「社長のおごり」自販機 落語「長屋の花見」。おごりだと言って大家が店子(たなこ)連中を花見に誘う。ところが酒は煮出した番茶を薄めた代物。お重を開ければ「大根とたくあん」が「かまぼこと卵焼き」の代わりで、一同肩を落とす▲それでも「はたで見てりゃ、花見のように見えらあね」と大家が言うので渋々土手へ。「おれのおごりだと思うと気詰まりだろうから、きょうは無礼講だ」と調子に乗ると、ばかばかしいと店子は陰口をたたく。一句ひねれば<長屋じゅう歯をくいしばる花見かな>と相成る始末▲こちらは渋ちんにあらず。「社長のおごり自販機」を飲料メーカーが開発した。オフィスに置いてもらうという▲社員2人が同時に社員証をかざすと、飲み物が無料で2本出る。コロナ禍で在宅勤務が広がり、職場で雑談の機会が減っていることに着目した。無料の分のお代は勤め先が持ち、「社長の―」を「工場長の―」などに変えてもいい。これなら店子、いや、社員も陰口をたたくまい▲こぼしたって惜しくねえ―と落語では偽酒をつがれる店子がやけになるが、オチは秀逸。湯飲みに「酒柱」が立ってます―。吉凶にはこだわらぬ小欄だが、茶柱一つにも和む職場が健在だといい。(中國新聞デジタル・2021/10/24)
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「天風」というコラム名、前から気にはなっていました。どうでもいいことに拘(こだわ)るのもぼくの悪癖です。取り立てて深い意味があるわけではなさそうですが、この場合は「天高く吹く風」という程度の意味だと思います。空気の流れも、海流のようにそれぞれの深度や高度に応じて水流や気流の性格は変化するのかもしれません。「せいてんきりゅう(晴天気流)」という語がありました、なんでも「よく晴れた日に対流圏の上部,ジェット気流の近傍で起こりやすい強い気流の乱れ」(広辞苑)といいます。さしずめ「天風」の居場所はこのあたりでしょうか。だとするなら、なにか特別の沿革・縁起を持った「コラム」だと思われますが、普段読んでいても、あまりそんなことを感じられません。
水は高いところから低い方に向かって流れる。同じように、空気の密度の高い部分(気圧が高い)から低い方(気圧が低い)に向かって空気が流れます。これが「風」という現象です。また陸から海に(陸風)、海から陸に(海風)向かって流れるような、「温度差」によっておきる「風」もあります。(なんだか、「お天気おじいさん」みたいになりそうだ)詳細は略しますが、要するに「天風」がどういう風で、どこからどこに向かう風なのか、ということが知りたいのですが、まるで「暗中模索」の手探り状態です。
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● きあつ【気圧 atmospheric pressure】=気象学では気圧とは大気の圧力の強さを意味する。ある場所の気圧とは,そこの単位面積の上に大気の上限まで鉛直にのびた気柱の重さに等しい。したがって,地表より高所に行くほど上部の気柱が短くなるので気圧は低くなる。地面近くでは厚さ約80mの気柱の重量が10hPa(ヘクトパスカル)の気圧を与えるが,上空では大気の圧力が減り,また大気の密度が小さくなるので,同じ10hPaの気圧を与える気柱は,たとえば1万m上空では約250mの厚さを要する。(世界大百科事典第2版)
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空気を読むということが一時よく言われましたが、表現を変えれば「風を読む」と同義です。「風見鶏」が存在する所以ですが、どういうわけだか、この「鳥」は世間ではあまり尊敬されていないようです。理由はなぜか。「かざみ‐どり【風見▽鶏】1鶏をかたどった風向計。西洋で、寺院の塔の上などに取りつけてある。2定見をもず、周囲の状況を眺めて、都合のよい側にばかりつく人のこと。[類語](1)風向計・風見/(2)八方美人・内股膏薬・茶坊主・日和見主義者・御都合主義者・オポチュニスト」(デジタル大辞泉)いろいろなことが想定されますが、「風向きを知る」「風を読む」というのは、船乗りやその他の人にとってはとても重要なもので、いのちがかかっているのですが、どうも、世間ではあまり褒められない、「人品・骨柄」に差し向けられた「非難語」のようでもあります。
「内股膏薬」も同類同義として使われてきました。さしずめ、右にでも左にでも、見境なく動く人を言う。例えば「野党」だったのに時には「与党」には鞍替えしてしまうというような、そんな「日和見主義」の政治家は後を絶ちません。だからぼくは、与野党対立なんてあるものか、ほとんど(一党を除いて)は「与党」じゃないかというのです。これまでに「左から右に)は多かったようですが、その反対は皆無状態ですが、それはなにを意味しているのか。ここにも「風」は吹いているんですね。だから、「風を読む」のがいけないのではない、読むことは大事です。でも右から来たら左に、左から来たら右にと、まるで右往左往し、右顧左眄するような人間には、しっかりした政治ができるはずがないではないかというばかり。定見とか見識など、下手に持っていては「一人前の政治屋」にはなれないんでしょうな。

今回の「衆議院選挙」では風が吹かなかったと、多くの人が言いました。これも異なことをと、ぼくは怪訝というか、違和感を感じた。風はだれが吹かすのか、風の流れを作るのは「気圧」「温度」などの自然の条件であり、それらはさまざまな因子が重なって発生する現象です。人間界において「さまざまな因子」とはなにか。
「天風」とはどんな風かと疑問を持って駄文を書き始めたのが、とんでもない方向に向かいそうです。(つまりは、空気の流れ、風が読めないという具体例ですな)政治の世界における「風」というのは、人民(選挙民を含めた民衆)の呼吸音ですよ。彼や彼女はどんな呼吸をしているか、それを知らないままで政治をするというのは大した度胸だと思うし、その手の政治家に投票する選挙民というのは、暴風圏に無防備で突進するような、まさに無鉄砲そのもの。いずれ、大変な災厄に遭うでしょう。未だって遭っているのですが、もっといじめられたいと言わぬばかりの「自虐者」が多いんでしょうな、この島人たちは。
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さて、「社長のおごり」自販機の話題です。この報道を耳にした時、ぼくは咄嗟に「只より高いものはない」というフレーズを想起しました。この「只もの」には、これまで散々痛い目にあってきましたから。当たり前にとると「只より安いものはない」という具合に、だれもが(と思う)それにとびつくもの。でも「その後」があるんでしょうね。「社長、いただきます」「ごちそうになりました」というのはいいのですが、月末の給料が減っていたとか、退職金から「自販機購入分」が引かれていたとか。第一、この自販機を作った会社は「三鳥」です。この会社は「転んでもただ(只)では起きない」会社、ともかく評判の高い企業ですから。「あんた、いっちょう、やってみなはれ」というのが創業者の常套句だったとか。それはともかく、百円やそこらの「おごり」で頭を下げるのもどうかと思いますね。「おごり」という語には三通りの漢字(もっとありますが)が該当します。「奢り」と「驕り」と「傲り」です。
「傲り」などというのは、この場合の「おごり」には該当しないかも知れません。いや、そうでもなさそうですね。おごり高ぶる、人を侮る、ほしいままにするなど、ろくでもない説明ばかりが続きます。「傲岸・傲然・傲慢」などなど。「驕り」はどうか。「傲り」と同じようですね。くどくなりますが、似たような言葉を列挙しますと「自慢・誇る・うぬぼれる・おのぼれる・思い上がる・誇らしい・胸を張る・肩身が広い・鼻が高い・鼻高高・勝ち誇る・驕る・威張る・威張り散らす・付け上がる・高ぶる・反り返る・振り回す・鼻にかける・増長・慢心・自画自賛・誇示・誇り・驕傲きょうごう・矜持・倨傲きょごう・自負・自負心・自賛・自嘆・自任・自得・天狗・うぬぼれ・プライド・高慢」(デジタル大辞泉)などなど。やはり、素性はよろしくなさそうです。

「奢り」も、どうやら似たようなものか。「1ぜいたく。奢侈。「奢りを極める」2 自分の金で人にごちそうすること。「これは私の奢りだ」(デジタル大辞泉)いかがでしょう。自分の金で「贅沢する」、自分だけでは満足しないで、「他人も贅沢させる」という、そんなニュアンスがありそうですね。とすると、先の二語に近そうではないですか。いずれにしても「おごる」というのは「わがまま」「自分を高く見せたい」「他人より優位にある」というような、そんな姿勢というか態度が透けてきます。「社長の奢り」という商品名があまり「上品」でもないと、ぼくは見てしまいました。要するに、つまらない「自販機」を作ったものだというばかりです。
もう相当前になりますが、この島の「自販機」について、いろいろな角度から調べたことがあります。自販機を設置したら、相当儲かるのだという話を聞いたことがあります。京都の姉も自宅の一角に自販機を設置していたことがあった(一時、お茶(の小売り)屋をやっていた)。いろいろな経費をのけても「儲かるよ」という話でした。現在はどうなのかわかりませんが、かなり手軽な日銭稼ぎになっていたのでしょう。しかし「煙草自販機」がうるさい問題になってから、とぼくは考えたのですが、自販機は一時の勢いを失った。そのために次々に新手の商品がでされてきたのでしょう。
自販機・無人ストアなどなど、ますます「人材・人在無用」の傾向は続くのでしょうか。「社長のおごり」もいいけれど、人間が人間らしく暮らせる、そんな地に足の着いた生活や社会交流が失われていくのをまるで傍観しているばかりという、寒々とした気分に晒されています。コンビニも、ひところの増加の一途とは様変わりして、成長も頭打ちになって、今では過当競争の弊害が忍び寄ってきているようです。「あきない(商い)」というのは「牛の涎(よだれ)」だと言われてきました。辛抱強く末永く、その根っこに「信用」を置いて、そんな気長な「商い」の極意のような言い草でした。今日では、残念ですが、「牛の涎」などと言おうものなら、即座にマーケットから退場を宣告されてしまうでしょう。

薄利多売ではなく一攫千金。これが世に流行る「時流にかなう金儲けの方法」なのですかな。まるで「博打商法」です。何かと目新しいものが劣島に行きわたった段階で、この社会はいろいろな点で「行き止まり」「閉塞状態」に入っているようです。ここから脱出することはまず不可能で、まやかしの政治や経済によって、社会に生きるために求められる「誠意や道徳」は完膚なきまでに破壊され、この先も破壊過程が続くかのような状況を選挙結果は示しています。
あるいは「人心惑溺」の浮遊が始まっているかのでしょうか。民衆は「自虐好き」なのか、「いじめられキャラ」なのか。騙されても袖にされても、政権党への抱きつきを止めようとはしないのは、すでに精神に異常をきたしているからとしか、ぼくには考えられないんですね。「社長のおごり」自販機は、やがて「社長の奢り」だったことが明らかになる、コーヒーぐらい自分で飲もう、「只より高くつくものはない」のが真相、実態に近いですね。だからこそ、「只より怖いものはない」と、あえて言いたいんですね。
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