奈良の都に言告げ遣らむ、往来・消息雑感

 【越山若水】「手紙」という言葉は元来「手元に置いて雑用に使う紙」のことで、そこから「簡略な書き付け」を指すようになった。現在のような通信手段の意味に転じたのは江戸時代らしい▼それ以前は何と呼んだのだろう。作家の半藤一利さんが「手紙のなかの日本人」(文春文庫)で教えてくれる。それは「書簡」「尺牘(せきとく)」「消息」「往来」「玉章(たまずさ)」など中国から輸入した用語である。中でも半藤さんのお気に入りが「雁(かり)の便り」「雁の使い」だという▼いかにも日本的なソフトな言葉である。ただこれにしても中国故事が由来とされ、「雁書(がんしょ)」などの漢語が存在する。前漢の武将・蘇武が匈奴(きょうど)に捕らえられたとき、雁の足に手紙を結びつけて放った。それが都に届き本人の無事が確認されたという(「漢書」蘇武伝)▼ただわが国最古の「万葉集」にも同じような表現が登場する。「天(あま)飛ぶや雁を使ひに得てしかも奈良の都に言(こと)告げ遣(や)らむ」。空を飛ぶ雁を使いとして得たいものです。奈良の都に言づてを託せるように…。天平時代、新羅に派遣される使者が九州で詠んだ一首である▼古代から親しまれてきた手紙も、昨今は電話やメールの普及でなじみが薄くなった。それに応じてか、きょうから普通郵便の土曜配達が中止される。情趣ある手紙文化の衰退に拍車がかかるようで忍びない。「小筆の穂なだめてをれば雁の声 鷹羽狩行」(福井新聞ONLINE・2021/10/02)

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 手紙を書く習慣が徐々に消えてゆくのは、時代の要請でもあります。便せんに「用件」を書き、封筒に入れて、切手を貼り、ポストに投函する。電話が普及するまでは、最も確実な通信手段だったと思われます。実際に「手紙の歴史」というと、かなり膨大な時間と労力を要して、初めて明かされるような分野のように見えます。よく作家などの全集には「書簡集」などというものが含まれますが、ぼくはこれを読みたいとは思わない。あるとき、東京神田の古書店の社長に「全集を買うなら、別巻を。書簡や研究目録などの集がもっとも値打ちがある」と言われ、「例えば」と、いって、後年に「値がつく買い方」「値のつく作家」を教授されたことがあります。そんなものかと思いはしたが、ぼくの趣味に変化はなかった。

 本は読むもの、売るものではないという立場でした。漱石や鴎外の全集も早い段階で購入したが、しかし「日記」「手紙類」などを読んでいい気持ちがしなかったのは不思議でした。ある種の「覗き趣味」のようで、不愉快だった。作家の日記も、公表を望む人もいるでしょうけど、多くはそうではないとぼくは考えているのです。露悪趣味?それは「秘すれば人柄」に反するんじゃないですか、という気分ですね。「手紙」が売買されるというのは、どんな感情からなんですか。金儲けだけではなさそう。メールやSNSなどの内容や写真がネット上でバラまかれるというのと、どこか違うのか。✖✖✖根性というものが疼くんですかな。質の点では、あまり変わらないのではないですか。

 なかには、没後に誰かに読まれることを意識して書く「日記」もあるようだし、手紙類なども、丁寧に保存しておく好事家もいるそうです。それを研究と称して、「・・・の日記研究」を著し「博士」になる、こんな道はぼくには歩けないですね。第一、才能がない、第二に、羞恥心みたいなものがありすぎる。平安時代の「日記文学の研究」は古典文学研究の大事な領域です。それと、現代の作家や文人の「日記」を同日の談に、ぼくはしない。これはぼく個人の趣向ですから、大いに研究されることは構いませんよ。ぼくは読まないだけ。日記や手紙ではなく、本番の仕事を通して、作者や筆者をとらえたいというのが、ぼくの趣旨です。

 ぼくは「(いわゆる)高名な人(作家)」から、数度ばかり手紙や葉書をいただいたことがありますが、いま、それがどこにあるかわからない、きっと処分してしまったのだろう。事程さように、手紙や日記類に関して、ぼくは淡白というか、関心が薄い。だからか(と、結びつけるのも変ですが)、ぼくは明らかに「筆無精」な部類に入る。いや、喜んで、その部類に入る人間です。自分から、誰かに手紙を書くということがない。結婚前にかみさんに書いたかどうか、多分、なかったと記憶している。親父やおふくろが健在だった時には、これもほんの数通書いただけでした。すでに「電話」時代が到来していたこともありそう。でも、やはり筆無精だったという理由が大きかった。「無音」「無沙汰」「無礼」など、ぼくが返信を書く際の「常套語」ですね。

 辞書の説明にもあるように、今日の「手紙」は相当に古い歴史をたどってきました。近世までは男の手紙は「往来」で、女のものは「消息」とされたそうで、その「いわれ」には趣がありますね。「礼尚往来(lǐ shàng wǎng lái)」とは「礼を受ければ礼を返さねばならない;贈り物をもらったら返礼すべきである;された分だけやり返す」(中日辞典第三版)まさしく「礼儀は往来するべきもの」だったんですね。また「消息」も、その出生は古いし、即物的です。「〈しょうそこ〉とも。消は死,息は生を意味し,元来は動静の義。転じて,たより,音信,手紙をさす。平安時代の男子は変体漢文で手紙を書いたが,これは後世候(そうろう)文へ発展した。一方,女子は平仮名を用い(仮名消息),〈侍(はべ)り〉〈かしこ〉〈まゐらせ候〉などや,〈御〉を多用したり,女房言葉を用いるなどして丁寧でわかりやすく書いた。これらは消息文と総称される」(ニッポニカ)

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◎ 雁書(がんしょ)=手紙のこと。中国漢の昭帝のとき、匈奴(きょうど)は漢と和睦(わぼく)を結んだが、漢の使者蘇武(そぶ)を捕らえ、武は死んだと言い張って帰さなかった。そこで帝は、庭園で射落とした(ガン)の足に、武の生存を伝える手紙を収めた帛(はく)(絹布)が結んであったと詐(いつわ)って、匈奴と交渉し、ついに蘇武は帰国することができた、と伝える『漢書(かんじょ)』「蘇武伝」の故事による。雁札(がんさつ)、雁信雁帛などともいい、和語でも「かりのたまずさ」「かりの便り」などという。(ニッポニカ)

◎ たま‐ずさ ‥づさ【玉梓・玉章】=〘名〙 (「たまあずさ」の変化した語)① 便りを運ぶ使者の持つ(あずさ)。転じて、その杖を持つ人。使者。※万葉(8C後)三・四二〇「こもりくの 泊瀬の山に 神さびに いつきいますと 玉梓(たまづさ)の 人そ言ひつる」② (転じて) 手紙。書簡。便り。文章。ぎょくしょう。※古今(905‐914)秋上・二〇七「秋風にはつかりがねぞきこゆなるたがたまづさをかけてきつらん〈紀友則〉」(精選版日本国語大辞典)

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◎手紙(てがみ)letter 英語・Brief ドイツ語l・ettre フランス語=手紙は筆と紙による通信手段である。詳しくいえば、特定の第一者(発信者)が特定の第二者(受信者)に対し、第一者の用件・意思・感情を文章、詩、物件などで一定の儀ならびに慣習に従い、第三者(配達人)を介して通達する行為である。

 名称=古代から近世まで、男子の手紙は往来、女子のは消息(しょうそこ)とよばれてきた。往来は『礼記(らいき)』の「礼尚往来」(礼は、往来を尚(たっと)ぶ)に基づくもので、消息(しょうそこ)(消えゆき、生まれきたる)と同義。ともに手紙は往信に対して返信のあるを礼とする社交意識を含んでいる。手紙の称は江戸時代からのもので、文字を書いた紙の意。中国には書簡は竹札)、書翰(しょかん)(翰は鳥の羽ペン)、尺牘(せきとく)(牘は木板)、尺素(せきそ)(素は白絹)、寸楮(すんちょ)(楮は紙)、雁信(がんしん)(蘇武(そぶ)の故事)、鯉素(りそ)(呂望(ろぼう)の故事)などの称があり、故事を重んじた国民性をみせている。社交をたいせつにする日本人と、国民性の相違が現れていておもしろい。[服部嘉香・服部嘉修](ニッポニカ)

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 手紙はあまり書かないが、それなら、葉書(端書)はどうか。これも滅多に書かない。お礼状を書くくらいが関の山です。年賀状という慣習がありますが、ぼくはこの慣習にも、あまり馴染んでいません。若いころは、「新年おめでとう」と、年が明けないうちに「言う」「書く」ことに強い抵抗感がありました。やがてその抵抗がさらに強まり、文字通りに「新年」になって出すことにしたが、結果は惨憺(さんたん)たるもので、現役の勤め人の頃は、およそ四百通から五百通ほどの「賀状」をいただいていましたので、その返信用の「賀状書き」に「三が日」は、他に何もすることが出来なかったほどでした。いったい何のための「賀状」かと、この「悪しき、虚礼的慣習」を恨めしく思ったことでした。

 やがて、それも止めてしまって、今では立春までに(返信を兼ねた賀状というより、寒中見舞いのようなものを)書くことにしています。これでずいぶん楽になりました。しかし、「正月三が日」がとっくに過ぎて、二月になって「新年の挨拶か」と怒りや非難の心ももちを抱く方もおられたようで、お陰で、いまでは枚数はかなり減りました。約百五十通。これを手書きでというのではなく、文面はワード文書での印刷です、時代なんですかな。「賀状」になっていないような返信状で、それを気にしてはいるのですが、しばらくは、このままにしておこうと考えています。元来、(旧暦では)「立春」は新年・新春だったのではなかったか、それを思い起こしては、季節外れの「賀状まがい」は続いています。

◎ は‐がき【端書・羽書・葉書】=〘名〙 紙きれを用いて書いた文書・書類。[一] (端書)① 江戸時代、検見直後に代官などによって発せられた仮の徴税令書。早急に徴税するために年貢の正式な目録が出される前に年貢割付を記して村方に出された書付。仮免状。※俳諧・雑談集(1692)下「国の判書(ハカキ)は外に専なし〈岩泉〉 豊年も粒はちいさき岡穂にて〈遠水〉」② 転じて、督促状・催促状。※雑俳・柳多留‐三九(1807)「月はほどなく質屋から端書来る」③ 署名のある書類。〔日葡辞書(1603‐04)〕[二] (羽書・端書)① 江戸時代、伊勢国(三重県)で通用した紙幣。慶長・元和(一五九六‐一六二四)の頃、その地の有力な商人たちが信用を基盤として発行したもの。山田羽書は寛政二年(一七九〇)からは幕府の山田奉行が発行全般に関与し、明治初期まで発行が続けられた。→伊勢羽書。② 江戸時代、銭湯などの代金を前納している人に渡しておく小さな紙片。湯札。※雑俳・柳多留‐一二(1777)「せん湯へ羽書で行は品がよし」[三] (葉書・端書)(「郵便葉書」の略) 第二種郵便に使用する一定規格・様式の通信用紙。※郵便報知新聞‐明治一六年(1883)二月八日「樋口彌門といふ名前にて藤三郎方へ左の端書が達したり」[語誌]((三)について) 郵便制度創設の二年後、明治六年(一八七三)に誕生した。正式名称の「郵便葉書」は、郵便制度の創始者前島密の友人で大蔵省紙幣寮に勤務していた青江秀の発案といわれている。(精選版日本国語大辞典)

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 端書(はがき)の由来は「仮の徴税令書」だったというのは頷けます。今でも催促状や督促状は「端書(はしがき)」できます。「債務の履行を促す書状。催促状」で、しょっちゅうではありませんが、たまに(納税の催促が)来ます、ほとんど無視したいのですが、泣く子と「税務署」には勝てぬ、というのですか。この端書は、さらに「せん湯へ羽書で行は品がよし」と、金券の役割もしていたんですね。今でいう「回数券」です。ともかく、いろいろな用向きで、端切れならぬ端書での役割が果たされていたのでしょう。今日の「葉書」は、もちろん明治以降のことです。

 こんなつまらないことはどうでもいいのであって、この時代、「手紙の先行き」はどうかという問題があります。ぼくには回答不能ですが、いずれ消えてゆくでしょう。人が、わざわざ「手紙を書いて」何かを知らせるという「奥ゆかしさ」がもう消滅してしまっているのですから、当然と言えば当然。郵便配達もなくなる運命にあります。その代わり、宅配便などのような品物のは配送は増えるでしょうから、配達人は無用にはならないと言えそう(その時も、郵便配達夫というのかどうか)(今でも、郵便「配達婦」とは言わないけど、女性の配達人はおられます)。

【余話ながら】そもそも「郵・便」というのはどいうことでしたか。ぼくには興味があって、暇を利用して調べたことがありました。今は簡単に辞書の解説で済ませておきます。ものには、きっと「歴史」があるということで、ものを学ぶというのは「歴史」を学ぶことと同義だったんですね。「学問とは歴史に極まり候」といったのは、荻生徂徠でした。

◎ (字義)そもそも「郵」とは、古代中国において「宿場」のことであった。また宿場を通じて人馬により文書などを継ぎ立てたから「伝達」の意味にも用いられた。さらに宋(そう)代以後になると、公文書を伝達する方法として駅逓(えきてい)と郵逓との区別が設けられた。駅逓はその字のとおり、騎馬によって送達される。郵逓は歩逓ともよばれ、人間の脚によって送達した。そこから「郵」は、人間が歩いて、あるいは走って、文書を伝達するという意味をもつようになる。(後略)(ニッポニカ)

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 「手紙は往来者」と言われてきましたが、初等教育段階の教科書も、古くから「往来物」と称されていました。上で述べてきた「手紙=往来」と無関係ではありません。この問題については機会を改めて、どこかで。

《 往来物とは、平安時代末期から明治前期まで、広く使われた初級教科書のことをいいます。もともと往復の手紙文を例文としたことから往来の名称がつけられました。

 現在最古の往来物は、1066(治暦2)年に没した藤原明衡【あきひら】が正月から十二月までの手紙文を集めた『明衡【めいごう】往来』といわれます。その後、鎌倉時代には手紙に使われる単語や単文などを集めたものもあらわれました。この時期成立した『庭訓【ていきん】往来』は広く普及し、江戸時代にもテキストとして使われました。江戸時代には、手紙文以外の初級教科書一般も往来物というようになりました。江戸時代、寺子屋(手習い塾)が増加し、庶民教育が発達すると、地理・歴史・社会に関する様々な用語を収めた往来物が7000種類も発行されました。

 往来物は明治時代にも見られました。これは、地域ごと職業ごとの知識を学ぶ方法が継続していたことを示しています。1872(明治5)年の学制発布、1883(明治16)年の教科書認可制の導入、1886(明治19)年の学校令など教育の近代化・統一化が進むとともに、往来物は姿を消していきまし》(東京学芸大学付属図書館:https://library.u-gakugei.ac.jp/digitalarchive/oraitop.html )

 ついでに この雑文・駄文集積は、いうならば、ぼく自身への「手紙」です。古風に言えば、「寸楮(すんちょ)」。楮とは「コウゾ」で、紙の原料になる植物です。コウゾ・ミツマタなどという、あれです。寸楮とは、文字通りの「紙切れ」を言うでしょう。そこらに落ちている「紙切れ」で、「よしなしごと」を書くということになる。今は「楮」の代用がPCですから、「寸電脳」というべきか。どういおうと、読み返されない「手紙」であり、自分が自分に出す手紙、その両方の自分は「先行きは短い」のですから、朝書いた手紙を、夜に読むという風情です。書く人も読む人も「同一人」ですが、朝から夜にかけて、刻々と脳細胞は劣化していきますから、別人であるともいえるでしょう。「すべては、君にあてた手紙」です。お粗末!

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。