
【小社会】酔芙蓉 花の不思議は酔芙蓉(すいふよう)。咲いた朝には白かった花が、日が昇るにつれてピンクに変化していき、夕方には赤く染まってしぼむ。そのさまが、酒に酔って顔が赤くなるのを思わせるのが名前の由来だ。◆花の色が変わるのは、紫外線を浴びることで花弁に色素のアントシアニンが合成されるため。解説を聞くと納得はするが、朝出がけに庭で目にした白い花が、夕に帰宅すれば主人より先に泥酔してうなだれているのを見ると、やはり不思議に思う。◆思えば夜の街で、とんとご無沙汰だった酔っぱらいの赤ら顔である。しかしコロナ感染「第5波」の収束に伴い、10月からおよそ半年ぶりに全国で宣言などのくびきが解かれ、閑古鳥が鳴く繁華街に一杯機嫌の酔客が戻りつつある。観光地の人出も軒並み増加傾向にあるようだ。◆しかしながら、相手は変幻自在のウイルスである。猛威を振るったデルタ株に続く新たな変異株の出現が懸念されるし、「第6波」の襲来を確実視する専門家も多い。◆感染状況が落ち着いた今、岸田新内閣にはまずもって万全の対策をお願いしたい。衆院選にかまけてそこをおろそかにすれば、短命に終わった前政権の轍(てつ)を踏むことになろう。◆時々刻々と色を変える酔芙蓉。花言葉は「心変わり」とも「幸せの再来」ともいうそうだ。ぜひとも後者であってほしいが、それには羽目を外さないよう、個々の自戒が求められる。おのおの方、油断召さるな。
10月6日のこよみ。旧暦の9月1日に当たります。ひのと ゐ 七赤 先負。日の出は6時03分、日の入りは17時44分。月の出は5時27分、月の入りは17時51分、月齢は29.1です。潮は大潮で、満潮は高知港標準で5時34分、潮位201センチと、17時59分、潮位203センチです。干潮は11時47分、潮位32センチです。

10月7日のこよみ。旧暦の9月2日に当たります。つちのえ ね 六白 仏滅。日の出は6時04分、日の入りは17時43分。月の出は6時35分、月の入りは18時23分、月齢は0.7です。潮は大潮で、干潮は高知港標準で0時04分、潮位39センチと、12時23分、潮位39センチです。満潮は6時17分、潮位207センチと、18時27分、潮位206センチです。(高知新聞・2021.10.06 )
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高知新聞のコラム名は「小社会」、いかにも、自由民権運動の発祥地、土佐の新聞らしい命名であるというなら、いったいどこが土佐らしいと尋ねられるでしょう。このコラム名が生まれたのは発刊の翌年(1905年)、それまでの「新春録」を改めたものだと言います。主筆の冨田幸次氏の考えであったか。もう何年も、このコラムを愛読しています。内容もさることながら、「◎月✖日のこよみ」がぼくには面白い。「旧暦の…に当たる」「月齢」「潮の干満」など、それだけですが、その何気ない記事の繰り返しから、あるいは、自然の摂理のささやかな「異変」が認められるかもしれない。何事もなく、昨日の繰り返しが今日、今日の繰り返しが明日。「無事」という言葉の持つ、深い意味のようなものを、淡白な書きぶりに見て取れるようです。「暦」は「こよみ」、それは「一日、一日と日を数えること」、「こ読み」というのですから、一日を数えることを通して、一年を知ること、それが「暦(れき)」になるのでしょう。
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◎ 暦(こよみ)=こよみとは『和訓栞(わくんのしおり)』に「暦日をいふ、日読(かよみ)の義、二日三日とかぞへて其事(そのこと)を考へ見るものなれば名とせるなり」とあり、「また古語にコといひしは詳細の義あり、ヨミとは数をかぞふる事をいひけり、歳月日時を細かにかぞへしるせしものをいふに似たり」ともある。本居宣長(もとおりのりなが)はその著『真暦考』で「又日を数へていくかといふも、幾来(いくけ)経、暦をこよみとつけたるも、来経数(けよみ)にて、一日(ひとひ)一日とつぎつぎに来経(きふ)るを、数へゆく由の名なり」と述べている。日本語の「こよみ」は日を数える意である。長い時の流れを数える法が暦である。これに対し漢字の「暦」が意味するのは、日月星辰(せいしん)の運行を測算して歳時、時令などを日を追って記した記録である。(後略)(ニッポニカ)
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そのコラム「小社会」です。酔芙蓉だから、夜の街というのは、いかにも短絡していますね。それはともかく、驚異的な減少を示している「コロナ感染者数」。ホンマかいなと、疑心は尽きない。これで一件落着とは、行かないことを暗示も明示もしているように思われてくるから、コロナ禍が植えつけた恐怖心の根強さを感じてしまいます。(晴れて、あるいは無理矢理に)各種「宣言」などの規制が解かれた今、「羽目を外さないよう、個々の自戒が求められる。おのおの方、油断召さるな」とコラム氏は、読者にも「注意」を促されます。とはいうものの、「注意は自分に(で)するもの」だということも忘れたくはない。
人それぞれに名前があるように、花にも名前があります。また人の性格や特徴(人柄)を表現するのに「やさしい」とか「誠実な人」などというように、花にも、それに似たニックネームというのか、人柄ならぬ、「花柄」というのか。「花言葉」がまことしやかに言われています。ぼくはほとんど、それには興味がありませんが、やたらにこだわる人もいるようです。毎日のように聴きながら布団に入りますが、「ラジオ深夜便」というN✖Kの放送の、本日、早朝五時前に「今日の誕生日の花と、花ことば」というコーナーがあります。聴くともなく聴いていますが、勝手なもんですね、人間というのは。いろんなことを言うのですから。
深夜便の「今日(十月七日)の誕生日の花」は「コスモス」で、「花ことば」は「調和」と「乙女(少女)のまごころ」だと、アンカーは原稿を読んでいました。また、このアンカー(芳野潔さん)にもあった、コスモスの想い出が語られていました。ぼくは毎日、夜の十一時過ぎから、この放送を聴く。もう三十年以上も続いています。そのほとんどは眠りに落ちていますが、いくらかは耳に残る。(この「深夜便」について語るとき入りがありません)
で、酔芙蓉の「花ことば」です。「しとやかな恋人」「繊細な美」「心変わり」「幸せの再来」とか。勝手なもんですね、人間は。当たっているような、当たっていないような。どんな花でも、そういわれれば、そうかなあと思えてくるのですから、いい加減ものです。花に嵐のたとえもあるぞ、というのは井伏鱒二さんでした。(その「嵐」の二人が同時に結婚とか。何のことじゃ。この「男組」や「女組」の乱立はなにを示しているのか、ぼくには大きな社会問題ではあります)
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今日の駄文をどうしようかと思案する風にして、雨模様の散歩に出かけてきました。いつも歩く道々に「芙蓉」や「酔芙蓉」が花を開いていた。田畑の畔にはコスモスも咲き残っている。「ラジオ深夜便」の花言葉が浮かんできました。「調和」「乙女(少女)のまごころ」と。(いかにも秩序とか調和は「コスモス」に由来するようにも言われていますし、そもそも「コスモスは宇宙」でもあるのです)
「一般にいわれる宇宙を大宇宙(マクロコスモス、ラテン語でmacrocosmus、英語でmacrocosm/macrocosmos)とし、それに対して人間の身体を小宇宙(ミクロコスモス)に見立てて、大宇宙との対応を求めることを、大宇宙・小宇宙(マクロコスモス・ミクロコスモス)対応の原理という。大宇宙の秩序(コスモス)は人間の身体内にも調和をつくるとして、医学に影響を与えたが、その源は古代ギリシアのヒポクラテス学派に発するともいわれる」(ニッポニカ)
コスモス(十月七日の誕生の花)から見れば「酔芙蓉」はなんですか、と言われそう。朝は白かった花が、夕方には赤くなるというのは、情けないというか、だらしないというか。それが「乙女のまごころ」だとしたら、大変な勘違いになることは間違いないし、いやじつは、真実は「勘違いにある」ということになるのかもしれません。でも、「「乙女のまごころ」という「花ことば」、実際は、酔芙蓉ではなくは「コスモス」でした。でも、ぼくには反対の方が実感があるんですよ。「乙女のまごころ」は朝は白でも、夜は赤に変わるがごとくに、「心変わり」もないじゃないし、でしたよ。「おのおの方、油断召さるな」
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◎フヨウ(芙蓉)(Hibiscus mutabilis)【フヨウ】=中国原産のアオイ科の落葉低木。南西日本の一部には,野生状態ではえている。庭園や花壇の植込みにされるが,関東以北では育たず,暖地以外では冬枯れるので,ふつう園芸的には宿根草として扱われる。高さ1〜3mになり,葉は3〜7浅裂し,長い柄がある。7〜9月,葉腋に径10cmほどの5弁の一日花が咲く。果実は球形で有毛。園芸品種もあり,花色が淡紅のほか白色,八重もあり,八重の白花で午後桃色に変わるものはスイ(酔)フヨウといわれる。春,株分けでふやすが実生(みしょう)もできる。(ニッポニカ)

◎スイフヨウ=●わが国の四国、九州から台湾、中国に分布する「ふよう」の園芸品種です。朝咲いたときは真っ白だった花の色が、昼ごろには桜色そして翌朝の萎むころには濃いピンク色に変わります。名前は、この変化の様子を酒飲みの顔に喩えたもの。たいていは八重咲きですが、一重咲きの品種もあります。●アオイ科フヨウ属の落葉低木で、学名はHibiscus mutabillis cv Versicol。英名は Cotton rose。(weblio)
◎花言葉(はなことば)=種々の花に象徴的な意味をもたせた言葉。バラが愛,スミレが忠実ヒナギクが無邪気とするような類で,複雑な意味(ユリ,あなたは私をだませない,など)をもつこともある。国によって異なり,一つの花にいくつもの花言葉があることも多い。(マイペディア)
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植木や花のことに触れると、ぼくはきっとおふくろを思い出す。彼女はホントに花や木が好きだった。ぼくにも、それが移った(遺伝した)かのように、歳をとるとともに、その傾向が強くなってきた。(京都の家の)猫の額というか、畳一枚分ほどの箱庭に、おふくろはいろいろは花木を植えて、育てていた。よほど好きだったのだと思います。田舎出の女性だったし、栽培の心得もあったのだから当然だったとも言えます。いつのことだったか(半世紀も前)、まだまだ珍しかった「月下美人」を見事に咲かせて、狭い家の周りに人だかりが出来たり、京都新聞に写真入りで掲載されたこともあった。おやじは「おまえは、こんなんがうまいな(上手に育てる)」と感心していたのを、ぼくはよく覚えています。「丹精をこめる」という表現に重なって、おふくろのたたずまいが想起されてくるのです。亡くなって六年が過ぎました。

「酔芙蓉の花ことば」を再言します。「しとやかな恋人」「繊細な美」「心変わり」「幸せの再来」、このどれもが当たっているような、また当たっていないような。だた、ぼくはひたすら花の美しさに見惚(と)れています。花と花言葉は、どのような結びつきになるのでしょうか。例えば、酔芙蓉を見て、まるで「しとやかな恋人」と見立てたり、「繊細な美」と感じるというのはわかりそうな気がします。その花を、ある人に送って「(あなたは)しとやかな恋人」ですと、送った人が暗示をかけるのかどうか。「ぼくの恋人だよ、あなたは」と。厚かましいねえ。貰った方は、それを知っているのだか。
そんな面倒な「謎かけ」のようなことは、ぼくには芙蓉、いや不要ですね。花、それぞれの姿や形に、ぼくは心の華(はな」やぎを感じ取っているのですから。それでじゅうぶん。どこまでいっても「秘すれば花」という、「偶然の出会い」「思いがけない出現」と、それがもたらす喜びに尽きますね。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのは、誰が誰に対して、いつ、どこで言う(言った)のかしら。一人で「三花」の人がいるとは、思われませんが。
(余話です。少し前に、近所の人から聞いていたのですが、最近は、この近辺でも遊休地に「そば」を植えるところが増えたという。さきほど歩いていたら、あちこちに見事に「ソバの花」が咲いているのに出会いました。よく通う「蕎麦屋」さんが作っているのだそうです。(下の写真は別物)

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