自分の言葉をいかに育てるか、育てられるか

 

 いつもいうことですが、毎朝、ぼくはネットで各地域新聞の「コラム」を、まず読みます。「五大紙」とか「全国紙」などと、自他ともに任じているような新聞社のモノは畏れ多くて、よほど魔が差さなければ読まない、いや目にしないのをモットーにしているのです。理由はいくつかあります。いうほどのこともありません。ぼくの友人(後輩)が、M新聞のコラムを担当されていて、それまでに書いたものをまとめて送ってくれたことがありました。彼は大阪組でしたから、ぼくは滅多に目にする機会がなかった。ある時、どこかで「余録」ではなかったが、同じ新聞社の別のコラムを読んで、これはY君の文章だと直感したし、ありありと彼の顔が浮かび上がってきたことがあります。(彼はすでに引退したと思う)彼は健在だったと思うと、嬉しくなった。書かれた「内容」が優れているとか何とかではなく、彼が、彼女が書いたのだという、そんな文章をぼくはもっと求めたいですね。無理は承知していますが、ね

 今では平凡な表現のように言われますが、ぼくが好きなものに「文は人なり」というのがあります。その言わんとするところは、どうでしょうか。多く識者の理解するところは、いろいろな言い方(解釈)をしていますが、「犬は文を書かない」という程度のことしか、この表現の中から発見していないと、ぼくは思っています。「文さんは人間だ」と、まさか受け取ってはいないでしょうねえ。たしかに、犬や猫は文章を書かないが、では、「犬や猫と違って、人間は文が書けるんだ」ということで、何が言いたいんですか、その程度の識者面に、ぼくはいつも激しく、その面貌を疑っているのです。別に文句を言うのではないし、それが趣味なのだというのでもありません。でも、書かれた文章が人の目に触れると分かっているなら、もう少し物の言い方があるのではありませんか。文章のプロ、あるいは文を書くことが職業になっている人は、やはり、一読して、何かが残る文章が書けるといいですね。もちろん、これはぼくの好みですから、いろいろなとらえ方があるというべきです。

 これはA新聞の記事(コラム)であった事実です。とても小さなコラム(ぼくは大好きだった「生活面(欄)」にあった)に、一人の町工場の代表社員(社長)のことが出ていました。ぼくは、その人をよく知っていましたから、そのコラムの遺漏のない取材と文章の的確さに驚いたことがありました。昔は少しはお節介の気味があったので、その記事を読んでお礼が言いたくなった。確かメールで一購読者として、このコラムを読むことが出来たのを感謝しますと、担当者宛てに送ったことがあります。期待していなかったのですが、なんとその担当者(コラムを書かれた当人)から、メールが来ました。そしてあろうことか、ぼくが何ものであるかがバレていたのでした。いったいどうしてという疑問がありましたが、それが卒業生だったということが判明した、そんな経験がありました。わざわざ購読していた時代、ぼくは一面や三面などよりも、何面というのか「生活面」「文花面」が何よりも楽しみだった。いまでもきっと、政治部が新聞社では有力部局なのでしょうが、そこに出てくる記事は、物の一時間もたてば、すっかり既知のものになってしまう、じつにつまらない楽屋話(誰々が別れた、切れたとかいう)のような記事ばかりです。それに反して、生活面は、なんともいえない親しみや近しさが感じられて、新聞の「胆」だという実感を、ぼくは育ててきました。

 つまらない文章(にもならない、駄文)を書いています。言いたいことがらは一つ、「文は人なり」の奥義(というと大袈裟ですが)に叶う文章を読んでみたいし、それに出会うと、ぼくは幸せな気分になるという、ただそれだけの陳腐な願い求めているという話です。その反対だったら、ぼくは実に短気を起してしまいます。「文は人なり」というのは「その人自身がそこに現れる」ということでしょうか。若い頃に、少しばかり読んだことのあるビュフォンの言葉です。彼は「植物分類」では大きな仕事を残した人物でもあり、ぼくが何本かの拙い論文を書いたこともある、思想家のジャン・ジャック・ルッソオがしばしば言及していた人でもあった。その人自身(人柄)が文章に出るというのは、誰でも彼でもに妥当するのではないでしょう。人柄も何も出ない文章は、この世に五万とあるからです。ビュフォン流に言えば、それは文章ではないことになる。(まるで「自分のこと」を言っているようで、実に気分は穏やかではありませんね)似たような言い方で「名は体を表す」というのはどうでしょう。

 さらに、いわずもがなのことを付加するなら、文を読むというのは、それを書いた人自身を知るということ、見たことも会ったこともない書き手の「人物(人となり)」がわかるということをも言っているのでしょう。ぼくは、相当の昔から、文章を読んで、嬉しくなったり、深く教えられたという思いが働くと、その書き手に「お礼」を言う奇癖がありました。もちろん、書物などではなく新聞の記事の場合です。相手を特定しやすいのも一理ですし、それ以上に、こんな文章が読めたのが嬉しいという「読者の気持ち」を伝えたいからでした。もう十年ほども前になりますか、ある時、出版社から手紙が届きました。ぼくが書いた拙著を買われた方が、ぼく宛てに「送ってください」と、出版社が言付けられたからということでした。一読して、それは、かなり前になる、ぼくの担当していた授業に参加されていた方からでした。電話番号が書いてありましたので、さっそくお礼のあいさつをした際、「あなたはG県出身でしたね」と伝えたら、彼女は驚いておられた。たくさんの学生と教室で交流しているのは事実でしたが、その中の一人を、しかも卒業後何年も経過しているのに、ということでした。

 ぼくはその時、彼女に「こんな文章(レポート)を書かれたことがありましたね」(あるいは、「教室で、このような内容の話をされましたね」だったか)と言ったら、さらに驚いておられた。まったくの偶然だったとも言えますが、彼女が書かれていた文章(話の内容)は「文は人なり」だったという傍証にはなるでしょうか。こんな経験はいつでもしているというのではありません。教師の真似事をしていた時には親しくしていても、いまではまったく音信不通だという人の方がはるかに多いし、それは当然でもあります。話がそれてきましたが、「文は人なり」という、なんでもない表現を受けとめる深さが、実は他者との交わりの際に、自己の根底にあるかないか、それは文章というものが潜めている潜在力でもあると言いたいんですが、そのことが、じつは、いつでも「文と人が一体化」して受け取られるということでしょう。文は、たんなる「語の羅列」ではないのはもちろん、文章が整っているだけでは、いい文章だとは言い難いということです。しかし、誰でもが書ける文章(数式みたいな)というものもあるんですね(それは学校で、さかんに推奨されていませんか)。

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● 文は人なり=文章にはその書き手の人柄が表れる。文章を見れば、書き手の人となりがわかる。[使用例] ある人が氏の探偵小説「銀三十枚」に感心してかかる優れた作品を生むのは氏の人格のしからしめるところであろうと言ったのは私も大いに賛成である。全く「文は人なり」という言葉は氏に対して最もふさわしいものである[小酒井不木*国枝史郎氏の人物と作品|1930][解説] 一八世紀フランスの博物学者ビュフォンが、アカデミーフランセーズへ入会する際の演説「文体について」の中で述べたことばが有名になったもの。ビュフォンは、古代ギリシアの修辞学者、歴史家のディオニュシオス・ハリカルナッセウスのことばを引用したとされます。〔フランス〕Le style est l’homme lui-même.(ことわざを知る辞典)

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 【有明抄】あいさつは自分の言葉で 原稿を送信すると出来はさておき、ほっとする。でも、それもつかの間、さて次は何を書こうか。無い知恵を絞り、心もとない語彙(ごい)力、表現力でマス目を埋める。その繰り返しである◆国文学者の谷沢永一さん(1929~2011年)は「考えること、それは即ち、言葉を練ることである」と書いている。古い語法にくさびを打ち込んで砕いたり、手あかにまみれた語彙を清流に浸して洗ったり。そのために、氾濫する決まり文句からできるだけ身を遠ざける隔離が必要だと説く◆実に耳の痛い指摘だが、「自分で考えているだけましか」と思わせる記事を目にした。国会議員が地元の会合に出る際のあいさつ文や講演資料などの作成。こうした作業を厚労省職員に依頼していた事例が1年間で400件以上あったという内部調査の結果である◆調査は、省内の働き方改革を進めるために結成された有志職員チームの問題提起がきっかけだった。議員の政治活動を肩代わりさせられ、職員の負担増になっているとの指摘が出ている。同様の依頼は厚労省に限らないだろう◆公務と政務の線引きが曖昧になって、官僚と秘書まで混同してはいないか。ご多忙なのは察するが、考えず、言葉を練らずでは見透かされる。自らの言葉で語れば、決まり文句のあいさつよりは気持ちが伝わるはずである。(知)(佐賀新聞Live・2021/11/30)

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 ここまで書いてきて、もういいな、これ以上は、という気になりました。谷沢さんのものも結構読んだが、この文学者は人が悪い(「いけず」)というのか、辛辣でした。手加減なし、というのでしょうね。だから時には、ちょっと「言い過ぎ」じゃんというふうに思ったりしたことが何度もありました。彼の書かれたもので、ぼくがよく読んだのは、関西風の洒落やユーモアを集めた本でした。しかし、なんといっても彼は「紙つぶて」につきる(とは言わぬが)と言っても過言ではないほどの読書家であり、批評眼を有した文学者でした。

 政治家のゴーストライターは官僚であるというのは、誰だって知っていたでしょうし、その程度のことも自分でできないのが「政治家」だ、ということも天下周知の明白なる事実です。前ソーリは「挨拶(おはよう、こんにちはなど)まで、官僚(あるいは秘書)に書いてもらっている」ということを、ぼくはずっと言っていました。原稿を読み飛ばして「ページが糊で…」とウソ八百をついたのまで官僚たちでした。そのうちに、挨拶まわりまでも官僚が肩代わりするようになる(もうなっている)でしょう。となると、政治家というのは、外から動かされるままの「ロボット」だということになる。

 「挨拶ぐらい、自分でしろ」と、苛立ちながらゴーストライターを務めているんですから、まともな「挨拶」になる気遣いもない。洋の東西、時の古今を問わず、政治家の文章は「代書屋」が書いているというのが常識で、それまでも自分で認(したた)める政治家がいたら、大問題になる(ことはないけど)、評判にはなるでしょう。「どうして挨拶まで」という疑問が出るでしょうが、何処で話そうが、政治家の眼中には聴衆(選挙民も含めて)は入っていない。まるで「ナスかカボチャ」の山程度に見下しているから、他人に書かせた「挨拶」を読むのでしょう。書かされる方もいい加減なもので、テキトーに、という一本のスジは通っているんですね。この事態が続いていて「太平楽」でいられるのは政・管の「二人羽織」組ばかりです。ひどいことになったなあ、と嘆いてみても、その礫(つぶて)は、やがて選挙民の脳髄を直撃する(している)のです。人間は「ことば」でできていると、ぼくは露とも疑わないでこれまで、あちこちで喋ってきましたが、実は「ことばで、できていない」人もいるのだということに気付かされてもいたんですね。政治家だけではありません。ことばでできていないとなれば、何で、と聞きたくなります。まさか、「水と空気」でということではなさそうです。おそらく「地位と名誉」か、「富と権力」か、いずれそんなものが「ことば」よりも、よほど価値があるとみなしている人々が政治家に(全部とは言わない)なっているんじゃないですか。

 「自らの言葉で語れば、決まり文句のあいさつよりは気持ちが伝わるはずである」とコラム氏の指摘は、何処のコラムでも変わらない。これでコラムは、「いっちょう上がり」という職人芸で、もう一歩進んで、「このボンクラ、どうして自分の言葉で語れないのか」ということは、口が裂けても、先ず言わない。何故か。いろいろと「差しさわりがある」からです。この「さわり」を熟知していないと、「新聞社の社員」にはなれないのが当今の相場です。この具体例を挙げることが、ぼくにはできますが、各方面に「差しさわりがある」ので、それは止めておきます。全国紙とか五大紙とかいう新聞紙面から、広告分を取り除いたら、何が残りますか。「広告」は新聞社の命であり、血液です。これを制せられるのが購読者より怖い新聞社さんに、どんな「紙つぶて」が飛ばせますか、そういうことです。新聞社(全部とは言いませんが)も「言論」尊重を核として成り立っているとばかりは言えないようですね。 

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 戦争への参加は不可避で、人それぞれだった

 【卓上四季】画家と戦争 「出陣の前」と題した日本画。正座した兵士が刀を脇に置き、野だて用の茶道具を使い一服の茶をたてた。じっと前を見る。戦地に訪れた一瞬の静寂と緊張が伝わる不思議な絵である▼作者は小早川秋聲(しゅうせい)(1885~1974年)。きょうまで東京都内で開催されている大規模な回顧展を見た。鳥取県の寺に生まれ、国内外を旅しながら詩情豊かな作品を描き、名声を得た▼だが従軍画家として多くの戦争画を残したことが生涯に影を落とす。敗戦を迎え戦犯容疑での逮捕も覚悟したという。戦後は体調を崩したこともあり、ほそぼそと画業生活を送った▼95年、戦争画を特集した「芸術新潮」誌に作品が紹介され、再評価につながる。代表作「國之楯」は闇の中に横たわる将校の遺体を描き、顔は寄せ書きされた日章旗で覆われた衝撃的な構図だ▼44年に天覧に供するために陸軍省の依頼で制作したが、厭戦(えんせん)的と見られたのか受け取りを拒まれたと伝わる。後に改作された際、遺体に降り積もるように描かれていた桜の花びらが黒く塗りつぶされた▼英霊をたたえた鎮魂の1枚から長い時を経て戦争協力への悔恨を表す1枚へ。そんな解釈もできるが、作者の意図も軍の拒否の理由もはっきりとは分からない。名画は人の魂を揺さぶる。それ故に、戦争に利用された歴史がある。豊かな才能を持ちながら時代に翻弄(ほんろう)された画家の運命に思いをはせた。(北海道新聞電子版・2021/11/28)

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 昨日迄、東京駅のギャラリーで開かれていた、その展覧会に行きたかったが、現下の状況もあり、断念しました。今でも、あまり名を知られていない日本画家(知られないことは悪いことではないと、ぼくは思います。むしろ願わしいことかも)、小早川秋聲(1885-1974)。ぼくも、それほど作品を観ているわけではありませんでしたから、是非とも、と願っていたのでした。勤め人の頃は、都心だったこともあって、しばしば展覧会に出かけたものです。「実物主義」というか「本物」でなければ夜も日も明けぬとは言いませんが、近間で見られるならと、気軽に(出勤の行き帰りに)出かけたものでした。小早川氏は「特異な画家」とされてきました。僧籍を持ち、画業に身を寄せた。戦争には兵士として、あるいは従軍画家として戦地に赴きもし、多くの作品を画いています。こんな画家は他にもたくさんいます。一々、その名を出しませんが、相当な人が出かけているのです。画家に限らず、文化・芸術・芸能一般にわたり、有名無名を問わずということでしょうが、ずいぶんと出かけています。まさしく「体制翼賛」であり、「銃後の守り」「前線の参加」、それを身をもって示したということでしょう。あるいは「強いられた」ということもあった。すべてが「戦意高揚」という偽装のためだったといっていいのかもしれません。

 小早川さんは「旅する画家」と称され、国の内外に足繁く出かけた人でした。ぼくの手持ちの材料は、別冊太陽「戦争と画家」(平凡社刊)と「小早川秋聲」(求龍堂刊)の二冊ばかりです。そこにはほとんど、触れるべき事項や人物像が掲示されていると言っていいでしょう。ここでは「小早川秋聲」に軒を借ります。特異な画家と言われた、彼の画業はもちろん、その履歴にも灯りを当てて、ぼくにはとても適切な案内役になっています。彼に関して何事かを、書肆のHPから拝借します。「今、最も注目が集まる近代京都日本画家、小早川秋聲の全貌が明らかになる。/ 近年、東京都内での展覧会もあり注目度が上昇している。代表作の戦争画《國之楯》がひときわ目を引くが、その作品の多くはほとんど知られてこなかった。/ 本書は秋聲の初の大規模回顧展となる「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」の公式図録兼書籍で、約110点の作品とともにその画業を追う。/ 幼い頃に寺に衆徒として入り、複数回にわたり兵士として、画家として従軍した異質な経歴と、国内外を問わず旅行を繰り返した生涯から生まれた、清新で抒情的な作品と特異な戦争画を一堂に紹介する。/ 多数の初公開作品を新撮し掲載、その作品の魅力を存分に伝える。最新の調査結果を反映した詳細な年譜・文献目録に加え、研究者・遺族による多くのコラムも所収し、作品だけでなく、人間・小早川秋聲の素顔も明らかにする。今後の秋聲研究の基礎となる充実の一冊。(「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」求龍堂刊 2021.08)

 従軍画家として「令名」を馳せた代表は、なんといっても藤田嗣治でした。彼の作品はたくさん観に出かけたものです。戦後は長くパリにとどまっていたが、なぜだか、その画業は年を追うごとに高くなっていった。さらに、ぼくがよく観た画家では、宮本三郎、小磯良平、さらに向井潤吉さんなどでした。これらの人々について、拙劣ではありますが、いくつか愚見はありますし、さらに戦後の画業にもぼくは割と好意を以て目にしてきたものでした。向井さんは、民家を画く画家としていまなお、高い人気を誇っています。一方で、シベリヤに抑留された画家たちもいます。もっとも知られたのは香月泰男さんでしょうか。ぼくは、どれくらい彼の絵を観たか。どうでもいいことですが、香月さんは、ぼくの父親と同年生まれ(1911年)で、親父も彼の絵をいたく好んでいたこともあって、早くから家には画集があった。香月さんは山口出身でした。小早川さんは鳥取出身で、香月さんより三十数年の先輩でした。尾崎放哉居士も鳥取でしたね。

 こんな調子で書いていくと、「戦争」をはさんで、兵隊に召集された側と従軍画家として戦争に参加した人々の、画業と生き方、戦後の履歴を書きたくなりますが、本日は止めておきます。どこまで行っても、何時まで経っても「戦争」という国家最悪の愚行(犯罪)を抜きにして、何事も語れないということでしょうか。歴史を軽視したり無視したりしない限り、ぼくたちは、この島社会の「汚点」であり「現在の礎・足掛かり」ともなった戦時中の一々の記録を記憶に留めておく必要があると、痛感するばかりです。中村草田男は「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠みましたが、ぼくごときにおいては、「皇(すめらぎ)の戦(いくさ)学びに歳を経し」というばかりです。「戦争史」を削除したら、この島には、歴史は存在しないことになり、島自体の存立も疑われるのです。

 歴史を否定することはできるし、望むなら、堂々と無視することもできるでしょう。しかし、「事実として生じたこと」を無にすることはできません。なぜならば、歴史は一人合点では生まれないし、続けられないからです。これは一個人の場合でも、事情は同じです。自分だけで何事かを、他人に知られないで、行うことはあり得ます。しかし社会的存在である限り、ぼくたちはたった一人で、どんなに些細な事々もなすことは不可能であることは、日々経験していることです。家族の一員であったとしても、他者であるのは間違いのない事実です。歴史は他者との交わりや衝突、あるいは触れ合いや闘争の中から紡ぎ出されてくるのです。国と国とのつながりからしか「歴史」は生まれはしないということもできます。社会の歴史、あるいは国の歴史という言葉自体が、あからさまに、それを示しています。「一国史観」というものがありうるとするなら、おそらく「古事記」「日本書紀」の類を免れないのではないか。いままた、「現代版古事記」あるいは「今日風日本書紀」を書きたがっている輩が輩出しています。

 なぜ、歴をを学ぶか、それはみずからが、意識のあるなしにかかわらず、何時だって実践していることです。昨日を知らなければ、今日を生きるのは容易ではないし、今日一日が明日の道しるべになる、ぼくたちは、それぞれの歩き方で、このように時の流れに即して生きているのです。これが歴史であると言って、少しも構わないんじゃないでしょうか。ことさらに「戦争」を取り上げたいのではありません。この国の始めた戦争で「犠牲」になった人々がいる限り、あるいは「犠牲になった記憶」が残る限り、戦争を仕掛けた側が「戦争の歴史」の記録や記憶を放棄することは許されないでしょう。ぼくは、このようにして、「歴史意識」というものを、わが身に育ててきました。そこにはいつも「戦争を強いられた側」「戰爭で犠牲になった側」の嘆きや痛みが伴っています。それを除外(度外視)して、ぼくたちにつながる(結びつく)「戦争」を学ぶことはおろか、それを語ることさえできないのです。(下の画は1944年(昭和19年)に描いた「國之楯」・京都霊山護国神社所蔵、今は鳥取県の日南町美術館に寄託されているという)

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 父ありて明ぼの見たし青田原(一茶)

 一茶が「父の終焉日記」を書いたのは享和元(一八〇一)年、彼の三九歳の時でした。ぼくは、これを何度か読んだが、そのたびにいろいろと思うとところが出てきました。文献上の疑問や問題点ではなく、どうして一茶は、「死の床」にある父親の、まるでデスマスクを塑像するかのような「日記」を書き、あまつさえそれを公刊し(しようとし)たか。まるで不可解な謎のようなことに属します。その理由のようなものが、ぼくにはわかるようなわからないような、濃い霞の中にいるようなもどかしさを感じている。一茶という人にかけて、「農民俳人」と解いて、彼をこよなく好む人間ですが、その理由はまるで「泥のついた俳句」を、二万余句も残したという、その野性味と俳句への尽きぬ追及の姿勢でした。彼は十五で郷里を出た、というか父によって「出された」。理由は明白です。父の再婚相手の継母とはそりが合わず、あまつさえ、その継母に子(一茶の弟になる、九歳年下だった)が出来たことによります。これは、何時の時代でもありえますし、それによって家庭に争いごとが絶えないという、家族集団の狭さと小ささからくる悲劇です。父親とすれば、わが長男の行く末を案じたうえでの「子別れ」だったし、「かわいい子には旅をさせよ」という、(狭い郷党におけるいがみを見るに忍びなかった、あるいはわが長男をつらい目に合わせたくもなかった親心というか)意味は違っていても、その思いが募った揚げ句の、「江戸ヤライ」だったろうと考えられます。

 「廿九日 父は病の重り給ふにつけて、弧(みなしご)の我身(註、一茶のこと)の行末を案じ給ひてんや、いさヽか(の)所領、はらからと二つ分(わけ)にして與へんとて、くるしき息の下より指圖なし給ふに、先(まづ)、中島てふ田と、河原てふ所の田を、弟に附屬せんとありけるに、仙六(弟)心に染ざりけん、父の仰(おほせ)にそぶく、其日父と仙六いさかひして、事止(やみ)ぬ。皆、貪欲、邪智、諂曲に目くらみて、かヽる息卷はおこりけり。いかなれ(ば)不顧親養任他五濁惡世の人界(親の養いを顧みず、「任他」とは放置したままの意、そして、我欲を張るばかりの人間世界、それが「濁世(じょくせ)」であり、悪世・末世でもあるという。仏教話)、淺ましき事なりき。」

 「…抑(そもそも)、汝は三歳の時より母に後(おくれ)、やヽ長なりにつけても、後の母の中むつまじからず、日々に魂をいため、夜々に心火をもやし、心のやすき時はな(か)りき。ふとおもひけるやうは、一所にありなばいつ迄もかくありなん。一度(たび)故郷をはなしたらば、はた、したはしきこともやあるべきと、十四歳と云(いふ)春はろばろの江戸へはおもぶかせたりき。あはれよ所の親は、今三とせ四と(せ)過(すぎ)たらんは、家を任せ、汝にも安堵させ、我等も行末たのしむべきに、としはもゆかぬ痩骨(やせぼね)に荒奉公させ、つれなき親とも思(おもひ)つらめ。皆是すくせの因缘とあきらめよや。」(下は「父の終焉日記」原稿本文とされます)

 自分(父)は今度は「往生」を遂げるだろうけれども、息子に送られるのだから、けっして悔いはないと言いながら、父は「はらはらと泪落し給ふに、一茶は只打ふして物も得云(いは)ず」と、身も心も疲れた一茶は、為す術を知らなかった。父の病気が何であったか、詳細はわかりません。農作業中に倒れて意識が混濁していたと言います。あるいは「日記」に見られる様子から、身体も不自由であったと思われます。一茶が書いた「日記」には継母と弟の行状が好く書かれていない。先に紹介した父の死後の遺産相続に関して、父親の提案を継母と弟は受け入れなかった。理由はいろいろとありそうですが、ぼくはあまり興味がない。なにしろ「私権(プライヴァシー)」の問題ですから。先祖伝来の遺産をというのではなく、父親が再婚した後に、相当に田畑が増えた。それは父親だけの働きでなかったのは明らかなようで、さらに、十五から江戸に出て、農業から足を洗った状態だった一茶が、帰郷して、父の「遺言」だからと、相続は「兄弟で二分する」ということは受け入れがたかったのです。この相続争いは、何と十三年続いたと言われています。凄い成り行きがあって、ようやくにして決着したらしい。

 おそらく、一茶は「俳諧師」として身過ぎ世過ぎを考えていた節があります。江戸にいたころから、すでに俳諧の弟子筋が郷里にも生まれていたようで、帰郷後も仲間とは語らって、徘徊を盛り立てる算段があったでしょう。あるいは俳諧師でありながら、文章も書くという生活を考えていたかもしれません。俳諧の師匠をしながらの「文人」像を画いてみます。三十過ぎてから、再び農業に精を出すとは容易はことではなかったはずで、一茶自身もそのように考えていたかもしれません。最初も書きましたが、この「日記」は、公開を予定して書かれていたという観測が成り立ちます。詳細は省きますが、一茶の草稿、その書きなおし分を含めて残されてました。ぼくが使用しているのは「日本古典文学大系58 蕪村集・一茶集」(岩波書店刊)に依っています。解説・校訂等は川島つゆ氏。川島さんの解説に見られる一茶論には、大いに意を強くしました。

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 (余談です。この「古典文学大系」全巻(一期・二期で百冊)を、ぼくは大学に入った直後に購入しました。大枚の金額を払った記憶があります。授業料の数年分だったと覚えています。もちろん、アルバイトなどをして(生協で、しかも分割払いで)購入したもの。以来、六十年余、ぼくはくり返し、この「大系」を手当たり次第に読んできました。関心のある巻は何度も読んだし、それ以外でも少なくとも一度や二度は目を通しました。自分がどんな職業に就こうとしているのか、皆目見当もつかなかった時代、こんな無謀な買い方をしたのです。その後もなにかと本を購入しては、居候先の木造二階の床をきしませたのでした。以来、何度か引っ越しをしました。運送屋さんに嫌われたのが本の移動(搬送)でした。もう引っ越しはなさそうですけれど、今度は、この溜ってしまった書物の処分をどうするか、頭を少しは悩ませています。後輩人士に譲ることを計画しているのですが)

HHHHHHHHHHH

 一茶に戻ります。臨終の床に臥せっている父の傍を離れなかった一茶は、いくつかの句を残しています。

五月雨(あつきあめ)雨とて空をかざす哉  ・時鳥(ほととぎす)我も気相(きあい)のよき日也  

涼(すずめ)よとのゆるしの出たり門(かど)の月  ・足元へいつ來(きた)りしよ蝸牛(かたつむり)  

寝すがたの蠅追ふもけふかぎり哉  ・生き殘る我にかヽるや艸の露                    

夜々にかまけられたる蚤蚊哉  ・父ありて明(あけ)ぼの見たし青田原 (「父の終焉日記」より)

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 先に、川島つゆさんの解説は、ぼくにはとても面白かったと述べた。そのいくつかを。一茶論としてみても、実に肯綮に中っていると、素人のぼくは楽しく、しかも首肯しながら読んだものです。「俳諧史上から一茶を抹殺しても俳諧史に大きな狂いはないであろう」「生涯に渡って体臭の強い句を排泄しておいてくれた」「しかし、一茶の作には明日はない。せいぜい凡人の至りついた悟りの境地であり、自己暴露であり、周囲への斜視的投影である場合が多い」

 「一茶の俳諧にしても、高い理想に向かって精進したものではなく、迷いと悩みの中につかみ得た一筋の綱にすがって、老来意識の薄れるまで詠みつづけて来た作句即生活であったのだ。ただ、おそらく彼自身さえ、伝統的風雅観とは異質のものと思っていたであろうような独自の境地に、図太く根を据え得たのは、恐るべき野人魂・農民の魂の勝利と言わざるを得ない。一茶の俳諧は一茶一人のものである」(上掲解説)

 その一茶は、継母と弟仙六に疎まれた。それは手を汚さないで惰弱な「文人」を気取っているというふうに映ったからです。俳諧なんぞは、本業の合間の趣味にすべきもの、それを、驚く勿れ、趣味が本業になるような、そんな一茶の生き方は、継母たちには認められなかったのです。父親は、それを早くから気に病んで、早く身を固めるように願っていたが、それもかなわなかった。

 六十五歳の一期は、一茶にとっては心残りでもあったかもしれません。しかし、これ(運命)はいくら言っても詮方なし、であります。農民から出て、ついに農民に戻れなかった男の悲しみと淋しさを、ことのほか大事に想いながら、ぼくは一茶を好んでいる。川島さんは「一茶の作品は、よかれあしかれ、彼の宿命と素質の産みだした孤独なものだった」とも言われます。「作品が孤独」とはどのようなことなんでしょうか。

夕燕我には翌(あす)のあてはなき(これは、房総半島は富津辺りに遊んだ時の句、ここでは、一人の俳人(女性で一茶の門人だった)との出逢いと別離があった。

心からしなのの雪に降られけり(房総から帰郷、遺産問題のためであったが、決裂。その際に、長野の知人滝沢可候宅で詠んだ句。実に微妙な感情が入っていませんか。上の句とともに、いずれも文化四(一八〇七)年作)

小言いふ相手のほしや秋の暮(文政五(一八二二)年作。妻が死に(三十八歳)、三男も死ぬ。たった一人で生きている、それはだれにとっても、生来のもの。小言も一人、雑煮も一人で、とはいかにも一茶であり、そこには孤独の影が憑りついているとも映りますが、さあ、どうなんですか)

もともとの一人前ぞ雑煮膳 (上の句の翌年正月作。孤立し、孤独に苛まれながら、そこを抜け出す算段もない。曽遊の地であった江戸は「化政文化」の徒花(あだばな)が狂うばかりに咲いていました)

 まるで、雪崩を打ったように、不幸の連鎖が一茶を襲う。それを避けるには、一茶はあまりにも鈍重だったかもしれません。また、田舎の人間が一端(いっぱし)の「文人」を気取ることへの内外の批判、あるいは毀誉褒貶があったでしょう。また、遅くに結婚した彼には、生まれてくる子には、不幸を背負ってこの世に出てきたとしか思えないような、拭いようのない悲しみの烙印が押されていた。自分をかばってくれた父親もいなくなった。なさぬ仲の親子にも、やがて春は来るだろうが、それはあまりにも遅かった。俳人として郷里に生きる道を選んだ一茶に、さらに不幸が追いかけて来る、あるいは待ち伏せしていたのです。

 言わずもがなのこと、「予言者、故郷に容れられず」という。同様に、「俳諧人、故郷に受け入れられず」ではなかったか。一茶と弟との「相続争い」は、ぼくには、かかる経験がないので理解を超えているかもしれません。しかし、「俳諧師」という職業というか身分というか、そんなものは郷里の農民には理解不能だったでしょう。明治以降に「高等遊民」なる言葉が生み出されましたが、この時期、一茶は、「遊民」として生きるほかなかったわけで、額に汗して身を粉にするという、地べたを這う生活から遊離していた、そんな人間は故郷には受け入れてもらえなかったのでないでしょうか。

 「心からしなのの雪に降られけり」という句を、ぼくは、この文脈でとらえたい。専門家を含めた、他者とは大きく異なります。何があっても故郷だ、その故郷の雪に「心から、受け入れられた」というのは、いかにも下衆(げす)という気がしてくるのです。雪にまでもか、一茶はそう思い知らされたのではなかったか。これは、ぼく個人の勝手な妄想ですが。信州各地(に限らず、劣島のいたるところで)では、一茶顕彰にしのぎを削っているようで、ご同慶の至りというべきでしょうね。しかし、それは一茶の生きた、不運と不幸の打ち続く「明け暮れ」には、まったく関係のないことだということも忘れたくない。

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 200年300年先を考えると芸術はどうでもいい…

 【三山春秋】▼久しぶりに帰省した際、書庫で見つけた古びた写真集に目を奪われた。日本の風土や日本人の姿を追い続けた写真家、故浜谷浩さんの『詩のふるさと』。前橋ゆかりの詩人、室生犀星が雑誌に連載した詩友11人の回顧録を踏まえ、12人の詩の世界を写真で表現した一冊だ▼写真はいずれも1958(昭和33)年撮影。犀星を生涯の友とした萩原朔太郎の章は前橋市内、山村暮鳥は高崎市内と終焉(しゅうえん)の地である茨城県大洗町の風景が並ぶ▼木造家屋の間に火見櫓(やぐら)が立つ街並みや赤城山・地蔵岳からの眺望は、半世紀の時の経過を感じさせるとともに、朔太郎の「才川町―十二月下旬」「冬」の詩情が浮かんでくる。暮鳥の「山上にて」をイメージした、榛名湖畔で馬が水を飲む構図に息をのんだ
▼「いくつかの課題に当面し、いくつもの難題にあいながら…」とあとがきにある。不慣れな詩を数十年後の風景で表現することは、写真界のノーベル賞と言われるハッセルブラッド国際写真賞を受賞した浜谷さんにとっても挑戦的な取り組みだったようだ▼同時に犀星の回顧録にも目を通した。詩友たちの姿が赤裸々に描写されており、朔太郎との関係の深さを再認識した▼来年の犀星没後60周年を前に、回顧録と写真集を一体化した『写文集 我が愛する詩人の伝記』(中央公論新社)が来月刊行される。本を手に撮影地を巡り、写真と見比べるのもいい。(上毛新聞・2021/11/26)

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 飽きもしないで、よくもまあ毎日駄文(や雑文)が書けますね、と古くからの友人が言います。ぼくが駄文の山を築くのは、誰かに見せたいからではなく、また自分を見せびらかすからでもなく、何度も言いましたように、「著しい記憶力の衰え」を、手遅れであることを知りながら、医者にかからず(かかれば、衰えは加速することは間違いない。これは尊敬できる兵庫県の開業医が常々言っておられるし、ぼくもそうだと思っている)、心身をだらけさせないで少しでも自分の身を、心を、自分自身の責任で、あまり損なわないで現状を維持していこうという、極めてささやかな、かつ欲のない願いというか、望みから始めた、自主トレーニングの一環でした。そう言っている尻から、わが記憶力は、さかんに崩壊しています、壊れてゆく音がするような塩梅で。

 何事にも「余得」というものはあり得る。これはネット時代の慶賀すべき出来事だと思うのは、毎日、各地の新聞の「コラム」(もちろん記事も読めますが)が一望のもとに眺められ、なおかつ読みたいものはじっくりと読めるということです。ぼくのような暇人には格好の「時間稼ぎ」というか、いやその反対の「時間潰し」でもあります。その余得は、このコラムで「人や物」が記事になっていなければ(なっていても、当方が目を通す機会を持たなければ)、まったく何事もなく(知らないで)通り過ぎてゆくことばかりですのに、一瞬でも目に触れたおかげで、その人や物に注意が及ぶ(記憶が回復する)ということです。ぼくたちは、一瞬であれ、些細なことを含めて経験した出来事をすべて「記憶の貯蔵庫」に保存しています。「物心」がついてからのすべては、保存されている。見たり聞いたりしたものは、ひとつ残らず「記憶」される仕組みになっている。問題はこの「記憶の貯蔵庫」から取り出す仕組み(手続き)が、徐々に毀損されてゆくことにあります。(この部分は、脳科学というか、脳生理学の問題であり、何時か触れる予定です、でも記憶力が怪しいので、どうなりますかな)

 記憶力の衰退とか減衰などと言いますが、記憶されているものを「取り出す」「思い出す」、その機能というか能力が衰えるんですね、これが「老衰」です。歳をとることは「老衰」が避けられないんでしょうね。思い(想い)出せない、度忘れした、喉元まで出かかっているのに、何時でもぼくたちはこのように言い訳をして、記憶はあるのに、たまたまそれを瞬間的に忘れてしまった、そのように言ったり弁解したりします。三時間もたってから思い出す、それが日常の当たり前の景色でしょう。学校のテストでも、試験時間が終了した途端に、忘れていた記憶を取り戻したりします、これが「後の祭り」なんですが、中には、往生際が悪くて「横を盗み見する」「カンニングする」などして、記憶力を補っているんでしょうか。中学や高校でこうなるのを「若年性認知症」というらしい。でも何時だって、はやく回復するんだね。

 本日の「三山春秋」からの「余得」は濱谷浩さんでした。ぼくの最も好きな写真家でもあります。本当に久方ぶりに彼の名を目にし、ほとばしるように何冊かの写真集と、彼の容貌の記憶が蘇ってきました。探せば、数冊はある写真集の、どの一冊も、ぼくには懐かしいし、その一齣ごとは、取りだすのが怪しい、記憶の貯蔵庫に畳み込まれている。「雪国」「裏日本」「學藝諸家」などなど。そのどれもが、けっして華やかでもなければ、先進的でもない、まるで、この島に根の生えたような人々や風景が活写されています。彼はある時期から、文化というか生活、土にへばりついた生活・文化の姿を切り取ろうとしたと言われます。いわゆる民俗学の仕事です。ここでも、ぼくは宮本常一さんを想起しています。

 さらにぼくが、彼に引き付けられたのは、「200年300年先を考えると芸術はどうでもいい気がする それより写真がちゃんと残っていることが僕には貴重に思える」という「偽らざる告白」を聞いたからでした、ぼくはそのように受け止めました。あるいは衝撃を受けたと言うべきかもしれません。「俺が撮った写真だ」「自分が描いた絵です」という、当たり前には、そのような自己主張が通用している世界です。でも、作者や画家、写真家の名前などいつまで記憶されるか。それよりも、「この一枚」が残されるほうが大事であると、濱谷さんは言われています。

 これと同じような発言を作家の志賀直哉が言っています。「法隆寺はいいな。これを作ったのはだれかなど、そんなことは少しも気にならない。それが大事だことなんだ」という意味のことでした。作者が消えて、作品だけが残る、残された作品から、作者は削ぎ落されて、消し去られてゆく、しかし、その作品すら、やがて、あるいはいずれ無くなる、そんな思いで生きている、仕事をしている、そのような人生を、若い頃には実に大したものだと考えたのですが、この年齢になると、それが生きているということだし、その人生こそが誰にも使ってほしい生きている(流れている)時間だと、染み入るように、身に応えるのです。明治初期の人の名前を、仕事と結び付けて、ぼくたちはどれだけ知っているか。たかだか百五十年ほど前に過ぎません。固有名は「娑婆の通行手形」ぐらいのものですね、それも地域限定の。

 「人✖物✖録」という番組に濱谷さんの発言が記録されています。「あの人に会いたい」というタイトルです。(https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0009250378_00000

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● 浜谷浩【はまやひろし】(1915-1999)=写真家。東京生れ。関東商業卒業後,航空撮影に従事。1933年オリエンタル写真工業に入社。1937年退社後,フリーの写真家として活動する。1940年,木村伊兵衛の招きで東方社写真部入社,主に対外宣伝誌《FRONT》のために陸海軍関係の撮影に従事する。戦後も1956年まで疎開先であった新潟県高田にとどまって撮影。戦後日本を独自の視点で見直そうとした。1954年より日本海側の各地を数十回にわたって旅し,写真集《裏日本》(1957年)としてまとめ,代表作となる。以降も,日本の風土ジャーナリスティックな視線で記録する手法は一貫して作品の核となり,その成果は写真集《日本列島》(1964年)をはじめとする多くの写真集と雑誌に発表された。1955年には,ニューヨーク近代美術館で開催された《ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)》展に出品。1960年,マグナム・フォトスに寄稿写真家として契約。1960年代以降は,国内のみならず海外での撮影も多く,内外で旺盛に活動した。毎日出版文化賞(1958年)ほか写真賞受賞多数。(マイペディア)

OOOOOO

 誰もが写真家になれるのではないし、音楽家になれる人も限られています。自分はならなかった、なれなかった、だからこの人の芸術・仕事の達成(それは何でもいい、農業でも建築でも、つまりはあらゆる職業に当てはまります。人はいくつもの仕事を掛け持ちできないのが普通です)にこそ、ぼくたちは万感の思いを募らせるでしょうし、感嘆の念をあからさまに示すのでしょう。それにしても「写真」はいいな。写真家がいいという以上に、写真がいいなと、ぼくは言いたくなります。それは論理や推理の働きより、直に視力に訴える、映像の迫力(迫真)の訴求力というものでしょう。だから、それを撮った人の名前はなくても構わない。知らなくてもいい。

 自然の風景・景観・景色(この語は人間が関わっていなければ生れなかった)には作者はいない。いや、そこに人間が存在している、と言いたくなるのは、それを加工したり模倣したりする人間があるからであって、その人々は決して作者ではありません。(例えば、どこかのお寺の「紅葉をライトアップ」するような愚か者がいるけれど、それは「紅葉」の作者じゃない)「200年300年先を考えると芸術はどうでもいい気がする それより写真がちゃんと残っていることが僕には貴重に思える」という濱谷さんの発言は、どう受け取れるか。「芸術はどうでもいい」というのは、それを「芸術」として生み出した人間なんですかね、あるいは「写真家」というプロが生み出すから「芸術」ということになるのか。それは、しかし、どうでもいい、「写真」が残っている方が貴重だというのです。「その写真もいつか消える、それでいい」とは言われないけれど、そこまで含んでいるんじゃないですか、この発言は。(下は「写真集・詩のふるさと」より)

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 誰がライトアップを求めるんですか

京都・清水寺「紅葉ライトアップ」(2021年11月17日 京都市東山区)

京都市東山区の清水寺で、秋恒例の「夜間特別拝観」が18日から始まるのを前に、17日夜に内覧会が行われた。見頃を迎えつつあるモミジ約1000本が光をまとって鮮やかに浮かび上がった。11月30日まで(京都新聞・2021/11/17)

https://www.kyoto-np.co.jp/list/movie?id=3386(動画があります)

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HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 いずれも京都新聞に掲載されていた写真です。一番上について、説明は不要でしょう。二番目は広沢の池畔、三番目は清滝川の紅葉です。どうしてこの三枚を並べたか。特別の意味はありません。清水寺に代表される神社仏閣(それは京都に限らない)は、まるで観光地そのもので、自らが、その地位に安んじているという不届き(ぼくにはそう見えます)な態度に、京都の頽廃や堕落を象徴している、ひいては各地の神社仏閣の多くの反宗教・非信仰の表れであると、ぼくは判断しています。昔が好かったというのではありません。昔だって、何時だって、寺といわず神社といわず、堕落する者は堕落していたのですから。清水寺の由緒や縁起を語っても仕方がありません。いずこも同じ、秋の夕暮、といいたくなる「広くは、宗教界の頽廃の図」です。

 特に清水寺を言うのではなく、その一例として。何時頃から流行り出したのか知りませんが、「ライトアップ」という不細工な見世物が、大嫌いだというだけの話です。何でもかんでも「ライトアップ」したがるのでしょうが、同時に、主催者というのか見世者主義・金儲け主義の根性までが「ライトアップ」されていることを、誰もが不審に思わないんですかね。夜は静かに、それだけの感覚が失われて、石油代が、電気代がと、ほざいています。世の中には、信じられないくらいに「愚かしそうな」人はたくさんいますから、どんなことでも見世物だとなれば、人だかりがするのは別におかしくない。でも誰かが、「境内で、夜間の紅葉を見たい」と、勝手に(あるいは望んで、でもいい)「ライトアップ」を図れば、たちまちに追い出されるか、警察に突き出されるでしょう。この行事は「寺」が率先して観光(敢行)しているんですね、愚かさもここまでくれば半端じゃないし、いう言葉もないと、ぼくは遠くの地から、「京都を離れて六十年」とため息をついているのです。

 広沢の池は、ぼくの遊び場でした。(この付近は「風致地区」と言って、厳しい建築規制が敷かれていましたが、今では乱開発もいいところ、写真に写っている何本ものコンクリート製ポールは仏教系大学のグラウンドです。宗教勢力は延びていますね)遠方、正面に「高く聳える愛宕山」は、何度も登った山。「火の用心」の神さんが祭られています。「竈(かまど)神」。この点についてはどこかで触れています。三枚目の清滝も、いわばぼくの遊び場であり、友達との交流の地でもありました。愛宕山の登攀口になります。

 この近辺は、ぼくは毎日のように、それも一人で駆けずり回っていました。少し高みに出ると、京都市内が一望できた。なんという狭い、小さな町だろうと幼いながらに気が滅入ったことがあります。その狭さや小ささは、そのまま人間関係にも当てはまるようでした。これもどこかで書いていますので、ここでは触れない。京都人の「いけず」は有名ですが、今でも残っているのかどうか。ぼくは京都生まれではないが、「いけず」「底意地が悪い」と、しばしば非難されました、それは今でも続いています。我がままで、自分勝手なだけなのですが、他人からは、そのよう(いけず)にみられるんでしょうね。参考までに、「愛宕山」という、バカバカしい落語があります。これは志ん朝さんでしょうか。あるいは桂枝雀さん、といきますか。お暇なら「両雄」で楽しむのがいい。(右上の絵は「かわらけ投げ」)

 「いけず」「意地悪」、それは別の話。問題は「ライトアップ」です。夜空の花火も好まないが、それはまだ許せる。一種の「瞬間芸」ですから。このライトが点灯されている中で、坊さんたちは何をしているのか。もちろん、「夜間は無料で。どうぞ」と、京都の坊さんが言うはずがない、とするなら、夜間も観覧料を取っているわけで、算盤片手に「坊主丸儲け」となっているのかどうか。随分と昔、「拝観料」への課税をめぐって大問題が長く続いていました。行政の側が負けたわけで、お寺は「宗教法人」を理由に納税の優遇措置を受けています。時代はとうの昔に、宗教法人お抱えの「政党」が幅を奇禍っせていますし、今では「政権党(の一部)」です。ともかく、坊さんといえども「霞を食う」だけでは生きていけません。だから「ライトアップ」になるかというと、それは違うでしょ。それにしても、諸寺・諸社は世間のど真ん中で「存在を誇って」、これみよがしに、屹立、いや林立。乱立している風景をどう見るか。

 清水寺「音羽の滝」の前にあったお茶屋(普通の、喫茶店のような)を舞台にした落語「茶金」(別名「はてなの茶碗」)、これはいかにも落語的で、いい話(滑稽という意味)ですね。元来は上方のネタでした。だから桂米朝さんか。ぼくは、もちろん志ん生で。

 今の状況が反省されないママで続いていくと、やがて「富士山」も「槍ヶ岳」もライトアップされる時代が来る、と言ってみて、時代おくれだな君は、もう来ているよと笑われるのかも。なんだって、この「劣島」はとっくにライトアップされているのですから、宇宙からは「光り輝いて」見えるんだ、「あの島国だぜ」って。

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● 清水寺【きよみずでら】=〈せいすいじ〉とも。京都市東山区にある北法相の寺。山号音羽山本尊は十一面観音で,西国三十三所第16番札所。〈清水寺縁起〉によれば延鎮開基として坂上田村麻呂が798年に創建。805年桓武天皇御願寺,810年鎮護国家道場となり隆盛したが,天災のほか,興福寺に属したため延暦寺と興福寺の紛争に巻き込まれたこともあって焼失破壊を重ねた。現在の本堂国宝)は1633年再建のもので,密教本堂の典型的形式を示す。急にあるため長い束柱(つかばしら)でささえられたいわゆる懸造(かけづくり)となっており,前面は〈清水の舞台〉として有名。檜皮葺(ひわだぶき)の大きな寄棟(よせむね)造は江戸時代建築の代表的遺構。1994年世界文化遺産に登録。(マイペディア)

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