「チッソは私であった」とMINAMATA

 

 「なあんもいらんで、元ん身体にしてもどさんな」

 【日報抄】日本で発生した公害にレンズを向けた米国人写真家を、史実を基に描いた映画「MINAMATA」には、舌鋒鋭く原因企業の責任を追及し、時には体を張って抗議する住民ヤマザキが登場する▼真田広之さんが演じたヤマザキは何人かの水俣病患者がモデルのようだが、人物造形の上で中心となったのは「水俣の闘士」と呼ばれた故川本輝夫さんだろう。映画を見ながら四半世紀ほど前に言葉を交わす機会があった川本さんの面影を思い出した▼「闘士に会うのだ」と緊張しながら自宅を訪れた若い記者を穏やかな笑顔で出迎えてくれた。それをいいことに、ぶしつけな質問もあったはずだ。にもかかわらず、苦しみ抜いて死んでいった父のことや、困窮のどん底で辛酸をなめ尽くした自身の半生を、時折顔をゆがめながら話してくれた▼水俣病の歴史は、正しい情報と知識が企業と行政に独占されてきた歩みだと苦々しげに語った。「正しい情報がないばかりに偏見や差別が生まれた」。やるせない表情で、言葉を絞り出した▼川本さんは晩年、水俣病の原因物質を海に放出した排水口のそばにお地蔵さまを立てることを思い立つ。交流のあった新潟水俣病の関係者の骨折りで、その地蔵は阿賀野川の石で作られた。阿賀野川のほとりには逆に水俣の石で彫った地蔵が建立された▼川本さんは誰よりも心優しいゆえに、公害を引き起こしたものが許せなかった。その叫びはスクリーンでも再現されていた。多くの人が足を運んでいるようだ。(新潟日報2021/10/08 )

 【地軸】MINAMATA 水俣病の悲劇を世界に伝えた故ユージン・スミスさんの写真集「MINAMATA」。中でも象徴的な一枚が「入浴する智子と母」だ。胎児性患者の娘をいとおしそうに母親が抱きお風呂に入っている光景▲中学生の頃、学校の図書室で見た記憶がおぼろげながらある。その写真集を原作にした映画が公開中だ。かの有名なジョニー・デップさんがスミス役ということもあり、水俣病が再び注目されると期待が大きい▲魚湧(いおわ)く海といわれるほど豊かな漁場だった熊本・水俣の海は工場排水に含まれたメチル水銀によって奪われた。1956年に患者が公式確認された後も排水は続き、被害を広げた。経済優先の日本の姿▲国がようやく水俣病を公害と認定したのは68年のきょう。ただその後、補償を巡って患者の苦しくも激しい闘いが始まった。スミスさんが夫婦で水俣に滞在したのはそんな激動の3年間だった▲映画は史実が基ではあるが脚色されている。それでも、戦争取材で心身に傷を抱えた写真家が水俣の現実を見つめ、住民と共感していくさまは胸を打つものであった。だからこそ生まれた母子の写真。デップさんのスミスさんぶりは見事だった▲復刻された写真集で患者の言葉が目に留まった。「なあんもいらんで、元ん身体にしてもどさんな」―。海は安全を取り戻した。だが、半世紀たった今も、1600人以上が救済を求めて闘っている。悲劇は終わっていない。2021年9月26日(日)(愛媛新聞ONLINE)

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 「チッソは私であった」

 私は、小さいときから親父をチッソに殺されたとずいぶん深く恨んでいました。子どもの頃に父親や母親を失うというのは、だれにとっても一番つらいことだとおもいます。しかも工場から毒が流されなければ起きなかったはずの出来事ですから。その殺した相手はいまだに操業をつづけて生き延びていることを見てきたわけです。いつか、自分が大きくなったら仇を討とうとずっと思ってきました。小学校の高学年になり、中学生になり、だんだん、チッソを恨む気持ちが強くなっていくなかで、二十歳のときに水俣病の認定申請をしている患者たちの運動に参加したわけです。

 ところがすでにその当時は、熊本県知事に認定申請をして、そこで認められなけれチッソは患者とは認めないし保障の対象にもならないということが定着していました。どこかで裁判をしたり、あるいは認定申請という手続きをしなければ、直接の加害者であるチッソの所に行けない。私は本当にチッソへの恨みを思っていたわけですけれども、運動に関わるなかで、チッソの防波堤になっている行政、特に国や熊本県の責任を追及していく運動に関わることになりました。その運動の過程では、一九七五年の県議会議員のニセ患者発言に対する抗議行動で逮捕されて牢屋にぶち込まれたこともありましたし、その他にもなんども逮捕されかけたことがありました。それでもひるまず闘いをつづけてきたわけです。

しかし、十年以上にわたる闘いの中で、わたし自身の中にいくつかの疑問が起きてきました。私が求めてきた相手、チッソが加害者といいながら、チッソの姿が自分に見えてこない。手の届かないところにいる。当時の運動はまるで迷路を歩まされているように、裁判や認定申請という制度の中の手続き的な運動になっていきました。わたし自身は非常にまどろっこしい気持ちをいつも持ってきたわけです。「チッソってどなたさんですか」と尋ねても、決して「私がチッソです」という人はいないし、国を尋ねて行っても「私が国です」という人はいないわけです。そこに県知事や大臣や組織はあっても、その中心が見えない。そして水俣病の問題が、認定や保障に焦点が当てられて、それで終わらされていくような気がしていましたし、チッソから本当の詫びの言葉をついに聞くこともなかったわけです。県知事や大臣、いわゆる国からも、いまだに水俣病事件の本当の詫びは入れられていないと思います。そのような形で終わらされていくことに非常にはがゆい思いをしてきました。緒方正人『チッソは私であった』葦書房刊)

(毎日新聞 2021/2/6 西部朝刊)

 《 緒方正人(おがた・まさと)さん。1953年熊本県芦北町生まれ。不知火海で漁を続ける。水俣病患者の未認定運動に身を投じたが、訴訟を離脱、「本願の会」を発足させて独自の運動を展開 》(『チッソは私であった』奥付より)

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 水俣病は解決したのでしょうか。この水銀中毒による自然と、さまざまないのちの汚染は、いったいわたしたちに何をもたらせたのでしょうか。緒方さんは父親をはじめ、家族、未生以前の兄弟姉妹をチッソの水銀垂れ流しによって殺され、そして自身も水銀中毒に侵されながら、信じられないほどの深い境地に達した方として、わたしには忘れられない人になりました。芦北町の女島(めしま)で生まれた。村中が漁業を営み、父親は網元でした。生年である53年は後に水俣病とされた人たちが発症し始めた年だったそうです。

 「私にはたくさんの兄弟がいて、複雑な事情がありまして二十番目なんです。まず私の親父の最初の奥さんが十二人子どもを生み育てて、一番下の子がまだ小さい時に亡くなっているわけです。たくさん子どもを生んだということで体を弱めたんだろうと思います。その次に私のおふくろが後添いにきて子どもを六人生んで三人だけ生き残り、亡くなった三人の子どもというのは生まれて二ヶ月以内に亡くなっています。おふくろは嫁ぐ以前に二人の女の子をもうけていたので、今でいう正式な形の結婚でなくて、そして私が一番末っ子になるわけです」(引用は前掲書から)

 「私が六歳になろうとするときに、非常に健康だった親父が発病し、手足のしびれから始まって後頭部に痛みを訴えて入院しなければならなくなる。病名も原因もわからないまま、二ヶ月後に亡くなるわけです。あまりにも激烈な死の遂げ方、亡くなっていく様は、幼い私には受けとめようがなかった」(同前)

 一九八五年、緒方さんは患者であることの認定申請を取り下げます。そして運動体から離れることになりました。「確かに水俣病事件の中では、チッソが加害企業であるし、国や県が加害者であることは構造的な事実です。しかし、チッソや国や県にあると思っていた水俣病事件の責任が、本質的なものなのかという疑問がずっとありました。そういう構造的な責任の奥に、人間の責任という大変大きな問題があるという気がして仕方がなかったんです」(同前)

 加害の責任追及と患者としての認定を求める運動の中で、会社や県や国の責任を追しているうちは、それこそ前進あるのみだった。しかしどこにいっても当事者の顔が見えない、責任を問う主体、問われるべき主体は姿を見せないのです。これはさまざまな社会問題においてもおなじようなことが生じているのではないでしょうか。凄まじい「いじめ」「体罰」によってわが子を殺された、その親が責任を追求していけば、かならず被害者に対する補償、それも金銭の補償でことは終わりにされてしまいます。

 戦争責任や戦後補償にもおなじことが生じています。事件や問題を起こしたのは確かに人間(たち)であるにも関わらず、具体的に責任が問われることはないのです。たとえば日航の墜落事故、JR西日本の列車転覆事故などなど、どれひとつとっても具体的な個人が責任を課されることがないのです。

 「ところが、熊本県庁や環境庁や裁判所や、いろんな所に行動を起こしていく闘いの中で、その問を受けてくれる相手がいつもコロコロ入れ替わって、相手の主体が見えないわけです。そして投げかけたものを受け取ってくれる相手がいないもんだから、逆に自分の所に跳ね返って来てしまう。跳ね返ってきたものが、たくさん溜まってきて、その問に自分が押しつぶされんばかりに狂ってしまったわけです。『お前はどうなんだ』と問われたんだろうと思います」(同前)

 かくも残酷な人権侵害に遭遇しながら、緒方さんはまったくチッソの人たちを恨むことがなくなった、それどころか、チッソの人たちをいとおしくさえ思うようになったと言われます。

 「罪とか責任というものを共に負いたい、あんたたちばっかり責めんばい。私も背負うという気持ちになったんです」(同前)

 そう思えるようになってから、非常に気持ちが楽になったと言われる。そして、「実はわたし自身が恨みと恨みでないところの境界線にいて、逆転が起きるかどうかは決まっていなかった。いまだにずっと恨みを持っていることもあり得る話です。実は紙一重だったと思います」(同前)

 緒方さんが「恨みから解放された」、いちばんの理由はなんだったのでしょうか。

EEEE

 (この問題について考えるべきこと(言わなければならないこと)はとてつもなく多くありそうに思われますが、いや、じつはもっと単純に考える必要があるばかりだと、ぼくには思われてくるときもあるのです。しかし、そうはいっても、やはり残された課題はぼくには手に余るものだし、深いものがあります。いずれ機会を設けて、さらに考察を重ねるつもりです)

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

◎ 水俣病(みなまたびょう)=熊本県下の水俣湾周辺地域と新潟県下の阿賀野(あがの)川下流地域とに再度にわたって発生をみた有機水銀中毒で、日本の代表的な公害病の一つである。[重田定義]

 症状と原因の確定 1953年(昭和28)ごろより熊本県南部の水俣市一帯に特異な中枢神経症状を呈する患者が多発し、死亡率も高いことが注目された。患者の症状は、求心性視野狭窄(きょうさく)、難聴、舌の運動失調による言語障害、服のボタンを留めたり水飲みや書字など日常動作の拙劣、歩きだすと急激な方向転換や停止が不可能となるほか、重症例では起立や起座も困難、手の震え、口囲や指先のしびれ感などがみられ、これらは患者の70~100%に出現した。調査によって、本疾患は水俣湾で漁獲した魚貝類を反復して多食することによる中毒症であり、毒物としては湾奥に排水を注ぐ化学工場から排出された重金属が強く疑われたが、当初は原因毒物が同定できなかった。しかし、その後、工場排水口付近の海底の泥土、魚貝類、患者の諸臓器などから異常に高濃度の水銀が検出され、さらに1961年には魚貝類および化学工場のスラッジ(へどろ)からメチル水銀化合物が検出されたことによって、ようやく本疾患の原因がメチル水銀中毒であることが判明するに至った。

 阿賀野川流域の有機水銀中毒新潟水俣病ともいう)は、1964年より1965年にかけて阿賀野川下流地域の住民に、水俣病と類似の症状を有する患者が多発したことに始まる。調査の結果、川魚摂取量と毛髪中のメチル水銀量が患者発生地区で明らかな相関を示した。メチル水銀が川魚に蓄積された理由として、熊本水俣病の経験から上流のアセトアルデヒド製造工場の排水によるものと推定されたが、1964年6月16日の新潟地震によって有機水銀農薬が阿賀野川に流出したこともあり、確定が遅れた。しかし、長期間多量の川魚を摂取していた成人女性の長髪中の水銀量を分割的に定量分析することによって、新潟地震以前の毛髪部分に正常値を超える水銀量が検出され、その他の資料とも総合的に判断して、川魚の汚染はアセトアルデヒド工場の排液中のメチル水銀の蓄積であると決定された。

 これらの二つの事件から、水俣病は他の環境汚染による公害病とは異なった性格をもつことがわかる。すなわち、アセチレン接触加水反応によりアセトアルデヒドを大量に製造していた化学工場の排水中に、反応塔内で副生したメチル水銀が持続的に流出して水域を汚染し、水中でいったん、きわめて薄い濃度にまで希釈されたメチル水銀が、水中の諸生物間の食物連鎖を経由することによって魚貝類へ高度に再濃縮され、その有毒化魚貝を反復大量に摂取した人々のなかから発生をみたメチル水銀中毒症、これが水俣病である。(ニッポニカ)

(*水俣病発生・症候等については、熊本県HP:https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/47/1707.html)

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