誰がライトアップを求めるんですか

京都・清水寺「紅葉ライトアップ」(2021年11月17日 京都市東山区)

京都市東山区の清水寺で、秋恒例の「夜間特別拝観」が18日から始まるのを前に、17日夜に内覧会が行われた。見頃を迎えつつあるモミジ約1000本が光をまとって鮮やかに浮かび上がった。11月30日まで(京都新聞・2021/11/17)

https://www.kyoto-np.co.jp/list/movie?id=3386(動画があります)

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 いずれも京都新聞に掲載されていた写真です。一番上について、説明は不要でしょう。二番目は広沢の池畔、三番目は清滝川の紅葉です。どうしてこの三枚を並べたか。特別の意味はありません。清水寺に代表される神社仏閣(それは京都に限らない)は、まるで観光地そのもので、自らが、その地位に安んじているという不届き(ぼくにはそう見えます)な態度に、京都の頽廃や堕落を象徴している、ひいては各地の神社仏閣の多くの反宗教・非信仰の表れであると、ぼくは判断しています。昔が好かったというのではありません。昔だって、何時だって、寺といわず神社といわず、堕落する者は堕落していたのですから。清水寺の由緒や縁起を語っても仕方がありません。いずこも同じ、秋の夕暮、といいたくなる「広くは、宗教界の頽廃の図」です。

 特に清水寺を言うのではなく、その一例として。何時頃から流行り出したのか知りませんが、「ライトアップ」という不細工な見世物が、大嫌いだというだけの話です。何でもかんでも「ライトアップ」したがるのでしょうが、同時に、主催者というのか見世者主義・金儲け主義の根性までが「ライトアップ」されていることを、誰もが不審に思わないんですかね。夜は静かに、それだけの感覚が失われて、石油代が、電気代がと、ほざいています。世の中には、信じられないくらいに「愚かしそうな」人はたくさんいますから、どんなことでも見世物だとなれば、人だかりがするのは別におかしくない。でも誰かが、「境内で、夜間の紅葉を見たい」と、勝手に(あるいは望んで、でもいい)「ライトアップ」を図れば、たちまちに追い出されるか、警察に突き出されるでしょう。この行事は「寺」が率先して観光(敢行)しているんですね、愚かさもここまでくれば半端じゃないし、いう言葉もないと、ぼくは遠くの地から、「京都を離れて六十年」とため息をついているのです。

 広沢の池は、ぼくの遊び場でした。(この付近は「風致地区」と言って、厳しい建築規制が敷かれていましたが、今では乱開発もいいところ、写真に写っている何本ものコンクリート製ポールは仏教系大学のグラウンドです。宗教勢力は延びていますね)遠方、正面に「高く聳える愛宕山」は、何度も登った山。「火の用心」の神さんが祭られています。「竈(かまど)神」。この点についてはどこかで触れています。三枚目の清滝も、いわばぼくの遊び場であり、友達との交流の地でもありました。愛宕山の登攀口になります。

 この近辺は、ぼくは毎日のように、それも一人で駆けずり回っていました。少し高みに出ると、京都市内が一望できた。なんという狭い、小さな町だろうと幼いながらに気が滅入ったことがあります。その狭さや小ささは、そのまま人間関係にも当てはまるようでした。これもどこかで書いていますので、ここでは触れない。京都人の「いけず」は有名ですが、今でも残っているのかどうか。ぼくは京都生まれではないが、「いけず」「底意地が悪い」と、しばしば非難されました、それは今でも続いています。我がままで、自分勝手なだけなのですが、他人からは、そのよう(いけず)にみられるんでしょうね。参考までに、「愛宕山」という、バカバカしい落語があります。これは志ん朝さんでしょうか。あるいは桂枝雀さん、といきますか。お暇なら「両雄」で楽しむのがいい。(右上の絵は「かわらけ投げ」)

 「いけず」「意地悪」、それは別の話。問題は「ライトアップ」です。夜空の花火も好まないが、それはまだ許せる。一種の「瞬間芸」ですから。このライトが点灯されている中で、坊さんたちは何をしているのか。もちろん、「夜間は無料で。どうぞ」と、京都の坊さんが言うはずがない、とするなら、夜間も観覧料を取っているわけで、算盤片手に「坊主丸儲け」となっているのかどうか。随分と昔、「拝観料」への課税をめぐって大問題が長く続いていました。行政の側が負けたわけで、お寺は「宗教法人」を理由に納税の優遇措置を受けています。時代はとうの昔に、宗教法人お抱えの「政党」が幅を奇禍っせていますし、今では「政権党(の一部)」です。ともかく、坊さんといえども「霞を食う」だけでは生きていけません。だから「ライトアップ」になるかというと、それは違うでしょ。それにしても、諸寺・諸社は世間のど真ん中で「存在を誇って」、これみよがしに、屹立、いや林立。乱立している風景をどう見るか。

 清水寺「音羽の滝」の前にあったお茶屋(普通の、喫茶店のような)を舞台にした落語「茶金」(別名「はてなの茶碗」)、これはいかにも落語的で、いい話(滑稽という意味)ですね。元来は上方のネタでした。だから桂米朝さんか。ぼくは、もちろん志ん生で。

 今の状況が反省されないママで続いていくと、やがて「富士山」も「槍ヶ岳」もライトアップされる時代が来る、と言ってみて、時代おくれだな君は、もう来ているよと笑われるのかも。なんだって、この「劣島」はとっくにライトアップされているのですから、宇宙からは「光り輝いて」見えるんだ、「あの島国だぜ」って。

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● 清水寺【きよみずでら】=〈せいすいじ〉とも。京都市東山区にある北法相の寺。山号音羽山本尊は十一面観音で,西国三十三所第16番札所。〈清水寺縁起〉によれば延鎮開基として坂上田村麻呂が798年に創建。805年桓武天皇御願寺,810年鎮護国家道場となり隆盛したが,天災のほか,興福寺に属したため延暦寺と興福寺の紛争に巻き込まれたこともあって焼失破壊を重ねた。現在の本堂国宝)は1633年再建のもので,密教本堂の典型的形式を示す。急にあるため長い束柱(つかばしら)でささえられたいわゆる懸造(かけづくり)となっており,前面は〈清水の舞台〉として有名。檜皮葺(ひわだぶき)の大きな寄棟(よせむね)造は江戸時代建築の代表的遺構。1994年世界文化遺産に登録。(マイペディア)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。