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人間が住むところには集団が作られる。孤立して生きていくよりは集まって住む方が、何かと好都合だからで、これは人間に限ったことではないでしょう。昨日、久しぶりに山本七平さんの「空気の研究」という著書を思い出し、しばし懐旧の念に浸ったような雰囲気でした。物事を決める重要な要素が「参加している人物」ではなく、「その場に流れている空気」であるという指摘が、この島社会の状況にうまく嵌っていたものでしたから、この著書はよく読まれました。ぼくも、人並みに読んだ。そこから学んだことは、何か新しいことではなく、ぼくが生まれ、住んでいる島社会の集団生活における「物事の決め方・決まり方」が、いつでもどこでも、起承転結が明確でないままに、おのずから「決められていく・決まっていく」その過程であり、その過程に参加しているメンバーの参加意識というものの性格・傾向というものが明らかにされたとの評価がしきりでした。はたして、自然に、物事が決まっていくということがあるのでしょうか、あるとして、それは時と場合によるのかどうか。その見極めは大事でしょう。

一見すると、まるで「自然の流れ」「空気の流れ」のように、誰かがアカラサマな指導(差配)や強制を働かせるのではなく(いつでもどこでも、そうであるとは決して言えない)、いかにもなるように、結論は収まる所におさまるもののように受け取られてきました。表面上はそのようにみえます。しかし、実際は、物事が決まる前段階で、「段取り」「根回し」が周到になされ、会の流れ(運び)が仕組まれていることがほとんどなんです。それはどこの集団でも同じように確認できることです。まったく無計画・準備なしで、何事かを決めるというのは、集団生活を条件にしている社会では、あまり上等な方法ではありません。「会議は踊って、少しの進展もない」というのでは、生活が成り立たないからね。(右上の写真はドイツ映画「会議は踊る」1931年制作。「Der Kongress tanzt, aber er bewegt sich nicht.」)
細かいことは省略しますが、要は、集団の参加者が、どのような意識や興味で物事をきめる過程に参加しているかという問題でしょう。段取りや根回しがうまくいかない場合はいくらでもあるのですから。(これを芝居の脚本や演出、舞台公演などという一連の展開に準(なぞら)えたくなります。芝居に参加する人も、芝居を見物する人も、すべての細部までが決定されているとは露感じないで(感じさせないで)、芝居の幕は挙げられ、幕は下ろされるのです。この「芝居」は、事前に周到に練られた筋書きがなければ、とんでもないドタバタになるはずです)(だから、ときには「ヤラセ」とか「ガス抜き」とかいうように、目の前で行われているのは「会議」などではなく、「サル芝居(おサルさん、ごめんよ)」であることを承知している、そんなケースが多いのではないでしょうか)
この「問答無用」状態での「物事の決まり方」に対して、実に明らかな相違を持っていると判断されたのが、つい先だって、ノーベル物理学賞を受賞された、アメリカ国籍を取得されていた真鍋叔郎さんのアメリカ社会、研究者集団における経験談だったというわけです。受賞のタイミングと、その会見で述べられた内容が「頭脳流失」という「脱亜入米」に見られる、この島社会の研究環境の息苦しさというか、延いては集団の雰囲気や物事の決まり方などが、タイミングがよく問題になったんですね。以下、報道された記者会見の概要を掲げておきます。この報道を読む限り、日米両社会(集団)における参加者意識を云々されているのであって、両者の優劣が問題にされているのではないことがわかります。ある人には住みやすい環境でも、別の人にはそうではないという、ごく当たり前の指摘でしかありません。この島社会の環境が安心できるという人がいても不思議ではない。人それぞれの集団のとらえ方であり、集団への参加姿勢の問題でもあります。
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米国プリンストン大の上席研究員で、気象学者の真鍋淑郎さんが、2021年のノーベル物理学賞に選ばれた。/ 真鍋さんは、米国籍を取得している。プリンストン大学で行われた会見では、米国籍に変更した理由についても質問が上がった。
気候変動研究の先駆者 真鍋さんはどんな人物なのか
真鍋淑郎さんは1931年生まれで、愛媛県四国中央市出身。1958年に東京大学大学院の気象学博士課程を修了後、渡米した。/ 真鍋さんは、人間活動が地球に及ぼす影響を早くから予見し、1960年代から気候変動の先駆的な研究を続けてきた。デジタルが今よりも普及していなかった時代にコンピューターを駆使し、地球の大気全体の流れをシミュレートする気候数値モデルを開発した。/ 地球温暖化の予測モデルを切り開き、二酸化炭素濃度の上昇が地球の表面温度の上昇にどうつながるのかを示した。スウェーデン王立科学アカデミーは真鍋さんの功績について、「彼の研究は、現在の気候モデルの開発の基礎を築きました」と称えている。
「日本の人々は、いつもお互いのことを気にしている」

真鍋さんは、米国籍を取得している。 / ノーベル賞受賞を受け、プリンストン大学で行われた記者会見では、なぜ国籍を変更したのかという質問が上がった。/ 「おもしろい質問ですね」と答えた真鍋さんは、国籍を変更した理由について、「日本の人々は、いつもお互いのことを気にしている。調和を重んじる関係性を築くから」と述べ、以下のように語った。/ 「日本の人々は、非常に調和を重んじる関係性を築きます。お互いが良い関係を維持するためにこれが重要です。他人を気にして、他人を邪魔するようなことは一切やりません」/ 「だから、日本人に質問をした時、『はい』または『いいえ』という答えが返ってきますよね。しかし、日本人が『はい』と言うとき、必ずしも『はい』を意味するわけではないのです。実は『いいえ』を意味している場合がある。なぜなら、他の人を傷つけたくないからです。とにかく、他人の気に障るようなことをしたくないのです」
その上で、真鍋さんは、「アメリカではやりたいことをできる」と語る。/ 「アメリカでは、他人の気持ちを気にする必要がありません。私も他人の気持ちを傷つけたくはありませんが、私は他の人のことを気にすることが得意ではない。アメリカでの暮らしは素晴らしいと思っています。おそらく、私のような研究者にとっては。好きな研究を何でもできるからです」/ 真鍋さんによると、研究のために使いたいコンピューターはすべて提供されたという。米国の充実した研究環境や、資金の潤沢さを伺わせた。/ 最後には、「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」と語り、会場の笑いを誘った。(ハフポスト日本版編集部・2021/10/06)(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_615ce9f7e4b0896dd1a9fa7d)
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真鍋さんの発言の一つひとつに、ぼくは首肯(しゅこう)します。そういう集団の在り方は、一面では羨ましいと思わないでもありません。「「アメリカでは、他人の気持ちを気にする必要がありません。私も他人の気持ちを傷つけたくはありませんが、私は他の人のことを気にすることが得意ではない。アメリカでの暮らしは素晴らしいと思っています」というのは、真鍋さんの実感であり、経験を語っておられるのです。しかしすべて(の現実が)が真鍋さんの言うとおりだとする根拠もないというべきでしょう。ぼくにも、ごく少数でしたが、アメリカ在住の友人がいました。彼や彼女はとても他人に対する思いやりを持っていたし、よく言えば、他者に対する気配りが行き届いていたということでしょう。そういう人もいる、そうでない人もいる、それが集まって住む生活人の姿だと、ぼくは経験から学びました。

物事が「空気の流れるように」、決まるべくして決まるというのは、別の視点に立てば、大変好都合です。ぼくは物臭人間でしたから(今も)、会議に参加することは苦手でした。なんとかサボりたかった。こんな会議なんか開かないで、紙に必要事項を印刷して渡してくれたらいいじゃないかといったこともあります。だから、「その場の空気」が決めてくれると大変にありがたいと思ったこともあります。半面で、とても重要な事項が、勝手に「その場の空気で」きめられてはかなわないと、何度も抵抗したこともあります。しかし、やはり、多少は時間を使ったかもしれないが、決まるところに決まったのでした。異論を封じるのではなく、異論を尊重して、敬して遠ざける、するとやがて、「異論」は大人しくなる。「その場の空気」になるということだったでしょう。しばしばいわれるのですが、「初めに結論ありき」や「議論百出、結論は既成のものが一つだけ」と、これは多くの場合、この社会に認められる風景です。「なんだかんだ言っても、決まる所に落ち着く、だから無駄な発言はしないことだ」「あの人が言うのだから、まちがいはない」とか何とかいって、事態は一向に改善されないままで時間が過ぎていく。
「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」と真鍋さんは仰る。その通りですと、ぼくなどは手を叩きたくなりますが、日本を出ないで山の入り口に移住した。先住民というか、先住者にはよそ者です。「まわりと協調して生きることが出来ない」ほどではありませんが、それは得意ではないのですから、こんな不便なところに棲みつこうとしているのです。しかし、誰だって「まわりと協調して生きることができない」というほどではないでしょうが、そればかりを強いられると面倒になる。生来の「協調人間」もいるのでしょうが、それは稀です。学校でも会社でも、必要以上に「協調することを強いられる」なら、心身のバランスを崩すことも、当然生じてきます。
この駄文に結論はないし、「空気」が決めてくれそうにもありません。だから、だらだらと、誰かの涎(よだれ)のように、切りがないんですね。こういう時こそ、「決めてくれる空気」を待望するのですが、それはできそうにもありません。家にいても、学校にいても、会社にいても、かならず「他人」がいます。だから、否応なく、「他人と折り合って生きていく」のが定めのようで、それが嫌だと言って、この世を逃げ出すのも、なんとも辛いことです。われわれの差し迫った問題は他人との「折り合いのつけ方」です。この折り合いは、他面では「折れ合う」でしょうから、「ゆずり合う。妥協する。おりあう」ということになります。それぞれが自分を突っ張る(我を張る=頑張る)と、事故や怪我のもとになりますから、「折れ合う」、これが出来ればいいのですが、なかなかむずかしい。

「意見の違う者などが、互いに譲り合っておだやかに物事を解決する。妥協する。折れ合う」(精選版日本国語大辞典)というと、なんだ「妥協する」のかと、どこかで不満が残りそうですが、なに、こんなことは大したことではないさ、と見切りをつけることも大事です。些細なことに拘るのは、大事を逸する近道でもありますから。「KY」のはしりは「JK」だったそうです。なかなか多感な存在ですから、微妙な空気の流れを読むことが出来たのでしょうし、それが「読めない」ものは非難されたのかもしれません。でも、あまり「読みすぎ」「読めすぎ」も考えものです。空気は瞬間に変わるものですから、それに付き合っていると、息をつく暇もないではありませんか。もっと言えば、「自分を失う」確実な方法は、「場の空気」に心を奪われてしまうことです。繰り返します、空気なんか読まなくてもいいんだ、そんな暇があるなら、「呼吸の研究」でもした方がいい。
拙宅にいる猫だって「空気を読む」ね。実に正確に読みます。でも、自分(猫自身)の読みが当たっていると、彼や彼女は人間に「従順になる」のではない。自分の筋を通すんですね。よく言うでしょ、「猫を被る」って。「猫を被る」という「表現」を作ったのは人間です。きっと人間が「人間を被る」などとは言えないから、猫を持ちだしてきたんでしょう。なかなかの「曲者ですよ、猫って」、ぼくの実感です。「虎の威を借る狐」というのもあまり褒められないですね。いっそのこと「人間を被る」と言い通したらどうでしょう。「能ある猫は爪を研(と)ぐ」んですよね。隙を見つけて、きっとかかってくるのですよ、時には。
「猫をかぶる」には、なかなかの裏があります。懐(ふところ)が深いというか、幅があるというか。
①「本性をかくしておとなしそうに見せる。また、知っていながら知らないふりをする。※歌舞伎・盲長屋梅加賀鳶(1886)七幕「わたしも初めはお前のやうに猫をかぶって遣って見たが」(精選版日本国語大辞典)

②「本性を隠しておとなしそうに見せること。また、知っていながら知らないふりをすること。猫は一見おとなしそうに見えることから」(とっさの日本語便利帳)
③「うわべをおとなしく見せかける。「入社当時は―・ってしとやかそうだった」(デジタル大辞泉)
HHHHHHHHHHH
「空気を読む」というのは、実は「猫を被る」ということだったんですね。
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