おまえらのおもちゃじゃない  

 【余録】人をさいなむ「いじめる」と物をもてあそぶ「いじる」は同根の言葉という。人をもてあそぶ「いじり」は最も陰湿な「いじめ」となる。そして今日のサイバー空間での「いじり」は被害者の日常にも入り込む▲「おまえらのおもちゃじゃない」。東京都町田市立小学校に通っていた6年生の女児は叫ぶような遺書を残して昨年11月に自殺した。その両親によれば、女児へのいじめの道具となっていたのは学校が配布したタブレット端末だった▲同校は情報通信技術教育の先進校として各児童にタブレットを貸与していた。両親の同級生らへの聞き取りによると、そのチャット機能で女児を名指しした「うざい」「死んで」などのやりとりが交わされ、本人にも送信されていた▲学校は女児の自殺前にいじめを把握したが、両親には連絡せず、自殺後に「問題は解決済み」と説明していた。市教委は今年2月にいじめ防止対策推進法の「重大事態」と認定、非公開の常設委員会が自殺との因果関係を調べている▲おりしもコロナ禍によりタブレットやパソコンを使ったオンライン授業が「学び」の救世主となった今日である。学習や級友とのコミュニケーションに欠かせぬ機器が「いじめ」のツールになる恐ろしさに慄然(りつぜん)とした方もおられよう▲情報端末を子どもたちに渡すならば、それを危険な凶器へと変えぬような教育や仕組みも整えてもらわねばならない。12歳の女児が遺書に残した叫びは、大人たちに向けられた言葉だと受け取るべきである。(毎日新聞・2021/09/15)

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 教師の真似事(半教師?反教師?)を半世紀ほどもしてきて、いつの時代にも「いじめ」というものが絶えないということを実感してきました。学校だけが特異な場所なのではなく、人間集団があれば、かならずそこには「いじめ」に類することは起る。これを根絶することは、たぶんできない、ぼくはそのように考えてきた。「なくならない」といったから、問題にしても無駄であるというのではないのは論を俟(ま)ちません。必ず起るということと、それを無くするためにすべきことを求めるというのは、別の事ではないからです。ぼく自身のつまらない経験を踏まえてみても、「いじめ」の姿や形はさまざまでした。あるいは、時代による変化ということもあるでしょう。しかし、一貫して主張されてきたのは「学校のもつ抑圧・拘束性」でした。表現はいろいろにされてきましたが、学校という組織・集団そのものには、「成員(子ども教師集団ともども)」に対する有形無形の圧力・抑圧が作用している、その抑圧から逃れる・解放されるための、一時的な方法(それを自覚しているかどうかは問わない)が自分よりも劣位にあるものに対する「暴力的・支配的行為」、それこそが「いじめ」を生んでいるということでした。あるいは学校の管理(拘束)体質も、その次元でとらえられるでしょう。

 いうまでもなく、どこかで生じた暴力行為をすべて「いじめ」と一括りにすることはできません。それぞれの場合には、他には見られない要素や条件があるのであり、表面的には同じように見えることはあっても、まったく別の事案であるととらえる必要があるからです。また、ひとつの「いじめ」が発生する場合、加害者と被害者とを画然と判別することも不可能です。誤解を恐れずに言えば、学校集団全体が、その「いじめ」とは無関係ではないという意味です。学校に勤務していた時期にも、数えられないくらいの「いじめ」問題に出会ったし、ぼく自身が関係者になった場合もありました。この問題に限らないことですが、問題が起こらないための努力というか、防止するための課題には万策をつくすべきです。それでもなお「いじめ」は起るということを忘れたくない。これだけ懸命に「いじめ」を起さないための努力を重ねてきたのだから、もう絶対に起るはずはない、そのように考えたくなるでしょうが、それは間違いで、きっと起こるものです。地震や台風と同様にみることは無意味ですが、しかし対処法は、そこから学べます。被害に遭わない、遭っても可能な限り微小で済ませられる、そのような処方がないわけではないでしょう。

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 このところ、町田市内の小6の子が「いじめ」を受けていたことが、亡くなってから分かったという経緯が明かされました。この問題でも指摘されますが、起ってしまった問題に対して、学校当局は十分に事の重大さを認識していなかったという点を無視してはならないと思われます。「いじめはなかった」「もう解決した」などと、どうしても問題を小さく扱うことに汲々とする姿勢は、いつの場合でも必ず認められます。何故か。自らに「責任」が及ぶことをひたすら避けたい、自己保身の防衛本能からの言動です。実際に「いじめ」があったという事実を認めた段階でもなお、「いじめ」はなかったと言い募る。これは昔も今も変わらない当事者の姿勢でもありますが、今の時代に、これまでに見られないほど、それは強い傾向というか風潮になっているとも思われます。

 どんな方法にせよ、責任を果たさなければならない当事者が、それを拒否する、責任を回避する、そのためには「事実」はなかったことにするのが唯一の方法です。これは政治家でも官僚でも、あるいは企業家にあっても、同じような「隠蔽」「虚言」の策に溺れてしまう。その地位にあるのは、責任の所在を明らかにするためですが、その自覚が根本において欠けているというほかない。欠けているというより、責任の所在をあいまいにするのを許容する、あるいは自分に関係ないからと関心を示さない、そんな、一種の時代病が蔓延しているとも言えます。「人命が失われた」その原因や理由を、少なくとも可能な範囲で明らかにするのが、第一の責任の取り方です。しかし、そのことを明確に自覚している人は、驚くほど少ないのに、ぼくは仰天するばかりです。

 以下に、町田市立小学校で起こった「いじめ事件」の経緯を簡単に示す記事を出しておきます。さらには、一見すると、それとは無関係に見えますが、警察官僚のトップ人事の記事を載せておきました。警察官僚と内閣官房が隙間のない擁壁によって囲われている、あるいは現行政治がその中枢において、警察官僚の強力な支持基盤をもとにしているという事実を看過してはならないということ。(あるいは、警察官僚が政治の中枢を掌握し支配しているということなのかも知れない。表向きの権力者の「醜聞=犯罪」を明らかに、彼らは知っている。この間、問題視されてきた数々の悪意ある行為をネタにして、権力者は官僚警察に肝を握られている、ずっとそのように、ぼくは官邸警察政治を凝視してきた)ここでも責任の所在があいまいにされ、むしろ問題行動(犯罪者の逮捕を見逃す)をとった人物が、反対に「論功行賞」とも言われる報奨(a reward)を得ているという、時代病理の象徴として、ぼくは、この「人事」を見ているのです。この官邸警察の根っこは驚くほど深い。その根本から腐敗が始まっているのだ。さらには、ネット時代に特有の犯罪に対する「厳罰化」問題を、法務当局がどののようにとらえているか、その端緒を示す記事を出しておきました。

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 「情報端末を子どもたちに渡すならば、それを危険な凶器へと変えぬような教育や仕組みも整えてもらわねばならない。12歳の女児が遺書に残した叫びは、大人たちに向けられた言葉だと受け取るべきである」という「余録」氏の指摘はその通りであるとしたうえで、ぼくは言いたい。ぼくたちが、「子どもたち」に何かを言えるだけの「大人組の一員」かどうか、それこそ、逆にぼくは(自分をも含めて)問いたいのであり、それに対して、各機関・各人は答える義務があります。新聞をはじめとするマスコミ、あるいはジャーナリズムが、権力者や「広告会社」に阿(おもね)っていないかどうか、いや完璧に奴隷になっている、そのことをまず認めなければなるまい。どこをつついても、けっして「権力者」の片棒を担いでいないと断言できる姿勢や態度が明らか、そこを公然としたものにするような、そんな記事をこそ、ぼくたちは期待するのです。新聞に対して、こんな当たり前のことを、一読者として「期待する」のもどうかと思うが。

(以下に示した資料は、それぞれが密接に関係している、今日における社会問題構造の現状を明示・暗示するものだと、ぼくは読んだ。「時代を撃つ」「時代に討たれない」、そのための、一つの参考の材料になるかと思われた次第です)

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 東京・町田の小6女児が自殺、同級生からのいじめ示すメモ 遺族「学校のタブレット温床に」

 文部科学省 東京都町田市立小学校に通っていた6年生の女子児童=当時(12)=が2020年11月、「いじめを受けていた」などとするメモを残し、自殺していたことが分かった。市教育委員会はいじめと自殺の因果関係を調査している。両親は13日、都内で記者会見し「学校や市教委から十分な説明がなく、不誠実だ」と話した。文部科学省に調査の徹底などを求める要望書も提出した。

「おまえらのおもちゃじゃない」 父親(58)と母親(52)は会見で、女児へのいじめに関し「学校が配ったタブレット端末も使われ、温床になった。娘は独りで闘っていた。早く事実を知りたい」と語った。遺族と代理人弁護士によると、女児は20年11月30日、自室で亡くなっているのが見つかり、机の引き出しに遺書とみられる複数のメモが残されていた。児童2人の名前を挙げ「おまえらのおもちゃじゃない」などと記していた。両親は会見で、女児の死後、同級生ら約30人から聞き取りを行ったと説明。いじめは4年生の頃に始まり、メモの2人を含む計4人が関与したと述べた。女児が仲間外れにされたり、「死ね」と言われたりしたとの証言があったと明かした。 児童同士が学校貸与のタブレット端末のチャット機能で、女児の名前を挙げ「うざい」「お願いだから死んで」などとやりとりし、その内容を女児が端末上で目にしていたとも指摘した。

学校アンケートで発覚 遺族によると、いじめは昨年9月の学校のアンケートで発覚したが当時は伝えられず、知ったのは女児の死後だった。学校は当初、児童が女児に謝罪したとして「問題は解決済み」と主張。両親が開示を求めたチャットの履歴も「見当たらない」と回答したという。その後、児童が作成し、一部に「(女児の名前)のころしかた」と題する絵が描かれたノートを学校が保管していたことが判明。2月に学校が独自の調査報告書をまとめていたことも分かったという。市教委はいじめ防止対策推進法が定める「重大事態」として、非公開の常設委員会で調査している。担当者は「遺族の意向に沿って対応してきたが、今後も丁寧な説明をしながら調査を進めたい」と話した。(服部展和)(東京新聞・2021年9月13日 21時46分)

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 安倍政権時代の「官邸ポリス」が“論功行賞”で警察組織2トップに昇格の不気味

 警察が究極の忖度機関になるかもしれない。 東京五輪・パラリンピックが終わり、警察は人事の季節を迎える。警察庁も警視庁も、現トップは東京大会の警備を最優先した布陣だからだ。警視庁の斎藤実警視総監は、庁内で「警備警察のエキスパート」と呼ばれてきた人物。早ければ9月中に退任するとみられ、後任には警察庁の大石吉彦警備局長が就任する予定だ。 大石氏は、2012年から19年まで安倍前首相の秘書官を務めていた“安倍親衛隊”でもある。 さらには、警察庁も年末にトップが交代して、安倍氏と親密な元「官邸ポリス」が長官に就きそうなのだ。 一貫して警備畑を歩んできた警察庁の松本光弘長官の後任には、警察庁ナンバー2の中村格次長が昇格する。 中村氏といえば、第2次安倍政権下の15年、「安倍晋三に最も近い記者」といわれた元TBSワシントン支局長がジャーナリストの伊藤詩織さんをレイプした疑惑で、逮捕状を握り潰したことで知られる。 当時、警視庁刑事部長だった中村氏が逮捕を取りやめるよう指示したことについて、「週刊新潮」の取材に対し、「私が決裁した」と本人が認めていた。 中村氏は安倍政権で菅官房長官の秘書官も務めた。テレビの報道番組にも目を光らせ、政権批判発言があれば局の上層部に連絡して抗議していたと報じられたこともある。 警察庁長官に上り詰めれば、これ以上ない論功行賞だ。「自民党総裁選の結果によっては、今より安倍前首相の影響力が強い傀儡政権が誕生しかねない。そこに加えて警察組織のツートップが“アベ友”で占められれば、安倍さんは怖いものなしでしょう。検察の人事に介入する法改正は世論の強い批判で頓挫しましたが、警察の通常人事は止めようがない。伊藤詩織さんの事件でも分かるように、警察組織は上からの命令が絶対です。官邸ポリスがツートップに立てば、警察全体が権力に忖度する組織に変容しそうで心配です」(警察庁関係者) 安倍前首相が新政権も警察権力も私物化する暗黒時代が始まるのか。(2021/09/12)9/12(日) 

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 ネット中傷厳罰化、性犯罪の処罰拡大など議論へ 法相が諮問

 ネット上の誹謗中傷に対処するための「侮辱罪」の厳罰化のほか、性犯罪についてより厳しく処罰する法整備について議論するよう上川法務大臣は16日、法制審議会に諮問しました。/ 侮辱罪をめぐっては、現在の法定刑が「30日未満の拘留または1万円未満の科料」で、プロレスラーの木村花さんがネット上の誹謗中傷を受けて亡くなった問題をきっかけに厳罰化を求める声が上がっていました。/ 上川法務大臣は、この侮辱罪について「1年以下の懲役もしくは禁錮、30万円以下の罰金」を新たに追加し、公訴時効を1年から3年に延ばす内容について議論するよう法制審議会に諮問しました。また、「実態に合っていない」との批判がある性犯罪の規定についても、処罰対象の拡大など適切な法整備を検討するよう諮問しました。/ 具体的には、▼性犯罪の成立に必要となる「暴行、脅迫」などの要件の見直しや、▼現在13歳となっている、性交の同意を判断できる年齢の引き上げ、▼教師など地位を悪用した性行為に対する罪の新設、▼公訴時効の延長などです。法制審議会は今後、法改正に向けて議論する見通しです。(TBSNEWS・2021/09/16)(https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4361879.html)

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 これは年寄りの「繰り言(an old man’s repeated grumbling)」だと思ってもらってもいい。どんな人も、と断定はできないが、ぼくの直観では、ほとんどの人は「心の中に一通の遺書」を持って生きている。それは何十年も前のものかもしれないし、つい最近の出来事に(絶望的になって)書いてしまったものかもわからない。いずれにしても、きっと心中ひそかに秘めている「遺書」がある、それがあるから生きていけるのだと、ぼくは思ってきたし、今でもそう考えて、一日一日を生きているんだ。「墓場まで持っていく秘密」というような表現がありました。それに近いですね。「(わたしは)おまえらのおもちゃじゃない」という「啖呵」を切ったままで、そこにいてくれたらと、ぼくは心底願ってもいる(いた)んです。「遺書」というのは「遺言(ゆいごん)」ではない。それは自分がどんな時でも忘れないための、忘れてはならない、そんな「肺腑の言」なんだ。繰り返す、「人間は、遺書を書いたから生きていけるんだ、ホントだよ」

 「銘記」という言葉があります。肝に銘じるということ、だから「銘肝」ともいうのでしょう。この「銘記する」という行為こそ、ぼくは「心に秘めた遺書」だと考えてきた。つらいとき、苦しすぎるときに、この「銘記」に思い当る。「胸に手を当てる」という、その意味は「心中の遺書」に立ち帰ることを指す。「銘記」「銘肝」は、人間が堕落しない、あるいは「悪」や「誘惑」に負けそうになったときに、そのときのことを想って、自分を励ましてくれる、自分が書いた言葉なんだ。「おまえらのおもちゃじゃない」という科白(セリフ)は「開き直り」です。責められっぱなしの段階で、思い切って「開き直る」、それは大事じゃないですか。ヘッダーの部分に四人の「元いじめられっ子」の写真を出しました。この人たちをぼくは、よく知りません。そのなかで、はるな愛さんは、何度かテレビで見たことがある。この人は何かあれば「開き直れる」、そんな人だと直感して、変な言い方ですが、好感を持ったというか、好きになりましたね。その下の写真の方々も、殆んど未知の人です。でもそれぞれが、肝心の時に「開き直り」(ぼく流に言えば「啖呵を切る」)を自分にも見せられたのではないかと、勝手に考えたりしていました。

 学校は、交差点の「信号」のようなもの。誰も、その交差点に、ずっと足止めされる必要はないし、信号が変われば、さっさと渡ればいい。また、場合によっては「交差点」を渡ることもないんだ。違う道路があれば、そこを歩けばいい。ぼくはそんな風にして、自分の歩く道を探してきた。ときには、へんてこな交差点というか、交差点にいた「悪い子」と隣同士になることもあったけれど、信号が変わるのを待って、その連中とは別の方向にぼくは歩いて行った。実際、少学校の四、五年生のころ、数人の連中に「襲われた」こともあったし、他の「不良グループ」に付け狙われたこともあったけど、ひるまなかった。外からは泣いていたように見えたかどうか。でも、その時はわからなかったが、その後にはっきりと自分で分かったのだ、「ふざけるんじゃないよ」、そのような覚悟(気位・気概)かな、それがぼくの腹にできていた。ぼくのいう、「心の遺書」だったかもしれない、と。ぼくにとって、学校は「気分転換の場」だった。いくつかの意味のようなものがある気がするが、それはまた、どこかで書いてみる。

 学校とはどんなところか、ぼくにとって学校は、You must go to school . ではなく、You may or may not go to school. というような「選択する意志」が働く場所であり続けました、けっして「気休めに」言うのではなく、実際に、ぼくはそのように学校 ー 同級生や教師たち、あるいはサークル(部活)の連中 ーと付き合ってきた(付き合ってこなかった)。それは大学を卒業するまで変わらなかった。それでよかったかどうか、今でも判断しかねていますが、それがぼくの「歩き方」でした。(合掌のみ)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。