村がなくなっても、「村八分」は残る

【資料写真】水田が広がる曽我谷地区

 村八分されたと提訴 「あいさつ無視、ごみ回収されず」 京都府南丹市園部町の曽我谷地区に住む男性が、地元の集落から村八分のような扱いを受けたとして、同地区などに対し、区民であることの確認や慰謝料など340万円の支払いを求める訴えを21日までに京都地裁に起こした。/ 訴状によると、同地区は南丹市区設置規則によって設置され、39世帯ほどが暮らす。男性は1975年に結婚し、同地区に住む妻の両親と養子縁組をした。83年に長岡京市から同地区に移り住み、消防団長や農家組合長などを歴任したが、2001年に離婚、妻の両親とも離縁した。

南丹市園部町の曽我谷地区

 男性はその後も地区で暮らしているが、道であいさつしても住民から無視され、自分が出したごみだけが回収されなかったり、地区の行事連絡や市の配布物が来なくなったりした。また、土砂災害警戒区域などが多い同地区に対し、市が各戸に防災無線を無料設置することになったが、同地区は男性だけを除外して市に申請したため、男性宅には設置されなかったとしている。/ 男性側は、組織ぐるみで男性をあたかも存在していないかのように扱って孤立させる行為は、人格権を侵害する不法行為に当たると主張している。/ 曽我谷地区側の代理人弁護士は「現時点で何もコメントできない」としている。(京都新聞・2021/09/21)

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 記事だけでは詳細は分かりませんから、この件について無責任なことは言えません、また、言おうとは思いません。結婚相手の両親と養子縁組し共に暮らしていたが、離婚したので縁組も解消、そのまま同地に住んでいたとありますから、「養子縁組」「結婚」という、二つの地縁が切れたから出て行けというのかどうか。あるいは離婚やその他の関係から、村人とうまくいかなくなっただけかも。「村八分」とされていますが、それは「ことば」だけのことで、実際は「いじめ」だったかもしれません。確かに、歴史に見られる多様な「村八分」には「いじめの要素」はじゅうぶんに備わっているし、そう言ってしまっても問題ないのかもしれませんが、そうなると「村八分」は不当なもの、旧弊の最たるもので、よくない悪習ということになり、逆に、それが長い間継続してきた歴史的な経緯や理由(肯定的側面)が見えなくなるのではないか。ぼくの率直な感想です。

 それとそっくりではなく、似て非なる者に「魔女狩り」という悪習が西洋には見られました。「魔女裁判」ともいわれてきたものです。しかも、今もしばしば起こっている学校を始めとする集団に見られる「いじめ」などには、どうしても「魔女狩り」的な要素が出てきていると、ぼくは感じているのです。「いじめ自殺」が後を絶たないのは、存在する余地を残さないような、抑圧や排除が働くからで、そこまでくると、「魔女狩り」と異ならないものになるのではないでしょうか。まるで「息の根」を止めるような、悪質な状況がみられるのは、慣習としての「村八分」ではなかったのではないかと、ぼくはまず考えてみます。村人の誰かを、死に追いやるような「制裁」は、そんなに加えられるものではないからです。地縁血縁でつながっているっ社会集団の特性から、ぼくはそのように考えている。多くの「いじめ」事象の場合、血縁や地縁関係は絶無か、あるいは稀薄です、だから惨(むご)いことも起こってしまうのでしょう。

 京都の園部に起った「村八分」事件、「男性側は、組織ぐるみで男性をあたかも存在していないかのように扱って孤立させる行為は、人格権を侵害する不法行為に当たると主張している」と報道されています。おそらくこれまでの類似の事案の裁判・判例からすると、これを訴えた側の主張が認められるとも思われます。今日でも地縁・血縁で結びついた「社会集団」は、一面では結束も強く、利害関係も密接に結ばれていますから、集団の秩序を乱す、あるいは壊すような行為をする成員に、なんらかの「制裁」を加えることはあるでしょうし、それを受け入れないと、さらに強い制裁として「村八分」に移行するというのです。いずれにしても、この段階で、軽々に「黒白」の判断を下すのは不当でもあります。裁判の行方を見たい。

 じつは、ぼくもこの地に移住してきた際に、自治会(町内会)に入るつもりで、「会長」にその旨を伝えていました。ゴミの収集や草刈りなど、なにかと町内でやる作業もあることでしたから、最低限度の責めを果たすつもりで、入会の旨を申し入れしていた。これが想定外の展開になり、結局、ぼくは今のところ未入会のまゝになっています。なにしろ、戸数が少なく、しかも、古くから住んでいる人たちが構成していますから(実際の戸数は五十戸くらいか、あるいは百戸くらい)、なにかと「掟」「規則」のようなものがありました。地域の神社(江戸時代に創建されたという「白幡神社」という)の氏子になるというのが条件のようで、あるいはそうではなかったかもしれないけれども、神社の維持・管理に会員が参加し奉仕しているのだから、氏子になるのは当然という雰囲気だった。その他もろもろ、ぼくは面倒になって、入るのを断った。「いじめ」に遭ってはいないと思いますが、実際のところはどうなんでしょうか。(ここでは書くのもはばかられるようなこともありましたよ、それは内緒)

 「いじめ」は普遍的です。それを肯定するのではなく、よくないものと認めてはいますが、起ってしまうという意味です。二人の場合だって、思うようにはいかない。夫婦を見るといい。ぼくなんかいつも「いじめられて」いるようなもの。制裁を受けていますよ。これが三人になれば、文殊の知恵ではなく、多数派が形成されるのです。さらに数が増えれば、体制ができる、つまり体制派と反(非)体制派、もっと大きな集団になれば、権力者と反権力者の対立が生まれます。少数対多数、あるいは多数派対少数派に。多数は必ずしも権力を持つとは限りません。ここに「民主主義」の問題が生まれるのでしょう。これについては、いろいろなところで拙論を振りまいています。

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*村八分(むらはちぶ)村社会秩序を維持するため,制裁として最も顕著な慣行であった絶交処分のこと。全体として戸主ないしその家に対して行なったもので,村や組の共同決定事項に違反するとか,共有地の使用慣行や農事作業の共同労働に違反した場合に行われる。「八分」ははじく,はちるのとも,また村での交際である・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の 10種のうち,火事,葬を除く8種に関する交際を絶つからともいわれ,その家に対して扶助を行わないことを決めたり,村の共有財産の使用や村寄合への出席を停止したりする。八分を受けると,共同生活体としての村での生活は不自由になるため,元どおり交際してもらう挨拶が行われるが,これを「わびを入れる」という。農業経営の近代化に伴い,各戸が一応独立的に生計が立てられるようになってからは,あまり行われなくなった。(ブリタニカ国際大百科事典)

*魔女狩り(まじょがり)(witchcraft trials)=中世末期以来,ヨーロッパのキリスト教会が行った,悪魔に魂を売った者(魔女)に対する徹底的弾圧 “魔女”とは,キリスト教の信仰を捨て,悪魔から得た魔力で人間社会に害毒を与えると信じられた者のことで,男も含む。魔女信仰の起源は,キリスト教以前の土俗的原始宗教にあり,教会はその初期には妥協的関係にあったが,教会内部の異端運動の激化に伴い,14世紀以降4世紀間にわたり,おびただしい犠牲者が“魔女”として裁判で血祭りにあげられ,特に宗教改革が起こった16〜17世紀,新旧両派によって行われ最盛期となった。しかし,1692年アメリカのマサチュセッツ州の「セーラムの魔女事件」を最後に,魔女狩りは急速に衰えた。(旺文社世界史辞典三訂版)

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 物好きを自称しているわけではありませんが、ぼくはこの手の「村八分」行為や事件のニュース(記録)を実にたくさん保管・保存しています。思い付きで取り出すと、以下のような事例が出てきました。「村八分」は江戸時代以来の慣習というようですが、もっと古くから、あるいは縄文時代からあると言っても、あながち的外れではないでしょう。集団があれば、きっとそこには対立、抑圧、排除などという力学が働くからです。排除の例としては、おサル集団の「孤立(はぐれ)猿」などに、あるいは淵源を持つものかもしれません理由はいろいろで、気に入らない、言うことを聞かない、弱い者いじめをする、秩序を乱すなど。集団から排除されることは「死」を意味しますから、やがて「詫び」を入れて、仲間に戻ることもあったでしょう。村八分の解除です。これがうまくいかないと、「追放」というか「逃散」ということになるのです。

 「村八分」がなんであるかを知らなくても、つまりは街中でも学校でも企業内でも、「村八分」は起りえます。街や学校や企業も、この社会にあっては「一つの村」ですから、秩序維持のためには「制裁」は不可欠なんですね。保育園や幼稚園でだって、「村八分」は生じるでしょう。この名称はともかく、「いじめ」は個人間でも集団内でも起こります。これは「闘争本能」なのか「自己保存本能」がなせる業なのか。さらには「優勝劣敗」「適者生存」の例証でもあるのか。考えてみれば、つまらないとも言えますが、まかり間違えば「命を奪う・奪われる」ことにもなるのですから、仇やおおろそかにはできない問題です。

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朝日新聞・2007/07/06)

 「村八分」に賠償命令…新潟地裁支部判決
 集落の行事への不参加を理由に、回覧板を回さなかったり、ゴミ収集場を使わせなかったりして“村八分”にしたとして、新潟県関川村沼集落(36戸)の住民11人が区長ら3人を相手取り、計1100万円の損害賠償などを求めていた訴訟の判決が27日、新潟地裁新発田支部であった。松井芳明裁判官は「(原告は)生活上の不便を感じたのみならず、精神的苦痛を被った」として、区長ら3人に計220万円の支払いと、“村八分”行為を即刻やめるよう命じた。/ 判決によると、原告住民は2004年、毎年8月に開かれている「岩魚(いわな)つかみ取り大会」への不参加を、不明朗な会計処理や多忙を理由に区長らに申し出た。これに憤慨した区長や実行委員長らは「集落のすべての権利を放棄し脱退したものとする」と通告、同年6月1日から、〈1〉ゴミ収集場の使用禁止〈2〉山菜などの採取・入山禁止〈3〉広報紙や回覧板を回さない〈4〉違反者には罰金3万円――などの“村八分”行為を続けている。((読売・07/07/28)

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 試される憲法 『村八分事件』教訓生きず  竹沢尚司さん(73) 埼玉県川越市 出版業

 一九五二年、静岡県上野村(現富士宮市)で参院補選にからむ不正選挙を全国紙に投書し、告発した高校生の少女がいました。村の世話役格が投票用紙を集めて替え玉投票させていたというのが不正の実態でした。/ 告発で関係者は逮捕されましたが、少女の一家は「村人を売った」として「村八分」(火事と葬儀以外のかかわりを拒否されること)にされてしまったのです。過酷なその実態は報道を通じて社会問題化し、映画になりました。いわゆる「上野村村八分事件」です。 / 少女より一つ年上で、当時高校を出て働きながら学んでいた私は、この事件を知って大きな衝撃を受けました。仲間ともとんでもない事件だと話し合ったものです。実際に、多くの若者や心ある人が少女へ激励の手紙を送ったといいます。/ 終戦から七年がたち、軍国教育は完全に否定され、民主主義を高らかにうたう教育が熱っぽく行われていたころです。その影響を受けて、少女は悩みながらも正しいことをしたのでしょう。だが、素直な若者の心とは裏腹に、大人たちの間には抜きがたい封建的因習と人権軽視の感覚が残っていたのです。/ この五十五年前の人権状況が、現行憲法に沿うほどにまで改善されたとは、私には到底思えません。むしろ悪化しているのでは-。その代表例は「いじめ」。いじめも村八分も陰湿でなかなか表面化せず、告発者を責める傾向も似ています。/ いじめが学校だけでなく企業社会まで浸透し、関連する事件が続発しているのは、憲法の人権尊重理念が国民にとって血肉化していないことの証拠ではないでしょうか。/ 人権の確立なくして近代社会というものが成立しないとすれば、まずは憲法の理念に沿うまで人権状況を改善していくことが急務です。その改善なしに憲法を変えることは、ただの「退化」にほかならないと思います。(東京新聞・07/05/03)

(註 この「上野村事件」に関しては、どこかの雑文で扱っています)

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 「村八分、まかりならん」菰野藩のお裁き、意外に民主的

 時は江戸後期、転入者を「村八分」にして追い出そうと訴えた村人たちに、菰野(こもの)藩(現在の三重県菰野町)が下したのは、逆に重い処罰だった――。小さな藩で起きた訴訟についての古文書を、名古屋市博物館元学芸員の種田祐司さん(67)が読み解いた。「首謀者に下した『追放』は死罪に次いで重い処罰」といい、徒党を組んでのいじめや差別に、厳しい「お上の裁き」が下されたことが読み取れる。/ 「諏訪村入作喜七一件綴(つづり)」は、菰野町の旧家・横山家の土蔵で見つかった古文書に含まれていた。1822(文政5)年、菰野藩の目安箱に入れた奉行所あての訴状、被告側が出した弁明書、藩の裁決文書など、訴訟に関する一連の文書が残っていた。種田さんが判読して現代文に直し、解説を加えた。/ 訴訟は、当時の諏訪村の「百姓一同」26人の連名で起こされた。近くの村から引っ越してきた喜七を「村の風儀になじまない」と主張し、元の村に戻らせるよう求めている。それがだめなら、村人全員を別の村へ移住させよと、藩に難題を突きつけている。/ 喜七は、横山家の9代目久左衛門の息子で、諏訪村に持っていた土地に移住したが、村人と折り合いが悪く村八分にされていた。(以下略)(朝日新聞・2020/04/11:https://www.asahi.com/articles/ASN484560N41OIPE01K.html?iref=pc_rellink_03)

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 《 明治以降はね、村八分っていうでしょう。あれは二分残すってことで、ヨーロッパの魔女狩りみたいに殺してしまうのではないですよ。だから村八分は封建的だっていうけど、明治以降の全体主義のほうがはるかに凄まじいですね 》(俊)

 「村八分」という言葉は江戸期から使われているらしい。「村八部」説もあります、が、いずれにしても村落秩序維持に欠かせない規則(約束事・村の掟)を破る者に対する「制裁・sanction」の一つでしょう。「俊」氏は明治以降と言われていますが、どうでしょうか。ともかく、この指摘で大事だと、ぼくが考えるのは「全体主義」という語です。「いじめ」は、この「全体主義」に近いのではないか。「異論は許さない」「反論するな」というもので、「全体があるから個が存在するという論理によって国家利益を優先させる権力思想、国家体制、またそうした体制を実現しようとする運動の総称」(田中浩氏)というのは政治的定説に近い。

 いじめる側が「絶対的優位」にあり、恐怖心を掻き立て、服従を強いる。まるで「暴君の父親が支配する家庭」のようで、家族はひたすら隷従するばかり、これこそ「家族全体主義」というものでしょう。「いじめ」は「教室全体主義」ともいうべきで、一面では、暴力的権力行使の場でもあります。ここでいう「全体」は、いじめる側が支配する範囲を指します。だからとことん追い詰め、ついには(いじめられる者の)存在の抹殺にまで及ぶことがあるのです。「いじめ」は歪んだ、あるいは偏頗な「(小さな)全体主義」です。この島における「治安維持法下の虐殺」などはその典型。人民は、国家権力に対して「無条件降伏」状態でした。くどいようですが、別の表現をします。教室は一見すると、「村」のようなものでしょう。でも、村が紡いできた歴史というか、住民がそこに定住する土着性というものがありません。したがって、「村八分」的なものは起りますが、それはまた別の「いじめ」の発現と見たらどうでしょう。

 学校や企業などの集団における「いじめ」に「全体主義」の傾向・風潮を認めたい気が、ぼくには強くするのです。今から見ても、「村八分」は必要悪だったとも言えそうです。もちろん、無条件に認めるものではありません。秩序を乱す者を放置すると、村社会の崩壊(村民の共倒れ)をきたしますから、必要悪なんです。現在、村がなくなっても「村八分」の形式や要素は残存しています。それを「町八分」「教室八分」「市八分」などといわないのは、交際を断つ「二分(火事と葬儀の際の付き合い)」にあたるもの、さらにはいえば、「村内における付き合いのすべて(十分)」に相当するものが取りきめられていないからです。特に教室は、村のように永続することを前提とされた集団ではないということ、それがその集団における「暴力」を刹那的で残酷なものにしているのではないでしょうか。(この部分は、さらに考察を重ねます)

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