父ありて明ぼの見たし青田原(一茶)

 一茶が「父の終焉日記」を書いたのは享和元(一八〇一)年、彼の三九歳の時でした。ぼくは、これを何度か読んだが、そのたびにいろいろと思うとところが出てきました。文献上の疑問や問題点ではなく、どうして一茶は、「死の床」にある父親の、まるでデスマスクを塑像するかのような「日記」を書き、あまつさえそれを公刊し(しようとし)たか。まるで不可解な謎のようなことに属します。その理由のようなものが、ぼくにはわかるようなわからないような、濃い霞の中にいるようなもどかしさを感じている。一茶という人にかけて、「農民俳人」と解いて、彼をこよなく好む人間ですが、その理由はまるで「泥のついた俳句」を、二万余句も残したという、その野性味と俳句への尽きぬ追及の姿勢でした。彼は十五で郷里を出た、というか父によって「出された」。理由は明白です。父の再婚相手の継母とはそりが合わず、あまつさえ、その継母に子(一茶の弟になる、九歳年下だった)が出来たことによります。これは、何時の時代でもありえますし、それによって家庭に争いごとが絶えないという、家族集団の狭さと小ささからくる悲劇です。父親とすれば、わが長男の行く末を案じたうえでの「子別れ」だったし、「かわいい子には旅をさせよ」という、(狭い郷党におけるいがみを見るに忍びなかった、あるいはわが長男をつらい目に合わせたくもなかった親心というか)意味は違っていても、その思いが募った揚げ句の、「江戸ヤライ」だったろうと考えられます。

 「廿九日 父は病の重り給ふにつけて、弧(みなしご)の我身(註、一茶のこと)の行末を案じ給ひてんや、いさヽか(の)所領、はらからと二つ分(わけ)にして與へんとて、くるしき息の下より指圖なし給ふに、先(まづ)、中島てふ田と、河原てふ所の田を、弟に附屬せんとありけるに、仙六(弟)心に染ざりけん、父の仰(おほせ)にそぶく、其日父と仙六いさかひして、事止(やみ)ぬ。皆、貪欲、邪智、諂曲に目くらみて、かヽる息卷はおこりけり。いかなれ(ば)不顧親養任他五濁惡世の人界(親の養いを顧みず、「任他」とは放置したままの意、そして、我欲を張るばかりの人間世界、それが「濁世(じょくせ)」であり、悪世・末世でもあるという。仏教話)、淺ましき事なりき。」

 「…抑(そもそも)、汝は三歳の時より母に後(おくれ)、やヽ長なりにつけても、後の母の中むつまじからず、日々に魂をいため、夜々に心火をもやし、心のやすき時はな(か)りき。ふとおもひけるやうは、一所にありなばいつ迄もかくありなん。一度(たび)故郷をはなしたらば、はた、したはしきこともやあるべきと、十四歳と云(いふ)春はろばろの江戸へはおもぶかせたりき。あはれよ所の親は、今三とせ四と(せ)過(すぎ)たらんは、家を任せ、汝にも安堵させ、我等も行末たのしむべきに、としはもゆかぬ痩骨(やせぼね)に荒奉公させ、つれなき親とも思(おもひ)つらめ。皆是すくせの因缘とあきらめよや。」(下は「父の終焉日記」原稿本文とされます)

 自分(父)は今度は「往生」を遂げるだろうけれども、息子に送られるのだから、けっして悔いはないと言いながら、父は「はらはらと泪落し給ふに、一茶は只打ふして物も得云(いは)ず」と、身も心も疲れた一茶は、為す術を知らなかった。父の病気が何であったか、詳細はわかりません。農作業中に倒れて意識が混濁していたと言います。あるいは「日記」に見られる様子から、身体も不自由であったと思われます。一茶が書いた「日記」には継母と弟の行状が好く書かれていない。先に紹介した父の死後の遺産相続に関して、父親の提案を継母と弟は受け入れなかった。理由はいろいろとありそうですが、ぼくはあまり興味がない。なにしろ「私権(プライヴァシー)」の問題ですから。先祖伝来の遺産をというのではなく、父親が再婚した後に、相当に田畑が増えた。それは父親だけの働きでなかったのは明らかなようで、さらに、十五から江戸に出て、農業から足を洗った状態だった一茶が、帰郷して、父の「遺言」だからと、相続は「兄弟で二分する」ということは受け入れがたかったのです。この相続争いは、何と十三年続いたと言われています。凄い成り行きがあって、ようやくにして決着したらしい。

 おそらく、一茶は「俳諧師」として身過ぎ世過ぎを考えていた節があります。江戸にいたころから、すでに俳諧の弟子筋が郷里にも生まれていたようで、帰郷後も仲間とは語らって、徘徊を盛り立てる算段があったでしょう。あるいは俳諧師でありながら、文章も書くという生活を考えていたかもしれません。俳諧の師匠をしながらの「文人」像を画いてみます。三十過ぎてから、再び農業に精を出すとは容易はことではなかったはずで、一茶自身もそのように考えていたかもしれません。最初も書きましたが、この「日記」は、公開を予定して書かれていたという観測が成り立ちます。詳細は省きますが、一茶の草稿、その書きなおし分を含めて残されてました。ぼくが使用しているのは「日本古典文学大系58 蕪村集・一茶集」(岩波書店刊)に依っています。解説・校訂等は川島つゆ氏。川島さんの解説に見られる一茶論には、大いに意を強くしました。

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 (余談です。この「古典文学大系」全巻(一期・二期で百冊)を、ぼくは大学に入った直後に購入しました。大枚の金額を払った記憶があります。授業料の数年分だったと覚えています。もちろん、アルバイトなどをして(生協で、しかも分割払いで)購入したもの。以来、六十年余、ぼくはくり返し、この「大系」を手当たり次第に読んできました。関心のある巻は何度も読んだし、それ以外でも少なくとも一度や二度は目を通しました。自分がどんな職業に就こうとしているのか、皆目見当もつかなかった時代、こんな無謀な買い方をしたのです。その後もなにかと本を購入しては、居候先の木造二階の床をきしませたのでした。以来、何度か引っ越しをしました。運送屋さんに嫌われたのが本の移動(搬送)でした。もう引っ越しはなさそうですけれど、今度は、この溜ってしまった書物の処分をどうするか、頭を少しは悩ませています。後輩人士に譲ることを計画しているのですが)

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 一茶に戻ります。臨終の床に臥せっている父の傍を離れなかった一茶は、いくつかの句を残しています。

五月雨(あつきあめ)雨とて空をかざす哉  ・時鳥(ほととぎす)我も気相(きあい)のよき日也  

涼(すずめ)よとのゆるしの出たり門(かど)の月  ・足元へいつ來(きた)りしよ蝸牛(かたつむり)  

寝すがたの蠅追ふもけふかぎり哉  ・生き殘る我にかヽるや艸の露                    

夜々にかまけられたる蚤蚊哉  ・父ありて明(あけ)ぼの見たし青田原 (「父の終焉日記」より)

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 先に、川島つゆさんの解説は、ぼくにはとても面白かったと述べた。そのいくつかを。一茶論としてみても、実に肯綮に中っていると、素人のぼくは楽しく、しかも首肯しながら読んだものです。「俳諧史上から一茶を抹殺しても俳諧史に大きな狂いはないであろう」「生涯に渡って体臭の強い句を排泄しておいてくれた」「しかし、一茶の作には明日はない。せいぜい凡人の至りついた悟りの境地であり、自己暴露であり、周囲への斜視的投影である場合が多い」

 「一茶の俳諧にしても、高い理想に向かって精進したものではなく、迷いと悩みの中につかみ得た一筋の綱にすがって、老来意識の薄れるまで詠みつづけて来た作句即生活であったのだ。ただ、おそらく彼自身さえ、伝統的風雅観とは異質のものと思っていたであろうような独自の境地に、図太く根を据え得たのは、恐るべき野人魂・農民の魂の勝利と言わざるを得ない。一茶の俳諧は一茶一人のものである」(上掲解説)

 その一茶は、継母と弟仙六に疎まれた。それは手を汚さないで惰弱な「文人」を気取っているというふうに映ったからです。俳諧なんぞは、本業の合間の趣味にすべきもの、それを、驚く勿れ、趣味が本業になるような、そんな一茶の生き方は、継母たちには認められなかったのです。父親は、それを早くから気に病んで、早く身を固めるように願っていたが、それもかなわなかった。

 六十五歳の一期は、一茶にとっては心残りでもあったかもしれません。しかし、これ(運命)はいくら言っても詮方なし、であります。農民から出て、ついに農民に戻れなかった男の悲しみと淋しさを、ことのほか大事に想いながら、ぼくは一茶を好んでいる。川島さんは「一茶の作品は、よかれあしかれ、彼の宿命と素質の産みだした孤独なものだった」とも言われます。「作品が孤独」とはどのようなことなんでしょうか。

夕燕我には翌(あす)のあてはなき(これは、房総半島は富津辺りに遊んだ時の句、ここでは、一人の俳人(女性で一茶の門人だった)との出逢いと別離があった。

心からしなのの雪に降られけり(房総から帰郷、遺産問題のためであったが、決裂。その際に、長野の知人滝沢可候宅で詠んだ句。実に微妙な感情が入っていませんか。上の句とともに、いずれも文化四(一八〇七)年作)

小言いふ相手のほしや秋の暮(文政五(一八二二)年作。妻が死に(三十八歳)、三男も死ぬ。たった一人で生きている、それはだれにとっても、生来のもの。小言も一人、雑煮も一人で、とはいかにも一茶であり、そこには孤独の影が憑りついているとも映りますが、さあ、どうなんですか)

もともとの一人前ぞ雑煮膳 (上の句の翌年正月作。孤立し、孤独に苛まれながら、そこを抜け出す算段もない。曽遊の地であった江戸は「化政文化」の徒花(あだばな)が狂うばかりに咲いていました)

 まるで、雪崩を打ったように、不幸の連鎖が一茶を襲う。それを避けるには、一茶はあまりにも鈍重だったかもしれません。また、田舎の人間が一端(いっぱし)の「文人」を気取ることへの内外の批判、あるいは毀誉褒貶があったでしょう。また、遅くに結婚した彼には、生まれてくる子には、不幸を背負ってこの世に出てきたとしか思えないような、拭いようのない悲しみの烙印が押されていた。自分をかばってくれた父親もいなくなった。なさぬ仲の親子にも、やがて春は来るだろうが、それはあまりにも遅かった。俳人として郷里に生きる道を選んだ一茶に、さらに不幸が追いかけて来る、あるいは待ち伏せしていたのです。

 言わずもがなのこと、「予言者、故郷に容れられず」という。同様に、「俳諧人、故郷に受け入れられず」ではなかったか。一茶と弟との「相続争い」は、ぼくには、かかる経験がないので理解を超えているかもしれません。しかし、「俳諧師」という職業というか身分というか、そんなものは郷里の農民には理解不能だったでしょう。明治以降に「高等遊民」なる言葉が生み出されましたが、この時期、一茶は、「遊民」として生きるほかなかったわけで、額に汗して身を粉にするという、地べたを這う生活から遊離していた、そんな人間は故郷には受け入れてもらえなかったのでないでしょうか。

 「心からしなのの雪に降られけり」という句を、ぼくは、この文脈でとらえたい。専門家を含めた、他者とは大きく異なります。何があっても故郷だ、その故郷の雪に「心から、受け入れられた」というのは、いかにも下衆(げす)という気がしてくるのです。雪にまでもか、一茶はそう思い知らされたのではなかったか。これは、ぼく個人の勝手な妄想ですが。信州各地(に限らず、劣島のいたるところで)では、一茶顕彰にしのぎを削っているようで、ご同慶の至りというべきでしょうね。しかし、それは一茶の生きた、不運と不幸の打ち続く「明け暮れ」には、まったく関係のないことだということも忘れたくない。

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