時世時節は変わろとままよ 義理と人情…

<あのころ>田中首相に金脈問題

 組閣会見で追い込まれる

 1974(昭和49)年11月11日、第2次田中内閣が2回目の改造を行い、首相官邸で記者会見。文芸春秋「田中角栄研究」の発売から1カ月、田中首相の金脈問題が反響を呼んでいた。質問はその一点に集中し、汗を拭きながらの対応となった。半月後の26日に退陣を表明、2年4カ月の政権に終わりを告げた。(共同通信・2021/11/11)

 「今太閤」と言われ、「少卒宰相」と言われた田中角栄。ここに「奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、に風の前の塵におなじ」という無常観を持ってくるのは場所を弁えない仕業だと言われるかもしれない。位、人臣を究めると言いますけれど、彼は「奢っていた」のか、「猛き人だった」のか。政治家に限らず、人間に具足した像(理想像)を期待するのはまちがいであり、無理難題であろうと思います。間違いや欠陥があってこその人間、だとすれば、功罪相半ばし、毀誉褒貶が避けがたい人間というものは強くもあり弱くもあるというものでしょう。

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 上掲写真の主は、この記者会見から一か月足らずで「総理の椅子」を降りた。さらなる「黒い霧」が襲いかかり、まるで「追い打ち」をかけるかのように、いわゆる「ロッキード事件」なるものの「政変劇」が始まった。真相は闇の中に隠され、かくして「関係する人々」の多くは鬼籍に入ってしまった。「政治とカネ」といわれますし、実際に、この問題は、いつでも政治の背後にあるいは根底に流れてきたのは事実です。田中さんの「記者会見」の一場面が上掲のスナップです。ぼくはこの会見を実際にテレビで見たはずです、しかし、ほとんど記憶に残っていません。理由はよくわからない。そもそも「田中金脈」問題に始まる、「田中は追放劇」、そこには「政治的陰謀」が付きまとっています。その典型が「ロッキード事件」でした。ここでは触れませんが、アメリカからの「戦闘機購入」をめぐる政治闘争が背景を形成しています。その一方の主役も後年、総理(N.Y氏)にまで上り詰めた。「ロッキードvsグラマン」という米国軍事産業の熾烈な戦い(軍事産業界の覇権争い)が、この島を舞台に演じられ、角さんは生贄になったのです。その遠因となったのが「日中交渉」の旗振り役だったからだ。米(反中・反共)の忌諱(きき・きい)に触れたと言われていた。

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 上の写真は1972年6月17日の「佐藤栄作、最後の記者会見」のものです。(同日付の朝日新聞夕刊)新聞は偏向していて、「自分への批判ばかりを書く」「だから、新聞には話さない。テレビがいい、カメラはどこか」といって画面に向かって「鬱憤」を晴らしたところです。lこの会見の記憶は鮮やかに残っています。理由ははっきりしています。「嘘つきソーリ」だったからです。この佐藤何某は三代前の「(嘘つき)ソーリの伯父」でしたから、甥っ子は、この伯父を模倣した、しかもそれを大きく超えて「嘘つき」を批判や非難から解放したのだ。佐藤さんは、沖縄への「核持ち込み」という「密約」をはたして「沖縄の本土並み返還」を実現したソーリでした。岸信介の実弟。田中は、彼の「望まれなかった後継」(佐藤の望んだ本命は福田赴夫氏だった)で、それが田中氏の失脚の一因であったかもしれない。それにしても、こんな「お粗末な」人間が一国の総理大臣だったのです。これ以来、碌でもない者ばかりが高位・高官にしがみつくようになったかもしれん、気のせいですが。報道(特に新聞)を目の又気にしたところも甥っ子は取り入れたのでした。

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 佐藤辞任表明当日の会見模様や、その余波を伝える新聞各紙(左は朝日、右は読売)です。今を去る、半世紀ほども前の政治的(醜い)風景ではありました。「ああ、この総理を七年七か月も」というのは読売です(つい先ごろも、同じようなことがありましたな)。そうは言うものの、「隔世の感」というのは、こんな時に使うのでしょうか。会見を中継したのはテレビ、しかもN✖Kが一手に引き受けていますのは、これもまた遺伝子のなせる業か。この「ああ、この総理」の後継が田中角栄さんでした。いろいろなエピソードがありますが、すべて割愛します。

 変われば変わるもの、半世紀を隔てて「記者会見」模様も一変したのでしょうか。「何を伺うか」、あらかじめ紙に書いて出せという「お達し」は、いつから始まったのか。下は「前総理」の驚きの「記者懇談会・インタビュー」もどきの(ヤラセ風景)写真です。これはいったい何を狙ったのか。一番奥の真ん中が「ソーリ」、その両脇が三社報道部の記者たち。ここでもあらかじめ、質問事項は提出しているから、まるで「お芝居」に国民は付き合わされたも同然。このソーリは、国会を開くことから逃げ回り、殆んど自分の「お言葉」では話せないという「特技」を人民に知らしめた。もちろん、海外にも。「議会」というから議論や討論を尽くす場なのかと思いきや、言論がもっとも苦手で、嫌いな輩が「ソーリ」になるという珍しい国です。この前のソーリも、その後のソーリも似た者同士。まず国会を開かない、それで民意を受け取る「代議士」だというのですから、お粗末君君君君たち、ですな。

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 記者会見ならぬ、記者懇談会が開かれた官邸の一室の壁には何やらユカシイ「書」が掲げられていました。よくよく見ると「隆熾(りゅうし)」と読めます。この書は「嘘つき元ソーリ」の中学校時代の恩師が書かれたとか。田中節山という書家です。ぼくは書にも暗いので、これがどのような雰囲気の書であるか、皆目見当がつきません。隆は隆起とか隆昌というように「盛んなさま」であり、「熾」は「熾烈」とか「熾(おき)」という言葉に見られるように、赤々と日が燃えるような様子です。さぞかし「隆熾」というのは「烈火」に重なるものではないでしょうか。官邸にこの「書」とは不穏当だという気もします。そのような「書」がかかっている場所で「猿芝居」ですから、笑っていいのか、泣けてくるというべきか。(猿は機嫌が悪かろう、あれほどひどくないのに、引き合いに出すなと)

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 昔の新聞記者は凄かったと言いたのではありません。また総理大臣も偉かったとは拷問を受けても言わないね。この半世紀、島全体が激しい地盤沈下を続けてきたとは言えます。全体というのですから、あらゆる局面・部門で、けたたましい劣化や頽落が間断なく続いていたのでしょう。それはまるで「地球温暖化」に警鐘を鳴らすのがおそ過ぎたと指摘されているように、今ごろ気づいても、この島の(人間という)地盤沈下を防ぐことは不可能なことになりました、できるのは、このままゆっくりと沈下を続けることです。さすれば、ほとんどの人が気が付かないで「我が世の春」だか「我が人生の秋」だかを、心おきなく謳歌できると見込んでいるからです。でも、そろそろ気が付いている人も少しばかりではありますが、表れてきましたね。「遅かりし、由良之助」とならないように。

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(毎日新聞・2020年2月13日)

HHHHHHHHHH

・淋しさに飯食ふ也秋の風

・老いの身は日の永いにも泪かな

・けさ秋やおこりの落ちたやうな空 (いずれも、一茶作。「淋しさに…」は彼の六十二歳、死の三年前の作)

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