実存主義はヒューマニズムである

<あのころ>サルトル、実存主義を強調 ボーボワールと来日

 1966(昭和41)年9月22日、初来日したフランスの実存主義哲学者ジャンポール・サルトル(左)と、パートナーの作家シモーヌ・ド・ボーボワールが東京・日比谷公会堂で講演。「嘔吐(おうと)」などで知られるサルトルは、状況に自らを投入することが知識人の役割と強調。ボーボワールは女性問題を論じた。(共同通信・2021/9/22 )

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 大学に入った頃、さまざまな著名人が来日した。ぼくは、そのどれにも関心を持ったとしても、講演会や集会などには出向かなかった。サルトルやボーボワールの場合も変わらなかった。両人とも、話題の人でもあるし、たがいがパートナーとして認め合っていた、「飛んでる二人」だったし、どちらも、すでに何冊ものベストセラーを出していた。おりしも「実存主義」のブーム(時代)でもあったのです。友人は大騒ぎをしていたが、ぼくは煽られることはなった。同調しなかったのです。ぼくは、たしかに物臭人間だったから。

 来日前に、サルトルは「ノーベル文学賞」の受賞を辞退していましたし、その前には「飢えた子どもの前で文学に何ができるか」(「…前で、『嘔吐』は無力である」)という問題を提示して(一部の専門家の間では)騒ぎになっていた。後年になって、ぼくはこの一種の「文学論争」を振り返って、いろいろなことを考えた。飢餓に対して、哲学が、文学が芸術が、…役に立つのかなどという設問自体、不遜でもあったし、今だったら、それは笑止千万だと、ぼくは言うでしょう。若気の至りで、ここに「文学や哲学の難問」が横たわっていると、きっと思っていたのです。「飢えた子」になすべきは、まず食料を準備すること、それだけです。実存がどうだ、シューレアリスムがなんだと言ったところで、そんなもので、死に瀕している、ただの一人も救うことはできないのです。学者や画家である前に、ぼくたちは「一人の人間」である、そんな当たり前の事実を、若気の至りで踏み外しかけていた能天気な時代をやり過ごして以来、ぼくはずっと、胆に銘じて噛みしめてきたのです。

 「本質」も「実存」も、言葉でどれだけのことを言ったって、「死」を前にして、為すところを知らないのです。世界や人間を解説し説明することは、いくらでも詳しくできるでしょうが、それだけである、それだけでしかないということです。学問とか芸術の価値を否定はしませんが、それは尋常な状況における「ある種の余裕」「暇潰し問題」であるのかもしれません。このように言って「哲学問題」を否定するのではありませんし、その有効性を認めないのでもないのです。こんな問題は、あるいは大学生だから「考える暇」が与えられているという意味では、大いに議論したり、考えたりする価値はあるでしょう。しかし、あくまでも、頭の中の作業だし、それで空腹が満たされるものでもないことを忘れるべきではないでしょう。学生時代の流行り病のように罹患しただけだったのは幸いだったかどうか、それは今になってもわからないことです。

 サルトル来日の前後に、同じフランスからガブリエル・マルセルが来日しました。講演会が近くで催され、後輩に強く誘われましたが、ぼくは行かなかった。マルセルについても、いくらか読んでいたので興味があったが、結局は、話を聞かないままでした。彼の哲学などに関して、ここで何かを言うのは気が重いですね。なぜだか、よくわかりません。青春時代の煩悶など、ぼくには微塵もなかったが、人並みに哲学にかぶれていたことは確かだったし、来日した哲学者に興味を持っていただけに、行く気にならなかったのは、今でも奇妙だったという思いが残っています。軽薄であり、優柔不断でもあるということだったのでしょう。

 彼の著書はたくさん読んだ。「存在と所有」「人間 自らを欺くもの」「道程」などなど。それらの記憶はほとんど消えてしまいました。消えてしまったと言っても、ぼくの中には幾分かは余韻として、あるいは余録として残存しているかもしれません。若いころ、辞書を片手に読み耽った人たちは、ぼくにとっては、瞬間ではあったにせよ「異質との共存」であったことになります。そこから何を得たか、学んだか、一つ一つ、「これです」と言えないくらいに、ぼくの深部に沈められているのかもしれません。読書の記憶は、殆んどがそのようなものになっているのです。

 若いころから、ぼくは軽々しいところはあったにしても、人が騒ぐから自分も、という人間ではなかったようでした。簡単に言えば、有名タレントやアイドルが来たから、いそいそ出かけようという、そんな付和雷同、野次馬根性が気に入らなかった。とにかく、時代は「実存主義」でした。面倒なことは言いませんが、生まれて働き、歳をとって死ぬ、これが人生の実相であり、それをなんというかは別の問題、「実存」と言おうが「現存在」と言おうが、実態に変わりはないのです。おそらく、若いぼくにはこのような、一種の「諦観」染みた人間観があったのかもしれない。宗教に関しても同じで、問題は、宗教を理解したり、特定の宗旨を信仰することではなく、どれにもとらわれない、素朴な生き方をこそ、ぼくはまっとうしたいという願いがあったのだろうし、それは今もなお強く残っているのです。山登りに例えるのも芸がなさすぎますが、頂上への登り路はいろいろです。自分の足どり、歩幅に合わせて登るほかにないのではありませんか。それは競争なんかではないんです。

 「実存主義はヒューマニズムである」と、サルトルは言った。なんですかね、それは。一面では、若さは向学心旺盛とか野心的といわれて称えられることもあります。しかし反面では、無知そのものが熱気を以て膨張しているともいえるわけで、「実存主義はヒューマニズムである」とサルトルだか誰だか知らないが、そんな意味のことを言ったとして、「さすがはサルトルだ」「実存主義は尊いね」と、わけもわからずに無知をさらけ出していたのですから、我ながら恥ずかしい。生身の人生の良質の部分は、「人助けに尽きる」と、フランスの高名な哲学者に教えてもらわなくても、よかったのです。玄関先にも街中にも、ところかまわず、身の回りに「人助けが何より、という実存主義」は転がっていた。 

 でも、フランス直輸入の「実存主義」といえば、老若男女問わず、寄る者触る者、軒並みに感染していたのですから、さしずめ「(60年代)旧型インフルエンザ」だったといえます。半世紀以上も前のこと、空港の防疫体制も無きに等しかった。島社会の庶民は、このウィルスに対して免疫ができていなかったし、自ら願って感染した学者などは、あろうことか、大いにそれをばらまいていたのですから、パンデミックは、「実存ウィルス」にとっては朝飯前だったでしょう。(余計なことですが、彼等を招聘したのは、彼の全集を出版していた出版社と、彼の翻訳をしていた研究者が所属していたK大学でした)ぼくは、幸いに感染はしなかった、あるいは無症状だったが、若さの傍若無人ぶりにウィルスは退散したのかもしれません。やがて、ぼくはこの方面の免疫力をつけるために医者にも薬局にもいかず、寄席に通い出しました。落語がぼくには、格好のワクチンだったと思う。このワクチンは料金は取られましたが、注射はなかった。

 それからは来る日も来る日も、志ん生に明け暮れた。すでに当時は、志ん生のいない落語界でしたから、ぼくは録音(レコードやカセット)で聴き漁りました。「実存主義はヒューマニズムである」という小賢しい哲学はそこにはなかったが、心底、普遍的な「人の道」が、有無定かならず、きっと流れていました。ぼくは中でも「文七元結(ぶんしちもっとい)」と「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」に惹きこまれました。「困った人がいたら、後先考えずに助けるんだい」「失くしたのが五十両なら、わけも何も聞かないで、これをもってけ―」と、商売道具を質屋から受け出し、義理の悪い借金をすべて返す約束で、実の娘を「吉原」のお茶屋に預けて、ふところにした「五十金」だった、それを身投げ寸前の大店の手代に「投げつけて逃げた」という、無鉄砲極まりない左官の長兵衛さん。その不合理な直情径行ぶりに実存主義も逃げ出したくなるような「バカ人情」横溢の人物ですね。もちろん、彼等は落語の主人公です。こんな「野郎」「与太者」が実際に居ると世の中なんと明るいだろうという、それは人間同士に通い合う「信頼と希望の哲学」でもあったように、ぼくは受け止めていました。落語の世界は、本当に「情に掉させば流される」という、庶民の育てた「実存哲学」を地で這っている人々が住む人情界でもありました。「情の海で溺れて結構、ああ結構」、そんな連中に、「観念の海で溺れかけていた」ぼくは救われたと言いたいくらいのものでした。

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● じつぞん‐しゅぎ【実存主義】=〘名〙 (existentialisme の訳語) 第二次世界大戦直後、フランスのサルトルによって造語された思想運動。人間の実存、つまり理性や科学によって明らかにされるような事物存在とは違って、理性ではとらえられない人間の独自のあり方を認め、人間を事物存在と同視してしまうような自己疎外を自覚し、自己疎外から解放する自由の道を発見していこうとする立場をいう。ドイツのハイデッガー、ヤスパース、フランスのマルセルは、哲学によってこの企てを試み、フランスのサルトル、カミュは、文学作品をとおし、また、後期のサルトルは、政治への参加によって、この企てを試みている。(精選版日本国語大辞典)

● サルトル【Jean‐Paul Sartre】1905‐80=フランスの作家,哲学者。第2次大戦後の世界の代表的知識人。パリで生まれ,パリで死去。早く父を失い,母の実家に引き取られる。3歳のとき右眼を失明。12歳のときに母が再婚。サルトルは養父との折合いが悪く,その少年時代は幸福とはいえなかった。高等師範学校に学んだころの彼の周囲には,P.ニザン,R.アロンなど,後にそれぞれ一家を成した友人たちがいた。とりわけ24歳のときに知り合ったシモーヌ・ド・ボーボアールは,最初は恋人として,後には思想上の同志として,生涯をともにする唯一の伴侶となった。(精選版日本国語大辞典)

● ボーボワール(Simone de Beauvoir シモーヌ=ド━)= フランスの女性小説家、評論家。哲学の教師を経て「招かれた女」で小説家としてデビュー。実存主義の哲学者サルトル伴侶。小説に「他人の血」「レ‐マンダラン」、膨大な自伝四部作「娘時代」ほか。評論に「第二の性」がある。(一九〇八‐八六)(精選版日本国語大辞典)

● ガブリエル マルセル(Gabriel Marcel)1889.12.7 – 1973.10.8=フランスのカトリック思想家,哲学者
元・パリ大学教授,元・モンペリエ大学教授。パリ生まれ。1910年哲学教授資格取得。’1929年カトリックに入信。39〜40年パリ大学教授、’41年モンペリエ大学教授を歴任。又一方で文筆活動をおこない、劇作、詩、評論活動を通じて欧州思想界を指導し、その思想はキリスト教実存主義の立場をとる。’48年アカデミー文学大賞を受賞。’52年人文科学アカデミー会員。’57年、’66年来日。著書「形而上学日記」(’14〜23年)、「存在と所有」(’34年)、「旅する人間」(’44年)、「存在と神秘」(’50年)、戯曲「聖像破壊者」(’23年)、「壊れた世界」(’33年)、「密使」(’49年)等多数。(20世紀西洋人名辞典)

● 古今亭志ん生(5代) ここんてい-しんしょう =1890-1973 大正-昭和時代の落語家。明治23年6月5日生まれ。2代三遊亭小円朝,4代橘家円喬(たちばなや-えんきょう),初代柳家小さんらにまなぶ。改名16回をへて,昭和14年5代志ん生を襲名。天衣無縫といわれる芸で,戦後は8代桂文楽とならび称される。「火焔(かえん)太鼓」「三枚起請(きしょう)」などを得意とした。昭和48年9月21日死去。83歳。東京出身。本名は美濃部(みのべ)孝蔵。【格言など】「今に見てろッ」てえ気持ちがあるから(中略)ですからこんなドン底の生活の中だって,メソメソしたところはない。家ン中ァ案外落ちついたものでしたよ(「私をささえた一言」)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。