
あだし野の露、消ゆる時無く、鳥部山(とりべやま)の煙(けぶり)、立ち去らでのみ、住み果つる慣(な)らひならば、いかに、物の哀(あは)れも無からん。世は、定め無きこそいみじけれ。
命ある物を見るに、人ばかり久しきは無し。蜉蝣(かげろふ)の夕べを待ち、夏の蝉の春・秋(はる・あき)を知らぬも有るぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなう長閑(のどけ)しや。飽かず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも、一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世に、醜(みにく)き姿を待ち得て、何かはせん。命永ければ辱(はぢ)多し。永くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安(めやす)かるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、容貌(かたち)を恥づる心も無く、人に出(い)で交(ま)じらはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命を有らまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らず成り行くなん、浅(あさ)ましき。(「徒然草 第七段」)(島内既出)(右上の写真は「鳥辺山」の墓所。ヘッダーの写真は化野念仏寺墓地)
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おそらくこの「第七段」も、どこかですでに触れています。ぼくのかなり好きな箇所で、若い頃も好きだったし、歳をとってくるうちにますます、なるほどなあという感慨に満たされそうになるのです。満たされきるのでないところが、まことに時代相ですね。否応なく、世間が土足で拙宅にまで侵入してくるのですから、「長閑」とか「いみじけれ」などと構えてはいられないからです。兼好という人は、1283年から1352年まで、鎌倉末期から南北朝に入るころまでを生きたとされています(その足跡を含めて、生涯のかなりの部分は分明ではありません)。世は乱世であり、激動期だった。といっても、この島のごく一部での騒乱であって、大半の人はそれとはかかわりなく生きていたようにも思われます。それは今日においても変わらないでしょう。
地球を覆い尽くすような電波の波に、時節は浮つ沈みつしている。新聞やテレビ、さらにはインターネットという情報通信手段が蜘蛛の巣のように張り巡らされていますから、地球の果ての出来事も、つい近所の事件や出来事として耳目に飛び込んできます。それ故に、思わず知らず「激動の時代」とか「乱世」などと言ってしまうのでしょう。どれほどの関心を持って、そのように言うのか、実に怪しいものです。「便利」だからこそ「不便」でもある時代ですね。「新聞」はたちまち「旧聞」に変貌していく。人々の関心もあっという間に薄れて、消えていく。その昔は「人の噂も七十五日」と言いました。二か月半です。長期にわたって、噂で持ちきりだったというのです。変われば変わる、世の習い、です。七日半だって持続しないのが「世間の目や耳」です。熟視も熟考も避けてしまう、「未熟あるいは腐熟」の時代です。何ごとも目に入ったとたんにフェードアウトする。まさしく「刹那」の時代でしょう。いい「世のなか」なのかどうか、なんとも判断しかねます。
今から七百年以上も前に生き死にした人々の「日常」はどうだったか。それは兼好さんの「徒然草」をもってしても、はかり知ることは困難でしょう。天皇や将軍の事績・事跡ばかりが「歴史の種」になっていますが、果たしてそれで歴史は語れるのか。内容らしきものがまったくない、固有名や事項や年代のみをどれだけ引き延ばしても、それは歴史にはならない。「徒然草」でぼくたちは何を読むことができるのか。一言でいえば、兼好という人間の「思想」です。この思想とは、いつも言うように彼の「生活・態度」にほかなりません。思想とは態度(姿勢)です。それならば、時代の隔たりを越えて、ぼくたちは彼(や彼女)に接近することは可能ではないでしょうか。

ぼくが飽きもしないで「徒然草」に引き付けられるのは、そこには確かな批評眼を以て世に棲んだ、兼好という人がはっきりと確かめられるからです。よくいわれる「人生の達人」とは似ても似つかない生き方を余儀なくされた兼好、野心や野望という言葉は乱暴に過ぎるでしょうが、兼好と雖(いえど)も、それなりの「出世」を望んだが、志半ばで、果たせなかった。その故の「出家」であったとは、ぼくには考えられないのは、「徒然草」に書かれている内容が、「恬淡(てんたん)」とか「端麗(たんれい)」あるいは「怨み辛(つら)み」とは程遠い、強烈な自意識が顔をのぞかせているからです。「出家」ではなく「家出」だったんじゃないですか。(以下に、必要以上に長い引用をしておきます。他意はありません。兼好は「世を捨てた人」ではなく、「出家遁世」とは似つかわしくない生涯を送った人物であることが、行間からも伺われると愚考したがためです)(右は足利尊氏像)
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● 兼好(けんこう)(1283?―1352以後)=鎌倉後期の隠者で歌人、随筆家。俗名卜部兼好(うらべのかねよし)。その名を音読して法名とした。後世「吉田兼好」とよばれている。吉田社を預る家の庶流に生まれた。父は治部少輔(じぶしょうゆう)兼顕(かねあき)、兄弟に大僧正慈遍、民部大輔兼雄がいる。『卜部氏系図』によると兼好は三男であるが、彼ら兄弟の年齢順ははっきりしない。兼好は源(堀川)具守(とももり)の諸大夫(しょだいぶ)となり、後二条(ごにじょう)朝に仕えて六位蔵人(くろうど)から佐兵衛佐(さひょうえのすけ)に至ったが、30歳前後に遁世(とんせい)した。厭世(えんせい)思想に動かされたためかと思われるが、その具体的事情は不明。以後、修学院、横川(よかわ)などに隠棲(いんせい)して修行を重ね、40歳代になって都に復帰した。住居は洛西(らくせい)双ヶ丘(ならびがおか)の中央に位置する丘の西麓(せいろく)の草庵(そうあん)というが、確証を欠く。
文化人としての兼好は中世の文献に「和歌数奇者(すきもの)(風流人)」(園太暦(えんたいりゃく))、「能書(達筆)、遁世者」(太平記)などとして出るが、活躍の中心は和歌にある。師は当時の歌壇で重きをなした二条為世(ためよ)で、42歳のときに彼から『古今集』に関する家説の授講を受けた。邦良(くになが)親王の歌会をはじめ、各種の歌会、歌合(うたあわせ)に参加、1344年(興国5・康永3)足利直義(あしかがただよし)勧進の『高野山(こうやさん)金剛三昧院(こんごうさんまいいん)奉納和歌』の作者ともなっている。作品は『続千載集(しょくせんざいしゅう)』以下の7勅撰(ちょくせん)集に18首、私撰集『続現葉集』に3首とられ、自撰の『兼好法師集』(1343ころ成立か)がある。「手枕(たまくら)の野辺の草葉の霜枯に身はならはしの風の寒けさ」(『新続古今集』)が有名で、これにちなんで「手枕の兼好」などとよばれた。没年はかつて1350年(正平5・観応1)とされていたが、翌々年8月の『後普光園院殿(二条良基(よしもと))御百首』に加点しているので、その年時以後の死ということになる。没した場所は、伝承によると、伊賀(三重県)の国見山の麓(ふもと)とも、木曽(きそ)の湯舟沢ともいうが、不明。

残した業績として、和歌以外に随筆『徒然草(つれづれぐさ)』があり、『古今集』『源氏物語』など古典の書写・校合などもしている。歌人兼好は、頓阿(とんあ)、慶運、浄弁とともに為世門下の代表的草庵歌人を称する「和歌四天王」の一人に数えられているが、「兼好は、この中にちと劣りたるやうに人々も存ぜしやらん」(『近来風躰抄(きんらいふうていしょう)』)と評されており、現代でも評価が高いとはいえない。本領は、生前には知られなかったと思われる『徒然草』によってみるべきであろう。この作品は、1330年(元徳2)11月から翌年10月までの間に比較的短期間で書かれたかとする説が有力であったが、近年疑問視され、青年時から晩年まで、断続的に書き継がれたかともいう。したがって、ここには長年にわたる兼好の変化、屈折などが示されているかもしれないが、彼の才質、個性、教養の特徴はかなりうかがえる。それによると兼好は、鋭い批評眼とユーモアをもち、万事に旺盛(おうせい)な好奇心を向けて人間理解に冴(さ)えをみせる人物であったようである。発心遁世を説き、求道(ぐどう)の生活を勧めるが、単なる遁世者にとどまらず、王朝期を追慕して古典的価値観に生きつつ、新時代の胎動を聞き落としていない。交友関係も僧俗貴賤(きせん)と幅広く多彩にわたり、高師直(こうのもろなお)ら東国武将に奉仕することもあったらしい。一事にとらわれない自由な生き方は、すこぶる特徴的で、今日の評論家ないしジャーナリストの源流にも位置づけられよう。(ニッポニカ)
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「あだし野の露、消ゆる時無く、鳥部山(とりべやま)の煙(けぶり)、立ち去らでのみ」という、化野は京都市右京区の清滝近くの「埋葬地(もとは風葬だったとも)」だった場所で、いまは念仏寺があります(このページのヘッダーの写真)。ぼくは小学生の頃、近くの友達の家(鳥居本)に遊びに行くために、この陰鬱な寺域を何度も通った。また鳥辺山は、同じ市内東山区、清水寺近くの葬送の地(もとは鳥葬されていたとも)。御所の郊外の二つの葬送地に露が立ち、煙が立ち上る。また、人が葬られているのだ。こうしていつまでも人間は生まれては死ぬ。それが避けられない運命だというのは、当たり前に受け入れられる。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠った、関白・藤原道長は、この鳥辺山で火葬(荼毘(だび)に付)されたという。

その化野の露が消える時はなく、鳥辺山の煙がいつまでも上がり続けるばかり。「住み果つる慣(な)らひならば、いかに、物の哀(あは)れも無からん。世は、定め無きこそいみじけれ」そのままずっとっ住み(生き)つづけるということが習慣となるなら、どうして「物の哀れ」を感じることがあろうか。この世に生き永らえていても、決まり切った定めがあるはずもないのだから、いつ何が起こるか知れたものじゃないからこそ、いかにも好ましい(いみじけれ)と思われよう。吉凶・禍福、これこそ定めなく、人生を襲い追い回すのです。まるで「行く川の流れ」のごとく、湧いて流れ、その繰り返しですが、同じ水はどこにもないのです。
人間ほどに長生きするものはいない。にもかかわらず、千年も万年も生きたいと願ったところで、それはたった一夜の夢の如し、「命永ければ辱(はぢ)多し」というではないか。どんなに生きても、せいぜい四十年、それが区切りの目安。それ以上に生きてどうするのか、と兼好は言う。もちろん、寿命はいろいろな条件によって長くも短くもなる。兼好は七十歳ほども生きたが、今日、そこまで生きられずに、早逝する人は少なくない。平均寿命を言うのではなく、人間の生涯という観点で言えば、それぞれの寿命に応じた一生というものが準備されているのでしょう。あるいは、人はそれぞれの人生(他者を含めて)を、そのような「寿命」として受け入れる、死や悲しみを受け入れる「智慧」を宿しているとも考えてみるのです。(運命論ではないつもりです)

いたずらに長寿・長命することを兼好は望まない。「生、長ければ過ち多し」でもあるからです。また、いつまでも「この世・この生」に未練をもちすぎることも戒めています。「ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らず成り行くなん、浅(あさ)ましき」興醒めするし、恥さらしの結果、「晩節を汚す」いうことになるでしょう。鎌倉時代の処世観を以て、今を量るのは愚かなことです。時代に応じて、あるいは、人それぞれにおいて願わしい人生観がある。兼好は「かくかくしかじか」と言っているが、それはすでに滅んでしまった「人生観」「世界観」であるかと言えば、そうも言えません。七百年前のある人の生き方は、今日そのままに学び取る価値があるものだということだってありますから。「流行と不易」は、時を隔てて入れ代わり立ち代わり、生の只中に生じてもいるのです。
このところ、政治や経済、つまりは「政治状況」が末世的、終末的な暗さや頽廃に覆われているのを見せつけられるにつけ、ぼくは現実逃避を模索して、兼好さんを読もうとするのではない。ぼくの勝手な理解(誤解)で言うと、兼好は「世を捨てた人」ではなく、かえって「世に捨てられた人」だった。だから、脱俗の「仏への信心」に徹底することはできなかったし、時を経て「還俗(げんぞく)」、俗にいう「法師還り」すらしているのです。自らの「自己意識」を殺すには、あまりにもそれは強すぎた。ぼくは、兼好を時に読みたくなる(会いたくなると言うべきか)のは、ここに理由があります。「出家」を装って、俗物を遥かに凌駕するような、まがまがしい僧侶より、揺れ(迷い)ながら生きている人間として、よほど好感が持てると思う。
諸行無常を深く把握しつつ、なお人として生きる、そのために縋(すが)るべき礎をを求めつつ、何処まで行ってもおぼつかない自足歩行を止められない、兼好の強さと弱さに、ぼくは教えられているのです。
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