協調の国でも、「対話」が足りないって

 【水や空】真鍋さんの言葉「空気を読む」という時の「空気」とは何かを突き詰めた人がいる。評論家の山本七平さんは40年ほど前にこう書いた。〈「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である〉(「空気」の研究)▲〈至る所に顔を出して、驚くべき力を振(ふる)っている〉のが空気だ、とも述べている。ノーベル物理学賞に決まった真鍋淑郎さん(90)が米国の大学で講演しているのをニュースで見ていて、ふと「空気」の一語が頭に浮かんだ▲なぜ米国籍に変えたのか、と聞かれて、柔らかな語り口で返した。「日本人は互いに迷惑をかけまいと気を遣い、協調的な関係を結ぼうとします」。それでうまくやっていける、と▲米国はといえば「好きなことができて、周りがどう感じるか気にしない。上司はやりたいようにさせてくれました」。日本人が空気を読み、人を気遣うのを特長と認めながらも、米国流の自由を選んだらしい▲協調の国でありながら「対話」が足りない、とも真鍋さんは語った。「日本では科学者が政策決定者に助言するためのコミュニケーションが取られていない」▲日本学術会議の任命が拒否された問題を指すようでもあり、コロナ対策を巡る政府と専門家の温度差を指すようでもある。政治と科学のぎくしゃくしたこの空気を、海の向こうでお感じらしい。(徹)(長崎新聞・2021/10/08)

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 何時の頃でしたか、ぼくは山本七平さんの講演会か何かの集まりに出向いたことがあります。大学生になったばかりだったか、もう少し後だったか。いずれにしても当時、山本さんはいろいろな分野で評論活動をされ、しかも出版業も経営されていた、今で言えば「マルチ人間」だった。なぜ、ぼくが、珍しいことに講演会かなんかに出かけたのか、それまでに「日本人とユダヤ人」(1970年刊)、「空気の研究」(1975年)がバカ売れしていた。ぼくはその二冊を読んでいた。読み始めて驚いたのは、この人は何という「もの知り」だろうか、ということでした。その程度のことで驚いていたのですから、ぼくも初心(うぶ)でしたね。たしか、会場は大手町のある新聞社のホールだったと思う(今はもうなくなっているかもしれない)。

 その時の話の内容はほとんど覚えていない。たった一つだけ、よく覚えていることがある。それは「鈴木正三」という人。名前を初めて聞く人だったし、だからこんな古い人の「思想」というものを、実に見事に解釈されていると、ぼくは山本さんに感服したのでした。「しょうさん」または「しょうざん」という禅宗の僧侶でした。この時、山本さんはどんな正三論を展開されたか、まったく記憶にないのは、情けないし、ご愛敬でもあるでしょう。正三の名を聞くのは初めてだったし、まったく予期していない展開が繰り広げられたからでした。(後年、ぼくは鈴木正三の原典に当たって、何冊かは読みました。読んでいた時は、面白かったが、その後、読んだ内容がすべて消えたのはどうしてだったか。無理して、背伸びをして読んだからというほかない。ぼくの中に受け付けるだけの容量がなかったのです)

 「空気の研究」は面白く読んだ。なるほどそういうことかと、じつに納得が行くことばかりが書かれていたという印象でした。詳しくは言わない。今でいう「KY」に当たるでしょう。「空気を読む」「空気を読まない」という、この島社会に特有の「場を支配する権力」、これを山本さんは「妖怪」などと言っています。「以前からわたしは、この空気という言葉が少々気になっていた。そして気になり出すと、この言葉は一つの”絶対の権威”の如くに至る所に顔を出して驚くべき力を振るっているのに気づく」(同書)

 いたるところの会や集まりで、何かを決定するのは「人」ではなく、「空気」であると、多くの人がみなしているという。「あの場の空気が…」「その会議の空気から言って、反対できなかった」「社会全体の空気がそうさせたのだろう」などと、いかにも「空気」が物事を決めると言っている、そんな経験はぼくにもないわけではありません。理屈から言えば、反対なんだが、その場にいたら「賛成してしまう」というのも、空気のなせる業だというのです。空気が決めたことだから、失敗しても、だれも責任を取らない。「空気」に責任を取らせる法がない。多くの会合では、最初から結論は決まっている、そこに流れる(導かれる)ように「空気」を動かすというのか、その結論に行くように、空気が流れたように、自然に持っていく。でもそういくように仕組んだ「真犯人」はいるんですよ。勝手に流れるはずはないし、一定の方向に空気が流れるように、じつに見えざる工夫が施されているのだ。嘘ではありません。ぼくは、この目でしかと確かめてきたのですから。

 ここからいろんなことが言えそうですが、面倒なので深入りはしません。これはこの島社会に特有の現象であり、現実なのかもしれません。昔はそうだったけれど、今は時代が違うと言え得るのか。昔も今も「空気が決める」んでしょう。これとよく似た言葉遣いに「風を読む」というのがあります。「風が吹く」「風に乗る」といった表現が多用されていることからして、風も「空気の流れ」ですから、同じような内容を言い当てているのでしょう。「風見鶏」に並んで、「空気鳥」も旺盛ですね。異論や反対を言わせて「ガス抜き」する、これも空気の仕業でしょうね。一人で結論は出ない、きっとその前に、「根回し」という、この島社会に独特の人心操縦術が発達してきたのです。

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◎ 根回し(ねまわし)=会議や交渉を円滑,有利に運ぶために,非公式の場で合意の形成をはかること。下工作,下相談ともいう。元は樹木の植え替え後の活着を容易にするため,1~2年前に行なう細根の発生を促す処置をさす園芸用語であったが,事前に工作するという意味合いから転用されるようになった。争点が浮上する前後,会議や交渉の決裂後によく行なわれ,話し合いによる依頼,説得妥協といった手法を用いるのが通常である。アメリカ合衆国の議員にみられるロビイング (ロビー活動) が,世論の形成や動員までも含めた,政治的決定に強い影響を及ぼす働きかけであるのに対して,根回しは当事者間の利害調整といった打算的色合いが強い。元来,日本の村落では全会一致が原則であり,意見の対立は村落の存立を危うくするものとされてきたことが,こうした慣行を生んだ背景となっている。密室であるがためにかえって本音で議論ができ,最終決定まで迅速に進むという側面もあるが,経過の情報開示がされないことで疑惑や憶測を招きやすく,公式決定の場が儀礼的になるといった問題点もある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 十年近く前、ある小さな会に引き出されて、若い人から質問されたことがありました。「今どきの若者(ぼくら)は、「空気を読む」ことに難儀している」「「空気を読まない」とその場に居ずらくなる」などという問いでした。それに対して、MCから「名答」を出せと言われた。かかる愚問に応えたくなかったので、ぼくは不愛想に言いましたね、「空気は読むものじゃない、吸うものだ」と。それしか、ぼくには言いようがなかった。逆に言えば、どんな人だって、その人の流儀で「場の空気」を読んでいるのです。それが大勢とそぐわないからと言って怯むことも僻(ひが)むこともないじゃないか、と言いたかった。みんなが賛成しそうだから、自分には意見も異論もないけれど、「取りあえず、賛成しとく」という、その程度の半端な気持ちでしか生きていられないのを「若者」というのですか、そんなことまで付け加えたと思う。「空気、読めなくて結構だぜ」といいました。学校の授業で、この「空気を読む」が、もっともいやな形で進行していたのではなかったか。「根回し」「ヤラセ」「忖度」、どんないい方でも構わないが、あらかじめ議論を封じるような木々は参加しない方がいいし、授業なら、そんなものぶち壊せばいいではないか。

 今年のノーベル物理学賞を受賞された真鍋叔郎さん。国籍をアメリカに変えた理由を問われ「日本人は互いに迷惑をかけまいと気を遣い、協調的な関係を結ぼうとします」「(米国はといえば)好きなことができて、周りがどう感じるか気にしない。上司はやりたいようにさせてくれました」と、彼我の国民(市民)性というか、集団内における「風や空気の流れ」がまったく異なる事情を説明されている。ここに「個と全体」「個人と集団」というものを持ちだしてもおかしくはないでしょう。日本では、アメリカではというと、ぼくは二つの国における社会生活を経験していないので何とも言えません。あくまでも、この島社会の「集団・全体主義」的傾向について、いささかの愚論を持つばかりです。

 ここで真鍋さんの発言で「したり」と手を打ちたくなったのは、(協調の国でありながら)「対話」がすくないという指摘です。対話なんかいらない、「空気を読むんだから」と言わぬばかりの「忖度社会」であり、「無言の隷従」信徒ばかりが生存しているのでしょう。これは集団の死滅化を意味します。メンバー同士が、たがいの考えを知りたくないというのは、実に奇怪な現象ではないですか。「対話はいらない」「問答無用」というのですから、驚嘆すべき事柄ではあります。(それなのに、どうしてスマホが流行るのか。対話(会話)のためのものじゃなく、孤立・孤独を楽しむ道具なのか)

 ある政治学者が言っています。「よく外国の批評家が、日本人は集団主義だというけれど、それは一応あたっている。ただし、日本人の集団主義は、相互関係体としての集団、つまり社会を愛するというのではなくて、自分の所属している集団を極度に愛することによって自己愛を満足させているのですから、そこに根本的な自己欺瞞がある。/ 自分では自己犠牲をはらっている、自分は献身的であると思っていて、人にもそう言って自分を正当化しながら、じつは国家主義であり、会社主義なのである」(藤田省三「全体主義の時代経験」より)

 自分はこう考えているという自己主張ではなく、他人から「こう思われたい」という評価待望主義に、じつは自分の価値を委ねているのです。だから、多くの人は、異様に他人の目が気になり、ついには「その辺りに漂っている空気」に身を任せる仕儀になるのでしょう。「協調・協和・共同」を旨とする社会であるがゆえに、他者の意向や意見をよく知る必要がある、そのための「対話」なのだと思われますが、それはめんどうなことで、余計なことを言ってマークされる(目を付けられる)よりは、「無言の隷従」こそが美徳だという、まことに醜悪この上ない人間関係が張り巡らされる。国会だって、学校だって、どこもかしこも、「空気」という「妖怪」がその場を支配している(ように演出する化け物がいるんだ)。

 山本さんの「空気の研究」を読んで、なるほど、頭がいいというのはこのように、鮮やかな分析や総合をいとも簡単(そう)になしとげるのだなあと、ぼくは、若気の至りであったから、感心したのです。それからしばらくは山本氏について回ったようにも記憶しています。しかしやがて、ぼくはそこから離れていった。何故か、それを言うのは簡単ではありませんが、「空気の研究」にぼくは時間を費やすよりは、もう少し大事な何かを求めだしたと言えます。二十歳前後の「青臭い時代」でした。

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◎山本七平(やまもとしちへい)[生]1921.12.18. 東京 [没]1991.12.10. 東京=出版人,評論家。代々クリスチャンの家計に生れる。 1942年青山学院高商部卒業後,陸軍に入隊し,フィリピンで第2次世界大戦の終結を迎えた。現地で捕虜となり,47年復員。 58年翻訳書を中心に聖書関係の書籍を刊行する山本書店を設立する。 70年に出版したイザヤ・ベンダサン著・山本訳『日本人とユダヤ人』がベストセラーとなり,第2回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。この本をめぐってベンダサン=山本七平説がマスコミをにぎわしたが,本人は否定。これを機にみずから言論活動を開始し,戦争体験や日本人の行動と思想を解析,新保守主義をリードする論客と目された。おもな著書に『私の中の日本軍』(75),『論語の読み方』 (81) ,『「空気」の研究』 (77) などがある。(ブリタニカ国際大百科事典)

◎ すずきしょうざん【鈴木正三】1579‐1655(天正7‐明暦1)江戸初期の禅僧。本姓穂積氏,俗名は鈴木九大夫重三。出家して正三,石平道人と号し,仮名草子(かなぞうし)作者として鈴木正三を名のる。徳川氏麾下の小土豪として三河国足助(あすけ)庄に生まれ,徳川氏の移封とともに上総に転じた。このころから出離の志をもち,おりから宇都宮で修行中の妙心寺僧大愚宗築,愚堂東寔らと交流した。関ヶ原の戦,大坂の陣に参加後,旗本として江戸駿河台に住した。1616年(元和2)大愚が江戸に南泉寺を開いて住するとこれに参じ,19年武士を捨てて出家した。(世界大百科事典第2版)

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 (蛇足)もう少し書きたいのですが。避妊手術(昨日)したネコを引き取りに出かけてきました。医者からは、抜糸するまでのケアを教えられた。お昼過ぎにこの駄文を書きだし、やがて、もう一人、今朝「去勢」手術に連れていった子を引き取りに行く予定です。(四時ころまでに)だから、気持ちが急いていて、「空気を読む」どころではないという次第です。このテーマは、いかにも古くて、しかも、今の時代社会の、現実の問題でもありますね。議論ができない、討論が喧嘩腰になる、そんな未熟な時代を過ごしているうちに、この社会は、すっかり老衰してしまいました。(ただ今、午後二時半)猫といっしょに帰宅して、時間とやる気が残っていれば、駄文の続きをと、愚考しています。空気は読まない、吸うもの、それも「新鮮な空気」をね。呼吸が大事だ。

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◎ 呼吸(こきゅう)=生物の生存には酸素の供給が不可欠である。細胞内では酸素と反応した栄養素がエネルギーを放出し、その結果、二酸化炭素(炭酸ガス)が生成される(これを物質代謝という)。このような酸素と二酸化炭素の出入りが呼吸であり、呼吸は、物質代謝の行われる組織細胞でおこり、さらに、それらのガスの受け渡しをする血液を介してでも行われる。前者の出入りを内呼吸組織呼吸)とよび、後者を外呼吸肺呼吸)という。内呼吸は主として生化学の研究対象であり、生理学で扱われる呼吸とは、おもに外呼吸をさす場合が多い。

 ヒトの酸素と二酸化炭素の出入りは、安静状態の成人で、1分間に酸素が250ミリリットル、二酸化炭素が200ミリリットルくらいである。激しい運動をした場合には、この数倍以上にも達する。しかも、体内の酸素貯蔵量はせいぜい1リットル余りであるから、呼吸による酸素の取り入れは、すこしも休むことのできない重要な身体活動といえる。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。