<あのころ>メルボルン五輪が開会 日の丸を先頭に入場

1956(昭和31)年11月22日、第16回メルボルン五輪が開会式を迎えた。南半球で初めてのオリンピックで、開催国オーストラリアの夏に合わせて開催。日本は金メダル4個を含む19個のメダルを獲得した。写真は、開会式で日の丸を先頭に入場する日本選手団。(共同通信・2021/11/22 08:00 (JST)11/22 08:17 (JST)updated)
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メルボルン五輪のことはよく覚えています。小学校の六年生でした。南半球で初めての開催であり、ラジオの電波がようやく届くような時代の出来事でした。この時、マレーローズ選手(豪州)と山中毅選手が水泳で死闘を演じたのも、ラジオを通してだったか、記憶に残っています(左写真)。二人は、アメリカでの留学先が同じ大学で、同級生だったそうです。山中さんは石川県の輪島出身で、いわば郷土の英雄だった。ぼくはそれは知らなかったが、五輪の活躍でよく知るようになった。この大会で日本はメダルを十九個獲得したという。それぞれの選手の活躍も記憶にありますし、その後の、ローマや東京まで続く選手生活を通してよりよく知ることになった。つまらない話ですが、この大会で男子体操選手が大活躍をしましたが、その選手団の総監督が近藤天(たかし)さんで、後年、ぼくは一年間だけ、近藤さんから体操の手ほどきを受けたことがありました。彼自身も選手として、ロスアンジェルス大会(昭和七年)に参加された。
今から六十五年前の本日が、メルボルン大会の「開会式」でした。この当時のラジオは短波放送だったのか、風が吹けば遠くに流され、やがて消えてしまう、風前の灯火のようなか弱い音声で、南半球からの放送を聞いたのは、小学校の廊下だったという記憶もある。時差の加減はどうであったか、あるいはそれは録音だったかもしれない。別段、金メダルや選手の活躍に興奮したということはまったくなかった。ということは、あまり「五輪」に関心がなかったのか。運動(スポーツ)は好きだったが、あくまでも自分が楽しむためにするという、割り切った態度だったようです。だから大きな声援を送るとか、旗を振るなどということはこれまでに、一度もなかったと思う。冷静というのではなく、自分本位だったということでしょう。入場行進をするのはいいとして、どうして「国旗」が先頭なんですかね。
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もう一つ、この1956年の出来事で記憶しているものがあります。それは、この島社会の「国際連合復帰」でした。二十三年ぶりだったとか。こちらの方は、ラジオを通してではなく、新聞だったり、授業を通じてだったと記憶しています。昭和八年十二月、松岡洋右全権代表が「満州国を否認」したリットン調査団報告書に反対し、議場から退場。議決は日本が反対、タイの棄権を除く四十二か国の賛成で決定された。「聯盟よさらば!」「我が代表堂々退場す」と、新聞も世界を相手に、戦闘モード」とは、いかにも見えていなかったんだね、世界の趨勢が。今も変わらない。
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● 国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)=1933年(昭和8)3月27日、リットン報告書の採択に反対して、日本が正式に国際連盟脱退を通告したことをいう。1931年の満州事変に際し、国際連盟はリットン調査団を現地に派遣、その報告書は32年10月公表された。内容は日本に対し妥協的なものであったが、日本の軍事行動を正当と認めず、また満州国が傀儡(かいらい)国家であることを事実上認めるものであった。そのため日本側の強い反発を招き、国内でも陸軍や右翼を中心に連盟脱退論がおこり、財界の一部もこれに同調した。12月の連盟総会では日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託された。同委員会の報告書は、リットン報告書の採択と満州国不承認を盛り込んだものであり、2月24日の連盟総会は44か国中42か国の賛成(日本反対、シャム棄権)でそれを採択したので、日本全権松岡洋右(ようすけ)はこれに抗議して退場した。連盟脱退により日本は孤立の道を歩むことになった。
● まつおか‐ようすけ〔まつをかヤウすけ〕【松岡洋右】[1880〜1946]=外交官・政治家。山口の生まれ。オレゴン大学卒業。国際連盟特別総会に首席全権として出席し、脱退を宣言。満鉄総裁を経て、第二次近衛内閣の外相となり、日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結。第二次大戦後、A級戦犯として起訴されたが病没。(デジタル大辞泉) (この松岡氏は、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三などの縁戚者でもあります。長州ですね、時計は止まっているのか)
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ぼくの意識の中で、「国連と五輪」が結びついたのではありませんが、こんなことをよく覚えていると感心さえするのです。時代や社会にとって「国連(交際連合)」が何であり、「五輪」がどんな役割を果たしてきたか、当時(十二歳)はまったく知らなかった、それは当然だったでしょう。そのことについて、教室で熱心に学んだ記憶は皆無ですから、なぜこれだけが忘れられなかったか、実に不思議なことでした。わけのわからないでたらめ(野心や野望という)のかぎりをつくして「世界を相手に」戦争(「満州事変」)を仕掛け、やがて、連合国から完膚なきまでに叩きのめされ、やっと息をついていたのが、この国連復帰でようやく「世界・人類の仲間」として認知されたという恰好でした。以来、幾星霜、またしても世界(その意味は、日本を除けた国々や地域をいう)にむかって、天に唾する愚行を重ねているような気がします。独り立ちはできないままで、他人頼みで「戦後」を歩いてきて、今ではすっかり「アメリカの属国」(脱亜入米)であることに居心地の良さを感じている、なんとも主体性のない、そんな意気地なしの政治(家)が罷り通っているのも不思議です。


アメリカが世界の「警察」だった時代はともかく、今では、国力(軍事と経済)で、中国の後塵を拝しかけている時代です。にもかかわらず、アメリカに尾を振るのが劣島の政治だという時代錯誤が戦後一貫して続いているのです。中国と交流を深める(旧交を温める)方が、よほど大事だし、この社会のためにもなることは明白であるにもかかわらず、アメリカの背中に隠れて、弓を弾く恰好だけはしているのです。「虎の威を借る鷺(詐欺)」のように見られていませんか。国防費を十兆円にまで引き上げるとか、なんとも勇ましいというか、空威張りというか。それだけの国防費でどこから「島国」を守ろうというのかしら。アメリカから?中国から?
「外交」努力というものが、歯牙にもかけられていない政治家の能天気を、ぼくは悲しむね。バカも休み休みに言えと、詰ってみても止まらない、アクセルしかない車の運転手たちよ、君たちの運転で、どこまでも道連れは、金輪際、ご免被るという「民」もいるんだと、声を上げ続けるしかないようです。憲法も変えるという、何処をどのように変えるのですか、自衛隊も憲法も税金も、「みんな、自分たちのもの」という盗人根性は、今節は通じないと思うね。地に足を付けて(私道ではなく)「政道」という公道を歩いてほしいものです。

「政治と五輪」と言いますが、五輪は政治そのものです。今夏の東京五輪で、それを見せつけられました。年が明けると中国で冬季五輪が予定されています。アメリカの尻馬に乗っているだけで、為す術を見出せないのが現実であることを認めたうえで、さて、ぼくたちにはどんな手が残されているのか、それをじっくりと考えたい。問題が大きくなり過ぎるようですが、地に足を付けて、自分の生活の場から、時代や社会を凝視して行くことでしょう。時には、拡大鏡をかざしたり、目薬をつけて視力を保ちながらです。
それにしても、今のままでは金食い虫でしかない「政治主義五輪」は止めた方がいい、いや止めるべきだ。「国旗」を先頭に立てるような「戦い・闘い」の、なにが、どこが嬉しいのかしら。要するに「金権五輪」ということでしかないところまで来ているんです。また、来夏には選挙があります(参議院議員選挙)。「主権在民」といって、「民に、主たる権利が」あるというのに、「民」が存在しないなんて、民自身がみずからの存在を否定しているなんて、悪い冗談にもならないね。
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