写真を決定づけるものはなんだろうか

 【北斗星】 リアリズムを追究した昭和を代表する写真家、木村伊兵衛(1901~74年)は戦前戦後を通じて人間の暮らしを撮り続けた。ドイツ製小型カメラ「ライカ」を愛用し、被写体の自然な姿を瞬時に切り取る。その撮影術は「居合」とも称された▼木村の生誕120年を記念した回顧展が秋田市の県立美術館で開かれている。国内外で撮影した白黒写真の数々は市井の人々の表情を豊かにとらえ、当時の息遣いを伝える。スマートフォンで色鮮やかな画像を簡単に撮ることができる時代だからか、モノクロが逆に新鮮に映る▼代表作の一つで戦後の本県の農村を題材にした「秋田」シリーズは20点余りが展示されている。県のPRポスターにもなった「秋田おばこ」(53年)は多くの人の記憶に焼き付いているだろう▼シリーズの撮影行は52~71年にかけ、計21回に及んだ。案内役を務めたのは「秋田派」と呼ばれた地元のアマチュア写真家たち。「案内してくれた人がいたから木村は農村の自然な姿を写すことができた」。木村の弟子で、写真家として初めて文化勲章を受章した田沼武能(たけよし)さん(92)=東京都=は解説する▼回顧展には秋田派の写真も並ぶ。秋田シリーズ同様、多くが50年代の農村を題材にした作品だ▼戦後の高度経済成長は日本を経済大国に押し上げ、人々の生活は豊かになった。一方で農村は人口流出が進み、衰退の道をたどった。木村と秋田派が残した写真は農村の失われた情景の貴重な記録でもある。(2021/11/16)

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 写真の母親は、仕事の合間に子どもを寝かしつけているところだろうか。少し疲れがにじんでいるように見える。農作業に家事、育児と多忙を極める農村の女性を正面から捉えた一枚だ。「私の写真は、みんなの生活の延長線上にあるもの」と語った木村。作品から、日常に対して愛情のあるまなざしを感じるのである。(秋田魁新報・2021年11月12日 掲載)

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● 木村伊兵衛【きむらいへえ】(1901-1974)=写真家。東京生れ。1924年,日暮里に営業写真館を開業,かたわらアマチュア写真家として活動。1930年,花王石鹸広告部に嘱託として入社し商業写真を始める。同年,ドイツ製小型カメラ〈ライカA型〉を入手,これをきっかけにスナップ・ショットで市井の人々の姿を記録し,日本の写真に新しい表現を切り開いた第一人者となる。1932年,伊奈信男,野島康三らとともに写真同人誌《光画》に参画。〈日本工房〉〈中央工房〉を拠点に報道で写真家としても精力的に活動。戦中は,東方社で日本の対外宣伝雑誌《FRONT》の写真を担当した。戦後は,カメラ雑誌をはじめ幅広く活動,代表的なシリーズに《秋田》《街角で》などがある。初代日本写真家協会会長。没後,1975年に木村伊兵衛賞(朝日新聞社主催)が設立され,日本の写真家の登竜門となる。

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 写すのも観るのも、写真には興味があった。それで何かをしようとしたわけではなかったが、雑誌の付録についてくる簡単な写真機のキットなどをいじるのが好きだったから、それが広がっていったのかもしれない。もっとも初歩的な写真機の構造に触れたのである。以来、兄貴がカメラをいくつも所有していたせいもあって、ぼくもいっぱしにカメラマニアになりかけた時期もあった。今では、まったく触らない。写真を撮ることは皆無だし、撮られることも嫌いになった。ひたすら「写真」を鑑賞するだけの生活がずっと続いています。

 木村伊兵衛さんにはいつごろ関心が向いたのだろうか。おそらく土門拳さんなどと同時期のような気もする。高校生の頃か、あるいは大学に入ってからだったか。このコラムにある写真集「秋田」には理由は定かではないが、今も惹かれているのだ。写真集が、書庫のどこかにあるはずだ。「なんでもない写真」「平凡な写真」というものがあるとは思わない。撮られた写真は、いずれも貴重な記録であり、作品だとぼくは考えてきた。名のある写真家のものだから、「さすがだ」というのは、具合が悪いんじゃないだろうか。

 どんなものでも「作者」があるのは、その通りだが、時にはそれはどうでもいい、名前なんか知らなくても、観る側には無関係、それがもっとも素朴は作品の鑑賞法だと言いたい。ぼくは民俗学を開いた宮本常一さんの写真も好んで観てきた。彼は専門的に写真を学んだ人だとは思わないし、彼の興味や関心から「撮りたいように撮る」という態度で一貫していた。だから一枚の写真を出されて、撮影者の名前が伏せられているとき、ぼくたちは、もっとも素直な態度で作品に応接するのだ。木村と宮本を比べれば、「そりゃあ、木村さ」というのは、鑑賞法としては純粋じゃないな。(右上の写真は木村さんの「横手」、1952年6月に撮影)

 写真は、絵画や文学、あるいは音楽とは決定的に異なるともいえよう。作者の才能以上に「機器(カメラ)」がものを言うこともあるだろうし、偶然性が作品の価値を決めるということもあろう。そのことをとやかくいうのではない。いわゆる「決定的瞬間」(というもの)の格率の高さが、プロとアマを明確に分ける基準のようなものだともいえる。しかし、そういって「写真芸術」(この名称も無条件では受け入れられないかもしれない)を軽視しているのでもなければ、貶めているのでもないのは、いうまでもない。たくさんの写真を興味本位に眺めてきた結果、結論というものではないけれど、ぼくにはそのように思えるのである。ここに岡本太郎氏を持ってきてもいい。「芸術的才能」があるからというのは、的が外れている。誰にだって「才能」はあるからだ。問題は「経験の場数」(それだけではなかろうが)によるのではないか。(左の写真は山口県萩の見島の一場面。宮本常一さん撮影、1960年代)

 いつでもこんな問題が出てくると、ぼくは法隆寺を思い浮かべる。この寺の設計士も建築家も誰一人分からない。いずれも渡来の「無名の職人」たちと、民衆の共同作業だったろう。作者がわかるだけ、余計ではないかとさえ言いたいのだ。「名所」「旧跡」の作者はだれか。「自然と時間」としか言いようがなかろう。「写真」はそれと同じだというつもりはないが、どこかで符合するところがありはしないか。くわえて、被写体の質量というか、重量感というか、それは決定的に重要な要素でもあろう。文学や絵画(彫刻なども)、あるいは音楽(作曲や演奏)などとは根本のところで成り立ちがちがっているのが「写真」だ。素人がいきなりバッハを演奏することは不可能だし、絵筆の心得が生半可なら、まず画はまともには描けけない。カメラなら、誰だって(犬や猫でも)シャッターは押せるのである。だから、「偶然」「瞬間」という「間」の見付け方(捉え方)が、写真家の生命なのかもしれぬ。これは決定的ではあるだろう。(右は、木村作「秋田おばこ」1953年撮影)

 「戦後の高度経済成長は日本を経済大国に押し上げ、人々の生活は豊かになった。一方で農村は人口流出が進み、衰退の道をたどった。木村と秋田派が残した写真は農村の失われた情景の貴重な記録でもある」(コラム氏)ということは本当だし、だからこそ、木村は「報道写真家」と呼ばれたのであろう。写真は一面では「芸術」であり、他面では「記録(歴史)」でもあるといえるだろう。「芸術であろうがなかろうが、「歴史」を映さない「作品」は、なんと呼べばいいのか。

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 余話ながら 下の写真と新聞記事について。右の写真は「素人写真家(撮影当時)」の大野源二郎さんが写したもの(1952年11月)。「秋田ビジョンコンテスト」があり、その後で出場者の撮影会があったそうだ。大野さんも急遽参加して、映したのがこの写真。この写真を見て木村伊兵衛さんは、この女性(当時高校生)を取りたいと、翌年八月に来秋し、時間をかけて撮影。それが「秋田おばこ」になったという。大野さんは素人写真家で、手に入れたばかりのカメラで、「秋田ビジョン」を撮ったと言われます。木村さんの案内役を務めたそうです)(上の「傘を被った女性」と下の「写真」は同じ人物。「写真」というのはむずかしい、ぼくには、よさも悪さも、よくわからないですね。理屈はつけられそうですが。新聞記事の左は「洋装」の「秋田おばこ」だそうです)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)