「一票はおひねり」、それはリードみたいなもの

 【滴一滴】欧州の国会で初めて女性の数が男性を上回るかと注目された。アイスランドで9月にあった総選挙である。北海道よりやや大きい島に約36万人が暮らすこの国は、世界で最も男女平等が進んでいるといわれる▼選挙結果は定数63のうち女性は30人。半数には届かなかったものの、女性の比率は48%である。比べるまでもないのだが、日本は解散前の衆院で1割にとどまる▼女性の比率とともに驚かされた数字がある。この国の投票率は8割を超す。投票日はお祭りムードで、着飾って投票所に向かう若者もいるとか。政治が身近なのだ▼日本でも平成の初めまでは衆院選で7割を超すこともあった。しかし、近年は急降下し、4年前は半数が投票しなかった。投票率は若い人が低く、年代が上がるにつれて高い傾向がある▼9月にあった本紙シンポジウムは若者と政治がテーマだった。なぜ、若者は政治に関心がないのか。20代のパネリストの言葉が印象的だった。「困っていても政治の問題でなく、個人で乗り越えるべき問題だと思っているからではないか」▼若者に政治は身近なものと感じてほしい。衆院選をその第一歩にしたい。「投票はあなたの声」と題し、14人の芸能人が若者に投票を呼び掛ける動画を公開し、視聴回数が伸びている。身近な人にも声を掛け、投票率アップを目指したい。(山陽新聞デジタル・2021年10月24日)

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 昨日は静岡県と山口県で参議院議員の補欠選挙が実施されました。当日の投票率は静岡で45.57%、山口では36.54%でした。この投票率が「高いとみるか、低いとみるか」、大いに意見が分かれるところ、そんなバカなことは断じてない。低いも低い、呆れてものが言えないとはこのことです。例えば山口の当選者は、有権者の27.76%の得票率で議員の椅子を得ています。四分の一強の得票率。四分の三弱の有権者は、その人の当選を望んでいない。でも、投票しないのが悪い、文句言うなとくる、きっと。昔も今も、「三割自治」などと揶揄されて、地方自治の自立性がまったく無視されていることが問題視されてきました。その伝で行くと、の三割の得票率がなくても議員に選出されるなら、この選挙は「無効」でしょ。過半数が選挙での投票を拒否しているのですから。どうしても「当選は有効」だと主張するなら、議員バッジに「三割以下の当選者」であることを明示すべきです、といいたくなるようなレベルの選挙制度と選挙民度ですね。このようにして、荒野に向かって、ぼくたちは進んでいるのです。

 三割自治はさらに、その「自立・独立度」は低下しています。それと踵(きびす)を接して、あるいは並行するように「国政レベル」でも「三割以下政治」が加速しているのが、わが島社会の現状です。先頃行われたアイスランドの国政選挙は議員の半数を女性が占めるかどうかが注目されましたが、ぼくはその投票率に感心しているのです。(女性議員は定数63議席のうちの30議席でした。投票率は8割超に達しています)

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 ぼくは選挙管理委員会のお先棒を担ぐつもりはないし、公明・公正選挙推進運動の身内でもない。まったくの「無関心派」であり、「ノンポリ老人」です。だから、老いも若いも、「ぜひ選挙に参加してくれろ」「誰でもいいから、投票してください」などという寝言や戯言は言わない。投票率は高い時もあれば低い時もある。アメリカの「中間選挙」における若者の投票率は2割を切っています。(左上複数写真の「下段」の左)上には上が、下には下が。全体の投票率でも日本は低いと怨嗟の声がうるさいが、スイスを見てごらん。投票率が高いから、国運は盛んかどうか。全員が一糸乱れず「投票」するというのは「ファシズム(全体主義)」、これは今でもあちこちに見られます。いろいろな人間がたくさん出て、得票率を競えばいいのだと思う。

 しかし、現行の小選挙区制はいい制度ではないし、また「比例代表制」はさらに悪い。この選挙制度は頭で考えるのと、実際にやってみるのでは大違いであることの典型でした。これを導入する際にもぼくは大反対で、中選挙区制を少しでもよくしていく努力を重ねる必要があったと、今でも思っています。でも、現行法でやるほかありません。それにしても、小選挙区(比例代表並立)制に世襲議員の続出で、これでは「悪政をもたらす悪要因の二乗」で、これ以上悪くなることはあってもよくなる気遣いがないのは、太陽が東から出るのと、同じ道理です。時間をかける余裕もないのですが、早急にか変えなければならない悪制度でしょう。

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● 小選挙区比例代表並立制=有権者が1人2票を持ち、総定数の一定部分を小選挙区で、残りを比例代表区で別々に選挙する制度。衆議院の中選挙区制に代わって、1996年の総選挙から実施された。総定数が480人で、小選挙区に300人、比例代表区に180人が配分されている。比例代表区では政党に投票し、全国11ブロックに分けて集計される。有権者は、小選挙区では候補者の名前を、比例代表区では政党の名前を書いて投票する。当選者は小選挙区選挙では1位の候補者、比例代表区選挙では政党の届けた名簿の中からドント式(d’Hondt method)によって決まる。ドント式とは、各政党の得票を1から順に整数で割り、その商の大きい順に議員定数に達するまで当選人を決めていく方法。2005年9月の総選挙では、この方式により自民党が獲得した1議席がに浮く形となり、得票数に従って他党に割り振られた。名簿届け出政党になるには、(1)国会議員を5人以上有すること、(2)直近国政選挙で2%以上の得票率を獲得していること、(3)名簿登載者を定数の2割以上有すること、のいずれかの条件を満たす必要がある。(知恵蔵)

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 投票日まで一週間を切りました。結果はどうなるにせよ、この島社会は自然災害に人災、加えて政治的堕落頽廃によって底なし沼に沈んでいくようです。それを阻止することは今の段階では不可能ですね。最悪の問題ぞろいで、暗闇も際限なしです。なかでも、政治家が、当たり前に「虚言」を吐く、それがソーリ大臣であれ、閣僚であれ、嘘を吐くことに一切の衒(てら)いも恥もない、一点の曇りない虚言政治家の横並びです。加えて、贈収賄が紛れもない犯罪であることを、微塵も隠さない政治家まがい、しかもその悪業を取り締まるべき当局が政権とグルになっているという悪逆非道ぶりです。こういう厚顔無恥な輩が各地で立候補しているのが今回の衆議院選挙。どんなことがあっても選挙に行ってくれ、投票してくださいと、何処のどいつが、どの面下げて言えるんですか、ぼくもそのように考えている。だから、今回は投票しないというのではない。参政権(投票行為そのもの)は、ぼくにとっては飯を食うことと変わらない、きわめて個人的な判断であります。誰に言われなくとも、自分の流儀で、粗食ではありますが、飯を食うことに「精神の自立」を確認してもいるのです。

 一票のおひねり(投げ銭)は、犬に付けるリードのようなもので、ぼくは誰かに投票したら、その人の行動を見ることになるでしょう。あるいは誰にも投票しなかったら、リートは手許にそのままで残っています。ひょっとしたら、本物の犬の首にかけて散歩するかもしれない。「おひねり」の中に何も入っていません、当然です。でも、目には見えないが、「理不尽な生死に遭遇する人がいない社会」、それを実現するための志(心づけ)が届いたらいいと請願・念願、いや祈願しているのです。その程度の行動です、ぼくが「選挙」に参加するのは。いくつかの国では、棄権者には罰則が用意されている。いやですね、そんなはしたないのは。棄権するのも権利。間もなく、未曽有の大不況が必ずやってきます。それにもまして、コロナ感染拡大の大波が、油断している隙も無く反転攻勢に打って出るでしょう。心して、生きていきたいと、いまさらのように念じています。

 大衆演劇では贔屓の役者に「投げ銭」をする。選挙はそれとはまったく趣は違いますが、底の意図は変わらないとも言えます。投票した人間に、いわば「おひねり」を投げ入れるようなもの、候補者に一票を入れるのは。ぼくは贔屓筋の候補者なんてこれまでに、ただの一人もいなかった。でも飽きもしないで「投げ銭」というか「おひねり」を候補者にぶっつけるつもりで、投票してきました。頻度から言うと、あるいは白票の方が多かったかもしれません。つまりは「白票に投げ銭」だった。国会議員選挙というのは、ぼくにしてみれば「出たい候補」「出したい候補」じゃなくて「出したくない候補」を選ぶ選挙になっているようです。だから白票。これが三割超えたら、選挙が無効になる、そんな選挙法を作りたいですね。町内会の役員選び、その程度の選挙規模がいいでしょうな。アイスランドの人口は36万人ですって(右上)。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)