【水や空】「やってる感」の行く末 出来はよくても仕上がりが遅い。出来はまずいが早く仕上がる。どっちがいいか。俗に「巧遅(こうち)は拙速に如(し)かず」という。ぐずぐずするより、出来が悪くてもさっさとやる方がましだ。中国のいにしえの武将、孫子の言葉だという▲いわば「スピード感」の勧めだが、それも場合によりけりだろう。人は時に、中身はともかくも行動の早さで評価を得ようとするが、今で言う「やってる感」を示すだけでは果実を生まない▲会計検査院が先ごろ公表した検査報告は、政府のむなしい「やってる感」を浮き上がらせる。コロナ対策として昨年、全世帯に配った「アベノマスク」などの布マスクは、今年3月の時点で8200万枚余りが倉庫で眠っていた。115億円分になる▲保管料は3月までに6億円に上り、この先も年間、億単位を要するという。不良品の続出で、検品にも21億円かかった▲アベノマスクは不要論が強かった上、配られた頃には品薄は解消されていた。介護施設向けのマスクは「一律配布」の予定が一転、希望する施設への配布になり、大量に余ってしまった▲出来は悪いし、やるのも遅い。巧遅でも拙速でもない、これを何と呼ぶのだろう。余ったマスクの活用を政府は「必要に応じて検討する」と言うにとどまる。「マスク騒動」の後始末が終わらない。(徹)(長崎新聞・2021/11/10)
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だれがついても「嘘」はいけないと言われる。確かに「嘘はいけない」のはその通りですが、誰が、が問われなければ話になりません。学校の教師が「嘘をついてはいけない」と子どもに言うのは当然。しかし当の教師自身が「嘘をつく」としたらどうか。なんだ、教師のくせに、教師ともあろうものが、と世間の非難を受けるだろうし、それに止まらないかもしれません。地位や身分によって、同じ嘘をつくにも、やはり「重み」というか「責任」を問われる度合いが違うでしょう。ぼくはかなり前から非常に訝しく思っていることがあります(いくつもありますので、これはそのうちの一例にすぎません)。企業などにおいて、社会的責任を問われるような事態が生じたとき、その地位にあるものが、しばしば「報酬のカット」「給料の何か月分を返上」という報道がなされます。それで事態は沙汰やみになるのでしょうか。
実際に、勤務していた職場で、交付(税)金の不正受給問題が生じたことがありました。受給者の責任が問われたし、その人物を招聘した企業のトップも社会的責任を問われていました。しかし、しばらく見ていると「誰も責任を取らない」態度が見え透いていた。ぼくはトップに対して「おかしいではないか。責任をどう考えているのか」と問いただしました。彼は、実に鵺(ぬえ)のような男だったが、のらりくらりと言を左右にして問題を誤魔化そうとした。それでもぼくはさらに問いただした結果、やおら、トップの椅子に座っている輩が「給与三か月分をカット」と自ら言い出し、それで逃れようとしたのでした。ぼくは怒るのもおろか、「あなたは、たった三か月分の給与で、総長のポストを買うのか」と当てつけに言った。さすがは鵺ですね、「その通り」とは言わなかったが、ついに無責任を貫き通した。ぼくは、勤め先には希望も何も持っていなかったから、こんなものなのだと、彼等とは口も利かなくなった。
総理大臣が、のべつ幕なしに嘘をつく、これがなんの支障もなく許されてきたし、今でも許されています。その証拠に、誰一人「責任」を明らかにしたものはいない。小学生が母親に「宿題はやったのか」と聞かれ、「とっくにやった」と答え、それがバレて大目玉をくらうことは当然。しかし、▼▼総理大臣や✖✖大臣が嘘を言っても何の咎めも受けないというのは、何処から見てもこの社会「狂っている」し、「異状である」であっると言われるでしょう。

「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」という言葉があります。ぼくは決して好きな言葉ではありませんが、言わんとすることは十分に理解していると自信を持っている。仏語で「貴族は義務を負う」というのが、元来の意味です。もともとは「身分社会」における、「上位者の下位者への施し(寄付)」の要請だったと言えます。もてる人はもっていない人に施す、恵むべきだというのは、まったく同じではないにしても、それに近いでしょう。ぼくが勤めていた学校で、総長はしばしばこの語(ノブレス・オブリージュ)を「入学生」や「卒業生」にむけて「騙って」いました。ぼくは仰天したことを今でも記憶しています。そのこころは、単純発想の持ち主の言う趣旨は「君たちは高貴な存在なのだから、立派に義務を果たさなければならない」というのだったか。今日日(きょうび)の大学生に「高貴な人々」といったな、ということは、その学校の「総長」だからさぞかし、「吾輩は高貴の高貴」だと言いたかったんですね。冷水をかけてやりたかった。これもまた、自分が座る椅子の意味を取り違えている類でした。
嘘八百を並べて、なお自分は「君臨」しているつもりの無能無知に、どんな薬があるのでしょうか。この輩は、ぼくの勝手な類推ですが、戦々恐々として「少年時代を過ごし」「会社員時代を送り」、やがて政治の世界に足を踏み入れた。相変わらず「自信」などは微塵もなかった。第一、それに値する「実力」が著しく欠けていたからでした。やがて、彼は要領を覚えたのです。「嘘を真らしく」つくことを徹底したと言えます。嘘を嘘としてではなく、嘘を真らしく言い募れば、「それは真」になるという経験を重ねたのです。それがいつの時期だったか、ぼくにはわかりましたが、今は触れない。やがて、彼は嘘の使い道に精進し、いよいいよ「嘘も方便」の大人(うし)になった。それを取り巻きが許したのです。(これを書きながら、「空しいねえ」という嘆息が止まりません)

いまだに自分は「大政治家」だという自己欺瞞(嘘)に酔い痴れています。「自分は世界の指導者」だと自己認識しているのも、可哀そうだし、またそんな方弁を許す「世界の指導者たち」もたかが知れているというばかりでしょうね。先般の総裁選や総選挙、あるいは組閣に際して、いっぱしの注文を付け、いかにも「陰のキングメーカー」と、自分を騙し続けています。「おのれの一存」で何かができるという、恐ろしいまでの倨傲ぶりです。周りはとっくに、彼は何者でしかないか(お里)を知っている。「裸の王様」じゃない「裸のおっさん」だということです。でもそれを言わない。まだ彼は議員であり続けているからです。この手の輩は信じられないほど「猜疑心」「復讐心」「妬みごころ」が強い。っそれが「生の動機」となっているからだ。そして、今、彼は「大派閥の領袖」となったそうです。自分で身を引くことが出来ない人間ほど哀れな存在はないと、ぼくは小なりと雖も、それなりに身近に見てきた経験を通して実感している。「俺しか社長はできない」「総長になるのは、あなただと、みんなから言われる」「まだ引退するのは惜しい」と、世間は無責任に「バカを嬲(なぶ)り者にする」のだ。怖いですよ世間というのは。でも、それに甘んじるというか、それを真に受けるところが、救いようのない愚か者というべきでしょう。
昔、「闇将軍」と言われた宰相がいました。「陰の実力者」とも。その人の最後は決して美しくもなければ、潔くもなかった。要約して言えば、子飼いに手を噛まれた。あるいは「軒を貸して、母屋を取られた」態(てい)でした。乗っ取った人間は、裏切りによって「宰相」になったが、この人も、なにかと「闇の世界」と言われる筋とつながっていた。その余韻(余波)はいまだに継続しています、特に政権党においては。おそらく、この島社会の政界は、戦時中以来、先ず根っこの部分では変わらないままで歴史を重ねてきたのです。今時、「そんなことがあるものか」と驚かれそうですが、「蛇の道は蛇」と言います。Set a thief to catch a thief. という異国の表現さえあります。

横道に入り、つまらない話になりましたが、ぼくが指摘したいのは、それなりの地位に座る者が犯した過ちは、庶民のおっさんやおっかさんの過ちと「同日の談」ではないということです。そんなことを言ってみても、権力を監視する役割を果たすべき存在が、おしなべて「権力に靡いている」のですから、この社会が腐敗堕落の極みにまで行くだろうというほかないのです。
コロナ禍はまだ収束していません。今回のパンデミックを利用(悪用)して、様々な名目で「税金」がまかれています。もちろん必要なところに必要なだけ、それはは当然であり、必然です。しかし「マスク」に見られる「公金悪用」は枚挙にいとまがないようです。湯水のごとく、いったいこの後始末をだれがどのようにしてつけるのか、「それを言っちゃあ、お終い」なのかどうか。政治と政治権力がすることとは、人民からかき集めた「税金」をあらゆる手法を使ってばらまくことですが、仮に「百万円」のカネを配るのにかかる「経費」が五十万とか八十万とか、残りの二割や三割を「お為ごかし」で配布するという詐欺に等しいことを、これまでも、これからも続けるのでしょう。
誰か一人だけが「悪」ということはない、「類は友を呼ぶ」「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」「毒を食らわば皿まで」と、だんだんに激しいことになりそうですね。「マスク」に目を付けるというのは並ではなさそうです。「ソーリ、今マスクを配れば、国民は(単純ですから)泣いて喜びます」と取り巻き(官僚)が言ったという。ならば、第二第三第四の「マスク」が続いているはずです。「マスク」には「仮面」であると同時に「容貌」でもあるという解説がついています。その「仔細」はどういうことになっているのか。

人間の顔は、一面では「仮面」であり、他面では「容貌」なんでしょうね。マスクを外して現れたのが「本物」であるかどうか、判然としなくなりはしませんか。マスクを剥がし、仮面を取り除け、そうして、そこに現れてくるのが「真顔」だと見れば、そうじゃないことはしばしばです。世間では非難をこめて「厚顔無恥」などと言いますが、ぼくに言わせれば、「厚顔無神経」なんですね。無恥は無神経でもありますから、厚顔の元ソーリは「無神経」というべきでしょう。その意味は、他者には一切斟酌しないという大特技をもってするのです。「唯我独尊」自分だけの「(偽りの)権力者像」を後生大事に、いったいどこまで持っていくのか。「蛙の面に✖✖✖」というように、彼の面には「何をかけても通じない」ということか。大した玉ですね。でも、:悪運が尽きかかっているんじゃないですか、いや、ホントに。
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