出たい人・出したい人より、出したくない人を

 【敵一滴】「秋冷」から「秋寒」へ、時候のあいさつも変わるころだ。先週まで続いた残暑がうそのように、いきなり朝晩めっきりと冷え込んできた。街並みや山々の輪郭が鮮明になった。店頭には季節を彩る作物も並ぶ▼美しい実りの秋には少々無粋だが、各地を選挙カーが縦横に走る。政権選択をかけた4年ぶりの衆院選も中盤に入った。コロナ禍の不安が残る。大規模集会は自粛傾向とあって、車から候補者の名前を訴える声にも力が入る▼短時間で同一内容の短い文言を繰り返し訴えることを「連呼」という。公職選挙法によると、走行中の車上から政策などを訴える通常の選挙運動はできないのだが、例外的に「連呼」は認められている▼有権者に「やかましい」と感じられれば好感度は下がる。学校や病院周辺では静寂が求められるので、行程にも気を使う。それでも定番として続いているのは、名前を売り込む手法として一定の効果があるからだろう▼ただ、せっかく走り回るなら候補者にはしっかり地方の実情を見てもらいたい。コロナ禍で苦しむ飲食店街や少子高齢化で先が見えない農山村も多い。鈍感でなければ、政治の責任を痛感するはずだ▼有権者の側も「自分には関係ない」と無関心ではいられない。まず候補者の訴えを聞き比べてみよう。投票先に悩む秋の夜長もあっていい。(山陽新聞・2021年10月23日)

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 「投票先に悩む秋の夜長もあっていい」と、他人事のように言うコラム氏。政治的中立を仮装しているんでしょう。投票する先がないのは、ぼくにとっては毎度おなじみです。ぼくは政治的人間であることを否定しませんが、「誰かにを入れてくれませんか」と頼むことは絶無です。理由は単純、頼まれたくないからです。政治家(多くは「家業」)にでもなろうという人間は、その性分や魂胆は理解できますが、その人間を、ぼくは肯定しません。特に、この三十年間ほどの島の政治には「うんざり」ですから。一党独裁というのではなく、多党独裁であり、マスコミは、与野党伯仲などと嘘のような話をしますが、ぼくはある一つの党を徐いて、すべては「与党」だと見ています。だから、この島社会は「全体主義」の一歩手前。好き勝手、やりたい放題でも「司直」には引っかからない。それは「司直」すら「与党」だからだ。こんな状況にあって、「見上げてごらん 夜の星を」などとのんきなことを言っているうちに、きっと身ぐるみはがされて、寒中に放り出されるに違いありません。そうならないためにこその、選挙権行使です。投票する「一票」は、「単なる一票」、力はない、でも、自らの権利を行使することには、大きな意味はあるんですよ。そんなことは考えるまでもないこと。

 ぼくは山のなかに住んでいますから、家の前は、昔の農道(いまは町道)で、車がやっと一台通れる程度の狭い道。だから選挙カーは入ってこない。町議会選挙や町長選挙の際にはバイクで候補者が家の庭まで入ってきたり、声を掛けられたことがあります。また、新聞を取っていないので、候補者の選挙公報なるものも届かない。しかし、この山中に来て、すでに数回の国政選挙や地方選挙がありましたが、どういうつもりか、ぼくはすべて投票はしています。誰に入れるという義理も貸し借りもありません。まあ、「人は見た目が九割」とか言いますから、それで投票先に困ったことはない。(ぼくが住んでいる選挙区では「選びたい人」はおりません。「選びたくない人」ならいます。そいつを選ぶのもまた選挙です。つまりあ「✖を付けたい人」を選ぶ選挙もあっていい。投票率が三割未満なら、その選挙は一定期間は無効という制度も、あっていい、選挙区そのものの「公民権停止」ですな)

 今月末が衆議院議員選挙の投票日だそうです。この何年間は、まず「期日前投票」で済ませています。役場まで出かけるのですが、面倒とも思わないし、雨でも嵐でも、気にならない。選挙が好きなわけでもありませんが、ぼくは、投票資格を得て以来、殆んど棄権ということをしていません。自慢するほどではないし、入れたくてたまらないほど「選挙好き」でもない。税金を取られている以上は、一種の監視のつもりで投票するばかりです。以前住んでいたところでは、きっと候補者本人が「投票依頼」に来た。ぼくは話は聞くが、「あなたに入れます」と言ったことはない。誰に入れても、結果(政治状況)は変わらないとは思わないし、投票したって無意味だと(たまには思うこともある)、言い切るほどのシラケ感もない。

 ぼくの友人で何人かが議員になっている。彼等がやっているのだから、「世のなか(地方や都会を含めて)」よくなる気遣いはないと確信しています。性分からして、無条件の支持政党もなけければ支持する人もない。選挙に出たい人は、きっと魂胆が明日だろうし、性格的に「自意識だけが強い」嫌な人物だろう。だから、出たがり屋・やりたがり屋には、まったく期待しない。迷惑をかけてくれなければ、犬でもネコでもいいぐらいに思っているのです。「公僕」「全体の奉仕者」だと自認している向きには申し訳ないが、まったく期待はしていないのです。ぼくや他人の「私権」が、理由もなく犯されなければ、誰が議員でも、鶏でも豚でも構わないという程度にしか考えていない。

 そんなに悪しざまに言わなくてもいいじゃないかと、横やりが入りそうです。でもこの二十年、三十年の国政の為体(ていたらく)、それはほぼ「犯罪に近い」とさえ言いたい。「未必の故意」なのか、あからさまな「不作為」なのか。公金をくすねても、賄賂を懐に入れても、公選法違反に問われようが、逮捕・起訴する権能さえも手中に収めれば、どんなにアクドイことエゲツナイことをやっても、選挙に落ちる心配はない。いつでも「選挙民を買収している」のだから。こんな輩どもが大挙して「公約」だの「お約束」だの、聞いて呆れるし、呆れた連中をここまでノサバラセタのは「どこのどいつだ」と言う前に、われわれに似合った議員どもしか国政や地方の政治の場に出てこなかったのだ。

 だから、選挙に行っても始まらないとか、誰が議員になっても変わらないという、その言い草は大きな凶器となって、まちがいなしにぼくたちの頭上に、足下にも忍び寄り、突如猛威を振るって本性を曝け出すのです。寝首を掻かれることはあるまいと信じたいけれど、コロナ禍に病院は「患者拒否」だし、患者受け入れを装って「「補助金(税金)受け取り」、その金で債券を買っている機構があった。その理事長は政府の対策会議の責任者だというのだから、官民挙げて、汚職や公金横領に奔走している、そのさなかの「選挙」です。

 選挙に行く、投票するというのは、ぼくにとっては「飯を食う」ようなもの。つまりは当たり前の「日常茶飯事」です。それ以上でも以下でもない。でも、いまは当然の権利(投票するかしないかという選択は、一つの権利)であっても、それが「当然」になるために壮絶な民衆の戦い(犠牲)が必要だった。「権力者」が、人民が投票するする権利(選挙権)を「呉れる」ということは考えられもしなかった。(明治以降の「普選運動」を少しでも学んだ人なら、投票してもしなくても「おんなじじゃんだ」などと寝言は言っておられません。この三十年間、国民の給料は上がっていない、いや下がっている。それで国が税金を自由勝手に使いまくっている、これもまた、面倒だからと選挙に行かない人が呼び込んだ現実の隠しようのない事態です。それで結構というなら、どうぞ「ご随意に」ですな。

 食事は自分で作って食べるときもあれば、かみさんの料理で食べるときもある。いずれにしても基本は家で食事をとる。うまいまずいは、あまり言わないことにしている。摂食する、それが生命維持の手段です。おいしいからたくさん食べるとか、まずいからまったく食べない、そんなことを続けていると健康を損ねる。国であれ地方であれ、政治に参加する(選挙権を行使する)というのは、要するに「健康を損ねない範囲で食事をする」ということに同じ。今日「食べたから」、さっそく健康になることはないし、食事を抜かしたから、明日「体調を崩す」こともないでしょう。でもそんな不摂生を続けていると、いつしか、衰えが来てしまい、気づいた時には手遅れということになります。おそらく、この島社会の「健康状態」は手遅れではないかと、ぼくは見ています。即死はしないけれど、回復は難しい。いろいろな器具につながれて、入院監禁状態にあります。点滴や注射を打たれながら、しばしの間生き永らえる、そんな危険・危篤(奇特)状態にあると、藪医者ですらない、このぼくは見立てているのです。それにしても、有象無象、身異議から左まで、国会議員が数百人、要りませんな。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。