
<あのころ>円生、小さん競演へ

落語協会分裂騒動から1年

1979(昭和54)年5月8日、真打ち乱造に反対し1年前に落語協会を脱退した三遊亭円生(中央右)が柳家小さん会長(同左)と松竹落語会の高座で競演すると発表。古今亭志ん朝(左端)や(右から)三遊亭円窓、三遊亭円楽らも参加。円生はこの4カ月後、立ち上げた落語三遊協会の高座を務めた直後に急死した。(共同通信・2021/5/8)
●落語協会・沿革(略歴)=昭和15年5月、第二次世界大戦への突入を前にして、新興行取締り規則の改正により、演芸界は警視庁統括のもとで「講談落語協会」として統一させられる。すべての落語家は否応もなく、この協会に所属することになる。会長は、人格者であり名人と謳われた講談の六代目一龍斎貞山が務めた。 / 昭和20年終戦後、官主導の「講談落語協会」は解散し、元の形態である「東京落語協会」と「日本芸術協会」の二団体に戻る。 / 「東京落語協会」は昭和21年10月、四代目柳家小さんが会長に就任。「落語協会」として新発足する。以後会長は、22年に八代目桂文治。30年・八代目桂文楽。32年・五代目古今亭志ん生。38年・再度桂文楽。昭和40年・六代目三遊亭圓生が歴任した。 昭和47年に、五代目柳家小さんが会長に就任すると、次々に近代化をはかっていった。若手の理事を登用。合議制を導入する。また、任意団体として上野黒門町に事務所を構え、公益法人化に向けて活動を開始した。 / 昭和52年12月、文化庁を主務官庁として、社団法人の認可を受ける 。以降、正式な名称は、社団法人落語協会となる。 / 昭和53年5月、六代目三遊亭圓生が中心となり、七代目橘家円蔵、三代目古今亭志ん朝、五代目月の家円鏡らが脱退し、「三遊協会」を創設。ただしその直後に、圓生直系の一門以外、すなわち円蔵、志ん朝らは全員落語協会に復帰する。結局は、三遊亭圓生とその一門だけが落語協会を脱退した。同年、十代目金原亭馬生が副会長に就任。 / 昭和54年圓生没後、五代目円楽の一門を除いて、六代目圓窓、圓弥、生之助、圓丈らが落語協会に復帰する。「三遊協会」は円楽一門だけとなり、その後「大日本すみれ会」から「圓楽党」と名称を変更し、現在に至っている。昭和57年、馬生没後、六代目蝶花楼馬楽が副会長に就任する。同年、立川談志が弟子一同を引き連れて脱退。「立川流」を創始する。 / 昭和62年、馬楽没後、三代目三遊亭圓歌が副会長に就任。 / 平成7年5月、落語家として史上初めて柳家小さんが、重要無形文化財(人間国宝)に認定される。翌年、平成8年8月、小さんは24年間勤めた会長職を勇退し、三遊亭圓歌が会長に就任。同時に古今亭志ん朝が副会長になる。小さんは、最高顧問。 / 平成13年10月、志ん朝没後、五代目鈴々舎馬風が副会長に就任。平成14年5月、柳家小さん死去。平成18年6月、三遊亭圓歌が10年間勤めた会長職を勇退し、鈴々舎馬風が会長に就任。平成22年6月、二期4年間勤めた鈴々舎馬風が勇退。柳家小三治が会長に就任。平成24年6月、役員改選にともない小三治会長再選。柳亭市馬を副会長に選出。平成24年8月、一般社団法人となる。平成26年6月、柳家小三治が勇退。柳亭市馬が会長、林家正蔵が副会長に就任。 現在に至る。(一般社団法人落語協会:https://rakugo-kyokai.jp/summary/)
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人間が作る集団は、時が来れば必ず分裂する。うまく「覆水が盆に返る」時もありますが、たいていは別れてしまう。よりを戻しても「シコリガ残る」からでしょう。夫婦は最小単位の集団ですが、この集団においても、多くは喧嘩しては仲良くなり、上手くいくなと思えば、別れてしまう。(この辺は、ぼくの実感ですな)そんなもんですよ。一生涯「喧嘩なし」というのは嘘も嘘、真っ赤な嘘でしょうね。いやも嫌いも「好きの内」とかいうそうです。連れ合いと言いますが、どれだけ連れ合っても、分からない部分はきっと残る。
落語協会だけが分裂を繰り返してきたわけではなく、あらゆる集団は例外ではないということです。このところ、小三治さんの死に遭遇して、いろいろと考えるところがあったのですけれど、この「騒動」をぼくは、噺家の世界でこんな「騒動が起きるのだなあ」と、実に興味を持ってみていました。なぜかという理由は特にない。どんな分裂騒動でも、「発端は、(一見)正論対(もう一方の)正論(らしさ)の対立」ですが、これがこじれて、最後は「泥仕合」になるのがお定まり。どちらも「正論」まがいを譲らないんですね。
まあ、山登り登山道選びみたいなもの、どちらを行くか、時と場合に因るのですが、争いが生じると、多勢を恃むという悪い症状が出てきます。やがて、無勢の方も、「正論」をそっちのけに、こうなったら「メンツの問題だ。梃子でも譲らねえ」となる、落語界の場合、圓生さんがこれだった。「師匠、俺の後を受けてくれ」と、小さんに後事を託したのは圓生だった、のに。どこまでも、「夫婦別れ」に似ているようです。こじれが始末に悪く、裁判にまで行くというのは、それこそ日常茶飯事でしょう。「あんたといっしょになれなきゃ、首をくくる」とか何とか言ったのを忘れちゃうんだ。
「唐茄子屋屋政談」なら志ん生さん、「三年目」なら圓生さん、あるいは「舟徳」「暁烏」なら文楽師匠と、実に贅沢にえり好みが出来た時代に、ぼくはぎりぎりに間に合いました。なんでもそうですが、三人の名人上手を比べて、優劣をつけることはできない相談で、最後の決め手は「好きか嫌いか」です。情理を尽くして「あれがいい、これがいい」ということもないわではありませんが、最後は、いいか悪いか、好きか嫌いかという「感覚」で決める。いまは、東西の落語界でどれくらいの「噺家(まがいも含めて)」がいるのか知りません。おそらく両方で千名は優に超えるでしょう。それだけの噺家が、純粋に「落語」でやっている(俗に、「それで飯を食う」)とは思えません。好きだからこそ、という「芸の道」への励みが辛さも苦労も乗り越えさせるのかもしれません。いまでも「内弟子」という制度を守っているところもあれば、学校への通学のように、通いを命じている師匠もあるでしょう。いずれも時世時節の変化には、事を構えずです。いまは「江戸でも浪速(上方)」でもその昔の風情、時代社会のまゝに、風俗や社会の風潮を演じることは不可能になりました。(宇都出氏、あるいは徒弟制という「教育の方法」は独特のの家族主義でした)

ずいぶん前に、寄席の「割り前」と言う話を聞いて驚嘆したことを覚えています。客一人当てに数円数銭、それを当日の噺家の数に割り振るというのです。(演者ごとの、客一人当たりの給金✖有料入場者数というのがおもな計算で、これを「割」といった。寄席などの出演料、割銭、割前などともいう。「割を食う」などという表現のもとになったものでしょう)
文化や芸術という分野に、今では多くの国税が投入されています。その善悪是非をいうのではありません。「武士(噺家・役者・演奏家)は食わねど、高楊枝」と粋がっていても、限界があります。「やせ我慢にもほどがある」と言いたいくらいに、何よりも飯ですからね。今でもつづいているのでしょ、秋の「芸術祭」とか何とかいうあれ。文化庁の主催です。志ん生が「文部大臣賞」を得たのがこれでした。(今は、名称が変更になっています)何にしても、文化芸術の保護や育成に、国家が金を出すというのは、よく考えれば、奇怪な話であり、おかしな話。ぼくが勤め人だった、ごく初期の頃でした。学校に「国庫助成」と称して「税金」が投入される制度が始まろうとしている時代でした。ぼくはその仕組みに反対だった。税金がなければやっていけないなら、給料を下げてでも「教育の自主性」「学の独立」(そんな大したものではなかったが)を維持すべきだという、当たり前の考えです。例えは悪いが「学校が、生活保護を求める」、そんな摩訶不思議な制度であると考えていたし、今でもその考えは変わらない。いったん、税金を当てにしだすと、ついにはそれがなければ「成り立たなくなる」のが相場だったからです。今、この制度が始まってから半世紀は経過しましたが、実体はどうでしょう。

昨年秋、内閣が日本学術会議委員の「任命拒否」をしました、今も内閣が犯した違法状態はつづいています。六名の委員の任命申請が拒否された理由は「政府の法案(ことに安保法制など)」に反対したからです。この違憲違法を強引に敢行した理由は「税金が投入されている」「税金をもらっていながら、政府の法案に反対するのは怪しからん」ということでした。「カネは出す、当然、口も出す」というのです。無能者が権力を握ると、かならずこういう事態が起こります。
「武士は食わねど、高楊枝」とはどういうことか。江戸の身分制の中で使われた、武士階級への一種の「庶民の冷笑」だったと、ぼくは見ている。「切り捨てご免」などと物騒なものを振りまわしても、咎められなかった「武士」(侍)に対する、批判や非難があったとみていい。だから、落語家や役者は「武士だ」「侍(さむらい)」だというのではありません。でも、あるいは、当人たちに「税金をもらって当然」という意識があるとしたら、もう終わっていますね。
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● 武士は食わねど高楊枝(たかようじ)=武士たるもの、たとえ貧しくて食べるものに事欠いても、じゅうぶん食べたふりをして楊枝を使うものだ。武士はたとえ生活に窮しても気位は高くもち、恥ずべきことをしてはならないというたとえ。[使用例] 「武士は食わねど高楊枝」の心がやがて江戸者の「宵越しの銭を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴ころ」「不見転」を卑しむ凛乎たる意気となったのである[九鬼周造「いき」の構造|1930][解説] 古くは「侍(士)は」といいましたが、江戸中期以降「武士は」の形が優勢となります。なお、このことわざは、武士の誇り高いことのたとえですが、下級武士の生活が楽ではなかったことの反映とみると、町人から武士への皮肉にもなり得るものでした。[類句]鷹は飢えても穂をつまず/渇しても盗泉の水を飲まず」(ことわざを知る辞典)
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落語を好んで聴いてきた人間として、昨今の落語事情は興味もないのでよくわかりません。四十数年前の「分裂騒動」は何だったのか。仕掛けた張本人の圓生さんが亡くなった病院は、当時、ぼくが住んでいた地域の隣町でした。よく知っている病院だった。さすがに驚きましたね。もちろん、分裂騒動の仕掛け人でしたから、いろいろな心労からくるものも死につながったでしょう。実に惜しいことだったと、今でも思います。いずれ、誰だってこの世を去る、だからそのことをどうこう言うのではありません。分裂するだけのことだったか、それを考えると、惜しいことだった、つまらなかったな、というほかありません。

上方に目を移すと、戦後にたった一人だったみたいに、桂米朝さんが出て、苦労しながら埋もれていた噺を掘り起こされた。さらに若い落語家を徹底して育てるという大事な仕事もされた。彼の教育は「住み込み(内弟子)」制度に「根ざしたものでした。寝食を共にすることによって、落語の空気を吸う、呼吸を飲み込むというものだったでしょう。(ずいぶん後になって、米朝さんは松岡容(いるる)さんの弟子だったと聞いて、さすがだなあと感心したことがありました。(今ではすっかり忘れられていますが、松岡さんは偉い人でした)
ぼくは、幸いにも上方と江戸の二つながらの「落語」を堪能することが出来た(両者に共通する噺はきわめて多い)。好みはそれぞれで、いい悪いをきめることはできません。ある時期は桂枝雀という「爆笑王」と称された噺家が「一世を風靡」していたように思っていた最中に、自死された。彼以外に、ぼくは好んで聴いた大阪の噺家はほとんどいなかった。今時、関西は隆盛だと言われていますが、それほどの落語家が育っているのかどうか、ぼくには疑問なしとしません。それは東京も同じです。ぼくが外野から、あるいは岡目八目で、がたがた言っているだけですが、落語という「語り芸」「騙りもの」が、さらに復活する気配が感じられないのは、いかにもうら寂しいですね。
「芸」を自分のものにする、「自分の芸」を作る、そのために誰かを「師表」にしてみたい、彼や彼女の「息づかい」を学びたい、そんな人が必要でしょうね。教育というものを深めていくと、何処までも、止め処なく行くようですが、いやいや、案外、近くに大きな暗示が転がっているようでもあるのです。
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