200年300年先を考えると芸術はどうでもいい…

 【三山春秋】▼久しぶりに帰省した際、書庫で見つけた古びた写真集に目を奪われた。日本の風土や日本人の姿を追い続けた写真家、故浜谷浩さんの『詩のふるさと』。前橋ゆかりの詩人、室生犀星が雑誌に連載した詩友11人の回顧録を踏まえ、12人の詩の世界を写真で表現した一冊だ▼写真はいずれも1958(昭和33)年撮影。犀星を生涯の友とした萩原朔太郎の章は前橋市内、山村暮鳥は高崎市内と終焉(しゅうえん)の地である茨城県大洗町の風景が並ぶ▼木造家屋の間に火見櫓(やぐら)が立つ街並みや赤城山・地蔵岳からの眺望は、半世紀の時の経過を感じさせるとともに、朔太郎の「才川町―十二月下旬」「冬」の詩情が浮かんでくる。暮鳥の「山上にて」をイメージした、榛名湖畔で馬が水を飲む構図に息をのんだ
▼「いくつかの課題に当面し、いくつもの難題にあいながら…」とあとがきにある。不慣れな詩を数十年後の風景で表現することは、写真界のノーベル賞と言われるハッセルブラッド国際写真賞を受賞した浜谷さんにとっても挑戦的な取り組みだったようだ▼同時に犀星の回顧録にも目を通した。詩友たちの姿が赤裸々に描写されており、朔太郎との関係の深さを再認識した▼来年の犀星没後60周年を前に、回顧録と写真集を一体化した『写文集 我が愛する詩人の伝記』(中央公論新社)が来月刊行される。本を手に撮影地を巡り、写真と見比べるのもいい。(上毛新聞・2021/11/26)

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 飽きもしないで、よくもまあ毎日駄文(や雑文)が書けますね、と古くからの友人が言います。ぼくが駄文の山を築くのは、誰かに見せたいからではなく、また自分を見せびらかすからでもなく、何度も言いましたように、「著しい記憶力の衰え」を、手遅れであることを知りながら、医者にかからず(かかれば、衰えは加速することは間違いない。これは尊敬できる兵庫県の開業医が常々言っておられるし、ぼくもそうだと思っている)、心身をだらけさせないで少しでも自分の身を、心を、自分自身の責任で、あまり損なわないで現状を維持していこうという、極めてささやかな、かつ欲のない願いというか、望みから始めた、自主トレーニングの一環でした。そう言っている尻から、わが記憶力は、さかんに崩壊しています、壊れてゆく音がするような塩梅で。

 何事にも「余得」というものはあり得る。これはネット時代の慶賀すべき出来事だと思うのは、毎日、各地の新聞の「コラム」(もちろん記事も読めますが)が一望のもとに眺められ、なおかつ読みたいものはじっくりと読めるということです。ぼくのような暇人には格好の「時間稼ぎ」というか、いやその反対の「時間潰し」でもあります。その余得は、このコラムで「人や物」が記事になっていなければ(なっていても、当方が目を通す機会を持たなければ)、まったく何事もなく(知らないで)通り過ぎてゆくことばかりですのに、一瞬でも目に触れたおかげで、その人や物に注意が及ぶ(記憶が回復する)ということです。ぼくたちは、一瞬であれ、些細なことを含めて経験した出来事をすべて「記憶の貯蔵庫」に保存しています。「物心」がついてからのすべては、保存されている。見たり聞いたりしたものは、ひとつ残らず「記憶」される仕組みになっている。問題はこの「記憶の貯蔵庫」から取り出す仕組み(手続き)が、徐々に毀損されてゆくことにあります。(この部分は、脳科学というか、脳生理学の問題であり、何時か触れる予定です、でも記憶力が怪しいので、どうなりますかな)

 記憶力の衰退とか減衰などと言いますが、記憶されているものを「取り出す」「思い出す」、その機能というか能力が衰えるんですね、これが「老衰」です。歳をとることは「老衰」が避けられないんでしょうね。思い(想い)出せない、度忘れした、喉元まで出かかっているのに、何時でもぼくたちはこのように言い訳をして、記憶はあるのに、たまたまそれを瞬間的に忘れてしまった、そのように言ったり弁解したりします。三時間もたってから思い出す、それが日常の当たり前の景色でしょう。学校のテストでも、試験時間が終了した途端に、忘れていた記憶を取り戻したりします、これが「後の祭り」なんですが、中には、往生際が悪くて「横を盗み見する」「カンニングする」などして、記憶力を補っているんでしょうか。中学や高校でこうなるのを「若年性認知症」というらしい。でも何時だって、はやく回復するんだね。

 本日の「三山春秋」からの「余得」は濱谷浩さんでした。ぼくの最も好きな写真家でもあります。本当に久方ぶりに彼の名を目にし、ほとばしるように何冊かの写真集と、彼の容貌の記憶が蘇ってきました。探せば、数冊はある写真集の、どの一冊も、ぼくには懐かしいし、その一齣ごとは、取りだすのが怪しい、記憶の貯蔵庫に畳み込まれている。「雪国」「裏日本」「學藝諸家」などなど。そのどれもが、けっして華やかでもなければ、先進的でもない、まるで、この島に根の生えたような人々や風景が活写されています。彼はある時期から、文化というか生活、土にへばりついた生活・文化の姿を切り取ろうとしたと言われます。いわゆる民俗学の仕事です。ここでも、ぼくは宮本常一さんを想起しています。

 さらにぼくが、彼に引き付けられたのは、「200年300年先を考えると芸術はどうでもいい気がする それより写真がちゃんと残っていることが僕には貴重に思える」という「偽らざる告白」を聞いたからでした、ぼくはそのように受け止めました。あるいは衝撃を受けたと言うべきかもしれません。「俺が撮った写真だ」「自分が描いた絵です」という、当たり前には、そのような自己主張が通用している世界です。でも、作者や画家、写真家の名前などいつまで記憶されるか。それよりも、「この一枚」が残されるほうが大事であると、濱谷さんは言われています。

 これと同じような発言を作家の志賀直哉が言っています。「法隆寺はいいな。これを作ったのはだれかなど、そんなことは少しも気にならない。それが大事だことなんだ」という意味のことでした。作者が消えて、作品だけが残る、残された作品から、作者は削ぎ落されて、消し去られてゆく、しかし、その作品すら、やがて、あるいはいずれ無くなる、そんな思いで生きている、仕事をしている、そのような人生を、若い頃には実に大したものだと考えたのですが、この年齢になると、それが生きているということだし、その人生こそが誰にも使ってほしい生きている(流れている)時間だと、染み入るように、身に応えるのです。明治初期の人の名前を、仕事と結び付けて、ぼくたちはどれだけ知っているか。たかだか百五十年ほど前に過ぎません。固有名は「娑婆の通行手形」ぐらいのものですね、それも地域限定の。

 「人✖物✖録」という番組に濱谷さんの発言が記録されています。「あの人に会いたい」というタイトルです。(https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0009250378_00000

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● 浜谷浩【はまやひろし】(1915-1999)=写真家。東京生れ。関東商業卒業後,航空撮影に従事。1933年オリエンタル写真工業に入社。1937年退社後,フリーの写真家として活動する。1940年,木村伊兵衛の招きで東方社写真部入社,主に対外宣伝誌《FRONT》のために陸海軍関係の撮影に従事する。戦後も1956年まで疎開先であった新潟県高田にとどまって撮影。戦後日本を独自の視点で見直そうとした。1954年より日本海側の各地を数十回にわたって旅し,写真集《裏日本》(1957年)としてまとめ,代表作となる。以降も,日本の風土ジャーナリスティックな視線で記録する手法は一貫して作品の核となり,その成果は写真集《日本列島》(1964年)をはじめとする多くの写真集と雑誌に発表された。1955年には,ニューヨーク近代美術館で開催された《ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)》展に出品。1960年,マグナム・フォトスに寄稿写真家として契約。1960年代以降は,国内のみならず海外での撮影も多く,内外で旺盛に活動した。毎日出版文化賞(1958年)ほか写真賞受賞多数。(マイペディア)

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 誰もが写真家になれるのではないし、音楽家になれる人も限られています。自分はならなかった、なれなかった、だからこの人の芸術・仕事の達成(それは何でもいい、農業でも建築でも、つまりはあらゆる職業に当てはまります。人はいくつもの仕事を掛け持ちできないのが普通です)にこそ、ぼくたちは万感の思いを募らせるでしょうし、感嘆の念をあからさまに示すのでしょう。それにしても「写真」はいいな。写真家がいいという以上に、写真がいいなと、ぼくは言いたくなります。それは論理や推理の働きより、直に視力に訴える、映像の迫力(迫真)の訴求力というものでしょう。だから、それを撮った人の名前はなくても構わない。知らなくてもいい。

 自然の風景・景観・景色(この語は人間が関わっていなければ生れなかった)には作者はいない。いや、そこに人間が存在している、と言いたくなるのは、それを加工したり模倣したりする人間があるからであって、その人々は決して作者ではありません。(例えば、どこかのお寺の「紅葉をライトアップ」するような愚か者がいるけれど、それは「紅葉」の作者じゃない)「200年300年先を考えると芸術はどうでもいい気がする それより写真がちゃんと残っていることが僕には貴重に思える」という濱谷さんの発言は、どう受け取れるか。「芸術はどうでもいい」というのは、それを「芸術」として生み出した人間なんですかね、あるいは「写真家」というプロが生み出すから「芸術」ということになるのか。それは、しかし、どうでもいい、「写真」が残っている方が貴重だというのです。「その写真もいつか消える、それでいい」とは言われないけれど、そこまで含んでいるんじゃないですか、この発言は。(下は「写真集・詩のふるさと」より)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)