「単純さを支える思想」
水田 そんなたいしたもんちゃうんです。とっても単純な話なんです。
戦争は反対せなアカンと、子どものころだれでもゆったりするでしょ。わたしもゆってた。それが、日本の政府がベトナム戦争に加担してるって話を聞いて、エッー、それはエライコッチャ。「反対」せなアカン…。前の戦争のとき、みんな反対やと思ってても声をあげんかったから戦争になってしもたんやから、ちゃんと声を出さなアカン…。で、まあ、とうとう一人で街に出てビラまいた…。初めて街に立ったときはほんまにヒザがガクガクして、その感じはいまでも覚えてるけど…。(中略)

けど、そんなときのわたしのベトナム戦争に対しての知識というか理解というのは、特別なものはなんもなくて、ただ、でっかい国がちっちゃな国に手をかけているっていう、それだけやねんけど、でもそれだけで、わたしにはぜったいアメリカがわるいと思えた。大きくてつよいもんが、小さくてよわいもんに対してふるう暴力に対しては、ぜったいに許せないって感じがあった。(中略)
死刑反対ということについても、賛成か反対かをじゅうぶんに考えて、その上で出てきた自分の結論、というようなもんやなくて、ごくあたりまえというか、とうぜんなもんとして、なんとなく子どものころから思っていて…だけど、こういう単純素朴な信条というか信念というのは、他人に対しぜんぜん説得力がないですね。ひとこと「反対やねん」とゆうたら、それ以上説明のことばもないし…。(中略)

死刑反対も初め信念以外なんもないから、「そんなことしたら犯罪が増える。やられてからでは遅いんや」とか、「あんた自分の恋人が殺されても死刑反対なんか」とか、「子どもを誘拐して殺すような、そんなひどいやつに対しても許せとゆうんか」とか、「強姦殺人だけは人がなんと言おうと許せん。お上に頼むのかと言われようと死刑にでもなんにでもしてやっつけなかったら女はいつでもやられっぱなしや」というような圧倒的な声の前で、わたしの単純素朴な死刑反対ではぜんぜん歯が立たへん、まるで説得力がないわけや。信念というのは自分に対してはつよいけど、それだけやから、なんちゅうか、おもろないねんな。(中略)
反対、反対ばっかり言わんと、代案ださなあかんというようなこともよう言われるけど、代案がなくても、仮に、もし死刑をなくしたら、犯罪が増えるとしても、反対は反対だというのがわたしの根本なんです。
でも運動をつくってゆくときに、この「反対は反対や」ていう単純さを支える思想っていうか、そういうもんがわたしは欲しいと思うんですね。(「死刑反対をめぐって」『鶴見俊輔座談『社会とは何だろうか』所収。晶文社刊、1996年』
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◎水田ふう(1947.2.14–2020.2.16)=個人通信「風」発行人 『エエジャナイカ 花のゲリラ戦記』など。反戦運動、反原発運動、死刑反対運動など、とにかく公式論や理論武装に依拠したよそいき借り物ではない、自前の、手作りの運動を継続されていた人でした。(1947年、鳥取県米子市生まれ 死刑廃止「かたつむり」、東アジア反日武装戦線救援「虹の会」、反原発などに関係する 向井孝とともにWRI(戦争抵抗者インター)機関紙として「非暴力直接行動」を編集発行)(『エエジャナイカ 花のゲリラ戦記』発刊時のデータによる)
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「男たちのたくさんいる集会でもわからんことがあると、『それどういうこと』って聞けるようになるし、むつかしいことばでしゃべる男には、『わたしにわかるようにゆうて』、とくりかえし聞いたりして…これアホの特権やね。ホント、アホのほうがええねん。アホでもええんとちごて、アホなほうがええねん。賢いのもええけど、アホなほうがええ。これ実感やな」
「勉強というのは、本をいっぱい読むのが勉強やなくて、自分たちが動いてきたことのなかから、しっかりその意味をとり出す。それが勉強やし、それが自分の思想をもつことやと思う。でも、賢いとなかなか気軽に動くことができにくいやろな」
「いまのとこ、まず動く、気軽にからだを動かしてみる、という以外にわたしには答えを出せないんですけど…」(いずれも上掲書から)
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たった一度だけ、水田さんに電話をかけたことがありました。愛知県の犬山に住んでおられた。もう十数年前になるでしょうか。ある人に紹介していただきました。是非ともお会いしたいと思ったのですが、そのときは、あいにく「体調を崩していて、動くことができませんので」と、確かご本人が電話に出られたのだったと思う。元気になったら会いしましょうと、電話を切った。たったそれだけのご縁だったが、じつは、ぼくはふうさんの支持者というか、その「単純さを支える思想=姿勢・態度」というものに、強く惹かれていた。「反対は反対や」という思想という以上に「生き方」「生活態度」に、ぼくは大きな意味を発見していたと思う。それこそが、水田さんの生活哲学だったと言えます。「死刑反対」のために理論武装するというのは、どこか危なっかしいし、怪しい。新たな理論が出てきたら、きっと「死刑賛成」になるに違いないのです。(この「単純さを支える思想」という部分は、まったく同じような引用をどこかでしています。今の気持ちでは、何度でも引用したいという誘惑が、ぼくに強く働きかけてきます)
「いやなものはいやだ」というのは、率直な感情です。それが間違いである場合がほとんどですが、「死刑はアカン」はそうじゃないでしょう。殺人を犯したから、国家権力が被害者になりかわって成敗してやるという「制度」は、人倫に悖(もと)ると思うのです。

「反対は反対や」ていう単純さを支える思想っていうか、そういうもん」とは、どのようなものだろうか。それをぼくはずっと考えているのです。それは「太陽は東から出る」というような、人間社会の一種の摂理ではないですか。彼女の真骨頂が率直に出ている直感ですね、次の表現は。「勉強というのは、本をいっぱい読むのが勉強やなくて、自分たちが動いてきたことのなかから、しっかりその意味をとり出す。それが勉強やし、それが自分の思想をもつことやと思う」、このような姿勢や態度がいかにして、ふうさんの心中に育ち・育てられたか、書かれたものを通じても知りえますが、まるで靴の上から掻くような、まどろこしさを感じていたので、直接会って話を聴きたいと、電話をしたというわけです。ぼくにしては、実に珍しいことでした。(この問題についてはまた、どこかで触れるつもりです)
誰がなんといおうと、「死刑に賛成だ」という人がいるのでしょうか。これについては、人の感情の問題ですから、軽々には判断してはならないでしょうが、反対の根拠や理由は、いったいどこから出てくるのでか。死刑の賛否を問うという、多数決の原理はここでは機能しないし、させてはいけないように、ぼくはずっと昔から考えてきた。そのような問題として、ぼくは水田ふうさんに教えられたと思っている。昨年の二月に亡くなられたことを、その直後に知った。会えなかったのは残念ですが、彼女の「アホのほうがええねん。アホでもええんとちごて、アホなほうがええねん」という実感を、ぼくも常に感じ取っていたいと願っています。合掌。
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