何事も、珍しき事を求め、異説を…

 【筆洗】本で読んだだけで、お目にかかったことはないが、難読で有名な名字の方がいる。小鳥遊(たかなし)さん、月見里(やまなし)さん、栗花落(ついり)さんたちだ。小鳥が遊ぶのはタカがいないからで「たかなし」、月がきれいに見える里は「やまなし」、クリの花が落ちる梅雨の入りで「ついり」が、読みの由来とも言われている▼なぞかけを思わせて、風情もある漢字の読みは、名字ではないが、万葉集のころからあるそうだ。本来の音を離れ、さまざまな読み方を許容する言語もおそらく珍しい。そこに情緒が宿ることもある、言霊の国の言葉の面白さ、豊かさなのかもしれない▼名前の多様な読み方は、デジタル化の世の中とはあまり相性がよくないようである。法相の諮問機関が、漢字で記載されている戸籍の氏名に読み仮名を載せるための検討を始める。読みがあるほうが、事務の効率化には、いいらしい▼読みの欄を設けるだけなら、簡単な話にも思えるが、議論はいわゆるキラキラネームの問題にまで及ぶそうである▼本来の読み方を離れ、読むのが難しい名前の中には、たしかに違和感を覚える名がある。一方で、情緒を感じさせる名もあろう▼徒然草で吉田兼好は、人の名に見慣れない文字を使う風潮を<益なき事>とつづっている。古くからあった話なのかもしれない。なにかでうまく線引きできるのか。加減が難しい現代の名前の問題である。(東京新聞。2012/09/11)

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 珍名、奇名に類するものは、東西南北、あるいは古往今来、枚挙にいとまなしです。(表現は美しくありませんが)「掃いて捨てるほどある」から、それを知ってしまえば、別に「珍でも奇でも」ありませんよ。それらが珍名や奇名として話題にされるのは、世間では数の上で絶対的に少数派だからでしょう。でも、言葉というものは、かなりいい加減な作られ方や使われ方をするもので、それが人々の感覚に適応・適合しなければ、やがて消えてゆく。法律や力づくで使わせようとしたところで、いやなものはいや、というばかりで、跡形もなく消去される運命にあるのです。明治以降、「国語」という珍奇な言語をどうしても作りたかった権力者は、さまざまな手を尽くして「新言語」を生み出し、当然のように、それまで各地域で生きて使われていた多くの言語を封殺してまでした、それをいろいろな手段を使って普及させようとしました。そのために、もっとも利用価値が高かったのが「学校教育」でした。それは「国語=天皇の言葉」を普及させるための広告(デマゴーグ)器官(誤字ではない)であった。ここでは面倒だから一々の事例を挙げませんが、その痕跡は今でも残っているとも言えます。地面から生え出た言葉(方言)をもっと育てようという心がけがなければ、さらに不思議で奇怪な「国語」蔓延の社会になります。そのほんの一つが「人流」だと言っていいでしょう。

 昨年あたりからですか、「人流」という表現が使われだしました。ぼくは今もってこれには不快を感じるだけで、まず耳に入ることすら避けたいんですね。もとより古くから使われていたのでしょうが、あまり語感もよくないし、物流にならったもののようにも見られて、知らないうちに、静かに消えていたのでしょう。それを引っ張り出してきて、あちこちの役人どもが再度、復活させようとした「再造・捏造語」です、きっと。「感染防止」の次善作として、人出をおさえる必要があるが、「大衆・庶民」は「官吏様」の言うことを、ちっとも聞かない、聞こうとしない。それはきっと、言葉の表現が悪いんだ、と考えたか(自分たちが信用されていないことを認めないんですね)、結果、使われだしたのが「人流」で、これだ、これにしようという具合で、評議一決したとも思えませんけれど、とにかく使われだしました。いかにも「言語不感覚」「感覚鈍感」な「官吏」が始めそうなことでした。口のなかが砂だらけという漢字(感じ)で、これを砂を噛むような、嫌な噛み応えのする官僚コトバで使うのだから、蕁麻疹が出来ます。「人間が流れてございます」とか言う、あの薄気味の悪い言い草。だがね、「人は流れない」「川も流れない」「流れるものは水であり、質草(ご存じないでしょう)ですよ」と、小さな声で言っておくばかり。

 参考までに「人流」には先例があります。ぼくはどういうわけだか、こちらを知っていましたので、なおさら、これを平気で使う・使われるのに抵抗があるのです。出典は「中日辞典第3版」。言語感覚が豊かではない、このぼくでさえ、少しは用心しています。ずいぶんの昔、日本の水泳選手が五輪大会で「タカイシ●●●君」と読み上げられた途端、観客は大爆笑。場所はイタリアだったと思います。使用範囲が限定されるのが、「言語」なんですね。「●●●」とは、当地の言葉では「男性自身」を指していたそうです。ちなみに、地球上に「言語」と認定(いろいろな基準がありますが)されたものが、ある調査によると八千以上もあるそうです。そんなものではなさそうですね。この島にだって、数百は優に超える「言語」があるんですから。ぼくが住んでいる「房総半島」だけでも「山・平野・海」の住民の言葉があるのです。

 「人流(rénliú)[名]1 人の流れ.人の波.不尽jìn的~拥yōng向天安门广场/絶え間なく続く人の波が天安門広場に向かって押し寄せる.2人工流産.堕胎.▶“人工流产réngōng liúchǎn”の略.做zuò~/堕胎する.」

 さしづめ「人流(=人工流産・堕胎)」の頻出・流行は、現今の劣島社会においては「やっぱり」「分相応」というのでしょうか。まことに「珍」にして「奇」ではあります。それをしたり顔で、フリップをもって口にするというのも、実に実に恥ずかしいし、それは政治や行政に携わる人間のすることではないと、ぼくは思うのだ。それに煽られて医学者・ジャーナリストまでもが、また多用する。「絆」も顔負けだと、ぼくは顔が赤くなるのです。ホントにこれは、恥ずかしいことの連鎖だし、これこそまさしく「付和雷同」で、こんな連中に任せて置いたら、きっと「新型ウィルス」蔓延状態は終焉を見ない。この問題に関しても、ぼくは早い段階で駄弁っておきました。昨年の二月には「少なくとも五年」かかるという見立てでした。

 しかし、この「貪官汚吏(たんかんおり・どんかんおり、とも)」の状態では、それすら怪しい。加えて、天然記念物的な絶滅(危惧)種の「政治家もどき=嘘つき泥棒」がそろっているんですから、事態は絶望的です。(現在、実施されているという「某党総裁選び」では、どんなにえげつないことが行われていることか。まるで「東京五輪」と同じ構造の「汚職」「やらせ」真っ青の利権漁りです。(金で動かされた)ネットに書き込む部隊が、暗躍し明躍して、特定候補を応援し、特定候補を誹謗する。このような蛮行を防止するための「法律制定」を喧伝している政治家が、率先してネット時代に悪乗りして、さらに「国家・人民」を危うくしているのです。これをして「a barbarous act」といわずして、どうします。この破廉恥学園顔負けの「永田町幼稚院」の狂乱・狂奔事態から「総裁」が作り出され、やがて「総理」になるという野蛮劇ですね。(あるいは、ぼくが知らないだけで、すでに「茶番劇」は終わっているのかもしれない)

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 盗人猛々しい政治家、その下には貪官(たんかん)が集い、さらにその足下には汚吏「おり」が蝟集しているのが、見て取れます。もう何度か言いましたが、この島社会は「終わっている」とっくに、ですよ。莫迦は死ななきゃ治らないというように、腐った国や社会(集団)は壊れなければ、いや壊さなければ始まらないですね。「再生」とは「restoration」です。「Meiji ー」という具合に、既存の我楽多(ガラクタ)をご破算にしてからでなければ、事は始まらないでしょう。それをまた、「御一新」とも言いました。大木が倒れると、その根元から新芽が活きよいよく出てきます。これが、「御一新」なんですね。(余談に走り過ぎました)

 忘れていたのではありません。テーマは「人流」、いや「珍名・奇名」に関してでした。人でもモノでも、事柄についても、とにかく多彩ですよ、珍名や奇名は。コラム氏は「苗字」について言われています。ぼくが実際に出会った人で、もっとも明解な珍名は「一一」さんでした。「いちばんはじめ」さんと名乗られた。「ウソっ!」 実に単純明快でした。何かにつけて、その人は「一一」だったか定かではありません。もう一つ(一人)が「日月」さんで、「たちもり」と呼ぶそうです。石川県で知り合いになりました。次はかみさんからの情報。彼女の友人の「はばかり」さん。漢字は「羽計」でした。由来は省略(千葉県に多いらしい)。かみさんが、さも楽しそうに話してくれたのは、この友人(女性)が勤めていた会社、さて、この会社名は?????(正解は最後に)

 まだまだありますが、時間の無駄でもありますので、これでおわり。

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 兼好さんが、出番を待っていました。彼はいかにも「平凡派」だったかもしれないですね。何事にも「平明さ」を求めた兼好の「美学」とまで「ちくま学芸文庫版」の編者・島内裕子氏は言われる。「平明さを尊ぶ兼好の美意識は、人生の美学となって、さまざまな場面で、明確な価値判断を下させる。末尾が「とぞ」という伝聞で結ばれているが、浅薄なこれ見よがしの付け焼刃の知識を、ばっさり切り捨てている」と大賛成です。ということは、兼好さんの時代にも「珍奇」を好む輩がいたことになります。この文章を読んでいるぼくは、穴があったら入りたいほどに、謗られているという自覚は強く働いているのです。それをば、浅学菲才という。ぼくは卑下しているのではなく、正真正銘の「浅学・菲才」であることを、自他に隠せないね。

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 寺院の号(がう)、然(さ)らぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、有りのまゝに、安く付けけるなり。この頃は、深くじ、才覚を顕(あらは)さんとしたる様に聞こゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益(やく)無き事なり。

 何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の(せんざい)の人必ず有る事なり、とぞ。(「徒然草」第百十六段)

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 この「段」には、余計な注釈も解説もいらないでしょう。「有りのまゝに」読むだけでいいですね。かみさんとほとんど毎日のように出かける「スーパー」(10キロ先で、これが、最短の食料補給基地)の入り口に保険屋さんの出店があり、そこで「人気の新生児の名前ランキング」が出ています。「才覚を顕(あらは)さんとしたる様に」と、無い知恵を絞った親の愛情(それは、やがて徒(あだ)になるだろうね)の証が展示されています。この子たちが八十歳や九十歳になると大変だろうなと、要らぬ心配をしては見ている。(今、掲示されているのは2020年生まれ)ぼくの友人の女のお子さん、「ふわり」だって。安心して、あるいはおちおち「太れない」ね。それにしても、なんだか太陽だとかお月さんだとか、地上に居ないようにと願っているんじゃないかと思われるような、キラキラぶりです。人間が宇宙人を生んだんだ、これぞ「突然変異」か。中には、歴史を知れば、ぼくなど、怖くて使えないものもある。

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 「はばかり」さんの余話。「はばかる」はよく使われるが、「転用」も多い言葉でしょう。

 「はばか・る【×憚る】[動ラ五(四)] 差し障りをおぼえてためらう。気がねする。遠慮する。「世間体を―・る」「他聞を―・る」「だれにも―・らず自由に生きる」 幅をきかす。増長する。いばる。「憎まれっ子世に―・る」 いっぱいに広がる。はびこる。「一間(ひとま)に―・るほどの物の面(おもて)出で来てのぞき奉る」〈平家・五〉(デジタル大辞泉) 

 ここから苗字の「はばかり」さんが生まれたわけではないが、「《人目をはばかる所の意から》便所」(同上)と連想された。でも、「便所に行く」のが、どうして「はばかられる」んでしょうかね。行かない方が、もっとはばかられますよ。また「雪隠(せっちん)」という字も、ぼくにははばかられますね。これを便所の意に使うのが「臨済宗」で、「東司(とうす)」をその意味で使ってきたのが「曹洞宗」だと言います。実に世にはばかられる話です。禅宗は「善宗」にあらず、「悪宗」染みているところも大いにありますね。「やくざ稼業」の源流は禅寺にあるとも言われていますね。「一宿一飯」(仁義を切る)は、すべて禅寺から。

 (かみさんの友人がいた「受付」の会社はどこだったか。言うのも「はばかられる」のですが、思い切って言ってしまいます。「TOTO」でした。どなたかが「TOTO」に電話を掛けた、「TOTOさんですか?」「はい、TOTOの、はばかりです」「えっ!」と、この瞬間がどれくらいあったか、ご本人が「大笑いしながら話してくれた」とはかみさんの言)

 これを書いているのは、朝の七時ころ、外は強い雨が降っています。外出も「はばかられる」一日になりそう。荒天にご注意ください、どなたさまも。

 「何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の(せんざい)の人必ず有る事なり」と、兼好さんも言ってくれますなあ。ロシアの作家のアントン・チェーホフ(左写真)は、「雨が降ったら、雨が降ったと、書けばいい。雨がシトシト…などという必要はない」というようなことを、どこかで書いていました。その通りですね。

 付け足しのような。名前に使用する漢字などを、ある時期までは役所が制限していたことがありました。今はそれなりに緩やかになったのかもしれませんが、まだまだ管理や規制が好きなお島柄です。こんな記事が出ていました。使用は自由に、という名における「規制」が始まるのかもわかりません。いまだに「当用漢字」や「常用漢字」とよくわからない理屈をいって、国家が「漢字使用」を管轄しているのをどのようにみればいいのか。使っていい漢字と、使ってはいけない漢字というものがあるのでしょうか。漢字まで、「自分(政治家や官吏)たちのもの」という錯覚が働くんでしょうな。

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 【有明抄】名前の読み仮名 近代化が急速に進んだ明治期、次々と外国語が入ってきた。社会制度や文化、スポーツなどあらゆる分野で、翻訳した新しい日本語がつくられた。ベースボールが「野球」となったように◆こうした新語づくりに貢献したのが森鴎外や夏目漱石、福沢諭吉らそうそうたる面々。言葉の意味を踏まえ、ふさわしい漢字を当てる作業は大変な労力だったろう。初めて見聞きした人は何のことか分からずに戸惑ったに違いないが、練られた新語だったからこそ浸透したのだと思う◆何かに名前を付けるのは実に難しい。わが子となればなおさらで、人生の始まりから終わりまで付き合うだけに迷いに迷う。親の思いが込められた名前は多彩で、本紙に載っている「すこやか佐賀っこ」でも本来の音読み、訓読みにはない読み方も目にする◆こうした状況に、どう対応していくか。上川陽子法相は身分証明の根本となる戸籍に氏名の「読み仮名」を記載する検討を法制審議会に諮問した。行政手続きのデジタル化が進む中、個人データの管理や検索をしやすくし、事務処理を効率化するのが目的という◆本来と異なる読み方や意味合いを踏まえて、どこまで許容するかなど課題は多岐にわたるようだが、名付けた人の思いは尊重したいところである。鴎外や漱石と同じように、考えた末の名前なのだから。(知)(佐賀新聞Live・2021/09/18)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)