
【卓上四季】画家と戦争 「出陣の前」と題した日本画。正座した兵士が刀を脇に置き、野だて用の茶道具を使い一服の茶をたてた。じっと前を見る。戦地に訪れた一瞬の静寂と緊張が伝わる不思議な絵である▼作者は小早川秋聲(しゅうせい)(1885~1974年)。きょうまで東京都内で開催されている大規模な回顧展を見た。鳥取県の寺に生まれ、国内外を旅しながら詩情豊かな作品を描き、名声を得た▼だが従軍画家として多くの戦争画を残したことが生涯に影を落とす。敗戦を迎え戦犯容疑での逮捕も覚悟したという。戦後は体調を崩したこともあり、ほそぼそと画業生活を送った▼95年、戦争画を特集した「芸術新潮」誌に作品が紹介され、再評価につながる。代表作「國之楯」は闇の中に横たわる将校の遺体を描き、顔は寄せ書きされた日章旗で覆われた衝撃的な構図だ▼44年に天覧に供するために陸軍省の依頼で制作したが、厭戦(えんせん)的と見られたのか受け取りを拒まれたと伝わる。後に改作された際、遺体に降り積もるように描かれていた桜の花びらが黒く塗りつぶされた▼英霊をたたえた鎮魂の1枚から長い時を経て戦争協力への悔恨を表す1枚へ。そんな解釈もできるが、作者の意図も軍の拒否の理由もはっきりとは分からない。名画は人の魂を揺さぶる。それ故に、戦争に利用された歴史がある。豊かな才能を持ちながら時代に翻弄(ほんろう)された画家の運命に思いをはせた。(北海道新聞電子版・2021/11/28)
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昨日迄、東京駅のギャラリーで開かれていた、その展覧会に行きたかったが、現下の状況もあり、断念しました。今でも、あまり名を知られていない日本画家(知られないことは悪いことではないと、ぼくは思います。むしろ願わしいことかも)、小早川秋聲(1885-1974)。ぼくも、それほど作品を観ているわけではありませんでしたから、是非とも、と願っていたのでした。勤め人の頃は、都心だったこともあって、しばしば展覧会に出かけたものです。「実物主義」というか「本物」でなければ夜も日も明けぬとは言いませんが、近間で見られるならと、気軽に(出勤の行き帰りに)出かけたものでした。小早川氏は「特異な画家」とされてきました。僧籍を持ち、画業に身を寄せた。戦争には兵士として、あるいは従軍画家として戦地に赴きもし、多くの作品を画いています。こんな画家は他にもたくさんいます。一々、その名を出しませんが、相当な人が出かけているのです。画家に限らず、文化・芸術・芸能一般にわたり、有名無名を問わずということでしょうが、ずいぶんと出かけています。まさしく「体制翼賛」であり、「銃後の守り」「前線の参加」、それを身をもって示したということでしょう。あるいは「強いられた」ということもあった。すべてが「戦意高揚」という偽装のためだったといっていいのかもしれません。

小早川さんは「旅する画家」と称され、国の内外に足繁く出かけた人でした。ぼくの手持ちの材料は、別冊太陽「戦争と画家」(平凡社刊)と「小早川秋聲」(求龍堂刊)の二冊ばかりです。そこにはほとんど、触れるべき事項や人物像が掲示されていると言っていいでしょう。ここでは「小早川秋聲」に軒を借ります。特異な画家と言われた、彼の画業はもちろん、その履歴にも灯りを当てて、ぼくにはとても適切な案内役になっています。彼に関して何事かを、書肆のHPから拝借します。「今、最も注目が集まる近代京都日本画家、小早川秋聲の全貌が明らかになる。/ 近年、東京都内での展覧会もあり注目度が上昇している。代表作の戦争画《國之楯》がひときわ目を引くが、その作品の多くはほとんど知られてこなかった。/ 本書は秋聲の初の大規模回顧展となる「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」の公式図録兼書籍で、約110点の作品とともにその画業を追う。/ 幼い頃に寺に衆徒として入り、複数回にわたり兵士として、画家として従軍した異質な経歴と、国内外を問わず旅行を繰り返した生涯から生まれた、清新で抒情的な作品と特異な戦争画を一堂に紹介する。/ 多数の初公開作品を新撮し掲載、その作品の魅力を存分に伝える。最新の調査結果を反映した詳細な年譜・文献目録に加え、研究者・遺族による多くのコラムも所収し、作品だけでなく、人間・小早川秋聲の素顔も明らかにする。今後の秋聲研究の基礎となる充実の一冊。(「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」求龍堂刊 2021.08)
従軍画家として「令名」を馳せた代表は、なんといっても藤田嗣治でした。彼の作品はたくさん観に出かけたものです。戦後は長くパリにとどまっていたが、なぜだか、その画業は年を追うごとに高くなっていった。さらに、ぼくがよく観た画家では、宮本三郎、小磯良平、さらに向井潤吉さんなどでした。これらの人々について、拙劣ではありますが、いくつか愚見はありますし、さらに戦後の画業にもぼくは割と好意を以て目にしてきたものでした。向井さんは、民家を画く画家としていまなお、高い人気を誇っています。一方で、シベリヤに抑留された画家たちもいます。もっとも知られたのは香月泰男さんでしょうか。ぼくは、どれくらい彼の絵を観たか。どうでもいいことですが、香月さんは、ぼくの父親と同年生まれ(1911年)で、親父も彼の絵をいたく好んでいたこともあって、早くから家には画集があった。香月さんは山口出身でした。小早川さんは鳥取出身で、香月さんより三十数年の先輩でした。尾崎放哉居士も鳥取でしたね。

こんな調子で書いていくと、「戦争」をはさんで、兵隊に召集された側と従軍画家として戦争に参加した人々の、画業と生き方、戦後の履歴を書きたくなりますが、本日は止めておきます。どこまで行っても、何時まで経っても「戦争」という国家最悪の愚行(犯罪)を抜きにして、何事も語れないということでしょうか。歴史を軽視したり無視したりしない限り、ぼくたちは、この島社会の「汚点」であり「現在の礎・足掛かり」ともなった戦時中の一々の記録を記憶に留めておく必要があると、痛感するばかりです。中村草田男は「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠みましたが、ぼくごときにおいては、「皇(すめらぎ)の戦(いくさ)学びに歳を経し」というばかりです。「戦争史」を削除したら、この島には、歴史は存在しないことになり、島自体の存立も疑われるのです。
歴史を否定することはできるし、望むなら、堂々と無視することもできるでしょう。しかし、「事実として生じたこと」を無にすることはできません。なぜならば、歴史は一人合点では生まれないし、続けられないからです。これは一個人の場合でも、事情は同じです。自分だけで何事かを、他人に知られないで、行うことはあり得ます。しかし社会的存在である限り、ぼくたちはたった一人で、どんなに些細な事々もなすことは不可能であることは、日々経験していることです。家族の一員であったとしても、他者であるのは間違いのない事実です。歴史は他者との交わりや衝突、あるいは触れ合いや闘争の中から紡ぎ出されてくるのです。国と国とのつながりからしか「歴史」は生まれはしないということもできます。社会の歴史、あるいは国の歴史という言葉自体が、あからさまに、それを示しています。「一国史観」というものがありうるとするなら、おそらく「古事記」「日本書紀」の類を免れないのではないか。いままた、「現代版古事記」あるいは「今日風日本書紀」を書きたがっている輩が輩出しています。

なぜ、歴をを学ぶか、それはみずからが、意識のあるなしにかかわらず、何時だって実践していることです。昨日を知らなければ、今日を生きるのは容易ではないし、今日一日が明日の道しるべになる、ぼくたちは、それぞれの歩き方で、このように時の流れに即して生きているのです。これが歴史であると言って、少しも構わないんじゃないでしょうか。ことさらに「戦争」を取り上げたいのではありません。この国の始めた戦争で「犠牲」になった人々がいる限り、あるいは「犠牲になった記憶」が残る限り、戦争を仕掛けた側が「戦争の歴史」の記録や記憶を放棄することは許されないでしょう。ぼくは、このようにして、「歴史意識」というものを、わが身に育ててきました。そこにはいつも「戦争を強いられた側」「戰爭で犠牲になった側」の嘆きや痛みが伴っています。それを除外(度外視)して、ぼくたちにつながる(結びつく)「戦争」を学ぶことはおろか、それを語ることさえできないのです。(下の画は1944年(昭和19年)に描いた「國之楯」・京都霊山護国神社所蔵、今は鳥取県の日南町美術館に寄託されているという)

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