【筆洗】真夜中、台所に忍び込み、師匠のお酒を飲んでいるところをおかみさんに見つかり、こっぴどく叱られる。別の日には、泥酔して師匠の家の玄関を汚し、あまつさえ、ふんどしを師匠の机の上に置き忘れる−▼この人の芸歴はしくじりの連続である。落語家の川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)さんが亡くなった。九十歳。あの高座が二度と聞けないとは寄席ファンには寂しかろう▼「客にウケなければ意味がない」。ソンブレロをかぶり、ギターを抱えた川柳さんの芸に対し、古典一筋の師匠、円生さんはいい顔をしていなかったと聞く。弟子の昇進は師匠にも喜びだろうに円生さんは川柳さんの芸を否定し、「真打ちにできない」と昇進に反対したこともあった。一九七四年、真打ち昇進を果たしたときも円生さんは披露興行にさえ出演していない▼しくじりの数々や師匠との折り合いの悪さが師匠とはまったく異なる芸をこしらえたのか。師匠に遠ざけられながらも明るく陽気なその高座はわれわれを笑わせるばかりではなく、人生「なんとかなるよ」と安心させるようなところもあった▼代表作「歌でつづる太平洋戦史」(通称・ガーコン)では戦中から戦後の流行歌の変遷を聞かせていた。ご機嫌良く歌う川柳さんを見ていると、こっちまで楽しい気分になれた。不思議な芸だった▼今ごろは円生さんと顔を合わせているかも。ほめてくれたらと願う。(東京新聞・2021/11/24)
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川柳川柳さん、90歳で死去 「ガーコン」で人気の新作派 故人の遺志で 献体

落語家・川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう、本名・加藤利男=かとう・としを)さんが肺炎のため、17日午前0時48分に都内の病院で90歳で亡くなったことが19日、明らかになった。 故人の生前の意志により、献体され、お別れの会などは予定されていない。 埼玉・秩父出身の川柳さんは、1955年に昭和の名人とうたわれた6代目・三遊亭円生に入門し三遊亭さん生を名乗る。2009年に亡くなった5代目・三遊亭円楽さんに次ぐ2番弟子だった。58年に二ツ目に昇進してからは、ソンブレロをかぶりギターを手に、ラテン音楽「ラ・マラゲーニャ」を高座で披露して人気を博した。74年に真打ちに昇進。師匠・円生が落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立する、いわゆる“落語協会分裂騒動”では、落語協会にとどまり、5代目・柳家小さん門下で「川柳川柳」と改名した。 新作派として活躍、軍歌や昭和歌謡などを歌う「ガーコン」や「ジャズ息子」などおなじみの自作の落語で人気を呼んだ。陽気な高座の一方で、若い頃から酒での失敗も多く、破天荒な芸人人生を歩んだ。 数年前から介護施設に入居し、高座からは遠ざかっていた。(報知新聞社・2021/11/20)
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直接のつながりはまったくない「二人の死」の報道に接して、いろいろなことが想われてきました。川柳さんの落語は聞いたことがない。円生氏の弟子で、ずいぶんと変わった弟子がいるという噂は何度か聞いた、その程度です。したがって、彼の死について、何かを言う材料が皆無なんです。ただ、円生という落語家の「気風」についてはそれなりに知っていると、ぼくは勝手に考えていますから、型破り、破天荒を地で行くような落語家を生かすのには、その師匠の下では、なかなか目が出るのは大変であったろうという推測をするばかりです。世に師弟関係といいますが、芸事の世界では、ことのほかうるさいことだったと、なけなしの知識を持ってしても想像されます。型通りの世界ですから、型から入って、型に極まるのが当然。理屈抜き。それがいやなら「出ていきな」と言われるのがオチでした。
川柳さんの履歴を一瞥して、何があろうと「自分流」の噺家になるんだという決意を持つように追い込まれていったとしか、ぼくには考えられないのです。彼の落語家人生の生き方にどんな影響があったか、川柳さんは「尋常高等小学校卒業」でした。奇妙な言い方ですが、師匠や兄弟子などが寄ってたかって、彼を「ガーコン落語」に導いたと言えます。出発点は、きわめてまっとうな、つまり落語の伝統に則った道を歩いていました。それが途中から、歯車が狂い出した。兄弟弟子であった(先代)円楽さんを見ていて、それが好くわかりそうに思われるのです。もちろん、師匠との関係にも破綻を来すだけの事情があったのでしょう。円生さんは「超優等生」の落語家(ではなかったが)という型にはまり切っていました。四角四面というか五月蠅いところが大いにあったように言われています。また「当代随一」自信家でもあったでしょう。そのような噺家であったかどうか、決してそうではなかったと、ぼくは彼の落語を聴いて理解はしますが、詳しいことはわかりません。「肝胆相照らす」とは、まったくいくはずもなかった。

いろんな事情が重なって、川柳さんは「破門」という事態に陥る。ぼくが感心するのは、、落語家界からの「いじめ」に遭いながら、それに反発するように、一層羽目を外す(と世間の目には映った)方向に、ほとばしる水流の如くに流れて行った。それが「ウケた」から、なおさら批判が強まったとも言えます。それでもなお、彼は節を曲げないで、「新作」に突き進んだのでした。少し傾向がちがうでしょうが、ぼくは柳家金五郎さんのことを想い出しました。彼は途中からは落語を止めて、タレントになり、ある意味では時代の寵児(寵男)になった。伝統的・正統派落語の世界からは大いに逸れていったのでした。落語は「こうでなければならない」というものがあるという噺家と、そんなものは構わないんだという噺家がいても一向に問題はなさそうですが、幸か不幸か、狭い世界、狭すぎる世界でしたから、目に立ちすぎたんでしょうね。たいして事情も知らないで勝手なことをほざいています。変な傾向ですが、ぼくは「新作」はいけない派です。どんな話(噺)も、始めは「新作」だったんですけれど。
川柳川柳さんの死に際して、「好きこそものの上手なれ」という俚諺がひとりでに浮かんできました。好きだからこそ、我慢が出来たともいうのでしょうか。「上手下手」は、誰が決めるのか、権威筋でもなければ、お役人でもない、お客さんです。だから、彼はつづけられたのでしょう。人に使われる人ではなく、自分で工夫して物事を進める人間であったからこその、広く受け入れられたからこその「大往生」だったのかも知れない。川柳さんの破天荒ぶりに、あの談志さんも手に負えないで投げ出したというのですから、さぞかし、えげつなかったのでしょう。(ひょっとして、それは「アル中」が原因だったのか、あるいは…と余計なことを考えてしまいそうです。
まったくの余談になります。「今ごろは円生さんと顔を合わせているかも。ほめてくれたらと願う」というコラム氏。なんという単純な発想だろうか。仮に「あの世で逢瀬?」となったとしても、「相容れない」のが当たり前じゃないでしょうか。互いの強情を「褒め合う」ことはあるかもしれないが、師匠が川柳を「ヨイショ」するはずなんか、あるものかと、ぼくなら言うね。
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【日報抄】〈今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ〉。非正規の歌人と呼ばれた萩原慎一郎さんの短歌に引き込まれるのは、非正規雇用やいじめを経験し、理想と現実のはざまで悩む若者の等身大の姿や心象風景を映し出しているからだろうか▼〈ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる〉。こうした歌を収め、2017年に刊行された初の歌集「滑走路」は遺作でもある。同じ年に命を絶ったからだ。都内の中高一貫校に進学するも、いじめに遭い、卒業後も精神的不調は続いたという。まだ32歳だった▼先ごろ発表された自殺対策白書で、20年は働く女性らの自殺が増えていた。背景に、新型ウイルス禍で打撃を受けた飲食店や観光業に従事する人に女性が多いことも考えられるという。2千万人を超える非正規労働者のうち、約7割が女性だ▼例年以上に働く環境が厳しさを増す中で迎えた勤労感謝の日である。日ごろ出会う働く人に「ありがとう」の気持ちを伝えられているか。職場の仲間には気を配れているか。そんな気持ちが湧き上がる▼萩原さんの歌集には、伸びやかな想像力にはっとさせられる作品もある。〈きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい〉。同時代を生きる、働く者へのエールか▼決意を示す一首もあった。〈抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ〉。鳥になって滑走路から羽ばたき、若者らの心の叫びをもっと代弁してほしかった。(新潟日報モア・2021/11/23)
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萩原信一郎さんについて知るところはきわめて微小です。自死の報道と、死の直後に刊行された一冊の歌集「滑走路」、それだけです。中高時代に執拗な「いじめ」に遭ったとされています。これはいかにも異常であり、彼の死への導きとなったともいえるでしょう。短歌に向かい合うための精進や、それに対する世の評価をもってしても、彼を引き留めることが出来なかったのは、どうしてだろうか。「いじめ」も「非正規」も時代が作り出した「災厄」だと言いたくなります。それに向かうには、あまりにも人間は繊細であり、過敏です。時代が、社会が、というだけでは何を言ったことにもならないのは確かです。それでは、どうするか。ぼくに応えというか、いや手がかりすら持ち合わせていない。非正規を呪い、いじめを呪う、それはよくないとは言わないけれど、他になにかできることがあるかと聞かれれば、自分は「非正規を逃れた」「いじめに遭いたくない」と予防線を張るだけかもしれません。 短歌」が救いにはならなかったという事実を、校正はどう見るのか、ここに愕然とするような事態が進行していると、ぼくは慄然としています。

〈抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ〉と彼は歌った。鳥になって、抑圧からは解放されたか。人生の苦しみ(それは他者からもたらされたものだったか)からは、確かに解放されたと思ったでしょう。しかし、逆に、辛いまま、閉ざされたまま、飛べない鳥になって死地に赴いただけだったというのが、ぼくにはあまりにも苦しいのです。もちろん、萩原さんは川柳さんとは違う。だからソンブレロを被って飛翔することはできなかった。人間に滑走路はあるのだろうか。それがあったらどんなに嬉しいことだったか、と萩原さんは、心底から詠むのです。ぼくは少し離れたところにじっとしていましたから、「萩原慎一郎現象」というようなブリザードには遭遇しないままでした。以来、五年近くが経過して、彼の死と、残された「滑走路」に送られた世評の高まりに、一種の恐怖心を抱いているところです。
彼が残した歌、それは慎一郎さんが黙々と、あるいは切々と綴りつづけた「遺書」だったとしか、ぼくには思われなかった。自分自身への「遺書」だったのではなかったか。時として、このような理不尽な事態が生じては消えるんですね。(下の画像はNHKニュースから)

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