おばあさんではありません

 【北斗星】詩人の石垣りんさん(1920~2004年)に「かなしみ」という詩がある。書き出しは「私は六十五歳です」。転んで手首を骨折したと嘆き、亡き父母にもらった体を傷つけ「ごめんなさい」とわびる。その結びは「いまも私はこどもです。/おばあさんではありません」▼他人から「母さん」「奥さん」と呼ばれることに違和感がある―。本紙「声の十字路」欄に掲載された投稿が反響を呼び、共感したとの投稿が相次いだ。関心の高さを受け、くらし欄でも何度か取り上げた▼呼ばれる側が未婚、あるいは既婚でも子供がいない場合は嫌な気持ちになってしまうだろう。そもそも他人に見た目で勝手な判断をされる筋合いはない。親しみを込めた呼び掛けだとしても避けた方がいい▼声の十字路欄に昨年まで17年間連載の「おばさん事典」をさかのぼってみると、これが古くて新しい問題と分かる。筆者の小川由里さんは08年に「呼び方注意報」と題し「お母さん」という呼び方に対する腹立ちをつづっている▼14年には「おばさん」「おばあさん」の呼び方に怒りをぶつけた。「女性は自分では言うが他人にそう呼ばれるのは許せない」と実にきっぱりしている▼石垣さんの「おばあさんではありません」は自身でも認めないという強い調子。自分が何者かは自分で決めるという決然とした思いが伝わってくる。「母さん」「奥さん」などの呼び方に石垣さんはどんな感想を抱いただろうか。尋ねてみたかった。(秋田魁新報電子版・2021/09/19)

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 「お父さん」「旦那さん」と声を掛けられた男性はどうでしょうか。よくわかりませんが、ぼくの予想(あるいは印象)では、あえて抵抗しない人の方が多いような気もします。「母さん」「奥さん」と言われて「違和感」を感じる女性が増えてきたというのは、自己認識が進んだからというか、時代の波(世相)の表れかも知れません。くわえて、その「母さん」「奥さん」という呼称(?)に纏わりついてきた添加物に、あまり好感が持てなかったからではないか。ここにも男と女の時代意識の差異、自己認識のずれがあるのは、(言い過ぎになりそうですが)「男社会」「男尊女卑」の古い地層、あるいは「黴(かび)」のようなものに対して、女性が抱く一種の「嫌悪」が示されているとも言えそうです。

 「お父さん」とか「旦那さん」とか呼びかけられた時、ぼくは、まず返事をしない。しつこく聞いてくる人に対しては「ぼくは、君のお父さんじゃない」と、余計なことまで言ってしまう。どのように呼びかけられようと、大したことはないではないかという向きもあろう。それはそれでいい、でも、そう呼ばれたくない人がいるなら、止める方がいいに決まっています。これはいつも、不快感を伴って感じていたことですが、学校の教師が自分のことを「先生は、昨日ね、…」とかいう。あるいは職員会議で、先生同士が「先生、どうでしょうか」などと馴れあっています。ぼくはいたたまれない気がしました。

 ある会議(教師ばかりの集まり)で進行係をした際に、「ぼくは固有名(姓名)で呼ぶことにしていますので、ご了解してください。どうしても<先生>と呼ばれたい方はあらかじめ、そのように伝えてください」と宣言して始めた。いやなことを言う奴と思われたかもしれないが、特に文句を言う人はいなかった。それだけのこと。「先生」「社長」などと、呼ばれる方は悪い気がしないし、言う方も、カネがかかるわけでもないので連発するという状況が定着する。古い話になります。ぼくの友人が、教員組合の職員をしていた。毎年「役員」が交代するので、名前を覚えるのが面倒で、終いには、なにかあると「先生!」と呼ぶことにしたが、嫌味を言われたことはなかったと言っていた。みんな「自分こそは先生なんだ」と自覚が強かったんですね。これは作り話ですね、地方都市の「飲み屋」で、用事があって戸を開けた人が、「社長!」と呼びかけたら、客全員が振り向いたという、嘘みたいな話。いまなら「いよっ、CEO!」とでもいうのかしら。

 この事例と同じではなさそうですが、父親や母親が、子どもに対して自分を「お父さんは」「お母さんは」というのに対しても、ぼくは違和感という以上に不快感を感じます。「ぼく」「わたし」といえばいいじゃないかと。実は、このような呼び方や呼ばれ方に関する問題には、さらに深い事情があることを、ぼくは調べたことがありました。面倒は避けます。要するにすべては「役割」「地位」「身分」(それぞれの関係)を指して使う、この島の独特の「言葉の問題=文化」なんでしょう。それ(呼称)が本人(自分・わたし)と不可分に結びついているという感覚からくる、違和感であり、不愉快なんでしょう。父も母も、おばさん、おばあさんも、家族制度という社会集団の「地位」同士の関係を示す表現です。「長男」「長女」なども、叔父ー甥などもそうです。

 だから、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃんは、個人を表わす以上に、家族の中の序列というか、役割を指して言っているんですね。それに当たり前のように反応するのが習慣だった。このような役割(地位)が個人性よりも先に立つ(優位な)集団では、なかなか個人や個人性は育たなかったんだろうと考えられます。(これは七面倒くさい問題なので、後回しにしておきます。暇な折りに、一読してくださるといい)

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 コラム氏が紹介している、石垣さんの「かなしみ」を示しておきます。いかにも、りんさんらしいですね。(この詩と、「お母さん」、「奥さん」という呼称への違和感の問題とは、また別の問題です)

「かなしみ」  石垣りん

 

私は六十五歳です。

このあいだ転んで

右の手首を骨折しました。

なおっても元のようにはならないと

病院で言われ

腕をさすって泣きました。

『お父さん お母さん ごめんなさい』

二人ともとっくに死んでいませんが

二人にもらった体です。

いまも私はこどもです。

おばあさんではありません。

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 ついでに、と言っては無礼でもありますが、りんさんの詩をもうひとつ。ぼくの好むものでもあります。「秋」はどのような季節なのでしょうか。ぼくのような無骨な人間をも「もの想い」にさせる秋(とき)ではあるのです。この「旅情」は、一種のミステリーですね。

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 後回しにしておいた問題です。哲学者の和辻哲郎という人が書いた本に「人間の学としての倫理学」という、すでに古典になってしまったものがあります。若いころ、熟読してもよく楽しめなかったという経験がある書物です。その中に、ぼくたちの社会(集団)を考え、個人を考えるヒントになる部分がありました。その一部を以下に示しておきます。(こんな日本語の文章を読んでいたんです。理解するには無駄な苦労をしたと言えますね)

 《 元来我々の用うる言葉の内 anthropos, homo, man, Mensch などに最もよく当たる言葉は「人」及び「ひと」である。すでにシナの古代において、人は「万物の霊」あるいは生物中の「最霊者」であり、人の人たるゆえんは二足にして毛なきことではなくまさに「弁(あるいは言)を持つこと」(荀子、非相篇)であった。この二つの規定はギリシア人が anthropos に与えた規定と明白に合致する。日本人はその文化的努力の初期においてかくのごとき規定を有する「人」の語を学び、そうしてそれに「ひと」という日本語をあてはめたのである。だから anthropos について言われることは厳密にはただ「人」についてのみ言われることであると解しなくてはならぬ 》(和辻哲郎『人間の学としての倫理学』)

 「社会」ということば、あるいは「人間」ということばはどのような由来をもっているか。ひとが群れて集団をなす、それを「社会」というのだといえばそれですんでしまいます。でもそこから、さらに深く問題を煮つめていくことはむずかしいですね。あたりまえにうけとめてしまえば、あらためてそれに疑問をもつこともなければ、どうしてそうなんだろうという探求心もおこらないからです。

  《 しかしこの人という言葉も精密に見ればすでに anthropos や homo と異なった意味を担っている。それは「人」及び特に「ひと」が、おのれに対するものとしての「他」を意味するという点である。「ひと」の物を取るというのは anthropos の物を取ることではなくして「他人」の所有物を盗むことであり、「われひとともに」という場合には我れと Mensch とが並べられるのではなく自他ともにということが意味せられる。が、さらに他人という意味は不定的に世人という意味にまでひろげられる。「ひとはいう」とは man sagt と同じく世人はいうの意である。かかる用法においては「ひと」はすでに世間の意味にまで近づいている 》(同上)

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 じつに個性的な本邦初の国語辞書である「言海」(初版は明治二二年)を著した大槻文彦によれば「人間(ニンゲン)」という語は「ヨノナカ、世間」の意味で、それはまた仏教にいう六界の一つである「此ノ世界、人間界、人界」を指して使われていたものでしたが、いつしか「俗ニ誤テ人(ヒト)」になったというのです。(この「言海」と「大言海」は、ぼくの愛読書。まことに外連味(けれんみ)が効いています。一例を挙げる。「デモクラシーとは下克上のことか」、もう一例「文明とは西洋かぶれ」などと、図星を突いています。たった一人で三十数年かけて編纂した)

 人間と書いて「ニンゲン」と読むか「ジンカン」と読むかはともかく、そのもとの意味は「ヨノナカ、世間」だというのは面白いことです。いわれてみればなるほどとうなずけます。「人」ではなく、わざわざ人間と書くのですから、それを調べる学問は「交際術」なり「世間学」に当たると考えても間違いではなさそうです。(この場合には、ジンカンと、ぼくは読んでいる。和辻さんの「人間の学としての…」の場合も、ぼくはジンカンと呼んでいたが、それを可笑しいと言った人はいたけれど、なるほどと受け止めた人はいませんでした)

 「倫理学」はたしかに「世間学」でもあるのですから、「人」(個人)とはちがった使われ方をしていたと考えられるし、そう考えてもいいと、ぼくは思う。それでは「人(ヒト・ニン)」にはどのような含意があったかといえば、これも「言海」によりますと、「(一)動物中ニテ其最上等ニ位シテ、言語ト思想トヲ有スルモノ(二)世ノ中ノ人、世人(三)大君一人ニ対シ奉リテ、天ガ下ノ人。則チ、臣下(四)ホカノヒト、他人(五)オトナ。成人(六)俗ニココロネ、ココロダテ。性行」とおどろくばかりの多様な意味をもつことばだったことがわかります。

 つまり、「人間」といい「人」という、いずれのことばも、もともとは世間や社会、あるいは他人を指していたことだけは認められそうです。個人としての人や人間を指すのではなく、集団全体を示すものとして使われていたというのは興味深い話です。人間が生きてきた歴史の大半はそれだけ集団の力、集合の合力を頼みにしなければ存続できなかった事情を表しているともいえそうです。それが、時代とともに、集団を構成している「個人」の側に目が注がれてくるようになったということは大いにありうるでしょう。人間、あるいは個人の発見は近代社会の一つの特徴でもあるのですが、それが可能になるためには無窮の時間を要したのでした。

 母親が部屋に無断で入ったと、長男が文句を言う。「他人(ひと)の部屋に、勝手に入らないでよ」と。また、人から嫌なことを言われたので「他人(ひと)の気も知らないで」と不平を漏らすなど、一人の人間は「自分であると同時に他人」でもあるというケースは多様です。ぼくたちは、自分の中に「他人・世間」を入れているんですね。だから、世間体とか他人の評判や評価が気になるのです。「自分」「個人」が育つ土壌がなかったということでしょう。「母さん」「おばさん」の呼称も、これと無関係ではなさそうですが、いかがですか。

 集団の中の関係(親子・兄弟・叔父ー甥など)を指して言う言葉の転用、一般的な使用だとも考えられるのです。本当はもう少し考える必要がありそうですが、先ほど、二時間ばかり「草取り」をしてきたので、ここまでにします。(ただ今お昼前)ちょっと暑いし、疲れました。どこかで続きを書くかもしれません。「おじいさんは疲れた」)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。