図は毎日新聞「医療プレミア」・2020/09/14)

 今では、まるで「年を取ることが病気」のように見なされる、じつに老人排除の時代に突入しています。「老人狩」などという蛮行もある。高齢者⇒後期高齢者⇒超高齢者⇒「優先席指定老齢者」。えっ、「優先席」というのは「隔離席」だったということか。年齢に優劣も上下もないということを、世人は考えないのでしょうか。何かと、老人包囲網が敷かれているような気がします。かなわないね、と言いたいけれど、これもまた娑婆に生きる宿命でもあるのでしょう。ぼくは僻(ひが)んでいるのではありません。誰もが同じように、きっと年をとるという事実を、当たり前に受け入れているのです。 

 何十年も前には「あなたはガンです」と「(医者から)宣告」されただけで、世をはかなむ人もいたほどです実際、ぼくは何人も当事者を知っています。事実「ガンに罹った」たら「一巻の終わり」と「宣告」していたのが、当の医者でしたからね。「薬石効なく」「匙を投げ捨てる」っていうんだから、始末に悪いですよ。。お医者さんは、寿命を刻む権限まで持っているというのかしら。長谷川さんは、「認知症になって、ようやく認知症のことがわかってきた」という意味のことを述べられています。まず経験、それから診断であり、治療ということでしょうか。これは、どんな仕事に関しても妥当するんじゃないですか。

 時代が変われば、変わるもの。「老人になるって、それは病気ではない」「老人になるのは、ただ老人になる」ということ。幼い、若い、青い、枯れるなどと言われるように、老いもまた、一つの名辞でしかないのです。物忘れも、勘違いも、計算(勘定)が出来ないのも、人名や地名が出てこないのも、「かみさんは気が強い女性」だったことを失念っしてしまうのも、「自分の名前が何だったか」、それもまた、けっして「なんとか病気」「なになに症」などではありません。いずれにしても「認知症」の「症」は状態であり、様子ですから、なくなる(症状が消える)こともあるわけで、いつでもどこでもそう(「認知症」)であるのではない。にもかかわらず、「記憶力が悪い(学校のテストができない)」と「劣等生じゃ」などとレッテルを貼りたがる、そんな場所が劣島に密集している、林立している、混在している。競争している。どうして、なんで、にもかかわらず、学校に行かせるんですか? 学校に行くんですか? 誰だって、年をとっていくんだがなあ。「物覚えが悪い」というのは「覚えることに慎重」なんだがなあ。つまり、用心深いんだよ。

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 時は移れど政治は変わらず、民はなにをする?

 <あのころ>メルボルン五輪が開会    日の丸を先頭に入場

1956(昭和31)年11月22日、第16回メルボルン五輪が開会式を迎えた。南半球で初めてのオリンピックで、開催国オーストラリアの夏に合わせて開催。日本は金メダル4個を含む19個のメダルを獲得した。写真は、開会式で日の丸を先頭に入場する日本選手団。(共同通信・2021/11/22 08:00 (JST)11/22 08:17 (JST)updated)

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 メルボルン五輪のことはよく覚えています。小学校の六年生でした。南半球で初めての開催であり、ラジオの電波がようやく届くような時代の出来事でした。この時、マレーローズ選手(豪州)と山中毅選手が水泳で死闘を演じたのも、ラジオを通してだったか、記憶に残っています(左写真)。二人は、アメリカでの留学先が同じ大学で、同級生だったそうです。山中さんは石川県の輪島出身で、いわば郷土の英雄だった。ぼくはそれは知らなかったが、五輪の活躍でよく知るようになった。この大会で日本はメダルを十九個獲得したという。それぞれの選手の活躍も記憶にありますし、その後の、ローマや東京まで続く選手生活を通してよりよく知ることになった。つまらない話ですが、この大会で男子体操選手が大活躍をしましたが、その選手団の総監督が近藤天(たかし)さんで、後年、ぼくは一年間だけ、近藤さんから体操の手ほどきを受けたことがありました。彼自身も選手として、ロスアンジェルス大会(昭和七年)に参加された。

 今から六十五年前の本日が、メルボルン大会の「開会式」でした。この当時のラジオは短波放送だったのか、風が吹けば遠くに流され、やがて消えてしまう、風前の灯火のようなか弱い音声で、南半球からの放送を聞いたのは、小学校の廊下だったという記憶もある。時差の加減はどうであったか、あるいはそれは録音だったかもしれない。別段、金メダルや選手の活躍に興奮したということはまったくなかった。ということは、あまり「五輪」に関心がなかったのか。運動(スポーツ)は好きだったが、あくまでも自分が楽しむためにするという、割り切った態度だったようです。だから大きな声援を送るとか、旗を振るなどということはこれまでに、一度もなかったと思う。冷静というのではなく、自分本位だったということでしょう。入場行進をするのはいいとして、どうして「国旗」が先頭なんですかね。

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 もう一つ、この1956年の出来事で記憶しているものがあります。それは、この島社会の「国際連合復帰」でした。二十三年ぶりだったとか。こちらの方は、ラジオを通してではなく、新聞だったり、授業を通じてだったと記憶しています。昭和八年十二月、松岡洋右全権代表が「満州国を否認」したリットン調査団報告書に反対し、議場から退場。議決は日本が反対、タイの棄権を除く四十二か国の賛成で決定された。「聯盟よさらば!」「我が代表堂々退場す」と、新聞も世界を相手に、戦闘モード」とは、いかにも見えていなかったんだね、世界の趨勢が。今も変わらない。

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● 国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)=1933年(昭和8)3月27日、リットン報告書の採択に反対して、日本が正式に国際連盟脱退通告したことをいう。1931年の満州事変に際し、国際連盟はリットン調査団を現地に派遣、その報告書は32年10月公表された。内容は日本に対し妥協的なものであったが、日本の軍事行動を正当と認めず、また満州国が傀儡(かいらい)国家であることを事実上認めるものであった。そのため日本側の強い反発を招き、国内でも陸軍や右翼を中心に連盟脱退論がおこり、財界の一部もこれに同調した。12月の連盟総会では日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託された。同委員会の報告書は、リットン報告書の採択と満州国不承認を盛り込んだものであり、2月24日の連盟総会は44か国中42か国の賛成(日本反対、シャム棄権)でそれを採択したので、日本全権松岡洋右(ようすけ)はこれに抗議して退場した。連盟脱退により日本は孤立の道を歩むことになった。

● まつおか‐ようすけ〔まつをかヤウすけ〕【松岡洋右】[1880〜1946]=外交官・政治家。山口の生まれ。オレゴン大学卒業。国際連盟特別総会に首席全権として出席し、脱退を宣言。満鉄総裁を経て、第二次近衛内閣の外相となり、日独伊三国同盟日ソ中立条約を締結。第二次大戦後、A級戦犯として起訴されたが病没。(デジタル大辞泉)    (この松岡氏は、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三などの縁戚者でもあります。長州ですね、時計は止まっているのか)

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 ぼくの意識の中で、「国連と五輪」が結びついたのではありませんが、こんなことをよく覚えていると感心さえするのです。時代や社会にとって「国連(交際連合)」が何であり、「五輪」がどんな役割を果たしてきたか、当時(十二歳)はまったく知らなかった、それは当然だったでしょう。そのことについて、教室で熱心に学んだ記憶は皆無ですから、なぜこれだけが忘れられなかったか、実に不思議なことでした。わけのわからないでたらめ(野心や野望という)のかぎりをつくして「世界を相手に」戦争(「満州事変」)を仕掛け、やがて、連合国から完膚なきまでに叩きのめされ、やっと息をついていたのが、この国連復帰でようやく「世界・人類の仲間」として認知されたという恰好でした。以来、幾星霜、またしても世界(その意味は、日本を除けた国々や地域をいう)にむかって、天に唾する愚行を重ねているような気がします。独り立ちはできないままで、他人頼みで「戦後」を歩いてきて、今ではすっかり「アメリカの属国」(脱亜入米)であることに居心地の良さを感じている、なんとも主体性のない、そんな意気地なしの政治(家)が罷り通っているのも不思議です。 

 アメリカが世界の「警察」だった時代はともかく、今では、国力(軍事と経済)で、中国の後塵を拝しかけている時代です。にもかかわらず、アメリカに尾を振るのが劣島の政治だという時代錯誤が戦後一貫して続いているのです。中国と交流を深める(旧交を温める)方が、よほど大事だし、この社会のためにもなることは明白であるにもかかわらず、アメリカの背中に隠れて、弓を弾く恰好だけはしているのです。「虎の威を借る鷺(詐欺)」のように見られていませんか。国防費を十兆円にまで引き上げるとか、なんとも勇ましいというか、空威張りというか。それだけの国防費でどこから「島国」を守ろうというのかしら。アメリカから?中国から?

 「外交」努力というものが、歯牙にもかけられていない政治家の能天気を、ぼくは悲しむね。バカも休み休みに言えと、詰ってみても止まらない、アクセルしかない車の運転手たちよ、君たちの運転で、どこまでも道連れは、金輪際、ご免被るという「民」もいるんだと、声を上げ続けるしかないようです。憲法も変えるという、何処をどのように変えるのですか、自衛隊も憲法も税金も、「みんな、自分たちのもの」という盗人根性は、今節は通じないと思うね。地に足を付けて(私道ではなく)「政道」という公道を歩いてほしいものです。

 「政治と五輪」と言いますが、五輪は政治そのものです。今夏の東京五輪で、それを見せつけられました。年が明けると中国で冬季五輪が予定されています。アメリカの尻馬に乗っているだけで、為す術を見出せないのが現実であることを認めたうえで、さて、ぼくたちにはどんな手が残されているのか、それをじっくりと考えたい。問題が大きくなり過ぎるようですが、地に足を付けて、自分の生活の場から、時代や社会を凝視して行くことでしょう。時には、拡大鏡をかざしたり、目薬をつけて視力を保ちながらです。

 それにしても、今のままでは金食い虫でしかない「政治主義五輪」は止めた方がいい、いや止めるべきだ。「国旗」を先頭に立てるような「戦い・闘い」の、なにが、どこが嬉しいのかしら。要するに「金権五輪」ということでしかないところまで来ているんです。また、来夏には選挙があります(参議院議員選挙)。「主権在民」といって、「民に、主たる権利が」あるというのに、「民」が存在しないなんて、民自身がみずからの存在を否定しているなんて、悪い冗談にもならないね。

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 つまり行ったり来たり、なんだ

 なったらおしまいではなく 今日は何年何月何日何曜日ですか。これから言う数字を逆に言ってみてください―。映画「明日の記憶」に、物忘れや体調不良を訴える主人公が医師からそんな質問を受けるシーンがある▲使われているのは「長谷川式スケール」と呼ばれる認知機能診断の物差しだ。高齢者向けの健康講座で見聞きした人がいるかもしれない。開発したのは、認知症医療の第一人者として知られる精神科医の長谷川和夫さん。92歳の訃報がきのう届いた▲スケールができた50年近く前、認知症の人は「何も分からなくなった人」としてひどい偏見にさらされていた。家で閉じ込められたり、精神科の病院でベッドに縛り付けられたり…▲そんな実情を目の当たりにしたからだろう。患者の尊厳を守り、その人らしさを大切にする「パーソン・センタード・ケア」の理念を広めるのに力を尽くす。「痴呆」という用語を「認知症」に変えるのにも貢献した▲4年前には自ら認知症を公表し、当事者としての思いや発見を著書につづった。認知症は「長寿の時代、誰もが向き合って生きるもの」「なったらおしまいではない」―。長谷川さんが身をもって示した数々の言葉が、未来を照らしている。(中国新聞・2021/11/21) 

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 本日は新聞記事を紹介するだけになりそうです。「認知症」に関して、ぼくは早い段階から深い関心を持ってきました。また、長谷川和夫さんについてもその研究内容や方法からは、たくさんのことを教えられた。この「長谷川式スケール」については、実際にぼく自身がそれを使ったことがありますし、最近では連れ合いが入院手術に際して、その病院の規則だとかで、受診したし、それにもぼくは付き添った。(病院での件に関しては語りたいことがありますが、いつの日かに譲ります。「物忘れ外来」で、長谷川式スケールを使った「認知機能検査」を担当したのは若い「心理療法士」だった(別の名称であったかもしれない)、あまりこの仕事に興味を持っているようにはとても思ええなかった)

 ぼくは後期高齢者で運転免許更新を経験しましたから、「認知機能検査」を受験したことがあります。これは長谷川式検査を利用していると言えます。「物忘れ」と運転技能が無関係とは言いませんが、直接関係しているとも思えない。アクセルとブレーキの踏み間違えによる悲惨な事故が多発しています。それは「記憶力の問題」が原因になっているなどとは、ぼくには考えられません。自動車の構造上の問題に起因しているのは間違いない。その証拠に、マニュアル式レバーの時代にはそのような、踏み間違え事故は起らなかったはずですから。たしかに高年齢になって事故の起こる確率は高くなることも考えられますが、今のような認知能力の衰えに結び付けるのは正しくないと言えます。(この問題はまた、どこかで触れるつもりです)

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 認知症診療の第一人者・長谷川和夫さん死去 自身の認知症を公表

写真・図版

 認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長で精神科医の長谷川和夫(はせがわ・かずお)さんが13日、老衰のため死去した。92歳だった。葬儀は親族で行った。喪主は妻瑞子さん。/ 聖マリアンナ医科大名誉教授。認知症診断のための簡易スクリーニング検査として広く使われている「長谷川式認知症スケール」を1970年代に開発。認知症診療の第一人者として、認知症への理解を広げることに力を注いだ。/ 侮蔑的な意味を含む「痴呆(ちほう)」という呼称の変更を国に働きかけ、「認知症」という新たな用語を提起した厚生労働省の検討会(2004年)にも、委員として参加した。

 17年に認知症との診断を受けた。その後、その事実を各メディアで公表した。朝日新聞のインタビューでは、「『隠すことはない』『年を取ったら誰でもなるんだな』と皆が考えるようになれば、社会の認識は変わる」と、専門医である自分が認知症になった体験を伝える意味を語っていた。/ その後も、「認知症というのは決して固定した状態ではなくて、認知症とそうでない状態は連続している。つまり行ったり来たり、なんだ」など、当事者としての言葉で、認知症についての発信を続けた。/ 認知症診断後の18年、子どもたちにケアの理念を伝えようと、認知症の祖母と孫の交流を描いた絵本「だいじょうぶだよ―ぼくのおばあちゃん―」を出版、自身の家庭で実際に起きた出来事をもとに、原作を手がけた。認知症の人が安心して暮らすために、人のきずな、つながりが大切であることを晩年まで訴えた。(朝日新聞デジタル・2021年11月19日)

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 「認知症と時間」                                編集委員 猪熊律子

2017年、認知症と公表した頃の長谷川さん

 「時間というのはね、わたくしが持っている唯一のものなんだ。時間以外のものはね、ボクは持っていないの。だから時間を人に差し上げるのは、自分の生きている貴重なものを差し上げるわけだから、大変なことなんだよ」(左写真は「2017年、認知症と公表した頃の長谷川さん」)

 認知機能検査を開発した長谷川医師が認知症に

 自ら認知症であると公表して、この10月で丸3年がたった精神科医の長谷川和夫さん(91)。3年が過ぎた感想はどうかと、先日、久しぶりに話を聞く中で印象に残ったのが冒頭の言葉だ。この言葉について語る前に、長谷川さんのことをよくご存じない方のために、簡単に紹介をしておきたい。/「今日は何年の何月何日ですか」「これから言う三つの言葉を言ってみてください。あとでまた聞きますので、よく覚えておいてください。桜、猫、電車」──。/ こんな質問を耳にしたことがある人は多いかもしれない。今や、高齢者の約6人に1人といわれる認知症。その診断の際、日本中で広く使われている認知機能検査「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発したのが長谷川さんだ。

約50年前、認知症の研究を始めた頃の長谷川さん

(左写真は約50年前、認知症の研究を始めた頃の長谷川さん)

 この検査ですごいと思ったことが二つある。/ 一つは、1974年という非常に早い時期に公表されたこと。現在、世界中で使われている検査に、アメリカで開発された「MMSE(ミニメンタルステート検査)」という長谷川式に似たものがある。それより1年前に開発・公表されていたのは画期的だ。/ もう一つは、たった9問(1991年に改訂される前でも11問)しかない質問がよく練られていること。例えば、「100から7を順番に引いてください」という質問がある。最初の「93」は比較的答えやすいかもしれない。しかし、そこからまた7を引く際には、「93」という数字を覚えておきながら7を引くという、二つの作業を同時にこなさなければならない。認知症になると、同時に複数の作業をするのが難しくなる(料理は典型)とされ、その状態をみているのがこの質問だ。/ そんなすごい実績を持ち、半世紀にわたって認知症と向き合ってきた長谷川さんが、自分も認知症となり、88歳の時に公表した。当初、自分ではアルツハイマー型認知症ではないかと思っていたが、専門病院で検査を受けたところ、 嗜銀顆粒 (しぎんかりゅう)性認知症という、高齢期になってから表れやすい、進行が緩やかなタイプとわかったという。

 認知症の人は何もわからなくなるわけではない

今年2月、91歳の誕生日を迎えた長谷川さん。妻と

 認知症と自覚・確信してからの長谷川さんは、それを隠すことはせず、「ありのまま」の姿や感じた言葉を社会に発信する行動に出た。/「認知症になったからといって、突然、人が変わるわけではない。自分の住む世界は昔も今も連続しているし、昨日まで生きてきた続きの自分がそこにいる」/「認知症になっても大丈夫。認知症になるのは決して特別なことではないし、むやみに怖がる必要はない」/「認知症の人と接する時は、その人が話すまで待ち、何を言うかを注意深く聴いてほしい。『時間がかかるから無理』と思うかもしれないが、『聴く』というのは『待つ』ということ。『待つ』というのは、その人に自分の時間を差し上げるということ」/ この最後の言葉は、冒頭の言葉とつながる。冒頭の言葉と併せ読むと、認知症の人は「時間を頂く」一方の存在ではなく、「時間を差し上げる」存在でもあるという、言われてみれば、ごく当たり前のことに気づかされる。(右上の写真・今年2月、91歳の誕生日を迎えた長谷川さん。妻と)

 認知症になると何もわからなくなり、「何を言っているのかよくわからない」「同じことばかり話す」と周囲からは思われがちだ。しかし、早期診断・発見の広がりもあり、自分の気持ちを自分の言葉で表現できる人が増えている。「本人が落ち着いて話せるような静かな環境を作れば、自分の気持ちを表現できる場合が多い」と話す認知症の専門家もいる。/ 要は、こちらに認知症の人の言葉を聴く気があるかどうか、もっと言えば、自分の時間を差し上げる気があるのかどうか ── 。問われているのは、相手ではなく、むしろこちら側。こちらの気持ちや態度ということなのかもしれない、と思う。

 認知症の人の声に耳を傾ける動き

 認知症の人の言葉に耳を傾ける動きは、自治体の間でも広がっている。2019年4月に「認知症の人とともに築く総活躍のまち条例」を施行した和歌山県御坊市は、本人たちの様々な声を聞きながら、認知症の人が希望を持って活躍できる街を目指す条例を完成させた。今年10月、「認知症とともに生きる希望条例」を施行した東京都世田谷区では、条例の検討委員会に認知症の人が複数参加。区は認知症施策の実施に当たり、「常に本人の視点に立ち、本人及びその家族の意見を聴かなければならない」と条文に盛り込んだ。/ 国レベルでも、認知症基本法案が昨年、議員立法で国会に提出された。コロナ禍の影響もあり、継続審議となっているが、本人たちの言葉が各方面で生かされるよう、その後押しとなるような法律を作ることが望まれる。

 「コロナは『時間泥棒』だ」

 最後に、「認知症と時間」に関して心に残った話を紹介したい。/ 話を聞いたのは今年4月で、発言者は認知症の妻を持つ、関西に住む70歳代の男性だ。男性には10歳年上の妻がおり、10年ほど前から認知症になったため、男性は自宅で介護を続けてきた。だが、在宅介護が限界となり、数年前、やむなく妻を介護施設に入れた。それから毎日のように面会に訪れていたが、新型コロナウイルス感染症の予防のため、2月末から会えなくなってしまったという。その時、この男性が言った言葉が忘れられない。/ 「認知症の妻が僕のことをわかる時間は残りわずか。僕たち夫婦にとっては、本当に貴重な時間なのに、それがどんどん奪われていく。コロナは『時間泥棒』だと思うんですよ」

 こちらも人生の折り返し地点をとっくに過ぎた年齢になったからだろうか。「認知症と時間」について、今年は、いろいろなことを考える時が増えている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 20201216-OYT8I50031-1.jpg

プロフィル 猪熊 律子( いのくま・りつこ ) 社会保障分野の取材が長く、2014~17年、社会保障部長。社会保障に関心を持つ若者が増えてほしいと、建設的に楽しく議論をする「社会保障の哲学カフェ」の開催を提案している。著書に「#社会保障、はじめました。」(SCICUS、2018年)、「ボクはやっと認知症のことがわかった」(共著、KADOKAWA、2019年)など。(読売新聞オンライン・2020/11/13)

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● はせがわしき‐にんちしょうスケール〔はせがはシキニンチシヤウ‐〕【長谷川式認知症スケール】=認知機能検査の一。1974年、精神科医の長谷川和夫が認知症の可能性、および症状の進行具合を簡易的に調べる問診項目として考案。1991年に質問内容や採点基準が見直され、改定長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)がつくられ、2004年に現名称に改称された。年齢・時間・場所・計算品物記憶など、九つの質問項目からなる。長谷川式スケール。(デジタル大辞泉)

●認知症(にんちしょう)(dementia)=脳の器質障害によって,いったん獲得された知能が持続的に低下・喪失した状態をいう。記銘力・記憶力・思考力・判断力・見当識の障害や,失行・失語,実行機能障害,知覚・感情・行動の異常などがみられる。原因疾患にはアルツハイマー病ピック病老年痴呆脳血管障害てんかん,慢性のアルコール依存症アルコール中毒)などがある。発症時期によって,老年期認知症(65歳以上),初老期認知症(40歳~64歳),若年期認知症(18歳~39歳)と呼ばれる。厚生労働省は2004年,従来の「痴呆」ということばには侮蔑的な意味合いがあるとして,呼称を「認知症」に改めた。(マイペディア)

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 幼少の頃は「耄碌(もうろく)」という言葉や現実があったと記憶しています。まだ学校に入る前くらいだったか、近所に老人(男性)がおり、いつでもあちこちを歩き回っていた。今でいう「徘徊」であったと思われます。何もしないでただ歩きまわる。いい気持ちがしないで、ぼくはこの老人に対して「意地悪」をしていた。入学前の子どもだったが、きっと、その人に「異状・異様」を見たのだと思う。この悪戯は今でも「しこり」となってぼくの意識の中に鮮明に残っている。今から見れば、その老人は還暦を越えていなかったかもしれない。それでもぼくには十分に年寄りだった。今でも、なぜこの老人に「意地悪」をしたのか、誰かに唆されたのではなく、幼い子どもが一人で「耄碌」(その言葉は知っていたかもしれない)していた(と思っていた)老人に小石を投げつけていたのです。なん度だったか、おそらく、一度だけだったような気がします。怖かったのか、悪さをしても向かってこないと見下していたのか。ぼくは、この「老人への悪戯」を生涯忘れないだろうと思っていたし、まさにその通りになっている。その老人は、まちがいなく「認知症」だったと思います。初めて見た、歩き回る人、何も言わないで黙々と、怖い顔をした「歩く爺さん」だった。

 早くから、この問題に深い関心を持っていたと言いましたが、実をいえば、持たざるを得なかったのです。ぼくのこころないいたずらで、老人が怪我をしたとか、老人の家の人に怒られたというのではない。それはなかった。ぼくの内心の「邪心・邪念」がぼくを追い詰め、問い詰めつづけてきたのです。だから、「耄碌」という言葉にも「老人性痴呆症」という言葉にも、異常に過敏であった。やがて、長谷川先生のご尽力もあり、「認知症」という名称(診断名)に変更された際にも、なにかと調べたのでした。「認知機能障害」というのですが、なかなかに理解は困難でした。それは今も続いています。「ものを知る働き(認知機能)」の障害ということもあるでしょうが、場合によっては「記憶障害(記憶の衰え)」とも言われます。ものを見たり聞いたり判断したりすることはあっても、それを記憶にとどめるという働きが機能しなかったり、記憶されている(保存されている)けれども、それを「呼び出す機能」が働かないということもあります。

 一言で「認知症」といっても、驚くほど多種多様なんですね。病気(疾患)の名称は一つでも、その内容には一括りにできないグラデーションというか、段階や次元があるのでしょう。どの病気にも認められることです。認知症はその典型です。ここでは詳細は略しますが、老年になれば、身体機能が衰えるのを避けられないのと同様に、心理的精神的機能の障害(故障)がいたるところで見られるようになります。ぼく自身、記憶力の衰えは止めようがないくらいに進行が早いと感じます。医学や医療にはできる範囲・程度が決まっています。それは「寿命を延ばす」ことはある程度できるかもしれないが、寿命を永遠に長引かせることはできないのと同じです。長寿になったから、表出してきた病気は無数にあるでしょう。寿命が短かった時代、そのような病気が新たに巣食う前に、いのちそのものは尽きていたのです。

 自分の足で歩く、自分の頭(脳細胞)で思考する、これがどんなに拙劣であっても、可能であればぼくたちは幸いであると考えてもいいでしょう。しかしいろいろな理由でそうはいかなくなることがありますし、だけれども、そのために人生は値打ちがなくなると早とちりする理由はなさそうです。「老いの坂」は「幼児の坂」と真逆です。下りと上り、それはまったく、見える景色も異なるし、出会う人も違う。「生き始める人」と「死に行く人」の決定的違いは何か。どこかで接点があるのか。笑われるかもしれませんが、それが、老人の「乳幼児帰り」です。今まで可能だったことが徐々に(急激に)できなくなる。それは悲惨で惨めなことか。一仕事を終えた、一休みするために、寝床に帰る人です。誰もが一度だけ通る、必然・必須の道です。

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 長谷川先生の言われる通りだと、ぼくには「わかりたい」気が強くします。「認知症になったからといって、突然、人が変わるわけではない。自分の住む世界は昔も今も連続しているし、昨日まで生きてきた続きの自分がそこにいる」「認知症になっても大丈夫。認知症になるのは決して特別なことではないし、むやみに怖がる必要はない」「認知症の人と接する時は、その人が話すまで待ち、何を言うかを注意深く聴いてほしい。『時間がかかるから無理』と思うかもしれないが、『聴く』というのは『待つ』ということ。『待つ』というのは、その人に自分の時間を差し上げるということ」

 ーー まず「衰える」ことを怖がらない、年をとるというのは、これまでできていたことがなかなかでき難くなることだと自覚するなら、なんとかかんとか、生きていけるでしょうか。ぼくと連れ合いと、どちらも「認知症」になるかもしれないし(いや、もうなっているよ、という声があります)、どちらか一方がなるかもしれない。それを今から心配しても仕方がないので、まあ、足腰を鍛えるのと同じく、記憶力や判断力も鍛える、そんな日常を送っていくことです。(いまのところ、そのためのカーブスやライザップはなさそうです。要するに、自主トレだな)

 「耄碌」と「認知症」は同じではありません。でも、ここにも通路はあります。何かが通って(行き来して)いるんだね。ここに紹介した中で、赤瀬川さんの「老人力」は、たしかにその通りだと思いました。老人度が増すというのは「老人力(例えば、物忘れ・ひがみなどなど)」の強度が高まるということで、それは決して「悲観」ばかりするものでもないでしょう。それをどのようにして、ゆとりを持って、自他ともにですよ、受け止められるか。「耄碌寸前」(と思いたいが、もう始まっていますね、ぼくは)、この先にも、深まる秋と同じように、得体のしれない変化や変容が生まれてくるのでしょう。楽しくもあり淋しくもあり。

・露の世は露の世ながらさりながら (一茶)

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 夕やけや唐紅(からくれない)の初氷(一茶)

 本日取り上げようとしている、二つの「筆洗」の記者は同じ人だろうか。二つの記事に共通して引かれている小林一茶。昨日は一茶の忌日。文政十(1827)年の霜月十九日。六十五歳の一期でした。ぼくは俳人の多くに関心を持ち、中にはとても好んでいる人もいますが、一茶は、その一人です。理由は簡単。彼はいつだって虚飾を避け、虚栄を嫌いぬいた。そこから生まれ出た句のそれぞれは「自身の肉声」だったと言えるし、そこがあまりにも、淋しさが募り、悲しすぎるように感じられて、ぼくは、芭蕉より蕪村より、一茶に近づいてしまうのです。一茶論など、ぼくには思いもよらないが、それぞれの専門家や文学者の「一茶」には一読、大いに感じ入ったと告白しておきます。その上で、やはり「直に、一茶に」というのが、一番であろうと、愚考しているのです。(コラム「筆洗」は、毎日、きっと目を通しています)

 しばしばいわれるように、小林弥太郎(幼名)は、薄幸な人とされる。しかし、もちろん一茶ほどではないにしても「苦悩」「苦汁」「不幸」「不運」の人生送らない人はいないはずです。一茶という俳人となって、後生に名を知られ、「彼も不幸な人生を送ったのだ」と言われてみると、そういうものかなあという気がするだけです。彼は、いわば富農の長男坊として生まれます。三歳で実母と死別。やがて父は再婚、弥太郎君は八歳でした。この継母は、その後に男の子を生みます。後年の俳人一茶の不幸はこの弟の誕生で、さらに辛いものとなるのでした。継母との「生さぬ仲」は、俳人の性格をより強固に頑ななものにしたはず。あるいは偏屈にしたかもしれません。十五歳で江戸に「奉公」勤めに出されたという。出郷は、一面では不幸でもあったが、他面では自らの「勉学の時期」でもあったという点では幸いだったかもしれない。

 一茶の小伝風になりそうですから、ここで中止。その仕事は他著に譲ります。その後曲折があって、彼は何と五十二歳で結婚。二十数歳年下の女性が相手でした(まるで、加藤茶さんみたい)。子どもに恵まれるが、次々に夭逝。妻にも死別。再婚し、また離婚、さらに再々婚し、今度は死別。ここまでくれば、半端ではない不幸というべきでしょう。文政十(1827)年に、死去。六十五歳でした。彼の中でもっとも有名になった句、

 これがまあついの棲か雪五尺  (弟と遺産相続問題が決着した時の記念句です)

 いつだって「自分の肉声」からの叫びや悲しみ、あるいは喜びや嬉しさを詠んだ一茶でした。その筋では「独自の境地」を詠みうる人とされたが、あるいは、ついに「俗に堕ちたまま」で、発句の道を一貫したとも言えます。それが一茶の真骨頂だったし、ぼくのような軽薄且つ弱虫が、いたずらに彼を好む理由でもあるのです。「俗」のどこが悪いのか、というほかありませんから。

HHHHHHHHHHHHHHHHHH

 世知辛い世の中をそのままにではなく「筆洗」を潜った筆で「一刷き」というものばかりを期待するのは失礼にあたるでしょう。コラムの性格からいえば、一茶といえども、「刺身のつま」でしかない。それでも偽物の模造品ではなく、本物の葉物や笹の葉のようにして、コラムの冒頭に持ちだされると、わけもなく嬉しくなるのです。「筆洗」①の(小春)もまた、一茶がよく読んだ時候でした。その一、二を。

・小座敷は半分通り小春哉  ・針事や縁の小春を追歩き  ・独居るだけの小春や窓の前

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 【筆洗】木枯らしが吹き、立冬も過ぎたのに、きょうもまた穏やかな天気になった−そんな小春日和を思わせる日々が、本州各地で続いているようだ。この先待っているのは暖冬だろうか、厳冬か。気になるころにめぐってくる一茶忌は、きょう。旧暦の一八二七年十一月十九日が、小林一茶の命日である▼恵まれない境遇の中、平明な言葉で多くの句を残した俳人は、小春日和の日々も詠んでいる。<けふもけふもけふも小春の雉子哉(きぎすかな)>。人の名前を思わせる「小春」のかれんな響きも、厳しさの前の平穏な日々を想像させようか▼この冬は穏やかなままかと思えば、そうでもないらしい。報道によると、南米ペルー沖の海面水温が低くなり、世界的な異常気象の原因と指摘されるラニーニャ現象が、発生したとみられる。スペイン語で「幼子イエス」を表すエルニーニョとは反対の現象で、「女の子」がラニーニャの意味である▼ラニーニャの冬は、わが国の気温も低くなる傾向があるという。日本海側の雪や西日本を中心とした寒さも見込まれるらしい。小春さんの後に訪れるのは冷たい「女の子」か▼ラニーニャ現象は昨冬も起きている。北陸などの大雪が記憶に新しい。燃料の値上がりも気になるこの冬である。寒さも雪も極端ではないのがよさそうだ▼<十日程(ほど)おいて一日小春哉>一茶。どんな顔をして真冬はやってくるだろうか。(東京新聞・2021/11/19)

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 【筆洗】小林一茶は晩婚ながら五人の子をもうけたが、そのうち四人を病や事故で亡くしている。遅くできた分、かわいさもひとしおだっただろう。一茶の悲しみの大きさは想像もできない▼<最(も)う一度せめて目を明け雑煮膳>。生後間もない次男石太郎が他界したのは正月十一日。妻が背負っているうち、誤って窒息死させてしまったという。食い初めのために用意した雑煮。せめてもう一度だけ目をあけて見ておくれ▼一茶の句が胸に突き刺さる。千葉県八街市で下校途中の小学生二人が亡くなった交通事故である。電柱に衝突したトラックが子どもたちの列に突っ込んだ。運転手の呼気からアルコールが検出されている▼朝、いってきますと元気よく学校へ向かった子どもが永遠に帰ってこない。もう一度目をあけてと願ってもかなわない。事故は被害者のかけがえのない生命とあったはずの未来を奪っていく。そして、残された家族には薄れることのない悲しみを置いていく。<石太郎此世(このよ)にあらば盆踊(ぼんおどり)>。季節が移ろってもその痛みは消えぬ▼事故と飲酒との因果関係はまだ分からない。なにかを避けるために、急ハンドルを切ったと説明しているそうだが、酒を飲んで運転していたことは否定できまい▼ベテランの運転手だったという。事故を起こせばそのハンドルが奪いかねないものの大きさがなぜ分からなかったか。くやしい。(東京新聞・2021年6月30日 )

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 八街市の交通事故を引き起こした運転手は「飲酒運転の常習者」だったし、それを会社の関係者はほとんどが知っていたという。子どもを失い、あるいは、我が子が怪我を負わされた親族には、かける言葉もない。彼は運転を仕事としている「プロ」でした。ぼくも運転する人間で、それを商売にはしていないが、半世紀の運転経験で学んだことは多い。まず運転で生計を立てているものは「プロ」だという自覚を徹底してもっていなければと痛感している。我が子を、このような事故や過失で失うという、最悪の不幸をなんとしよう。高齢ドライバーの運転事故も後を絶たない、どんなに厳罰を科しても、「当人」でない限りは事故は決してなくなりません。飲酒運転が常習となっていて、それを会社は知っていたとするなら、この事故は会社ぐるみというほかないでしょう。

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 起訴状によると、梅沢被告は6月28日、八街市内の職場に戻る途中で酒を買って飲み、午後3時25分ごろ、アルコールの影響で居眠り状態に陥り、八街市の市道で児童5人の列に時速約56キロで突っ込み、死傷させたとされる。 事故では、八街市朝陽ちょうよう小学校3年の谷井勇斗君=当時(8つ)=と2年の川染凱仁かいと君=同(7つ)=が死亡。女児1人が意識不明の重体となり、男児2人が重傷を負った。 公判後、被害者の家族らは弁護士を通じ「始まったばかりなので成り行きを見守っていきたい」とのコメントを出した。(中略)

 ◆同僚らの注意を受け流した末に…

 公判で検察側は、飲酒運転を懸念する同僚や取引先の関係者の証言などを基に、梅沢被告の飲酒運転の常習性を指摘した。 証拠調べで検察側は、梅沢被告が勤務していた運送会社の取引先関係者が「4、5年前から(被告に)会うと酒のにおいがしていた」と話していたことを明らかにした。この関係者は、梅沢被告とは月4回ほど顔を合わせていたといい、昨年夏ごろには「酒のにおいがするぞ。大丈夫か」と勤務先に警告していたという。(以下略)(東京新聞・2021年10月6日)

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● 小林一茶(こばやしいっさ)=[生]宝暦13(1763).5.5. 信濃柏原 []文政10(1827).11.19. 柏原 江戸時代後期俳人。通称,弥太郎,名,信之。別号,菊明,俳諧寺,蘇生坊,俳諧寺入道。農民の子。3歳で母を失い,8歳のとき迎えた継母と不和で,15歳の頃江戸へ奉公に出,いつしか俳諧をたしなみ,竹阿,素丸に師事。享和1 (1801) 年,父の没後継母子と遺産を争い,文化 10 (13) 年帰郷し,遺産を2分することで解決する。 52歳で妻帯,子をもうけたが妻子ともに死去,後妻を迎えたが離別,3度目の妻を迎えるなど,家庭的に恵まれず,文政 10 (27) 年類焼のにあい,土蔵に起臥するうち中風を発して死亡。数奇な生涯,強靭な農民的性格,率直,飄逸な性格が,作品に独特の人間臭さを与えている。編著『旅拾遺』 (1795) ,『父の終焉日記』 (1801) ,『三韓人』 (14) ,『七番日記』 (10~18) ,『おらが春』など。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 順不同に、一茶の句をいくつか。固執というのか、弧愁というのか。もう一度、繰り返します。人は誰だって「寂しさよ」、「寒さかな」とは口に出して言わないだけ、いかにも健気に生きているのです。あるいは、それを奇特といってもいいかもしれません。「弱音」を吐かないから、強い人なのではない。「弱音」が明け暮れの通奏低音となっていない人生なんかあるものか、ぼくはそう言いたいですね。生きるということのうちに、この「寒さ」や「淋しさ」が含まれているのであり、これがない人は存在しないでしょう。でも、これを感じられない「鈍感」という幸福境に生存しているものばかりが、いっしょになって「世知辛い世」を作り出しているのです。「負けるな一茶ここにあり」ですよ。

椋鳥と人に呼るゝ寒(さ)哉 ・雪の日やふるさと人のぶあしらい ・南天よ炬燵やぐらよ淋しさよ

・秋の山一つ一つに夕(ゆうべ)哉 ・極楽の道が近よる寒(さ)かな ・田の人や畳の上も寒いのに

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 悪趣味に堕するかもしれないが、ここに漱石の一句を出しておく。さすがに洒脱、垢ぬけていますね。

・つくばいに散る山茶花の氷りけり

 さらに、山頭火のものを。これを「童心」というのかしら。あるいは底が割れている、自然派なのか。

・また逢へた山茶花も咲いてゐる

 (一茶が受け入れていた「淋しさ」、「寒さ」がどのようなものだったか、ぼくにはわかるような気がするというのではない、それはだれにもわからない「彼一個の経験だった」ということを、改めて言いたいだけです)

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 差別用語を巡っては基本的人権の尊重が表現…

 作中に差別用語…高校演劇巡り広がる波紋 主催者が映像化を中止、創作者は表現抑圧と反発

 9月に福井県福井市内で開かれた福井県高校演劇祭の上演作品で、一部の表現を巡って主催者と創作者が対立する異例の事態が起きている。作中に差別用語が含まれ、演じた生徒に批判が及ぶ恐れがあるとして、主催者側は映像化や生徒への脚本集配布を取りやめる方針を示した。一方、脚本を担当した上演校の元指導者は「表現の抑圧がまかり通るようになってはいけない」と主張している。

 渦中の作品は、福井農林高校演劇部による創作劇「明日のハナコ」。ハナコら女性2人の掛け合いを通して、1948年の福井地震から現代に至るまでの県内の動きをたどる中で、原発建設や東日本大震災を経ての原発再稼働などを描いている。原発を推進する人物が、発言の中で身体障害者に対する差別用語を用いるシーンもある。昨年度まで演劇部顧問を務め、10月まで指導員として関わった玉村徹さん(60)が脚本を書いた。

 県高校演劇祭は9月18~20日、新型コロナウイルス感染防止のため無観客で開催され、12校が参加した。例年は12月に福井ケーブルテレビが上演作品をノーカットで放送しているが、同社側は「作中に福井農林高を卑下する表現や差別用語、原発問題が出てくる」として、主催者の福井県高校文化連盟演劇部会に放映について問題がないか問い合わせた。

 これを受けて同連盟演劇部会は9、10月に県内高校の演劇部顧問による会議を開き、対応を協議した。福井農林高生徒への聞き取りやスクールロイヤー(弁護士)の意見を踏まえ▽差別用語を含む作品の放送により、生徒の安全が脅かされる可能性があることをテレビ側に伝える▽上演のDVD化もしない▽例年行っている脚本集配布をしない-との方針を決めた。

 同テレビ側は、この方針を踏まえ、同校の出演シーンをカットするとしている。

 同連盟演劇部会は福井新聞の取材に対し「原発に批判的な内容については表現の自由であり問題はないが、差別用語を巡っては基本的人権の尊重が表現の自由を上回る。生徒が批判される可能性もある」と説明。演劇部の生徒は当初、映像化されないことを残念がっていたが、波紋が広がり困惑しているという。

 一方、玉村さんは「原発を巡る実際の発言を取り上げており差別意識はない」と反発している。県内の演劇関係者や日本劇作家協会のメンバーらと「『明日のハナコ』上演実行委員会」を結成。今回の決定の撤回や、演劇部員への謝罪、演劇表現の内容を理由に不利益な扱いをしないこと―などを求め、ネットで署名活動を始めた。現在6800人を超える署名が集まっている。(福井新聞・2021年11月17日)

 

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 福井の高校演劇から表現の自由を奪わないで!

――『明日のハナコ』の排除を撤回し、基本的人権の侵害を止めていただくための署名にご協力ください――

このたび、福井農林高校演劇部の上演にかかわる顧問会議の一連の動きを、重大な表現への抑圧だと考える有志が、実行委員会を立ち上げ、上演にむけて活動を始めることにしました。実行委員会の求めることは、以下の通りです。

・10月8日の顧問会議で顧問会議で行われた決定3項目を撤回すること。(ケーブルテレビでの放映の禁止/記録映像閲覧の禁止/脚本集の回収)・福井農林高校演劇部員たちへ誠実な謝罪をすること。・今後演劇表現の内容をもとにあらゆる不利益な扱いをしないこと。・表現の内容に理不尽な介入をしないこと。・人権侵害を行ったことへの真摯な反省を表明すること。

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 詳細は「実行委員会」の記述を見てください。この問題が発覚したのが十月、場所は福井でしたから、地元紙(福井新聞)がどのように報じるか、ぼくは様子を見ていました。しかし、いっかな記事になる気配がなかった。そのうちに、問題が外部にも知られるようになり、事態は思わない方向に進んだようです。高校演劇の実態ついては、詳しい情報を持っていませんが、ぼくの後輩の何人かが演劇部の顧問をやっていたり、自ら脚本を書いて上演するということもあり、また全国レベルの大会で受賞するなどの報告もしばしば受けていました。ぼくは芝居に情熱を持っているとはいいがたい人間ではありますが、この「ハナコ」事件は看過できないと、どうしたらいいか自分なりに愚考していた最中で、新聞報道があったのです。

 福井県の高校演劇祭で「原発問題」を扱った芝居を上演したところ、各方面(「忖度」連合)が、屁理屈をこねまわして、何かと邪魔立てをしてきた、それが今回の筋立てだったでしょう。上掲の福井新聞を読んでくださると理解できますが、「作中に差別用語が含まれ、演じた生徒に批判が及ぶ恐れがあるとして、主催者側は映像化や生徒への脚本集配布を取りやめる方針を示した」(主催者側)という、まことに生徒想いの心情に溢れる(というのは「真っ赤あな嘘」で、それは表面上の、あるいは建前上の理由。いわゆる「御為ごかし」というやつ)横槍を入れてきました。「作中に福井農林高を卑下する表現や差別用語、原発問題が出てくる」(福井ケーブルテレビ)としているが、問題をわざわざ逸らしているという感を否定できない。「差別用語」は高校生(出演者)が使ったのではなく、元首長が原発推進の政治アピールで用いたもの。摺り変えや、誤魔化しで、この高校生の演劇を葬ることに躍起になっている、醜悪なさまが見て取れます。誰に気兼ねし・遠慮しているのか、堂々と「それは、原電にです」といえばいいじゃないか。薄みっともない大人(本当は未熟なガキですね)のすることが、これですよ。ぼくも、とっくに「薹(とう)のたった大人」を長くやらされているけれど、こんな恥ずかしい、自己欺瞞の骨頂はできないな。

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 似たようなことはいつだって起こっている。つい先ごろ、多くの人々が開催に賛成しないという状況下で「東京五輪」が開かれた。もう遥か昔の出来事だったような気がします。レガシーは皆無で、後に残されたのは膨大な「赤字」だけ。ぼくは、きっと「(ごく一部には)感動と(多くの人民には)赤字を残す」といったものですが、実際にその通りだった。それが本当の「遺産」だ。その多くは都民や国民の税金で穴埋めされる・するそうです。(当初、七千数百億円とされた予算が、最終的にはどこまで膨れ上がるのか、いまだに明かされていません。怖くて公開できないんじゃないですか。大方の推計では三兆円をはるかに超過しているとされます)この「開催」に国民大多数の「反対の意向や批判」を封じたのが「ダラクマスコミ」でした。

 福井県内の高校演劇における県内マスコミの姿勢が、すでに腰が引けているというか、腰が坐っていない、骨がないということ、それは先刻承知のことだった。つまり「原電から助成金を頂戴している」ので、それが言動をいちじるしく鈍らせているし、いやそれ以上に、ちょうちん持ち記事しか流せないという惨状をきたしていると思います。でも、この地のマスゴミに、その自覚は、多分ないであろうと、ぼくは確信している。「忖度」という嫌な言葉が。昨年来、劣島中に知れ渡りましたが、福井でも事情は同じ。県民の生命与奪の権を握っているのが「原電」「原発会社」だからです。新聞もケーブルテレビも、回り回って(直接間接に)、「原発」会社に死命を制せられているんだ。「原電から補助金をもらっているから、それを批判することはできない」と誰かが言っているが、莫迦もここまでくれば出来上がりですね。ぼくも「原発由来の夢のエネルギー」を消費している人間です。だからといって、東電に「何か」をぶつけることは止めたことはない。もう、人民の生命を剥奪するような「政商」とグルになるのは、金輪際止めた方がいい。

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 (劇中に、こんなくだりがあります)

ハナコ 一九七〇年福井県敦賀原子力発電所一号機稼働。同年、福井県美浜原子力発電所一号機稼働。一九七二年、福井県美浜原子力発電所二号機稼働。一九七四年、福井県高浜原子力発電所一号機稼働。一九七五年、福井県高浜原子力発電所二号機稼働。一九七六年、福井県美浜原子力発電所三号機稼働。一九七九年、福井県おおい原子力発電所一号機稼働(以下略)

小夜子 こんなのもあるよ。
「まあ原子力発電所が来る。電源三法の金はもらうけど、そのほかに地域振興に対して裏金よこせ、協力金よこせ、というのがそれぞれの地域にある。お宮さんの修理のために原電、動燃、北陸電力に頼んで三億円できた。そんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、五〇億円で運動公園はできるわ。そりゃもう棚ぼた式の街作りができる。そのかわり一〇〇年たってカタワが生まれてくるやら、五〇年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階で原発をおやりになった方がよい」
ハナコ それ誰。小夜子敦賀市長。石川県の志賀町で原発建設の話が持ち上がったときに地元商工会に招かれてしゃべったらしいのね。直後にマスコミに漏れて世論の批判を浴びて次の選挙で落選したけど」(以下略)(同台本から)

HHHHHHHHHHH

 今回の農林高校演劇上演に対してイチャモンを付けた経緯はお判りだろうと思います。「差別用語が使用されているから、演劇はダメだ」という、何処をひっくり返せば、こんな屁理屈が通るのか、「差別」を、根本のところで、悪用しているのではないか。原発立地にたいする褒美として、様々な名目の「報奨金」が入ること、それを当てにして行政を進めていけるのに、このような状況下で高校生如きが「原発問題に首をつっこむ」のは風紀上、青少年健全育成上、きわめてよろしくない、(実際は、高校生にこれをしゃべらせた元顧問が張本人であるとは言わないし、そうではなく、高校生に被害が及ぶことを心配していると、猫なで声で、しかも嘘までついて囁く、なんとも気味が悪いさ)という本音を出さないで、いかにも「生徒指導上」よろしきを得て、あらかじめ「庇ってあげるのだ」ということが、「お為ごかし」だと、ぼくは言うのです。まったく正反対で「顧問」を含む大人たちをやり玉に挙げたいのは山々だし、それに唆(そそのか)された高校生も「不善・良」(言ってはいけないことを言い募っているから)ではある。しかしそれをぶち撒けたら、とんでもない方向に事態は進むから、「お為ごかし」という「見え見えの下等戦術」を演じて、「原電」からおこぼれ頂戴派は足並みをそろえたのです。薄汚いね。なんとも狡(ずる)い輩たちです。

○おため‐ごかし【御為ごかし】=〘名〙 (「ごかし」は接尾語表面は相手のためにするように見せかけて、その実は自分の利益をはかること。御為尽(おためずく)。じょうずごかし。※浄瑠璃・祇園女御九重錦(1760)二「『必油断なされな』と、お為ごかしに云ひ廻せば」(精選版日本国語大辞典)

● 御為ごかしの類語=裏切り・内応・内通・気脈を通じる・背信・背徳・背任・変心・寝返り・密告・讒言・讒訴・誣告・告げ口・垂れ込み・言い付ける・打算的・功利的・欲得ずく・算盤ずく・媚びる・へつらう・おもねる・取り入る・ごますり・阿諛・卑屈・媚び諂(へつ)らう・取り巻く・媚びを売る・胡麻をする・鼻息をうかがう・太鼓を叩く・機嫌を取る・尻尾を振る・歓心を買う・色目を使う・秋波を送る・気を引く・気を持たせる・調子を合わせる・追従(ついしょう)・おべっか・おべんちゃら・諂巧(てんこう)・諂阿(てんあ)・諂曲(てんごく)・諂笑(てんしょう)・諂媚(てんび)・諂諛(てんゆ)・阿付・迎合・へいへい・へいこら・ぺこぺこ・曲学阿世・味噌を擂(す)る・意を迎える(デジタル大辞泉)

● にほん‐げんしりょくはつでん【日本原子力発電】=原子力発電所の建設・運転および電気の供給などの事業を行う発電事業者東海発電所(平成10年(1998)運転終了)・東海第二発電所敦賀発電所を運営する。東京電力など電力会社9社と電源開発が出資して昭和32年(1957)に原子力発電専門の電力会社として設立された。原電。日本原電JAPC(Japan Atomic Power Company)。(デジタル大辞泉)

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 世界に類のない原発集中立地のこの県で、こうした表現の抑圧がまかりとおるようになれば、日本中の表現者にとって、重大な抑圧への一歩です。表現の自由は、基本的人権の最重要な一つです。生徒たちの表現への悪罵とも言える三項目の決定は、あらゆる人の基本的人権に対する敵対宣言と言えます。今これを看過したら、今後も権力者や学校当局などにとって不都合な表現は演劇部活動では抑圧・排除されることになるでしょう。

 すでにそういう動きが、他の学校の劇に対しても圧力としてなされています。これはとても危険な動きです。私たちは、歴史に汚名を残しかねないこの愚行を撤回させたいと思います。心ある市民の皆さんの署名の力で、撤回させたいと思います。ご協力お願いします。(「明日のハナコ」上映実行委員会)

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 「砂上の楼閣」という。「見かけはりっぱであるが、基礎がしっかりしていないために長く維持できない物事のたとえ。また、実現不可能なことのたとえ」(デジタル大辞泉)なぜだか、ぼくたち自身の人生も、同様に「砂上の明け暮れ」と思えてくるのですから、不思議・不可解です。どこかで「蜃気楼」に触れましたが、ここでもいたるところで「蜃気楼」現象が発生しているのではないかとさえ思えてくるのです。あるいは、蜃気楼と同じような現象である、真夏の「逃げ水」なのかも知れない。今回も、事件の現場は「学校」でした。「いい加減にしてよ、学校」「いい加減にしろよ、教師たち」と、怒りやら情けなさやらの塊を、各方面にぶっつけたいのですが、それが当方に間違いなく、跳ね返ってくるんだなあ。それは望むところ、それを避けていても仕方がないじゃん。「人権と差別」という問題を一から学びなおした方がいい「大人が五万」といるということが判明しただけでも、これが問題になった意味はあるさ。弁護士や学校「演劇」関係者のお偉いさんよ、目を開けて、居眠りしている場合じゃないですよ。

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