
【筆洗】入門に際しては両親、とりわけお母さんが反対した。どうしてもその道に進みたかった男の子は落ち込み、毎日、壁に向かってぼんやり座り続けるようになる。家の中が暗くてしょうがない。両親はついに音を上げ、男の子を送り出したという▼その道は独自の至芸や人間国宝につながっているんだよ。壁の前の若者に教えたくなる。落語家の柳家小三治さんが亡くなった。八十一歳。「青菜」「小言念仏」。それほどでもない噺(はなし)が小三治さんが演じるとどうしてあんなにおかしかったのか▼噺を覚えるのが苦手だったそうだ。せりふや筋を覚えるだけならさほど難しくはないだろうが、小三治さんの場合は「了見で覚える」▼まず登場人物の心持ちになって、その人の言葉として覚えていくというから、やっかいな作業だったのだろう▼せりふや動きよりも人物の了見を重視した芸は派手さには欠けたかもしれぬが、その分、人間を丁寧に描けた。どんなに滑稽な噺でもその笑いの裏にある、悲しみや寂しさのようなものまでつい想像させる。そんな高座だった。談志さんの「凄(すご)み」や志ん朝さんの「華やかさ」に対し、小三治さんは「深さ」か▼二日の「猫の皿」が最後の高座だったと聞く。以前、最後は「粗忽長屋」でと書いていたので、まだまだ続けたかったのだろう。寂しい。ファンには「小三治」ではなく「大惨事」である。(東京新聞・2021/10/13)
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【南風録】本題に入る前の「まくら」の途中、ふと動きをとめて黙り込んだ。聴衆が高座の柳家小三治さんを見つめ、じっと待っていると再び語り始め、会場の空気がほどけた。絶妙な間合いに「うまいなあ」と感じた。〇古典落語の名手で人間国宝の小三治さんが亡くなった。鹿児島にも何度も足を運んでいる。昨年10月の一門会の演目は「粗忽(そこつ)長屋」とアンコールの「小言念仏」だった。〇落語好きの方はご存じの通り「小言念仏」は仏壇へ経を唱えながら家族への小言を繰り出す話だ。表を通るドジョウ屋を妻に呼び止めさせ、調理法まで指示する。ひょうひょうと続くテンポのいいぼやきを堪能した。〇高校卒業後に五代目柳家小さんさんに入門。若いころ、「おまえのはなしは面白くねえな」と指摘されたという。師は稽古をつけてくれず、「弟子なんだから盗め」。そう言いながら、ほかの師匠のまねをすると「それは泥棒だからダメ」と叱られた。〇師の背中を見ながら探求を続け、たどり着いたのが何の作為も感じないのに聴いている人の頬がつい緩む、そんな笑いだ。なんとも言えないおかしみと温かさが魅力のはなし家だった。〇コロナ下での昨年の会は感染対策で定員を減らして開かれた。次は満員の会場で聴きたいと思ったが、かなわなかった。まくらの中でしみじみと、「鹿児島のそばはうまかった」と目を細めた笑顔を思い出す。(南日本新聞・2021/10/13)
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【滴一滴】多趣味で知られた。その一つがバイク。「らくーに行けるっていうことがとってもつまらない」。四輪を20年ぐらい運転した後で乗るようになり、そう感じたそうだ▼落語家の柳家小三治さんの著書「ま・く・ら」にある。趣味の中の一番好きだったもの、深入りしてしまったものが落語、とも▼本題に入る前のそんな語りに味わいがあり、滑稽話では巧みな人物描写に笑いを誘われた。突然の訃報に驚いた人は少なくなかろう。今月も高座に上がったという▼とはいえ、新型コロナウイルス禍で演芸場が休業するなどして仕事が減り、長年の感覚を見失いかけていた面もあったようだ。年齢による体の衰えも感じつつ、観客と向き合う姿を6月のNHKのドキュメンタリー番組で見た▼照れたような語りの中、きっぱりと口にした言葉が耳に残る。「今日よりも明日、明日よりもあさってというふうに。昨日と同じ時点ではとどまりたくない」。さらに高みを目指した背中を追う落語家だけでなく、困難の中にあるファンも励ましたに違いない。深入りしてしまった世界の魅力を存分に伝えた至芸の人だった▼落語界では師匠の小さんさん、桂米朝さんに次ぐ人間国宝が逝き、ほぼ四半世紀ぶりに「宝」がいなくなった。続く存在となれるのは誰か。至った芸の高みを思うと、すぐに思いつかない。(山陽新聞・2021年10月12日)
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ぼくの勝手な想像です、亡くなった三遊亭圓生氏は、小三治が好きだったし、小三治さんも圓生が好きだったと長い間考えていました。それで何かを言いたいのではなく、なんとなく、お互いが好きあっていたんじゃないか、二人の高座を聴いていて、そう思っただけでした。学生時代でしたが、ぼくは圓生さんの噺を、上野鈴本で初めて聞いた。それまでは圓生も文楽も名前は知っていたが、どちらがどうだったか、まったくわからなかった。昭和の名人とは、この二人に志ん生さんを加えて言われるのですが、ぼくは、京都時代にはラジオでいろいろと聞いていた。だから、上京して何をしたいかといって、まず寄席に足を運ぶことが最優先でした。そんなに金があるわけでもなかったから、足繁くとはいかなかったが、それでも、寄席に座を占めては、つまらぬことを考えていたのだと思う。

圓生さんが落語協会の会長を務めていた時、小三治さんを二つ目から、十七人抜きで真打にした。並みいる先輩を通り越しての抜擢でした。いろいろとあったのでしょうが、この期待に応えるためには「了見」間違えを犯さないことを誓ったはずです。「人の了見になれ」「了見で覚える」、この一念で精進を重ねたに違いありません。前回も書きましたが、この「人の了見になれ」という五代目小さんの助言が、ぼくにはなんとも言われぬ落語の、あるいは噺家の極意だと思ってしまいました。それを受けて、小三治さんは、噺は「了見で覚える」といったものです。登場人物になり切ると言えば、いつでも同じ人物は同じように演じることになるのでしょう。でも、了見というものを深く解すれば、その時その時で「人の了見」は異なっても構わないというか、違うことだってありますよ。それを小三治師匠は「了見で覚える」といったのです。
拘(こだわ)りたいんですね、この「了見」という言葉に。落語家だけに大事なのではなく、ぼくらにとっても、看過できない「人間の器量」の有無にかかわる事柄です。「考え」「判断」「思案」「思慮」「分別」「処置」「堪忍(かんにん)」「宥恕(ゆうじょ)」、これだけの「広さと深さ」が含められている言葉です。徒疎(あだおろそか)にはできないでしょう。五代目小さん師匠が、弟子に投げかけた「人の了見になれ」という語を、ぼくはずっと噛みしめています。人生の核になる「この一語」ではないでしょうか。
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〇 りょう‐けん レウ‥【料簡・了簡・了見・量リャウ見】=〘名〙 (「料」は、はかる、かんがえるの意。「簡」は、えらぶ、しらべるの意)① (━する) よく考えて、より分けること。考察して検討すること。※勝鬘経義疏(611)一乗章「本義云。此前料二簡仏出一」※師郷記‐永享五年(1433)自一一月六日至同一七日紙背(某書状)「この御詠ともを、よくよく御らんせられ候て、しかるへきやうにれうけん候へく候」 〔蔡邕‐太尉楊公碑〕② (━する) 考えをめぐらして判断すること。※貴嶺問答(1185‐90頃)「行在所事。〈略〉京師為レ行也。以二此等文一可下令二了見一給上也」※太平記(14C後)七「其中に又などかは雨降る事無らんと、了簡(リョウケン)しける智慮の程こそ浅からね」③ 思慮。考え。分別。思案。また、考え方。※毎月抄(1219)「よろしくそれは今定め申すにおよばず、この下にて御了見候へ」※滑稽本・浮世床(1813‐23)初「そりゃアどういふ了簡(リャウケン)だ」④ とりはからい。処置。※園太暦‐観応元年(1350)一一月一八日「将軍逐電不実歟、又云、所詮師直了間歟」※虎寛本狂言・神鳴(室町末‐近世初)「能い能い、某が了簡を以、八百年が間旱損水損の無い様にして取らせう」⑤ (━する) 怒りや不満をこらえ、がまんすること。腹立たしいのをたえしのぶこと。おおめにみること。堪忍。宥恕(ゆうじょ)。(精選版日本国語大辞典)
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彼の兄弟子になるのが立川談志。この人は小さん師匠と、取っ組み合いの喧嘩をするほどの弟子でした。落語や落語界全体についての意見は合わなかったでしょう。真打昇進試験など笑止千万なことだと談志には思えた。いろいろなことが重なって、談志は小さんの門をでる。いわゆる破門です。ぼくにはよくわからないことだらけですが、談志は小三治の芸を認めていたはずです。だから、彼は「小さん」の後を継ぐのは小三治だと信じていたが、それが裏切られた。よく言えば、談志さんは落語界の行く末を案じていたからこその「破天荒」な行状になったのです。彼は、古今亭志ん朝とは仲よしで、いろいろなつながりもできていた。志ん生の名跡を「早く継ぎなよ」と唆していたほどでした。(志ん朝が談志を越えて、真打になったのに、立腹し、俺は年上で、先に入門している、芸も達者だ、なのにどうしてあいつが先なんだ」と剥(むく)れたこともあった。また、三遊亭円楽には「圓生」を継げと、言っていたが、この人たちも早くに亡くなった。(六十年代の初めころは、落語界が「若かった頃、青春時代」だったでしょうね)
つまらないことですが、前回「ドリアン」の話を書きましたが、談志さんは、これが大好物だったという。満腹になるまで食って飛行機に乗り、ちょっとした騒動で飛行機を止めてしまったと言われているし、あるホテルで、それを食して大騒動になったという出来事もあった。これを聞いていた小三治さんが、「話のマクラ」にして、一席作ったのではないかとさえ思われてくるのです。(ぼくはこれを食べたことがない。実に美味だそうです。それに反比例して、その臭気たるや半端じゃないという)
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● ドリアン(Durio zibethinus; durian)=パンヤ科の常緑高木。インド,ミャンマー,マレーシア,インドネシアなどで栽植されている。原産地は不明であるがマレー半島あたりと考えられている。樹皮は厚く灰黒色。葉は楕円形で表面は光沢があり,裏面は幼枝とともに銀色を帯びた黄褐色の鱗片を密生する。春に,大型で白色の鐘形花が円錐花序をなしてつく。花弁は5枚,10本ほどのおしべと1本のめしべが花外へ飛出している。果実は夏に熟し,長径 20~30cmほどの卵形ないし球形で,灰褐色の五角錐状の硬いとげがある。種子の周囲に淡黄色で独特の臭気があるクリーム状の果皮があり,食用にされる。臭気にもかかわらず味がよいので「果実の王様」といわれるが,保存がきかない。生食のほかジャム,アイスクリームなどに加える。(ブリタニカ国際大百科事典)
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今日の落語の衰退をもたらしたのはテレビだと、ぼくは見ています。おそらく昭和三十年代以降の現象です。今では考えられないほど、テレビには「落語・寄席」番組が目白押しでした。この新たな「テレビ」という機器の致命傷は、時間に制約がありすぎることでした。三十分番組でも正味二十分足らずしか使えない。それで、落語が細切れになり、本来なら一時間モノが四十五分に、三十分かかる噺が二十数分で切れる。こんなことがつづくうちに、本来の落語は切り刻まれていったのです。ぼくは、この時代(昭和四十年代頃まで)は、割合によく、テレビ落語を見ていましたが、やがてしびれを切らして、テレビ寄席から遠のいてしまった。「テレビの功罪」といいますし、物には両面ありますから、どちらがよくて、あちらはいけないというわけにも参らない。こと落語に関しては、テレビは禁物だったでしょうね。
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(ある新聞の記事から)

「東京やなぎ句会」で小三治さんと同人だった演芸評論家の矢野誠一さんの話「僕より四つも若いのに、若い時から自分を持っている人だった。全然、ぶれない。尊敬していました。9月に(東京・新宿の紀伊国屋ホールで)高座を見た時、『道灌』をやろうとして、やらずに、昔の思い出話をしみじみと語っていた。小さん師匠の晩年の姿を見るようで、芸の終局とはああいうものだと感じ入った」(読売新聞・2021/10/10 15:07)
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矢野さんが言われている「芸の終局」ということ、よくわかりませんが、そういうことはあるんでしょうね。客もいない、語るべき噺もない、こういわなければ、ああいわなければ、そんな約束事をすべて超えて、ある種の、精神の飛翔、そんな境地にいるような感覚があるのではなかったか。いまさらに、ぼくは、稀有な噺家に遭遇するという幸せを実感し、痛感しているのです。熊公の了見、与太郎の了見を、一瞬も忘れなかった噺家だったと、改めて、その思いを深くしています。
・その奥の闇は動かず夏のれん(土茶)
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ここに来て、いかにも場違いというか、蛇足に靴を履かせるような馬鹿げたことに思われますけど、小三治師匠の芸というものを「覗き見した」程度の人間でも言いたくなることを言っておきます。彼は「ぶれずに、まっすぐ歩いた」というように評されてきました。ぼくもそのような歩行にあこがれ、よく使う表現で「吾が道は一以て之を貫く」ということを口にしたり駄文にしたりしました。

(「吾が道は一以てこれを貫く」全体がある一つの考え方に基づいていることを表すことば。[由来] 「論語―里仁」に出て来る、孔子のことばから。弟子の曾参(そうしん)に向かって、「吾が道は一以て之を貫く(私の生き方は一つの考え方で貫かれている)」と述べたところ、曾参はあとでその内容をほかの弟子に聞かれて、それは「忠恕(まごころを大切にすること)」だ、と答えています」)(故事成語を知る辞典)
子曰。參乎。吾道一以貫之。曾子曰。唯。子出。門人問曰。何謂也。曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣。
先生(孔子)が生涯を貫いた、その「一」とは何だったんですか、と門人に尋ねられて、曾参は「夫子之道。忠恕のみ」と答えたというのです。「忠恕」はまごころ(真心)と思いやり。それは二つにして一つです。誠実・誠意でしょう。先生は生涯を、「真心と思いやり」で歩かれたのだ。
「私の唯一の正当な義務は、私が正しいと考えることをいつでもすることです」といったのは、アメリカのソローという人でした。小三治さんの落語人生を貫いた「一」は、まちがいなく「了見」というのもだったと、当たり前のようですが、やはりぼくは言いたいのです。それはまた、きっとぼくたちにも求められている「一」ではないでしょうか。小三治師匠の落語を通して、ぼくたちに伝わってくるもの、それが噺家の「了見」という、見失われがちな人間の「誠実・誠意(真心と思いやり)」でした。(こんなことを言えば、小三治さんは「よせやい、いい加減なことを言うもんじゃないよ。気持ち悪いぜ」と、かならず返すと思うね)
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