蝶々、それは何の化身だろうか

 優雅にアサギマダラ、満開のフジバカマに 旅するチョウが羽休め 豊岡市 「旅するチョウ」として知られるアサギマダラが、今年も兵庫県豊岡市加陽の加陽水辺公園に飛来した。同公園では、「秋の七草」の一つで、アサギマダラが好む植物フジバカマが満開を迎えており、周囲を飛び交い盛んに蜜を吸う様子が見られる。10月2日には、現地で「秋の観察会」が開催される。(阿部江利)

 アサギマダラは体長5~6センチで、黒や茶色の縁取りがある浅黄色の美しい羽を持つ。夏には涼しい地域へ北上し、秋には南西諸島など暖かい地域に向けて南下するのが特徴で、移動の途中にフジバカマの咲く地域に立ち寄る姿が見られる。/ 市から同公園の管理委託を受ける「コミュニティなかすじ」の加陽水辺公園部会によると、フジバカマは元々、円山川と奈佐川の合流点付近に自生していたが、護岸工事から守るために移植されたもの。2018年からは同湿地などで住民らが保護の取り組みを始め、昨年は100株を湿地に移植。有志らによる「フジバカマを育む会」も発足し、今年も500株を新たに植えて増やしている。

 今年は9月上旬からチョウの目撃情報が寄せられ始め、同部会でも9月中旬に飛来を確認。上坂孝一部長(67)は「円山川水系でのフジバカマの生育地は中筋地区だけ。日によって差はあるが、優雅に舞う姿が見られる」と話す。/ 観察会は同部会などが主催。10月2日午前10時からで、加陽水辺公園交流館に集合。専門家ら3人が、アサギマダラやフジバカマの生態、香りなどについて解説する。無料。同交流館TEL0796・21・9119(2021/9/26 05:30神戸新聞NEXT)(*実に見事な写真」でした。これを目にすることが出来たことを感謝します。S.Y.)

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スナビキソウに群がるアサギマダラの大群(中国新聞デジタル・2015/6/14)

◎ アサギマダラ(あさぎまだら / 浅黄斑蝶)chestnut tiger [学] Parantica sita=昆虫綱鱗(りんし)目マダラチョウ科に属するチョウ。日本では北海道から沖縄諸島に至る全土に発見される。北海道、東北地方などの寒冷地では、例外的な場合を除いて夏に少数の個体が発見されるのみであるが、これはより南方地域からの移動個体、あるいは移動個体による一時的な発生と考えられる。西南日本では夏季に山の頂上に群飛することが多い。日本以外では朝鮮半島、台湾、中国から西北ヒマラヤにわたって分布する。はねの開張は90~100ミリメートル程度で大形。雌雄の色彩や斑紋(はんもん)は同様であるが、雄では後ろばねの後方に表裏ともに黒斑状をなす光沢のない性標があり、これによって雌雄は容易に見分けられる。西南日本では5月ごろから11月ごろまで成虫の飛翔(ひしょう)をみるが、奄美(あまみ)諸島や沖縄諸島では冬を挟んで秋から春にかけて多く、夏季にはほとんどその姿をみない。飛び方は緩く、各種の草花に集まる。幼虫の食草はカモメズル、キジョラン、サクラランなどのガガイモ科植物である。アサギマダラは九州以北の日本本土に土着する唯一のマダラチョウ科の代表であるが、吐噶喇(とから)列島以南の南西諸島にはさらにリュウキュウアサギマダラ、カバマダラ、スジグロカバマダラ、オオゴマダラの4種の土着種がある。なお、マダラチョウ科のチョウは東南アジア地域より迷チョウとして日本に飛来するものが多く、現在まで日本、とくに南西諸島で発見されたものはマルバネルリマダラなど17種にのぼる。(ニッポニカ)

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 朝から一冊の文庫本を探している。二時間たっても見つからない。日高敏隆著「チョウはなぜ飛ぶか」(岩波少年文庫)。昨日付けの神戸新聞、このアサギマダラの写真を見て、胸がどきどきしていたのです。この「旅するチョウ」の生態を追いかけている人は実にたくさんいるそうです。なんと、数千キロも飛翔する。このチョウに代表される「ちょうちょう」の不思議、あるいは神秘を解き明かそうとして、少年時代から取りつかれていた、チョウ探求の第一人者が日高さんでした。彼については、どこかで触れていますが、亡くなってもう十年余になります。日高さんのものは何かと読んでは教えられたり楽しんだりと、いい経験をしたと、感謝しているのです。ぼくには、昆虫に向かう興味が人一倍に優れていなかったのは、今から見れば悔しいことでもあり、残念という気もしてきます。でもささやかではあれ、セミやトンボやチョウを追っかけて、「今日はどこまで行ったやら」という少年時代を過ごしたことは、しかし、今になって幸福でもあったと感じています。(「蜻蛉釣り今日はどこまで行ったやら」 江戸時代の俳人、加賀の千代女の作とされています)

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 拙宅の庭といっても、実に雑然として木や花や草が勝手に育っているし、その周囲は、前方(南側)を除けば、ヒノキとスギと孟宗竹の林です。鳥類も昆虫類も、さらには猛禽類やその他、どう猛な(と思われている)イノシシや蛇やモグラなど、好き放題に林野を荒らし、拙宅の庭にも入り込んできます。ごくたまには雉(きじ)が遊んでいたりしますから、年中賑やかな環境であると言えそうです。その中でも、四六時中やってくるのが「ちょうちょう」です。詳しくは知りませんが、おそらく十種類は超えるものがやってきては、ひらりひらり、ふわりふわりと、空中を「自由自在」に飛んでいます(と思いたくなります)。それを密かに、時間をかけて狙っているのが猫たちです。図鑑を手許において、あれはなに、これはなにという趣味がないのは、こういう時には悔しいのですが、いろいろなチョウが上になり下になりして「遊んでいる」風景は絵にもなり、写真にもなるでしょう。年中何かしら、庭木は花をつけているので、チョウが日参するのが習いとなっているのです。(勝手に、あちこち飛んでいるのではなく、必ず目的を持っているというのは、実に不思議です。色の識別が可能だと言われています。もちろん、雌雄の区別もつけている、凄いことです。ある点では人間を越えている)あるいは幼虫があちこちに出現するのも見かけます。時には室内の畳の上にも、のそりのそり。植木の葉の上にはたんまりと卵を産み付けています。

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(アサギマダラの飛来地、大分県姫島(左)、アサギマダラの飛翔範囲(中・右))

 下に出したのは、日高さんの「訃報」記事です。ぼくは、自分でまともに「研究」したという分野はありません。まったくの素人(ジレッタント)として、一貫して「素人の関心」を持ち続けてきました。そのような姿勢で、日高さんの書かれたものや発言に注意をしてきたものです。他人の訃報など、縁者でない限りは無関心を装うのを常としています。しかし、かりそめにも「学恩」を蒙ったという意味では、無関心でおられないという実感も強くあります。それ故に、「訃報」に加えて、さらに蛇足を承知で、何かを書きたいのですが、「猫を病院」に(ワクチン接種、二人です)連れて行く日でもあり、雨が降りだしそうな気配でもありますので、今はここまでにします。用事を済ませて、時間があれば、書き加えたいと思います。(それにしても、病院行きを察知したのか、出かけたまま帰ってこない。生後半年にもならないのに、一晩家に帰らないこともしばしば、不良ネコです。ただ今、十一時半過ぎ。病院は十三時(午前の部)までです。間に合わないかも)(雑用を済ませて帰宅。ただ今三時半過ぎ、不良ネコは、まだ遊びに夢中なのか、野原や林で何をしているのか帰ってきません。多分午後の部(五時まで)も無理。明日は休診日。あほらしくなるほど、半年にもならない猫たちにふりまわされています)

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日高敏隆さん死去 チョウはなぜ飛ぶか。ネコはどうしてわがままか。いずれも先日亡くなった動物行動学の草分け、日高敏隆さんが書いてきたエッセー集の題名だ▼文庫などが書店に並んでいるので読んだ人も多いだろう。生き物の行動観察を通して、自然界の営みの不思議さがタイトルの響きのように軽やかで平易につづられている。読後に、さわやかな幸福感が残る▼本紙のコラム「天眼」では10年以上も健筆を振るった。読み返すと、地球環境問題への言及が多い。問題の根源は「自然を支配して生きようとしてきた人間の生き方(人間文明)にある」(2008年1月19日付)とし、効率を重視する人間の価値観を変えていこうと説いた▼その考え方を、日高さんは単なる環境保護ではなく生活の向上もあきらめない「未来可能性」と名づけた。自ら初代所長を務めた総合地球環境学研究所(京都市)で、その理念を実践する研究プロジェクトを立ち上げた▼京都大を退官するとき江戸っ子の日高さんに里帰り話も持ち上がったが「関西には学問をする風土がある」と見向きもしなかった。滋賀県立大学長を引き受けて後進育成に力を注ぎ、京都市青少年科学センター所長として子らに科学の面白さを語った▼数々のエッセーそのままに温かで軽妙洒脱(しゃだつ)な人柄だった。取材の折には本題より脱線話が楽しみだった。最後となった24日付朝刊の「天眼」をしみじみ読んだ。(京都新聞「凡語」・09/11/25)

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◎ 日高敏隆【ひだかとしたか】1930-2009=昆虫生理学者・動物行動学者。東京都生れ。東京大学理学部動物学科卒業。初め昆虫を材料とした生理学的研究(昆虫生理学)を行い,次第に動物行動学に進んでいく。東京農工大学教授,京都大学教授,滋賀県立大学初代学長を歴任し,京都大学名誉教授。1973年から日本昆虫学会会長を務め,1982年の日本動物行動学会創設に伴い初代会長となる。主著として《チョウはなぜ飛ぶか》《ネコはどうしてわがままか》《動物と人間の世界認識》《人間はどこまで動物か》などがある。(ニッポニカ)

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● 化身(けしん)=がかりに現した姿をいう。サンスクリット語ニルマーナカーヤnirmāakāyaの訳。変化した身体の意。変化身(へんげしん)ともいう。仏の三身(法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、化身(けしん))の一つで、仏が生きとし生けるものを救済しようとして、その生きものと同じ姿をとったものをいう。教化すべき人々の能力や素質に応じて現れる身体という意味から、応身(おうじん)とも漢訳される。/ 英語のインカーネーションincarnationの訳語としての広義における化身の概念は、神や仏、あるいは超自然的、超人間的存在が、ある目的のために、一時的ないし継続的に人間や動物などの形相(けいそう)をとってかりに姿を現したものの意。キリスト教では、イエスは人間救済のための神の化身とみなし、インカーネーション(託身(たくしん)、受肉(じゅにく))と称する。(ニッポニカ)

● け‐しん【化身】=〘名〙① 仏語。仏の二身(法身・化身)、または三身(法身・解脱身・化身あるいは法身・応身・化身など)の一つ。仏が衆生を救うために、それぞれに応じて人や鬼などの姿で現われたものの一つで、釈迦仏などをさす。応身・応化身・変化身・化仏などと呼ばれることもある。〔解深密経‐五〕② 仏語。転じて、菩薩や鬼神、高僧などが人などの姿で現われたもの。※霊異記(810‐824)中「是れ化身の聖なり」※高野本平家(13C前)六「件の入道はただ人にあらず。慈恵僧正の化身(ケシン)なり」③ 歌舞伎などで、妖怪変化のこと。また、これに扮(ふん)する時に用いる隈取り。(精選版日本国語大辞典)

「仏が生きとし生けるものを救済しようとして、その生きものと同じ姿をとったものをいう」「仏が衆生を救うために、それぞれに応じて人や鬼などの姿で現われたものの一つ」「インカーネーションincarnation」というのなら、さしずめ「アサギマダラ」は、それではないでしょうか、チョウを見ると、ぼくは無性に心持がゆったりするのです。イラついたり、怒りに襲われることは、生きている限りなくならないもの、それならば、「こころに、いつもちょうちょうを」といいたくなるのです。おそらく、ぼくの家の貧しい庭には、まだこの「化身」は姿を現してはいない、と思う。いや君が怒りに襲われ、冷静さを失ったた時に、きっと静かに、このチョウは遥かな彼方から「まだまだダメだ、青の男は」と、一瞬にしてみて取り、そのまま姿を消してしまったに違いない、そんなことがあるいは何度もあったのかもしれない。ぼくの短気が、その姿をとらえそこなってきたのでしょう。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)