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本県自民の敗者、なぜ全員復活?衆院選比例代表 他県で大勝し「枠」多く
31日に行われた衆院選では、北陸信越ブロックの小選挙区で敗れた自民候補者は新潟県の4人を含めた5人全員が比例での復活当選を果たした。惜敗率が80%にも届かなかったにもかかわらず、復活できたケースもあり、小選挙区比例代表並立制のあり方に議論を呼びそうだ。/ 同ブロックは本県と長野、富山、石川、福井の5県で構成される。この5県には19の小選挙区があり、ここで敗れた自民候補は新潟1、4、5、6区と長野2区の計5人だった。

一方、同ブロックの比例で自民は前回より多い6議席を確保。比例単独1位の前職鷲尾英一郎さんが当選し、残り5議席を選挙区で落選した新潟6区の前職高鳥修一さん、4区の新人国定勇人さん、5区の前職泉田裕彦さん、1区の新人塚田一郎さんと長野2区前職で埋めた=表参照=。
いずれも比例2位の重複立候補だったため、議席が足りない場合は惜敗率の高い順から復活枠を得る。今回は、落選者全員分の復活枠があったため、惜敗率にかかわらず当選した。/ 130票差で涙をのんだ高鳥さんの惜敗率は99・86%、238票差で敗れた国定さんは99・76%と高い。一方、泉田さんは約1万8千票差で76・58%、塚田さんは約3万票差で75・84%と低かった。/ 比例ブロックで3議席を得た立憲民主党は、比例復活した全員が惜敗率90%を超えた。復活できなかった3区の前職黒岩宇洋さんの惜敗率は86・53%。泉田、塚田両氏よりも10ポイント近く高いが、及ばなかった。
◎「いびつな制度、やめるべき」 政治アナリスト・伊藤さん
政治アナリストの伊藤惇夫さん(73)に、本県の小選挙区で敗れた自民党候補の全員が比例で復活した結果を踏まえ、比例復活制度の評価などを聞いた。/ 改めて、有権者の意思に反して当選するという、とてもいびつな制度だと感じた。小選挙区の候補者は本来、選挙区の有権者の信任を得て国会議員になりたいという思いがあるから立候補するはずだ。それにも関わらず、投票で有権者から国会議員としてふさわしくないと烙印(らくいん)を押された候補者が、なぜか復活する。有権者には釈然としない気持ちが残っただろう。/ 小選挙区比例代表並立制導入につながる政治改革の議論に自民党職員として関わったが、当時は単純小選挙区制が軸だった。比例代表はあくまで中小政党に配慮した制度だった。/ 現行制度で行われてから25年。今では選挙区で勝てなくても比例で復活すればいいと考えている候補者さえいる。小選挙区制は一つの議席を争う制度だ。複数当選すると、有権者の民意がどう反映されたのか分かりにくくなってしまう。/ 比例復活の仕組みはやめるべきだ。重複立候補を認めず、比例には政党に功績のあった人や専門分野に特化した人らを各党が推薦すればいい。(新潟日報・2021/11/01 19:35)
*ヘッダーの写真は「戦後第一回衆議院議員選挙の投票風景」(昭和二十一年四月一日)(NHKWEBより)
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● 小選挙区比例代表並立制【しょうせんきょくひれいだいひょうへいりつせい】=小選挙区制と比例代表制を合わせた選挙制度には大きく分けて並立型と併用型がある。並立型は小選挙区と比例代表区でそれぞれ別々に選挙を行い当選者を決める。それに対して併用型は比例代表区の投票結果が小選挙区の当選者の決定に影響するもの。1994年3月に成立した日本の衆議院議員選挙の小選挙区比例代表制は並立型で,小選挙区で300,比例代表区で200(2000年法改正で180に削減)をそれぞれ選出する。日本と同様の並立制を採用しているのは韓国など。また併用型の国はドイツなどがある。ただし,日本の場合は比例代表区と小選挙区の両方に〈重複立候補〉ができるという変則型(一方で落選しても他で当選することがありうる)。その場合,小選挙区の当落を優先するが,重複立候補者については比例区の政党名簿で同一順位に並べることができるため,〈小選挙区での得票によって決定される惜敗率=自分の得票÷当選者の得票×100(%)〉によって同一順位者の優劣を決定する。なお,2000年の公職選挙法改正により,小選挙区での得票が供託金没収の基準に満たなければ,重複立候補した比例区で当選できないと改められた。(マイペディア)
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どの分野によらず、いったん作られた制度には長短があり、弊害が大きくなれば、変えざるを得ない。そはが当然です。この島社会の「選挙制度」などはその最たるものです。「小選挙区」「比例代表」「並立制」と、趣旨あるいは目的が異なったものが、文字通り、(和と洋と折衷が)「並存」しているのですから、法律を作る側にも「智慧者」がいるから、こんな制度ができるのでしょう。加えて、次々に建て増しし、そのすべてが「建築基準法」に違反しているという具合です。この小選挙区制が議論され、曲折を経て採用された経緯は、それなりに分かっていたつもりでした。「政権交代」が可能になる、そんな売り文句でした。確かに、たった一度だけ、「政権は移動」しましたが、どの政権も、根っ子の部分では「民意」などはまったくの無視するだけのものでした。国民(選挙民)の意志よりも、まったく別方面の「意向」に媚びるような恰好で政治が実行されてきたのです。「政権の移行」が容易になるから結構というのではなく、どんな政治家が政治を担うのかという、根本の問題がまったく等閑視されているのです。党派がちがっていても、議員の資質が代わり映えしなければ、政権交代とは言わない、仲間内の「盥回し」と言うべきものでした。
長い間、あるいは戦後はずっと「野党」は存在しなかった、そのようにぼくは見ています。権力を持つ政党に近侍する、それが「野党」だというのでしょう。一つの正党を除いて、この社会には「野党」は存在しないも同然です。「小選挙区制」が導入されたのが、94年。以来四半世紀以上が経過しました。当初の法律も何度か「改正」されて、初期の目的や方向から逸れてきた、そんな感じをぼくは持っていました。この制度の弊害として指摘されてきたのは「重複立候補」制であり、そこから生まれる「復活当選」の問題でした。あるいは「51対49」で当落が決まるから、民意が損なわれるとも。そんなことは、いつだって言えることで、どんな投票数で勝とうが、勝ちは勝ち。
スポ―競技などには「敗者復活戦」というものがしばしば見られます。五輪のレスリングや柔道などにもあったと記憶しています。準決勝で負けた選手同士が戦う、あるいはもっと前の段階で敗退した選手が敗者同士の勝負で勝ち上がってくることがあります。どうしてそのような仕組みを考えるのか、いろいろと理屈は立ちそうですけれど、要するに、そうでもしないと試合数や選手の数が限られていて、あまり面白みがないからでしょう。では、選挙の場合はどうか。これは根本から「敗者復活戦」とは意味合いが違います。敗者同士が、もう一度戦う(この場合は、再選挙ですね)、その結果によって当落が決まるなら、理屈はともかくとして、ありうることとです。しかし、現行の選挙法では「再選挙(投票)」はしていませんから、敗者復活という趣旨には反している。負けたものが、もう一度戦って「勝つ」のではないからです。いかにもまやかしであり誤魔化しです。力の強い政党の多い方が有利になる制度だというほかありません。これを「ホームタウン・デシジョン」と、ボクシングなどでは言います。さて、この選挙のホームは「政権党」というのでしょうか。政権を持っているものは、なんだって勝手に法制化できるというのなら、それは直ちにやめるべくだと、ぼくは思いますね。

小選挙区と比例代表の両方に立候補することは可能になるもので、小選挙区の投票で「落選」したにもかかわらず、別の理屈でその候補者は「当選」することになるのです。「落選」は「落選」というのは当たり前の「常識」ですけれど、政治の世界では「落選」は「当選」であるという、とても当たり前の感覚では受け入れがたい「永田町」「霞が関」の非常識がものを言ってしまっているのです。典型例として初めに例示した「新潟」のケースは、この制度の不真面目極まりない「品質」「品評」を証明しているでしょう。入学試験で「不合格」になった人間が、何かの加減で、次の日には「合格」になるという仕組みは「イカサマ」「(種が丸見えの)手品」です。中江兆民氏やや柳田国男さんが盛んに言った「選挙人」「投票者」の「目覚まし」「教育」も、じゅうぶんに尊重されないままで、ぼくたちは、かかる制度に付き合わされているのです。
しましば「民意」という。それを受け入れるも入れないも、すべては「選良」の口舌先三寸とでもいうのでしょうか。今でも「(投票の)一票の格差」が裁判で争われています。最高裁でも判断は分かれている。この選挙制度の「公平」「公正」「平等」の原則を貫くことはきわめて困難な状況にあるのはわかります。それをいいことにして、国会はいつでも姑息な「改正(実際は改悪)」という弥縫策でお茶を濁してきました。選挙制度の根本にある矛盾を是正しないできたのが国会(議員諸氏の仕事場)でした。近年では「合区」などという新手の「針の穴(弥縫策)」も使い出しています。
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「1票の格差」で一斉提訴 全289区の無効求める

人口比例に基づかない区割りで「1票の格差」を是正せずに実施された今回の衆院選は憲法違反だとして、弁護士グループが1日、選挙の無効(やり直し)を求めて札幌高裁や福岡高裁那覇支部などに提訴した。一斉に全国289選挙区全てについて14の高裁・高裁支部に訴訟を起こす。 10月18日時点での最大格差は2.09倍で、区割り変更により1.98倍に抑えられた前回2017年の衆院選より拡大した。最高裁大法廷は18年12月の判決で、17年選挙を「合憲」と判断した。 議員1人当たりの有権者数が最も少ないのは鳥取1区で23万1313人、最も多いのは東京13区の48万2445人。(共同通信・2021/11/01)
立候補するつもりの人間にとって「有利か不利か」というのが、法律改正の眼目です。誰だって「有利」と見れなければ、その法律を変えることはしないものです。弥縫策という、名前ばかりの「改変」で誤魔化してきた国会議員さんたちです。その選出基準の「正当性」、議員資格の妥当性が問われているのです。復活当選制も、即刻廃止すべきです。何よりも「議員定数」が多すぎます。衆議院議員は現行で465名、適正な定員を割り出すことは至難ですが、少なくとも今より議員数を減らしても政治のレベルは落ちも上がりもしないと、ぼくは確信しています。この何十年の国会を見ていれば、誰が見ても直感しますよ。政治家になりたい人が集まってなされる「政治まがい」を、「政治」であると錯覚してしまっている。選挙民も候補者も。ぼくは国会はいらないとまでは言いませんが、「政府」はいらない。その意味では「アナーキー」です。つまり今のようなカネばかりを使う政治や政府はいらないが、それに代わる「議決機関」や「執行機関」は必要で、簡素にしかも能率を上げることが出来る仕組みを考える時期でしょう。(ぼくは、昔から、「町内会」の規模や役員選出法、さらには分担制など、それを下敷きにして考えてきました。ある種の「直接民主制」ですね)

「代議制」の課題は永遠に続きます。だからそれに代わる仕組みを、というのですが、これはまだまだ、未知の世界です。初めに述べたように、どのような制度にも「欠陥」はあります。それが致命的なものかどうか、誰にでもわかるとは限りませんが、こと「選挙制度」に関して言えば、その欠点や欠陥は、誰にだって一目瞭然です。制度そのものが「歪(いびつ)」なら、多くの努力は水の泡と消えるでしょう。投票率が低いという現実の問題はありますけれど、それはもっと深刻な問題の「表れ」でもあると考える必要がありそうです。その制度に覆いようのない弱点や問題点があるなら、それはもう、即刻手直しするほかありませんね。政治も選挙も、当たり前に整った「埒(らち)」があってはじめて機能するのですから、「埒外」にしろ、「埒」はあるのだ(現行選挙法)と強弁し、それをいいことにして「惰眠を貪っている」のは誰だというところに、批判が行きそうではないでしょうか。「選挙と国会」の問題(来し方行く末)はぼくたちにとっても、見ないふりはできないんでしょうね。それにしても、「復活当選」、なんともみっともないし、それが国会議員(小選挙区選出か比例区選出か)としても「差別の対象」となるというのだから、「✖✖に付ける✖✖✖はない」んですなあ。(「✖」の部分には何が入るんでしょうか)
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