雲も自分のやうに途方にくれてゐるのだ

 【有明抄】天上界の怒り 秋の空には鰯(いわし)や鯖(さば)が泳ぎ、羊もいる。倉嶋厚さん監修の『風と雲のことば辞典』を開くと、秋に限らず、さまざまな雲の呼び名が載っている。人は空を見上げて天候を読み、形や流れを変える雲の様子に想像を膨らませた◆詩人の山村暮鳥は〈おうい雲よ〉と呼び掛けたが、歌手の武田鉄矢さんも「雲がゆくのは」で歌った。〈きっとどこか遠い国で僕よりつらい心の人がいるのだろう/おーい雲よ/僕はいい/我慢できるよ/その人の瞳に浮かんでくれ〉と◆この歌は映画「ドラえもん のび太と雲の王国」(1992年)の主題歌だった。のび太君たちが迷い込んだ天上界は地上の大気汚染に苦しみ、人間や動植物を避難させた上で大洪水を起こし、文明を破壊する計画を進めていたという設定。30年前の作品だが、近年の気候変動による大雨を予見したような話である◆快適な生活が天上界にどんな影響を与えているのか。「温暖化のおかげで北海道のコメがうまくなった」と発言した政治家がいたが、天上界が聞けば怒り心頭だろう◆気候変動に関する国連会議COP26が英国で開かれている。岸田文雄首相も出席した首脳会合では、各国が温暖化対策の前進を強調した。秋空の雲は穏やかな印象だが、天上の異変は続いている。地上の一人として、快適、便利の代償に思いを寄せたい。(知)(佐賀新聞・2021/11/09)

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 倉嶋さんのお名前が出てきました。懐かしさと同時に、ぼくが気象というか天気のあれこれに興味を持つきっかけをくださった方として、忘れがたい。さらに長期間、「うつ病」を罹患されていたことも、倉嶋さんの想い出と密接に結びつけられています。さいわいに、というべきか、ぼくは「うつ病」になったことがない。「あんたは先ずならないよ」と、誰彼となく言われてきましたが、内心では「あるいは、…」という気分に襲われないでもないのです。温厚そのものだったような倉嶋さんです。気象庁の予報官を務め、各地の気象台に勤務して退官。その後、ある放送局の気象解説をされていた。ぼくは、この時に気象の基本について丁寧に説明(解説)される倉嶋さんに、とても関心を寄せていたし、好感を持ちました。

 昔から、理由は不明でしたが、「天気」に関してはなにかと気になっていた。朝焼けや夕焼けをみて翌日の天気を占ったり、気温や湿度などの加減にも神経を使うようになった、そのきっかけけは何だったか。ひょっとして、外遊び専門の子どもだったから、天候の加減はいつも気になっていたのかもしれない。ぼくの印象を言えば、倉嶋さんは、いわば「文人」だったと思う。粋だったんですね。少年の頃、ぼくは輪島測候所に遠足だったかで訪問し、いろいろな機器が天気(気象)を観測しているのに驚いた。まだまだ、「予報」の当たり外れが多かった時代です。やがて「ひまわり」が打ち上げられ、格段に観測の精度は上がったと思います。倉嶋さんの時代から、今はだれもが気象予報士になる時代になりました。大金には五万という(というのは大げさです)気象衛星が各国によって打ち上げられ、地球にさまざまな情報を送信しています。日本劣島近くに接近する台風の進路予想も、各国のものが当たり前に比べられることが出来るのです。確かに便利、でも「便利は不便」でもある。まるで車の運転にカーナビが果たすのと同様の役割を、「気象衛星」が果たしているのです。ぼくたちは、自然現象に関心を強く持っているのか、その反対なのか。

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● ひまわり=日本の気象衛星。1977年7月14日米国のケープ・カナベラルから打ち上げられた1号は日本最初の静止気象衛星となった。以後1981年2号,1984年3号,1989年4号,1995年5号,2005年6号,2006年7号,2014年8号がいずれも種子島宇宙センターから打ち上げられた。(マイペディア)(上の写真は日刊工業新聞:2017年7月14日より)

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 お天気キャスターの倉嶋厚さん死去 エッセイも人気

 気象庁主任予報官を務め、気象キャスターの先駆けとして活躍した倉嶋厚(くらしま・あつし)さんが亡くなったことが4日、分かった。93歳だった。/ 長野市出身で、気象庁に入庁後、札幌管区気象台予報課長や鹿児島地方気象台長を歴任。定年退職後はNHKの解説委員として「ニュースセンター9時」の気象キャスターを担当し、エッセイストとしても人気を集めた。/ うつ病を克服した自らの体験を記した著書「やまない雨はない~妻の死、うつ病、それから…」はドラマ化されるなど話題を集め、自殺防止を呼びかける講演活動に力を注いだ。朝日新聞の連載「患者を生きる」でも自身の体験を紹介していた。(朝日新聞・2017年8月4日 19時55分)

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 本日山村暮鳥さんについて少しばかり雑感をと、駄文を始めました。日本の詩人の中でも、けっして「本流」でもなければ「傍流」でもない、いわば、詩の世界(あるいは詩壇か)からは屹立して生きた詩人だったように、ぼくは考えています。わずかに四十歳で死去。結核にのために茨城の地で療養、そこで「雲」編纂中に最期を迎えたという詩の刊行はその翌年でした。この先どういう仕事をされたか、見当もつかない生き方を求めていたと、あまり確かな根拠もなく、ぼくは言いたい気分です。信仰と芸術、いわば「大正自由主義」の時代の波を真正面から受けて、斬新な詩と敬虔な生活を交わらせようとしていたのかもしれません。でも、「雲」を読むと、そこには、ゆったりとした、あるいはおおらかな、自然への賛歌が読みとれるようにも思えるのです。自然への賛歌が、そのままで「信仰」になっているようにも見受けられてくる。

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       雲                            山村暮鳥

  序

 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。/ そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。
 その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。/ むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。/ これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。/ また言ふ。――花を愛すべし。實なほ喰ひつべし。/ なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。/ 自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。齡の效かもしれない。

 藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。/ これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。/ それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。/ かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。

 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。/ だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。/ 詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。/ 善い詩人は詩をかざらず。/ まことの農夫は田に溺れず。/ これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。/ なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

 ――藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。
 藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に關はる。/ その妖怪を逃がすな。/ それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。/ 何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。         茨城縣イソハマにて      山村暮鳥(青空文庫)

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 「藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない」「何よりもよい生活のことである」という、この「生活」はもちろん、信仰に裏打ちされ、支えられているのであるでしょう。しかし、この「雲」一編を繰り返し読んでいると、暮鳥自身が「雲」であり、自然であることがはっきりしてきます。「雲もまた自分のやうだ / 自分のやうに / すつかり途方にくれてゐるのだ」それを「自然への回帰」というのがいいのか、あるいは「自然との一体化」と言うべきだろうか。
                                                                               

  

丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる

  おなじく

おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いはきたひら)の方までゆくんか

  ある時

雲もまた自分のやうだ
自分のやうに
すつかり途方にくれてゐるのだ
あまりにあまりにひろすぎる
涯はてのない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひよつこりとでてきませんか
病牀の詩

朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿體なし
そのひとつびとつよ

● 山村暮鳥(やまむらぼちょう)(1884―1924)=詩人。明治17年1月10日、群馬県に生まれる。本名土田八九十(はくじゅう)。東京・築地(つきじ)の聖三一神学校卒業。伝道師として東北各地を放浪のかたわら、前田林外らの『白百合(ゆり)』に木暮流星の筆名で短歌を投稿、創作活動を始め、1910年(明治43)人見東明(ひとみとうめい)らの自由詩社に参加、機関誌『自然と印象』に『航海の前夜』その他を発表する。以後『文章世界』『創作』『早稲田(わせだ)文学』などを舞台に、精力的に詩作を続けた。処女詩集『三人の処女』(1913)を刊行後、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、室生犀星(むろうさいせい)らと人魚詩社(1914)をおこし、『卓上噴水』(1915)を創刊するなど、文学と信仰のはざまを大きく揺れ動きながらも、生の苦悩と覚醒(かくせい)を基調とした独自の詩風を確立した。おもな詩集にシュールな詩風で知られる『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915)、「人間」キリストを主題とした『風は草木にささやいた』(1918)、『梢(こずえ)の巣にて』(1921)のほか、『雲』(1925)、遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926)などがある。小説、童話なども手がけた。大正13年12月8日没。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)