七つまでは神の内

<あのころ>七五三にも戦時色   国民服で参拝

 1940(昭和15)年11月15日、子供の成長を祝う「七五三の日」。数え年で男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳に神社にお参りし健康を祈った。泥沼化した日中戦争下の時勢で、太平洋戦争に突入する約1年前。子供の晴れ着も国民服ともんぺの戦時服だった。(共同通信・2021/11/15)

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 そもそも「七五三」とはどういう行事だったか、今あるような形はいつから始まったか、そんなことにはお構いなしで、お宮に出かけて、「千歳あめ」を買って、写真を撮って帰ってくる、そんなことらしいですね。それで結構なんですが、せっかくですから、その縁起や由来なども少しは知っておいても毒にはならないでしょう。いろいろないわれや民俗伝承がありますので、これぞ「七五三(「しめた」ともいう)」という決定版はなさそうです。ヒントは「七つまでは神の内」「七つ前は神の内」という言い習わしです。医療があまり進んでいなかった時代、幼時の生存率はきわめて低かったと思われます。したがって、三歳・五歳・七歳という節目に、世間に対して子どもの無事を「お披露目」する意味合いがあったとされています。あるいは、この子はわが家で大事に育てますよという「子育て宣言」でもあったのです。その裏には「悲惨な子殺し(間引き)」の影もあったかと思われます。

 今日のような習慣が定着したのは「江戸期」とされます。これは「冠婚葬祭」の華々しい、厳かな展開と同じように、このような慣習を大きく商業用におぜん立てする風が始まったからです。今日の「(旗日の)商戦」の賑わいを見れば、納得がいこうというもの。(昨年来のコロナ禍で、少しは「自粛」というか、「控えめ」が当節の仕来りとなりました。いずれ、旧に復して「大賑わい」が戻ってくるのかどうか。成人式や結婚式、あるいはお葬式も、「準備万端」一切お任せという商業主義派、フランチャイズ派の面々は、捲土重来を帰しているはずですから、昔日の賑わいが戻るのではないでしょうか。「我が子」だけの無事ではなく、地域の子どもの成長を祈る日を、それを社会全体で祝ったということがあったらしいのです。

 このような行事に、ぼく自身が参加した記憶もなければ、証拠(記録写真)もありません。まずは放ったらかしだったでしょうね。誰も構ってくれなかったし、そんな暇もなかった時代の子どもでした。我が家の子どもたちはどうだったか。世間並みに、近所のお宮に伺った記憶はあります。そのおかげで成長したのか、神の加護があったのか、ぼくにはよくわかりません。

● 七五三(しちごさん)= 幼児の成長期における重要な儀礼の一つ。一般に男児は3歳と5歳,女児は3歳,7歳で行う。男児はハカマギ,女児はオビトキ,オビムスビまたはヒモオトシの祝いと称して,それまでの一つ身の着物から三つ身,四つ身などに着替えたり,新しい帯を締めて宮参りをすることが各地の習俗にみられる。「七つ前は神のうち」というや幼児葬法にみられるように,この時期に袴や帯を幼児の身に着けて成長を祝う儀礼である。霜月祭の日 (11月 15日) が一般に選ばれ,こうした儀礼が七五三としてまとめられたのは,江戸時代中期以降のことで,商家の営業政策の影響が大きい。今日ではますます華美になりつつある。(ブリタニカ国際大百科事典)(左上の絵は鳥居清長・天明四(1784)年ころ)

● 七つ前は神の内=数えどし七歳未満の子どもはに属する存在で、わがままや非礼があっても責任は問われない。(ことわざを知る辞典)(*この説明には、少しばかり異論があります。「神に属する存在」はいいとして、この先も無事に生きていけるのか、あるいは神のもとにいることになるのか、まったくわからない存在として受け止められていたのです。神から授かった児ども(子宝)、つまり神の「使い」として、神事にはさまざまな参加が、幼児や児童に求められていたこともあった)

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 何はともあれ、我が子の無事を祈り、この先の健康を願う行事として「定着」した感がありますから、傍からとやかく言わない方がいいでしょう。しかし、いつなんどき、「護国」のため、「しこのみたて【醜の御楯】」とならないとも限りません。くれぐれも、地上の平和も、深く祈願したいものです。もちろん、「一国平和主義」などは、あり得ないことも忘れたくありません。

 お宮参りならどこでもいいというのも、今日流の「おおらかさ」でしょうか。京都の八坂神社の主祭神は「スサノオノミコト(素戔嗚尊)」です。各地にあります護国神社は、いわずとしれた「国事および戦争殉難者の霊を祀った神社」です。今日でも、各都道府県には一社以上が存在しています。その他、土地土地の「産土(うぶすな)神社」など、お参りするののツアーを組む必要がありそうなほどに、お宮(神社)は林立・乱立という風情ですね。

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●護国神社=1939年(昭和14)、従前の招魂社(しょうこんしゃ)を改称したもの。幕末から明治維新前後の国事および戦争殉難者のために、各藩はそれぞれ招魂場を設けて慰霊祭を行った。また1868年(明治1)には京都東山に霊祠(れいし)(現在の京都霊山(りょうぜん)護国神社)が設けられ、各地の殉難者の霊が合祀(ごうし)された。翌年には東京招魂社(現在の靖国(やすくに)神社)が創立された。これらの招魂社は全国に100余社となり、75年にはすべての招魂社の祭神が東京招魂社に合祀された。1939年、招魂社の制度の不備を改めて護国神社と改称。第二次世界大戦前は内務省の管轄で、府県社、村社に準じて扱われたが、戦後は独立の宗教法人としてほとんどが神社本庁に所属する。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)