夕やけや唐紅(からくれない)の初氷(一茶)

 本日取り上げようとしている、二つの「筆洗」の記者は同じ人だろうか。二つの記事に共通して引かれている小林一茶。昨日は一茶の忌日。文政十(1827)年の霜月十九日。六十五歳の一期でした。ぼくは俳人の多くに関心を持ち、中にはとても好んでいる人もいますが、一茶は、その一人です。理由は簡単。彼はいつだって虚飾を避け、虚栄を嫌いぬいた。そこから生まれ出た句のそれぞれは「自身の肉声」だったと言えるし、そこがあまりにも、淋しさが募り、悲しすぎるように感じられて、ぼくは、芭蕉より蕪村より、一茶に近づいてしまうのです。一茶論など、ぼくには思いもよらないが、それぞれの専門家や文学者の「一茶」には一読、大いに感じ入ったと告白しておきます。その上で、やはり「直に、一茶に」というのが、一番であろうと、愚考しているのです。(コラム「筆洗」は、毎日、きっと目を通しています)

 しばしばいわれるように、小林弥太郎(幼名)は、薄幸な人とされる。しかし、もちろん一茶ほどではないにしても「苦悩」「苦汁」「不幸」「不運」の人生送らない人はいないはずです。一茶という俳人となって、後生に名を知られ、「彼も不幸な人生を送ったのだ」と言われてみると、そういうものかなあという気がするだけです。彼は、いわば富農の長男坊として生まれます。三歳で実母と死別。やがて父は再婚、弥太郎君は八歳でした。この継母は、その後に男の子を生みます。後年の俳人一茶の不幸はこの弟の誕生で、さらに辛いものとなるのでした。継母との「生さぬ仲」は、俳人の性格をより強固に頑ななものにしたはず。あるいは偏屈にしたかもしれません。十五歳で江戸に「奉公」勤めに出されたという。出郷は、一面では不幸でもあったが、他面では自らの「勉学の時期」でもあったという点では幸いだったかもしれない。

 一茶の小伝風になりそうですから、ここで中止。その仕事は他著に譲ります。その後曲折があって、彼は何と五十二歳で結婚。二十数歳年下の女性が相手でした(まるで、加藤茶さんみたい)。子どもに恵まれるが、次々に夭逝。妻にも死別。再婚し、また離婚、さらに再々婚し、今度は死別。ここまでくれば、半端ではない不幸というべきでしょう。文政十(1827)年に、死去。六十五歳でした。彼の中でもっとも有名になった句、

 これがまあついの棲か雪五尺  (弟と遺産相続問題が決着した時の記念句です)

 いつだって「自分の肉声」からの叫びや悲しみ、あるいは喜びや嬉しさを詠んだ一茶でした。その筋では「独自の境地」を詠みうる人とされたが、あるいは、ついに「俗に堕ちたまま」で、発句の道を一貫したとも言えます。それが一茶の真骨頂だったし、ぼくのような軽薄且つ弱虫が、いたずらに彼を好む理由でもあるのです。「俗」のどこが悪いのか、というほかありませんから。

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 世知辛い世の中をそのままにではなく「筆洗」を潜った筆で「一刷き」というものばかりを期待するのは失礼にあたるでしょう。コラムの性格からいえば、一茶といえども、「刺身のつま」でしかない。それでも偽物の模造品ではなく、本物の葉物や笹の葉のようにして、コラムの冒頭に持ちだされると、わけもなく嬉しくなるのです。「筆洗」①の(小春)もまた、一茶がよく読んだ時候でした。その一、二を。

・小座敷は半分通り小春哉  ・針事や縁の小春を追歩き  ・独居るだけの小春や窓の前

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 【筆洗】木枯らしが吹き、立冬も過ぎたのに、きょうもまた穏やかな天気になった−そんな小春日和を思わせる日々が、本州各地で続いているようだ。この先待っているのは暖冬だろうか、厳冬か。気になるころにめぐってくる一茶忌は、きょう。旧暦の一八二七年十一月十九日が、小林一茶の命日である▼恵まれない境遇の中、平明な言葉で多くの句を残した俳人は、小春日和の日々も詠んでいる。<けふもけふもけふも小春の雉子哉(きぎすかな)>。人の名前を思わせる「小春」のかれんな響きも、厳しさの前の平穏な日々を想像させようか▼この冬は穏やかなままかと思えば、そうでもないらしい。報道によると、南米ペルー沖の海面水温が低くなり、世界的な異常気象の原因と指摘されるラニーニャ現象が、発生したとみられる。スペイン語で「幼子イエス」を表すエルニーニョとは反対の現象で、「女の子」がラニーニャの意味である▼ラニーニャの冬は、わが国の気温も低くなる傾向があるという。日本海側の雪や西日本を中心とした寒さも見込まれるらしい。小春さんの後に訪れるのは冷たい「女の子」か▼ラニーニャ現象は昨冬も起きている。北陸などの大雪が記憶に新しい。燃料の値上がりも気になるこの冬である。寒さも雪も極端ではないのがよさそうだ▼<十日程(ほど)おいて一日小春哉>一茶。どんな顔をして真冬はやってくるだろうか。(東京新聞・2021/11/19)

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 【筆洗】小林一茶は晩婚ながら五人の子をもうけたが、そのうち四人を病や事故で亡くしている。遅くできた分、かわいさもひとしおだっただろう。一茶の悲しみの大きさは想像もできない▼<最(も)う一度せめて目を明け雑煮膳>。生後間もない次男石太郎が他界したのは正月十一日。妻が背負っているうち、誤って窒息死させてしまったという。食い初めのために用意した雑煮。せめてもう一度だけ目をあけて見ておくれ▼一茶の句が胸に突き刺さる。千葉県八街市で下校途中の小学生二人が亡くなった交通事故である。電柱に衝突したトラックが子どもたちの列に突っ込んだ。運転手の呼気からアルコールが検出されている▼朝、いってきますと元気よく学校へ向かった子どもが永遠に帰ってこない。もう一度目をあけてと願ってもかなわない。事故は被害者のかけがえのない生命とあったはずの未来を奪っていく。そして、残された家族には薄れることのない悲しみを置いていく。<石太郎此世(このよ)にあらば盆踊(ぼんおどり)>。季節が移ろってもその痛みは消えぬ▼事故と飲酒との因果関係はまだ分からない。なにかを避けるために、急ハンドルを切ったと説明しているそうだが、酒を飲んで運転していたことは否定できまい▼ベテランの運転手だったという。事故を起こせばそのハンドルが奪いかねないものの大きさがなぜ分からなかったか。くやしい。(東京新聞・2021年6月30日 )

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 八街市の交通事故を引き起こした運転手は「飲酒運転の常習者」だったし、それを会社の関係者はほとんどが知っていたという。子どもを失い、あるいは、我が子が怪我を負わされた親族には、かける言葉もない。彼は運転を仕事としている「プロ」でした。ぼくも運転する人間で、それを商売にはしていないが、半世紀の運転経験で学んだことは多い。まず運転で生計を立てているものは「プロ」だという自覚を徹底してもっていなければと痛感している。我が子を、このような事故や過失で失うという、最悪の不幸をなんとしよう。高齢ドライバーの運転事故も後を絶たない、どんなに厳罰を科しても、「当人」でない限りは事故は決してなくなりません。飲酒運転が常習となっていて、それを会社は知っていたとするなら、この事故は会社ぐるみというほかないでしょう。

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 起訴状によると、梅沢被告は6月28日、八街市内の職場に戻る途中で酒を買って飲み、午後3時25分ごろ、アルコールの影響で居眠り状態に陥り、八街市の市道で児童5人の列に時速約56キロで突っ込み、死傷させたとされる。 事故では、八街市朝陽ちょうよう小学校3年の谷井勇斗君=当時(8つ)=と2年の川染凱仁かいと君=同(7つ)=が死亡。女児1人が意識不明の重体となり、男児2人が重傷を負った。 公判後、被害者の家族らは弁護士を通じ「始まったばかりなので成り行きを見守っていきたい」とのコメントを出した。(中略)

 ◆同僚らの注意を受け流した末に…

 公判で検察側は、飲酒運転を懸念する同僚や取引先の関係者の証言などを基に、梅沢被告の飲酒運転の常習性を指摘した。 証拠調べで検察側は、梅沢被告が勤務していた運送会社の取引先関係者が「4、5年前から(被告に)会うと酒のにおいがしていた」と話していたことを明らかにした。この関係者は、梅沢被告とは月4回ほど顔を合わせていたといい、昨年夏ごろには「酒のにおいがするぞ。大丈夫か」と勤務先に警告していたという。(以下略)(東京新聞・2021年10月6日)

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● 小林一茶(こばやしいっさ)=[生]宝暦13(1763).5.5. 信濃柏原 []文政10(1827).11.19. 柏原 江戸時代後期俳人。通称,弥太郎,名,信之。別号,菊明,俳諧寺,蘇生坊,俳諧寺入道。農民の子。3歳で母を失い,8歳のとき迎えた継母と不和で,15歳の頃江戸へ奉公に出,いつしか俳諧をたしなみ,竹阿,素丸に師事。享和1 (1801) 年,父の没後継母子と遺産を争い,文化 10 (13) 年帰郷し,遺産を2分することで解決する。 52歳で妻帯,子をもうけたが妻子ともに死去,後妻を迎えたが離別,3度目の妻を迎えるなど,家庭的に恵まれず,文政 10 (27) 年類焼のにあい,土蔵に起臥するうち中風を発して死亡。数奇な生涯,強靭な農民的性格,率直,飄逸な性格が,作品に独特の人間臭さを与えている。編著『旅拾遺』 (1795) ,『父の終焉日記』 (1801) ,『三韓人』 (14) ,『七番日記』 (10~18) ,『おらが春』など。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 順不同に、一茶の句をいくつか。固執というのか、弧愁というのか。もう一度、繰り返します。人は誰だって「寂しさよ」、「寒さかな」とは口に出して言わないだけ、いかにも健気に生きているのです。あるいは、それを奇特といってもいいかもしれません。「弱音」を吐かないから、強い人なのではない。「弱音」が明け暮れの通奏低音となっていない人生なんかあるものか、ぼくはそう言いたいですね。生きるということのうちに、この「寒さ」や「淋しさ」が含まれているのであり、これがない人は存在しないでしょう。でも、これを感じられない「鈍感」という幸福境に生存しているものばかりが、いっしょになって「世知辛い世」を作り出しているのです。「負けるな一茶ここにあり」ですよ。

椋鳥と人に呼るゝ寒(さ)哉 ・雪の日やふるさと人のぶあしらい ・南天よ炬燵やぐらよ淋しさよ

・秋の山一つ一つに夕(ゆうべ)哉 ・極楽の道が近よる寒(さ)かな ・田の人や畳の上も寒いのに

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 悪趣味に堕するかもしれないが、ここに漱石の一句を出しておく。さすがに洒脱、垢ぬけていますね。

・つくばいに散る山茶花の氷りけり

 さらに、山頭火のものを。これを「童心」というのかしら。あるいは底が割れている、自然派なのか。

・また逢へた山茶花も咲いてゐる

 (一茶が受け入れていた「淋しさ」、「寒さ」がどのようなものだったか、ぼくにはわかるような気がするというのではない、それはだれにもわからない「彼一個の経験だった」ということを、改めて言いたいだけです)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。