いつもいうことですが、毎朝、ぼくはネットで各地域新聞の「コラム」を、まず読みます。「五大紙」とか「全国紙」などと、自他ともに任じているような新聞社のモノは畏れ多くて、よほど魔が差さなければ読まない、いや目にしないのをモットーにしているのです。理由はいくつかあります。いうほどのこともありません。ぼくの友人(後輩)が、M新聞のコラムを担当されていて、それまでに書いたものをまとめて送ってくれたことがありました。彼は大阪組でしたから、ぼくは滅多に目にする機会がなかった。ある時、どこかで「余録」ではなかったが、同じ新聞社の別のコラムを読んで、これはY君の文章だと直感したし、ありありと彼の顔が浮かび上がってきたことがあります。(彼はすでに引退したと思う)彼は健在だったと思うと、嬉しくなった。書かれた「内容」が優れているとか何とかではなく、彼が、彼女が書いたのだという、そんな文章をぼくはもっと求めたいですね。無理は承知していますが、ね

今では平凡な表現のように言われますが、ぼくが好きなものに「文は人なり」というのがあります。その言わんとするところは、どうでしょうか。多く識者の理解するところは、いろいろな言い方(解釈)をしていますが、「犬は文を書かない」という程度のことしか、この表現の中から発見していないと、ぼくは思っています。「文さんは人間だ」と、まさか受け取ってはいないでしょうねえ。たしかに、犬や猫は文章を書かないが、では、「犬や猫と違って、人間は文が書けるんだ」ということで、何が言いたいんですか、その程度の識者面に、ぼくはいつも激しく、その面貌を疑っているのです。別に文句を言うのではないし、それが趣味なのだというのでもありません。でも、書かれた文章が人の目に触れると分かっているなら、もう少し物の言い方があるのではありませんか。文章のプロ、あるいは文を書くことが職業になっている人は、やはり、一読して、何かが残る文章が書けるといいですね。もちろん、これはぼくの好みですから、いろいろなとらえ方があるというべきです。
これはA新聞の記事(コラム)であった事実です。とても小さなコラム(ぼくは大好きだった「生活面(欄)」にあった)に、一人の町工場の代表社員(社長)のことが出ていました。ぼくは、その人をよく知っていましたから、そのコラムの遺漏のない取材と文章の的確さに驚いたことがありました。昔は少しはお節介の気味があったので、その記事を読んでお礼が言いたくなった。確かメールで一購読者として、このコラムを読むことが出来たのを感謝しますと、担当者宛てに送ったことがあります。期待していなかったのですが、なんとその担当者(コラムを書かれた当人)から、メールが来ました。そしてあろうことか、ぼくが何ものであるかがバレていたのでした。いったいどうしてという疑問がありましたが、それが卒業生だったということが判明した、そんな経験がありました。わざわざ購読していた時代、ぼくは一面や三面などよりも、何面というのか「生活面」「文花面」が何よりも楽しみだった。いまでもきっと、政治部が新聞社では有力部局なのでしょうが、そこに出てくる記事は、物の一時間もたてば、すっかり既知のものになってしまう、じつにつまらない楽屋話(誰々が別れた、切れたとかいう)のような記事ばかりです。それに反して、生活面は、なんともいえない親しみや近しさが感じられて、新聞の「胆」だという実感を、ぼくは育ててきました。

つまらない文章(にもならない、駄文)を書いています。言いたいことがらは一つ、「文は人なり」の奥義(というと大袈裟ですが)に叶う文章を読んでみたいし、それに出会うと、ぼくは幸せな気分になるという、ただそれだけの陳腐な願い求めているという話です。その反対だったら、ぼくは実に短気を起してしまいます。「文は人なり」というのは「その人自身がそこに現れる」ということでしょうか。若い頃に、少しばかり読んだことのあるビュフォンの言葉です。彼は「植物分類」では大きな仕事を残した人物でもあり、ぼくが何本かの拙い論文を書いたこともある、思想家のジャン・ジャック・ルッソオがしばしば言及していた人でもあった。その人自身(人柄)が文章に出るというのは、誰でも彼でもに妥当するのではないでしょう。人柄も何も出ない文章は、この世に五万とあるからです。ビュフォン流に言えば、それは文章ではないことになる。(まるで「自分のこと」を言っているようで、実に気分は穏やかではありませんね)似たような言い方で「名は体を表す」というのはどうでしょう。
さらに、いわずもがなのことを付加するなら、文を読むというのは、それを書いた人自身を知るということ、見たことも会ったこともない書き手の「人物(人となり)」がわかるということをも言っているのでしょう。ぼくは、相当の昔から、文章を読んで、嬉しくなったり、深く教えられたという思いが働くと、その書き手に「お礼」を言う奇癖がありました。もちろん、書物などではなく新聞の記事の場合です。相手を特定しやすいのも一理ですし、それ以上に、こんな文章が読めたのが嬉しいという「読者の気持ち」を伝えたいからでした。もう十年ほども前になりますか、ある時、出版社から手紙が届きました。ぼくが書いた拙著を買われた方が、ぼく宛てに「送ってください」と、出版社が言付けられたからということでした。一読して、それは、かなり前になる、ぼくの担当していた授業に参加されていた方からでした。電話番号が書いてありましたので、さっそくお礼のあいさつをした際、「あなたはG県出身でしたね」と伝えたら、彼女は驚いておられた。たくさんの学生と教室で交流しているのは事実でしたが、その中の一人を、しかも卒業後何年も経過しているのに、ということでした。

ぼくはその時、彼女に「こんな文章(レポート)を書かれたことがありましたね」(あるいは、「教室で、このような内容の話をされましたね」だったか)と言ったら、さらに驚いておられた。まったくの偶然だったとも言えますが、彼女が書かれていた文章(話の内容)は「文は人なり」だったという傍証にはなるでしょうか。こんな経験はいつでもしているというのではありません。教師の真似事をしていた時には親しくしていても、いまではまったく音信不通だという人の方がはるかに多いし、それは当然でもあります。話がそれてきましたが、「文は人なり」という、なんでもない表現を受けとめる深さが、実は他者との交わりの際に、自己の根底にあるかないか、それは文章というものが潜めている潜在力でもあると言いたいんですが、そのことが、じつは、いつでも「文と人が一体化」して受け取られるということでしょう。文は、たんなる「語の羅列」ではないのはもちろん、文章が整っているだけでは、いい文章だとは言い難いということです。しかし、誰でもが書ける文章(数式みたいな)というものもあるんですね(それは学校で、さかんに推奨されていませんか)。
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● 文は人なり=文章にはその書き手の人柄が表れる。文章を見れば、書き手の人となりがわかる。[使用例] ある人が氏の探偵小説「銀三十枚」に感心してかかる優れた作品を生むのは氏の人格のしからしめるところであろうと言ったのは私も大いに賛成である。全く「文は人なり」という言葉は氏に対して最もふさわしいものである[小酒井不木*国枝史郎氏の人物と作品|1930][解説] 一八世紀フランスの博物学者ビュフォンが、アカデミーフランセーズへ入会する際の演説「文体について」の中で述べたことばが有名になったもの。ビュフォンは、古代ギリシアの修辞学者、歴史家のディオニュシオス・ハリカルナッセウスのことばを引用したとされます。〔フランス〕Le style est l’homme lui-même.(ことわざを知る辞典)
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【有明抄】あいさつは自分の言葉で 原稿を送信すると出来はさておき、ほっとする。でも、それもつかの間、さて次は何を書こうか。無い知恵を絞り、心もとない語彙(ごい)力、表現力でマス目を埋める。その繰り返しである◆国文学者の谷沢永一さん(1929~2011年)は「考えること、それは即ち、言葉を練ることである」と書いている。古い語法にくさびを打ち込んで砕いたり、手あかにまみれた語彙を清流に浸して洗ったり。そのために、氾濫する決まり文句からできるだけ身を遠ざける隔離が必要だと説く◆実に耳の痛い指摘だが、「自分で考えているだけましか」と思わせる記事を目にした。国会議員が地元の会合に出る際のあいさつ文や講演資料などの作成。こうした作業を厚労省職員に依頼していた事例が1年間で400件以上あったという内部調査の結果である◆調査は、省内の働き方改革を進めるために結成された有志職員チームの問題提起がきっかけだった。議員の政治活動を肩代わりさせられ、職員の負担増になっているとの指摘が出ている。同様の依頼は厚労省に限らないだろう◆公務と政務の線引きが曖昧になって、官僚と秘書まで混同してはいないか。ご多忙なのは察するが、考えず、言葉を練らずでは見透かされる。自らの言葉で語れば、決まり文句のあいさつよりは気持ちが伝わるはずである。(知)(佐賀新聞Live・2021/11/30)
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ここまで書いてきて、もういいな、これ以上は、という気になりました。谷沢さんのものも結構読んだが、この文学者は人が悪い(「いけず」)というのか、辛辣でした。手加減なし、というのでしょうね。だから時には、ちょっと「言い過ぎ」じゃんというふうに思ったりしたことが何度もありました。彼の書かれたもので、ぼくがよく読んだのは、関西風の洒落やユーモアを集めた本でした。しかし、なんといっても彼は「紙つぶて」につきる(とは言わぬが)と言っても過言ではないほどの読書家であり、批評眼を有した文学者でした。
政治家のゴーストライターは官僚であるというのは、誰だって知っていたでしょうし、その程度のことも自分でできないのが「政治家」だ、ということも天下周知の明白なる事実です。前ソーリは「挨拶(おはよう、こんにちはなど)まで、官僚(あるいは秘書)に書いてもらっている」ということを、ぼくはずっと言っていました。原稿を読み飛ばして「ページが糊で…」とウソ八百をついたのまで官僚たちでした。そのうちに、挨拶まわりまでも官僚が肩代わりするようになる(もうなっている)でしょう。となると、政治家というのは、外から動かされるままの「ロボット」だということになる。

「挨拶ぐらい、自分でしろ」と、苛立ちながらゴーストライターを務めているんですから、まともな「挨拶」になる気遣いもない。洋の東西、時の古今を問わず、政治家の文章は「代書屋」が書いているというのが常識で、それまでも自分で認(したた)める政治家がいたら、大問題になる(ことはないけど)、評判にはなるでしょう。「どうして挨拶まで」という疑問が出るでしょうが、何処で話そうが、政治家の眼中には聴衆(選挙民も含めて)は入っていない。まるで「ナスかカボチャ」の山程度に見下しているから、他人に書かせた「挨拶」を読むのでしょう。書かされる方もいい加減なもので、テキトーに、という一本のスジは通っているんですね。この事態が続いていて「太平楽」でいられるのは政・管の「二人羽織」組ばかりです。ひどいことになったなあ、と嘆いてみても、その礫(つぶて)は、やがて選挙民の脳髄を直撃する(している)のです。人間は「ことば」でできていると、ぼくは露とも疑わないでこれまで、あちこちで喋ってきましたが、実は「ことばで、できていない」人もいるのだということに気付かされてもいたんですね。政治家だけではありません。ことばでできていないとなれば、何で、と聞きたくなります。まさか、「水と空気」でということではなさそうです。おそらく「地位と名誉」か、「富と権力」か、いずれそんなものが「ことば」よりも、よほど価値があるとみなしている人々が政治家に(全部とは言わない)なっているんじゃないですか。
「自らの言葉で語れば、決まり文句のあいさつよりは気持ちが伝わるはずである」とコラム氏の指摘は、何処のコラムでも変わらない。これでコラムは、「いっちょう上がり」という職人芸で、もう一歩進んで、「このボンクラ、どうして自分の言葉で語れないのか」ということは、口が裂けても、先ず言わない。何故か。いろいろと「差しさわりがある」からです。この「さわり」を熟知していないと、「新聞社の社員」にはなれないのが当今の相場です。この具体例を挙げることが、ぼくにはできますが、各方面に「差しさわりがある」ので、それは止めておきます。全国紙とか五大紙とかいう新聞紙面から、広告分を取り除いたら、何が残りますか。「広告」は新聞社の命であり、血液です。これを制せられるのが購読者より怖い新聞社さんに、どんな「紙つぶて」が飛ばせますか、そういうことです。新聞社(全部とは言いませんが)も「言論」尊重を核として成り立っているとばかりは言えないようですね。
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