【明窓】当たり前の社会 先日の本紙に結果が掲載された島根県中学生人権作文コンテストの審査に携わった。最優秀賞は、足が不自由な祖父のことをつづった生徒の作品。一緒に出掛けたときに、祖父が差別的な対応を受けた経験などを振り返り、祖父は歩けないことが「あたりまえ」で、私は歩けることが「あたりまえ」と記す。「人によって『あたりまえ』は違います」「みなができないことを補い合って誰もが堂々としていられる世の中」を望む▼障害のある叔母について書いた別の生徒は「私たちの基準が『健常者』にあるから、障害者は不幸だとか何か違うというような見方をしてしまっている」と指摘する▼「『知らない』ということが、思い込みや勝手な解釈による偏見を生み、『自分との違いを認められない』ということで差別の心が生まれる」と訴える作品は、生まれつき障害のあるおじの話だった▼本質に迫る生徒の言葉に学んだ。審査員8人が最終選考対象31点から選んだ上位5点は、いずれも障害のある家族と過ごす中で生まれた体験談。身近で大切な存在の家族を通して世の中に対する疑問が芽生え、よりよい社会へ行動を呼び掛けた。実体験に基づく言葉は力がある▼ただ、全て家族関係の作品だったことは一つの現状を示した。学校や事業所、地域などに障害のある人々が当たり前にいて、日常的に触れ合う中で作文の題材になる社会が理想だ。(輔)(山陰中央新報・2021/11/4 04:00)
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長く勤めていた学校で、ぼくは小さな授業クラスを担当し、およそ三十年近くにわたって「人権問題」をテーマにして、時に応じて、そのテーマに関係のある人々をゲストに招いては、公開授業の形式を取りながら、ささやかな問題関心を維持しようとしてきました。北朝鮮による拉致問題では横田めぐみさんのご両親を招いたことが、二度ほどありました。あるいは、いじめによる自殺事件の被害者遺族、あるいは飲酒運転による交通事故で大きな被害を蒙った方々の、その後の活動など、数えられないくらいに小さな実践を重ねたのでした(おそらく百回ではきかないでしょう)。在日韓国朝鮮人(民族差別)問題や部落差別問題など、いまなおこの島社会の根源にある宿痾のような、あるいは歴史の網目に縫い込まれているような困難な課題にも関わってきました。ささやかすぎる小さな窓を開放するのが、せめてものみずからの役割である、そのお手伝いをする、そんな気持ちで問題に関りつづけてきたと言えます。

島根の中学生が語った「当たり前の社会」、いわれれば、たしかに「障害がある者」も「障害がない者」も同じ時代や場所で、当たりまえに自らの存在の「あかし」を表明できる、そんな瞬間が生まれてくれば幸いであると、当時も考えていましたし、今もその考えに変わりはあません。島根県の中学生たちの言われる「人によって『あたりまえ』は違います」「みなができないことを補い合って誰もが堂々としていられる世の中」「私たちの基準が『健常者』にあるから、障害者は不幸だとか何か違うというような見方をしてしまっている」「『知らない』ということが、思い込みや勝手な解釈による偏見を生み、『自分との違いを認められない』ということで差別の心が生まれる」という根本そのものの指摘は、「我が意を得たり」という具合に、まさに問題や課題の「肯綮(こうけい)に中(あた)る」というほかありませんし、これ以外に「偏見や差別」への視点はないと言ってもいいほどです。「自分たちはこう考えている」「あなた方は、どうか」と、いつでもぼくたちは問題を投げかけられているのです。このような問題意識がいかにして涵養されてきたのか、そこに大きなヒントがあります。
(言わないでもいいことかも。このコラム「明窓」で感じた疑問というか、これは違うのではないですか、という点があります。お分かりかどうか。どうして「人権問題」に関して「作文コンテスト」なんですか。これはぼく一個の愚見ですから、とやかく言うのではないのですが、「人権問題」を扱って「優劣をつける」というのは(最初からそんなことは考えていなかったが、結果的に序列をつけることになってしまったということだったか)、文字通りに、悪い冗談ですね。愚見の本意は外でもありません、「上位」とか「下位」という「優劣」を明らかにすること自体に、「人権」を考える「催」しの主催者側に立った時、違和感を持たなかったとしたら、(誰も持たなかったから、「コンクール」になったのですね)お粗末ですね、と言っておきます)(それにしても、「コンクール」や「コンテスト」が異常に好きな島社会。その背景には何があるんですかねえ)

ぼくはずいぶん昔、まるで笑い話のような逸話を聞いたことがあります。ある人が「目の見えない人」と一軒の家に入り、廊下を歩いていた。階段を降りて別の棟に行こうとした際に「ここは暗いですから、お気をつけてください」と口添えしたというのです。親切も、これくらいになると、少々、的が外れているというか、「親切ごかし」というのかもしれませんね。島根県の開いた、せっかくの「催」しに水を差すようで気が引けるのは事実ですが、中学生に「作文」を書かせ、それを大人が「審査する」という、その姿勢が「人権問題、あるいは人権意識に悖(もと)る」と言ったらどうでしょう。ぼくはこれ見よがしに文句をつけているつもりはないのです。なかなか難しいなあと、わが身を振り返っているのです。
これも務めているときの、わがは恥ずべき経験です。国立大学法人付属の「視覚特別支援学校(付属盲学校)(現在)」当局から、ぼくは呼び出しを受けたことがありました。当時、入試担当の役職に関わっていたからでした。細かい点は略しますが、入学試験の「受験資格」に「お前の学校は、いろいろと条件を付けている」が、それはいかにも「おかしい、変えられないか」ということでした。学科ごとに、障害の程度で受験を認めたり認めなかったりしているではないか、と「糾弾」されました。この指摘は何年にもわたって受けていたのですが、まったく「是正」されていないという「お叱り」でした。早速に学校に戻って、いろいろと議論を重ねたのですが、「是正」はされなかった。その後は、どうなったか、ぼくは事情を把握していません。希望者すべてに受験してもらおうというのが、ぼくの考えでしたが、担当者(教員)の立場からすれば、それはなかなか困難だったのかもしれないと、今でも思っています。「是正」の努力が足りなかったのは事実です。だから、他人のことをとやかく言えないのは、身に覚えがあるからです。でも、…、と思案投げ首。
「ただ、全て家族関係の作品だったことは一つの現状を示した。学校や事業所、地域などに障害のある人々が当たり前にいて、日常的に触れ合う中で作文の題材になる社会が理想だ」というコラム氏の指摘は「もっとも。大賛成」と言いたいところです。しかし、ここにも一抹の不安や不信は残ってしまうのです。「障害者」に関わるばかりではありません。老人や弱者もまた、当たり前に存在が認められる社会になっていないことこそが、現下の大問題じゃないでしょうか。「いたるところに障害者がいて、みんな支え合っていくのが理想の社会」と言って終わりなら、いうまでもないでしょ。法律を作り、それに合わせて制度を作る。これは政治の領域の問題であり、そのような「理想の社会の実現」を望まない人は、まずいない(かもしれないとしか言えないのが悲しいね)と思いたい。でも現実は「弱肉強食」「優勝劣敗」「適者生存」という、紛れもない闘争になっています。それを認めたうえで、「~のできる社会が理想」と言って下さるな。
若い頃から「養護」教育に関心をもち、各地の、いいろいろな学校に出かけては、その実際を学んできました。また友人にもかなりの数の人が「特別支援学校」の教員をしている。ぼくが小学校の頃から見て、「特別支援教育」は格段に進んだのか、ぼくには断言できません。「養護教育義務化」という時代を画期として、ぼくたちの社会は「健常者」専(only)用の社会になったと錯覚させたのではなかったか。実にお悍(おぞ)ましい「教育行政」であり、それを容認する社会の風潮は弱まる気配を見せてきませんでした。ぼくに特段の考えがあるわけではありません。それぞれが「課題を自分に引き付ける・引き受ける」ことからしか、ものごとは始まらないようにも思います。「人権問題」に近道も横道もないようで、誰もが、問題を自分に重ねる地点ら、つまりは「隗より始めよ」という、実に平凡で陳腐なところに嵌っていくばかりです。

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● 障害者教育(しょうがいしゃきょういく)special education=心身に障害をもつ児童生徒および成人を対象とする教育。視覚障害教育,聴覚障害教育,知的障害教育,肢体不自由教育,病弱教育などを総称する。欧米では 19世紀に入って保護的教育施設が設置され始め,19世紀末には義務教育制の導入もはかられるようになった。第2次世界大戦後は,国際連合の世界人権宣言および障害者の権利宣言で障害児の諸権利の保障が承認・奨励されたことで,各国の制度や行政措置に前進がみられた。 1982年 12月の国連総会は「障害者に関する世界行動計画」を採択し,障害者に対する教育的サービス開発の基準を示している。日本では明治5 (1872) 年の学制に「廃人学校」の規定が設けられ,1890年には「盲唖学校」に関する規定も加えられた。その後,特別学級の設置が進められ,第2次世界大戦後,盲学校,聾学校,養護学校,普通学校特殊学級の義務制を経て,1979年の養護学校教育義務制実施にいたった。学校教育法では 2006年の法改正により,従来の「特殊教育」に代わり,「特別支援教育」の語を用いるようになった。これに伴い 2007年,盲学校,聾学校,養護学校を一本化して特別支援学校が設置され,特殊学級は特別支援学級に再編された。(ブリタニカ国際大百科事典)
●【障害者教育】より=…この2種類の学校は1923年の盲学校及聾啞学校令によって各道府県に設置義務が課せられ,その義務履行は戦前にほぼ完了した。障害児教育が本格的に発展するのは第2次世界大戦後であり,すべての障害児が義務教育の対象とされるのは79年,養護学校教育義務制の施行によってである。健常児に比べて,障害児が著しくその学習権,教育権を侵害されてきたことが明瞭であろう。…(世界大百科事典)
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これは余談ですが、人権問題を話題にするとき、アメリカがモデルのようになっていると、ぼくは考えています。いい意味でも悪い意味でも。毎年「銃」による犠牲者は三万人とか言われています。アメリカは銃社会であることは事実で、公然と「銃」が売られているし、何よりも、自らの安全を銃によって防衛している国でしょう。さらに昨年も一昨年も<BLACK LIVES MATTER>、これまでもこれからも、「黒人のいのちは大切だ」と主張しつづけなければならないし、それでもなお、「いのちが粗末にされている」社会です。これが「民主主義」の本家だというのも、看板の偽装じゃないですか。「看板に偽りあり」で、その偽りの看板に止まった「蚊」か「アブ」みたいなのが、この島社会の「寸法」「分際」でしょうね。
ぼくは、このようアメリカを、どうしたら「人権が尊重される社会」になり、「銃の不要な社会」にできるか、そうして初めて、この小さな島にも「理想の社会の光」がほの見えるのかもしれないと、密かに考えている。「人権外交」といって「人権(を)尊重(する)国」というマヤカシの態度で、中国と渡りあうのがアメリカの常。「人権問題」は世界共通の課題ですが、それぞれの時代や社会にも、独特の「人権問題や課題(現状)」があります。この狭い島社会においても事情は変わりません。まず身のまわり、そこからしか、問題に手を付けつることはできないと、ぼくは考える。やれるところから、やれる範囲で、そして「手を抜かず」に。自分から遠く離れたところに見えるのが「人権問題」ではありません。「左上の図」に書かれていることを、ほんの少しばかり読んでみても「おやっ」と思わされます。「嫁にやる」「嫁を取る」「嫁を貰う」「〇〇家」とか「✖✖家」という家単位(それは形式だけといわれるかもしれない)「夫婦同姓」その他、見逃してもなんということはない、そんな問題が、実は「人権」の根っこを腐食してきているんですね。長く歴史に留められてきただけに、個人の判断や理解では動かせない問題でもあります。でも、まず第一歩から、自分で始めることでしょう。誰にとっても、人権問題は身の回り、半経数メートルの範囲内に生じているのです。(それにしても、「作文コンクール」というのは、「人権問題」に関しても、なんか変ですね)
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