「人の了見(りょうけん)になれ」

 

 【余録】「一度小(こ)さん師匠のところへ行きましょう。きっと師匠なら止め方を知っているでしょう」。大学に進まず噺(はなし)家(か)になるという若き柳家小三治(やなぎや・こさんじ)さんは、こんな知人の助言を聞いた父親と先代の小さんを訪ねた▲中学の時に「長屋の花見」で落語の面白さに目覚め、高校時代はラジオの「しろうと寄席」で15週勝ち抜いた当人だった。この時小さんは父親の意を酌(く)んで、これからは教養のある笑いが求められるから大学を出てからにしろと勧めた▲「冗談言っちゃいけねえ。世の中進めば進むほど、ばかばかしい笑いってえものを人が求めるようになるんだ。教養ある笑いなんて面白くねえや」。後年、小さんはこの時の少年・小三治の言葉を、こんなふうに人に吹(ふい)聴(ちょう)したという▲言葉遣いは落語風冗談でも、小さんがうれしそうに語っていたところを見ると似たことは言ったのだろう。その師匠の「人(登場人物)の了(りょう)見(けん)になれ」という教えを座右(ざゆう)の銘(めい)とし、古典落語の正統を守り抜いてきた小三治さんだった▲「人がいつもと違うキャラクター、違う噺になった時がとてもうれしい」。極めた「了見」がおのずと動き出す名人の境地をうかがわせる感慨である。そして噺家冥(みょう)利(り)に尽きるのは、落語が初めての人が「面白い」と言った時だという▲ひょうひょうとした語り口と絶妙の間(ま)で、えもいわれぬおかしみを醸(かも)し出し、「存在そのものが落語」といわれた小三治さんである。その「存在」がなければ失われていた話芸の富をこの世に残して旅立った。(毎日新聞・2021/10/12)

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 五代目小さんの「人の了見になれ」という忠告・助言、なんともいい言葉ですね。ホントのところは、ぼくにはよくわからない言葉ですが、「了見」とか「了解」「了承」などと地続きの言葉のようにも考えられます。落語の登場人物に「なる」のではなく、その人物の「了見」になれ、と。そこに、「クマ公・ハチ公の了見」になるというのは、彼等のもつ「思慮や分別」を掴み切れということだったか。いかにも小さんから小三治への「技術の支えになる根っ子」が阿吽の呼吸で交換されたというべきでしょう。「人の了見になる」という、その技・芸そのものを「師匠は弟子に教える」ことはできない。それは弟子が自分のものにするほかに仕方がないものです。落語の中の人物が、それぞれの了見(考え)で生きている、その「様」を演じることが落語家の冥利だったんじゃないですか。「人の了見になり切った」落語家こそが、名人上手と言われたのですかね。

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〇 りょう‐けん〔レウ‐〕【料簡/了見/了簡】 の解説[名](スル) 考え。思慮。分別。「悪い―を起こす」 考えをめぐらすこと。「好く―して前後を考えて見たら」〈紅葉金色夜叉 こらえること。堪忍。「熊胆が出るや否や帰って仕舞ったと云う事がちゃんと分ったから、書生さん中々―しない」〈福沢福翁自伝 とりはからい。処置。「このことを語りなばいかなる―もありやせんと思ひ」〈伽・猿源氏〉(デジタル大辞泉)

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 二年ほども前になるでしょうか、テレビ(あるいはネットだったかもしれない)を見ていたら、池袋演芸場が映し出され、ある落語家の足取りを追っかけていた。記録映像(ドキュメンタリー)だった。やがて、その落語家が小三治師匠だと分かった。見るからに痛々しく、満身創痍という風情でした。演芸場のなかでは、一席が持たれ(何を話したか、「死神」だったかもしれない)客席いっぱいの賑わいでした。熱狂的は好事家がいるんですね。カメラが場内を一巡して、師匠のところに戻りかけた、その瞬間に一人の男性の姿が映し出された。落語を見る(聴く)のにふさわしい、まさしく「破顔一笑」というべき笑顔がアップされた。それは、ぼくの長年の友人のKさんだった。彼が落語ファンであることは知っていました。川崎から、ここまで来たのか、あるいは勤め帰りに寄席に向かったのか。後日、その時の話をしたら、「小三治が大好きなんです」、そこへは何度か出かけている、ということだった。

 ぼくは、師匠が、まだ三十代四十代頃から聴いてきた。なかなかの好男子で、話もしっかりしていると思ったし、何よりも四角四面の顔つきで、びっくりするくらいのくすぐりを混ぜる。実に達者な芸だった。彼に関しては、オートバイ好きで、音響マニア、それに加えて…と、何かと好奇心の旺盛は人だったようです。高校卒業して、五代目小さんに入門。すでにそこには立川談志がいたはずです。ぼくは談志さんも聴いた方ですが、少しも感心しなかった。理由は単純です。彼には才気があり過ぎて、落語の世界を突き抜けようとしていたのです。ぼくは彼がまだ二つ目の時にも聴いたことがあります。才能は抜群だったから、彼としては「順繰りの世界」には飽き足らなかったに違いない。才能が勝ちす過ぎるのも、また、一つの不幸です。余談ですが、談志さんは「不遇の死」を迎えたと、ぼくは思った。彼にとって、落語界は狭すぎたし、天井が低すぎたのです。だから、彼はそれを突き破ってしまったんです。これはどこにでもある話です。

 小三治さんは、談志氏とは事を構えず、滑稽話や古典にのめり込んでいったと思います。ある時期を期して、彼は驚くような噺家になっていた。その変貌にはプロセスがあったのですが、ぼくには驚嘆すべき芸人の誕生でした「了見」が生き始めたんですね。細かいところは触れませんが、それからは、今まで以上に小三治さんの話を聴き漁った(大半は録音・録画でしたけれど)。そして、久しぶりに池袋の独演会でした。その体調の衰えぶりに、ぼくは腰を抜かした。リュウマチをはじめ、まるで病気のデパートのようで、近間の喫茶店に入ってお茶を飲む際に、薬を取り出して、それを服用しようとしていた。なんと両手いっぱいの量の薬剤だった、なんということか。カメラが捉えた小三治師匠の表情は、なんともいえず寂しそうでした。

 若いころのオートバイでの疾走ぶりを知っているだけに、ぼくは驚きを禁じ得なかった。まだ八十前だった。このオートバイの件について、かみんさんが目白だったか、ガソリン・スタンドで小三治さんのオートバイ乗りの姿を見たと言って、「とても格好良かった、素敵だった」と、これまでにもさんざんに聞かされていたのでした。たしかに、颯爽としていた。彼には「バ・イ・ク」という本がある。肩で風を切っていたのではありませんでしたが、バイクも、彼にとっては落語でしたね。実に楽しそうにツーリングの話をしていました。

 それから、時々彼の落語を思い出しながら、健康だろうかどうだろうか、と案じていた矢先だった。八十一歳だった。なにに対しても、ぼくは熱心ではなかったが、好きな落語家だけはできるだけ、聞こうとしてきた。寄席に出かける気がしなくなったので、その多くはCDやDVDでしたが、それでも十分に堪能していた。志ん生は片時も忘れたことはない。志ん朝さんの死も、あまりにも早すぎました。談志氏も今は亡い。そして、小三治師匠。その逝去は残念の一言につきます。まだまだ、と思っていたのですが、ご本人も「百くらいまではやっていたいね、自分でも楽しみだよ」と言っていたのですから。

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 落語家の柳家小三治さん死去 81歳 人間国宝

落語家の柳屋小三治さん=浅草演芸ホールで2006年5月10日、小林努撮影

 当代を代表する古典落語の名手で、人間国宝の柳家小三治(やなぎや・こさんじ、本名・郡山剛蔵=こおりやま・たけぞう)さんが7日、心不全のため死去した。81歳。所属の落語協会が10日発表した。葬儀は本人の遺志で密葬を営んだ。喪主は長男郡山尋嗣(こおりやま・ひろつぐ)さん。( 落語家の柳屋小三治さん=浅草演芸ホールで2006年5月10日、小林努撮影 ➡)

 東京都生まれ。都立青山高校在学中に落語研究会に入部。ラジオ東京の「しろうと寄席」で15週連続勝ち抜き。父は小学校校長、母は武家の娘という厳格な両親の反対を押し切り1959年、五代目柳家小さんさんに入門。前座名「小たけ」を名乗った。/ 正統派古典落語の担い手として、若いころから実力は群を抜いていた。芸に厳しかった六代目三遊亭円生さんが落語協会会長在任中の69年、17人抜きで真打ちに昇進。同時に柳家の出世名前である十代目小三治を襲名した。

 柳家の家の芸である「粗忽(そこつ)長屋」「百川」「千早ふる」など滑稽噺(こっけいばなし)を得意とし、ユーモラスな中にシニカルさを交えた独特の視線で人間の営みを生き生きと描き出した。また「芝浜」「死神」といった長編では奥行きある世界を造形した。年を重ねるごとにその芸は円熟味を増し、近年は、飄逸(ひょういつ)とした語り口で間や表情にたくまざるおかしみを醸し出し、枯淡の境地を見せていた。(以下略)(毎日新聞 2021/10/10)

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 「まくらの小三治」と言われていた噺家でした。(「話のマクラ」などとも言いますね、これは学校の授業では「導入」などという役人言葉で表されるものです。ぼくは、上辺だけでしたが、いつでも「マクラを振る」と言っていました)それに加えて、彼の「漫談的な落語自叙伝(自画像)」が抜群に面白かった。フィリピンだったかベトナムだったかに(日本人会に呼ばれて、口演のために)出かけ、その合間に「これはうまいから」と貰った(果物の王様といわれる)「ドリアンとの格闘話」は、実に何とも言えない小三治流でしたし、ある時期、どれくらいの年齢だったか、「これからは海外旅行時代だ、英語くらい喋れなければ」と一念発起して、カリフォルニアの語学学校に二週間ほど、単身留学、その体験談も、なんともはや抱腹絶倒ものでした。小三治流がどんなに輝きだそうとしているか、その現場に立ち会っているような錯覚を覚えたほどです。死去が伝えられてから、ぼくは何席か、こころして耳を傾けた。その度に涙が込み上げてくるのでした。(合掌)

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 「落語は了見で覚えるもの」という。また、よくわからない言い方ではあります。おそらく、登場する人物に、自分を没入させるところまで行かなければ、その人物は「生きてこない」というのでしょうか。

・ひといきに葱ひん剥いた白さかな (土茶)(小三治師匠の俳号)

・天上で柄杓打ち合う甘茶かな (土茶)

【卓上四季】了見のまくら 一定の語句を修辞する和歌の枕詞の起源は、古代の詩歌や文章を読み上げる時の決まり文句だった。古事記などで枕詞を受ける単語の大半が固有名詞なのも、言葉の結びつきの強さの表れだろう。思案を尽くした導入の重みがある▼世間話や小ばなしから入る落語も本題に話を振る「まくら」が出来を左右する。説明を要する言葉を巧みに解説しながら客層の反応に合わせて聴き手を引き込む話芸。一人前のはなし家の条件である▼そのまくらを得意としたのが、人間国宝の柳家小三治師匠だった。古典落語を生き生きとよみがえらせたのも、その卓越した人物描写に加えて、身近な話題を独創的な視点で捉えたまくらに負うところが大きかった▼高座へ出てから演目を考えることもしょっちゅうあったとか。それでも聴衆を引き付けたのは幅広い蓄積があったからだ。「落語は了見で覚えるもの」と語っていた。深い思索と豊富な話題が支えた名人芸だった▼落語の秘訣(ひけつ)は面白くやろうとしないこと。五代目古今亭志ん生師匠がそう話していたそうだ。「落語はもともと面白い。素直にそのままやればいい」。小三治師匠が座右の教訓とした言葉である(「落語家論」ちくま文庫)▼81歳で亡くなる直前まで高座に上がり、いかに聴衆の心をつかむかに考えを巡らせた。安易な導入に流れてはいないか。小欄も見習いたい自省と研さんの人であった。(北海道新聞・2021/10/12)

 【天風録】小三治さんの「面白さ」 大学受験につまずき、噺家(はなしか)を志した。だが師匠は「これからは教養のある笑いだ。おまえはちゃんと大学を出ろ」と突き放す。思わず「冗談言っちゃいけねえ。教養のある笑いなんか面白くねえや」。後の人間国宝同士の言い争いだ▲そうして五代目柳家小さん門下に潜り込み、前座の頃から客席を大いに沸かせた。有頂天になりかけたある日、師匠の面前で一席ぶつ。すると「おまえの噺は面白くねえな」とそれだけ▲全身に電極ビリビリって感じだったと、著書「どこからお話ししましょうか」で振り返っている。その柳家小三治さんが、真の面白さとは何かを考え続けた81年の生涯を閉じた▲バイクにスキー、音楽に映画、俳句と趣味が幅広い。台本のない深夜ラジオ番組のディスクジョッキーを引き受け、週1回3時間近いアドリブをこなしたことも。本題前の「まくら」の巧みな話術はそうやって磨いた▲20年前に逝った古今亭志ん朝さんとともに、古典落語の雄と目された。ただ小三治さんは人一倍、登場人物の「了見」つまり気持ちにこだわった。同じ演目でも日によって違う熊さんになりきってみせたという。これぞ、深い教養と職人芸のなせる笑いでは。(中国新聞・2021/10/12)

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 各紙のコラム氏たちが、こんなに小三治さんを愛されていたということがわかって、同好の士に邂逅した時のように、ぼくは嬉しいのです。こんなことは滅多にない。総理大臣が新しくなったと、多くのコラム氏たちは取り上げますが、どこか仕方なしに、お義理で書いておく、そんな雰囲気を感じるが、小三治さんの死に際して、掛け値なしに真価を評価されていると、ぼくはていねいに読ませていただいた。(さらにいくつかのコラム氏が、小三治師匠の芸の核心に触れて書かれている。稿を改めて、ご紹介したいと考えています)

 この各地各紙の「コラム」は、ぼくにとっては、まことに申し訳ない限りですが、読むに堪えないような「雑文・駄文」の取って置きの「マクラ」なんですよ。かかる「雑文・駄文」を書く、小生の了見は見すぼらしいものですけれど、ここに、遅まきながら、各紙のコラム氏に(密かに)感謝申し上げます。

kosanji

 (https://www.youtube.com/watch?v=NPbqNWMTvGk

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