
【滴一滴】英語のイロハを学び、一歩ずつですが前に進みつつあります―。「自主夜間中学校」に通い始めたという岡山市の69歳女性がかつて本紙ちまた面に投稿していた。簡単な英語が読めず、職場で恥をかいたことを打ち明けていた▼1年後。また投稿が載った。英検5級に合格した、うれしい報告である。仕事を退き、やり残したことを考えた。出した結論は学ぶこと。それが大きな喜びになっていることに共感する人は少なくなかろう▼岡山市での自主夜間中学校が5年目を迎え、登録する生徒は250人に上ったとの記事を今夏読んだ。一方で、開催は土曜の3時間だけで、ボランティアの教師らによる手弁当での運営は限界がある、とも▼岡山県内にまだない公立の夜間中学について、岡山市が2025年度までの設置に向けて準備すると先に明らかにした。一足早く来春、香川県で初めて三豊市教育委員会が設ける夜間中学は、不登校の中学生を受け入れる全国初の試みでもあるそうだ▼何事にも時機というものがある、と冒頭の女性は記していた。それがいつなのかを決めるのも自分自身、と▼江戸時代の儒学者佐藤一斎の言葉が浮かぶ。「少にして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず」。少も壮も老も、学びの喜びを。(山陽新聞デジタル・2021年09月14日)
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「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰も矢の如し」出典には各説あり、それを調べるだけでも一つの研究領域になり、あるいは「博士」にもなれるほどの研究課題です。ぼくはそんなことにはまったく関心がなく、「学問」(この語を、教育とか教養という意味で使いたい。広く深く、人生に関わる経験を血肉化する行為を言う)というものは、なかなか身に収めるのは大変だね、それに比べて、一人の生涯なんて、あっという間の煙草の煙だ。あるいは「芸術は長し、人生は短し」と同じように捉えられるかもしれません。ところで、「道徳」という語の歴史はは以外に新しいものです。しかし「道」と「徳」という字は古くから、特に中国では用いられてきました。面倒は避けますが、道は「聖人君子が行う、政治の方法」であり、「徳」は「個々人の得るところ(徳は得なり)」で、仁・義・礼・智・信などと言われるものの・意識化でもあるでしょう。(朱子学では、この「仁義礼智信」のどれが「道」で、どれが「徳」か、微細な議論があり、若い時はそれをまじめに学んだつもりになっていましたが、本末顚倒の感を強くしてきました。それで、いまはそれを無視しています)
コラム氏は、ここに佐藤一斎を持ちだされていますが、ぼくには、少し場違いの感がします。一斎先生は公認の学(江戸儒学=朱子学)の大家であり、その傍らでは異学として禁じられていた陽明学にもなかなかの蘊蓄を持っていたのです。この「学問の王道」を歩いた人を「夜間中学校」との関りで、「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。…老いて学べば、則ち死して朽ちず」というのですから、「学」の種類が根本から異なり、端から比較の対象にはならないように、ぼくは愚考するからです。一斎さんの代表的書物である「言志録」は、いまでいう「道徳(教育・修身)論」でしょう。若い時には、徂徠や仁斎のものと同時に、暇にあかせて読んだことがありますが、今は「読書の影」すら残っていないような始末です。
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● 佐藤一斎(さとういっさい)(1772―1859)=幕末期儒学思想界の大御所。名は信行、のちに坦。通称は幾久蔵(きくぞう)、のちに捨蔵。字(あざな)は大道。号は一斎、愛日楼(あいじつろう)、老吾軒、百之寮、風自寮。美濃(みの)国(岐阜県)岩村藩家老の二男に生まれ、藩主松平乗蘊(まつだいらのりもり)(1716―1783)の三男、後の林述斎(じゅつさい)と兄弟のごとくして育った。34歳で林家の塾頭となり、70歳で昌平黌(しょうへいこう)の儒官となる。一斎は若いときから陽明学の信奉者であったが、寛政(かんせい)異学の禁の波及効果の一つとして、藩籍を離脱して大坂に出て、中井竹山(なかいちくざん)に朱子学を学んだ。しかし、のちに林家の塾頭になったときでさえも、公人としては朱子学を講じはしたものの、個人的信念としてはあくまでも陽明学の信奉者であった。「陽朱陰王」などと陰口をたたかれもしたが、「公朱私王」とでもいいうべきものである。朱子学・陽明学を兼採した一斎の宋明(そうみん)性理学に関する学殖は当代随一であった。一斎門では天下の俊秀と講学できることも大きな魅力であった。幕末期の文教政策・人材養成の点で果たした一斎の功績はきわめて大きいものがあった。主著に『言志(げんし)四録』『愛日楼文詩』(1829)などがある。(ニッポニカ)
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「春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら肅(つつし)む」(「言志後録」)「人は須(べか)らく忙裏(ぼうり)に閒(かん)を占め、苦中に楽を存する工夫を著くすべし」(言志耋録)
○ げんしろく【言志録】=江戸後期の倫理書。一巻。佐藤一斎著。文政七年(一八二四)刊。死生、宇宙、政治、孝などに関する随想二四六章を収め、修身、求道を説いたもの。為政者の心術を多く説き、行動の原理を「必然」性に求めている。朱子の「近思録」の体裁に影響されているが、危機に処する覚悟を説く処には陽明学的な考えも見られる。続編の「言志後録」天保六年(一八三五)刊、「言志晩録」嘉永三年(一八五〇)刊、「言志耋(てつ)録」嘉永七年刊と共に言志四録と称される。(精選版日本国語大辞典)
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主題は「夜間中学校」です。さまざまな経過をたどって、その存在は、今に至ります。政府や行政はこれまでは、いわば厄介者視してきました。六・三制の義務教育制度が整っているのだから、埒外の学校を作る必要はないという呆れた理由からでした。ここへきて、雲行きが変わってきたような塩梅ですね。
「こんばんは」から始まる中学校

『こんばんは』という映画(2003年制作)があります。(この映画については別のところで、ぼくは触れている)監督は森康行さん。記録映画『ビキニの海は忘れない』(90年、キネマ旬報文化映画第10位・日本映画ペンクラブ優秀作品・日本映画復興会議奨励賞)。記録映画『渡り川』(94年、毎日映画コンクール『記録文化映画賞(長編)』・キネマ旬報文化映画第1位 )などの作品があります。
ぼくはこの「こんばんは」という記録映画を何度見たことか。おそらく五十回は鑑賞したと思う。何処に惹かれたのか、それを言うことは困難ですね。ここがいいとか、ここが悪いとかいう、その段階を超えて、「人間老い易く、学(がく)学び難し」という人生の波乱を生き切ろうとする人たちの「見果てぬ夢」というものが、ある種の学校や教育にあるということをはっきりと教えてくれるからでした。向学心というか、探求心という、一種の治外法権の領域に属する「楽しみ」であり、喜びでもある、それが、ぼくたちが「学ぶ」ということの醍醐味です。映画の舞台は都内墨田区の「文花(ぶんか)中学校」です。ぼくも何度か訪れました。

この映画では、教室が「話し合う・語り合う場(meeting place)」になっているということ。生徒同士がたがいに学びあう、教え合うという共同・協力・協調の精神があるということ。教師と生徒の間には、一対一の関係が成り立っているということなどなど、「こんばんは」には巧まざる効果というものがあるのかもしれません。学ぶということは、それ自体で成り立つ(完結する)要素があるのであり、何かの役に立つとか、何かに必要であるから「学ぶ」というのとは次元が違う、そんな錯覚を与えてくれます。
ものを学ぶのは食事をとるのと同じような意味合いで、学んだものが経験(養分)となり、当人の血肉と化するのは言うまでもありません。問題となるのは、血肉化しないで学ぶ、経験の深化に寄与しない学び方、そんな学び方が横行している現実があるのでしょう。だから、その対極にあるような学び方が溢れているこの記録映画に、ぼくは惹かれたのです。

《 夜間中学とは 中学校夜間学級の通称で、学校教育法施行令にある「二部授業」の規定に基づき、市町村教委が都道府県に届け出て開設できる。1947年に大阪市生野第二中(現勝山中)に初めて開設された。/文部科学省によると、50年代の87校、4900人をピークに、徐々に減少し、今年4月は東京、大阪、神奈川、兵庫など8都府県の計35校、2895人。このうち外国籍者は2181人で、全体の約8割を占めている。夜間中学のない地域では、ボランティアが「自主夜間中学」を開設、活動を続けているところもある 》(読売新聞・02/10/14)

●夜間中学校(やかんちゅうがっこう)= 昼間就学できない学齢生徒に対し,夜間に特別に授業を行う学級をもつ中学校。第2次大戦後の学制改革に伴い,日本の学校制度内部に変則的に生じた教育形態で,1947年大阪に初めて出現。東京では1951年に足立区に誕生したのが初。1970年代以降,学齢期に学ぶ機会をもてなかった在日朝鮮・韓国人や外国人労働者などの在籍がふえ,1999年現在公立校に並設された夜間中学は34校,ほぼ首都圏と関西に限定されている。またこうした公立の夜間中学とは別に,ボランティアが運営する自主夜間中学が全国に15ある。戦前,大正時代から中学校に夜間部を置くところがあったが,これとは別。(マイペディア)

(上図は文科省による設置自治体。「現在、中学校夜間学級(いわゆる夜間中学)は12都府県に36校が設置されています。文部科学省では、夜間中学が少なくとも各都道府県・指定都市に1校は設置されるよう、その設置を促進しています。※夜間中学とは、市町村や都道府県が設置する中学校において、夜の時間帯等に授業が行われる公立中学校のことをいいます」文科省「夜間中学の設置促進・充実について」)(公立の夜間中学のほかに、民間ボランティアの人たちの協力を得て、教育委員会や任意団体などが実施する自主夜間中学や識字講座などの取組もあります。中学校の卒業証書はもらえませんが、161の市区町村で1,533件の取組が行われています)(政府広報オンライン)
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だれもが当たり前に中学校に通う、そんな通念がわたしたちを支配しています。不登校児童・生徒が十数万人以上いる現状、いろいろな理由で日本に来られ、しかも日本語能力が充分でない人たち、さらには、就学期に通学できなかった人びと(未就学者)、このように多様な理由をもった人々のために「夜間中学校」は必要とされています。公立のものをはじめ、自主的なボランティア活動に支えられるものを含めて、今真剣に「夜間中学校」への期待と欲求が高まっているのでしょう。そこで展開されている「教育」「授業」とはどのようなものか。
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「こんばんはⅡ」(2019年制作)が公開されています。

◎「こんばんはⅡ」の監督、森康行氏よりコメントをいただきました。||今の日本社会では、学びを求めている人が学べず、義務教育ではいじめや不登校競争教育の中で落ちこぼされた人たちがつらい思いをしています。ここに日本の学校教育、社会の問題が横たわっているのではないでしょうか。今回の映画「こんばんはⅡ」の中に描かれていることは、人間にとって学びとは絶対に必要なもので、生活する上でも、物事を考える上でも学ばなければ生きていくことができません。そのことを夜間中学で学習した方々が証言しています。自分の足でしっかり歩いて生きていくための“学び”を、夜間中学は訴えています。

◎「こんばんはⅡ」で、ナレーションをしていただいた大竹しのぶさんよりコメントをいただきました。||友人に誘われ、夜間中学一筋で教員をし、退職された見城慶和先生が行っている「えんぴつの会」の授業に伺ったのが15年前のことでした。あの時の見城先生の優しいお顔や生徒さんたちのキラキラした楽しそうなお顔を、私は今でも思い出すことができます。自由で、温かく、涙が出るほど素敵な時間でした。
「こんばんはII」では、学ぶことによって手にすることができる希望。学ぶことによって、人生がどれほど豊かになるかということ。そして、教育を受けることが決して当然ではなくなっている実態。いろいろなことを考えさせられる映画になりました。
今後、全国各地に夜間中学が設立され、学べる人たちが一人でも多く増えることを願ってやみません。そして、明日への希望の授業をずっと支えて下さっている見城先生を始めとする全ての方々に、心からの敬意を表します。(http://www.konbanha2.com/)
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ぼくはまだ「こんばんはⅡ」を見ていません。いずれ機会をみつけるつもりでいます。このところ、どういうわけだか、「夜間中学校」の話題が多く見られます。理由はいろいろに考えられますが、ひとつは外国籍の方が多数移住してこられたので、「日本語習得」の機会を提供する必要に迫られたということもあるでしょうし、不登校などで学校に行けなかった生徒の学ぶ機会を設定するためでもある。何のための教育、何のための学校という、誰もが素通りしそうな問題がこの社会に立ちはだかってきたのです。

もちろん、夜間中学校が増えれば、「それでよし」ということはできません。教育を受ける権利の保障は国や行政の責任でありますが、何故、それが夜間中学校なのかという根本にさかのぼって、この問題を深めなければ、新たな展望は見いだせないし、「教育を受ける機会の平等」が生み出す「教育を受けた結果の不平等」はいつまでたっても克服されはしないからです。ひいては、それは全日制の学校教育の問題をも照らしだすことにもなります。
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