君は、沖縄を見ていなかったんだ

 

 まことに「よしなしごと(由無事)」を綴ります。いつもの調子と少しも変わらない、変わりようもない駄文・雑文調です。これまでにも述べてきたように、ぼくは本当に歌(ほとんどが「流行歌」で育ったようなところがあります。いまでいう「演歌」「艶歌」などとは、いささか趣が異なるもの)によって大きくなったというか、歌といっしょに歩いてきたと実感しています。ぼくが歩いてきた道は、何の取柄もない、風が吹けば土ぼこりが立つ、雨が降れば泥濘(ぬかるみ)ができる、そんな田舎道でした。そのような殺風景な道すがらで、唯一の「道連れ」は流行歌(流行り歌)でした。

 もっとも熱心に聴いたのは三橋美智也という歌手だったかもしれない。昭和三十年前後でした。彼が歌った歌は、今でもほとんど諳んじています。学校で強いられる内容などは、まったく記憶に残らないのに、流行歌の歌詞だけは、誰にいわれるでもなく、勝手に覚えて、それが段々とぼくの血肉になったんじゃないかと、時に心配になります。ぼくの筋肉や骨、あるいは皮膚は「歌謡曲」で成り立っている。ここを押せば「三橋さん」、こちらを抓(つね)れば「春日八郎」、あるいは腰を抑えれば、「小畑実」、お腹の周りは「美空ひばり」というように、数えあげればきりがないほど、ぼくは「歌謡曲」によって育てられた。後年になって、これに「小学校唱歌」が加わりましたが、もうすでに骨格も脂肪分も十分に出来上がっていたので、これらが身体の成分になったかどうかは怪しい。(同じように、大学に入って以降、ひたすらクラッシクに入れあげました。尋常一様ではない状態でしたけれども。果たして、それが血肉になったとは思えません)

 三橋さんの歌は何でも歌った記憶があります。その多くの歌詞を作ったのが「横井弘」という作詞家だった。逢ったことも見たこともない作詞家でしたが、その名前を聞くたびに、どんな人だろうと気になるのです。これもぼくの性癖です、作詞や作曲をした人について、いろいろと想像を巡らせてきました。気になる、未知の人、こんな人たち、はそれこそ無数にと言いたいほど、たくさんいます。数年前に、横井さんの訃報を目にしました。その時、初めて写真を見たのでした。

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 「あざみの歌」「哀愁列車」 作詞家の横井弘氏死去 88歳

 「あざみの歌」などを手掛けた作詞家の横井弘(よこい・ひろし)氏が19日、肺炎のため、東京都内で死去した。88歳。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男、徹(とおる)氏。/ 作詞家の藤浦洸に師事。昭和24年、作詞した「あざみの歌」がNHKのラジオ歌謡で放送される。同曲は26年、伊藤久男の歌としてレコード発売され、大ヒットした。三橋美智也の「哀愁列車」や春日八郎の「山の吊橋」、倍賞千恵子の「下町の太陽」など多くの楽曲の作詞を手掛けた。(産経新聞・2015/6/24 15:08)

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● 横井弘( よこい-ひろし・1926-2015)=昭和後期-平成時代の作詞家。大正15年10月12日生まれ。藤浦洸に師事,昭和24年伊藤久男「あざみの歌」でデビュー。コロムビアをへて,28年キング専属となり,三橋美智也「哀愁列車」,春日八郎「山の吊橋」などを作詞。また「下町の太陽」「さよならはダンスの後に」など倍賞千恵子のヒット曲もある。平成27年6月19日死去。88歳。東京出身。帝京商業卒。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

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 ぼくは、歌謡曲でも唱歌でも、作られた(公刊された)年月日や作詞・作曲は誰だったか、それを含めて記憶してきました。しばしば、だれかれなしに「日付のある言葉・意見・発言を」と、くりかえしていたこともあり、それが習い性になった。新聞の訃報にも、辞典にも出ていないで、横井さんの作詞した歌はたくさんありますが、ぼくにとって、もっとも強烈な印象を残したのは「川は流れる」という曲でした。1961(昭和三十六)年。ぼくが高校生になったころです。これを歌ったのが、仲宗根美樹という同学年の歌手でした。両親は沖縄県出身だったそうです。「一冊の本」ではなく、「一枚のジャケット」ということなら、まず、ぼくにはこれしかないというぐらいに、鮮烈な印象が刻まれてしまいました。

 「川は流れる」は、ぼくが初めて買ったレコードじゃなかったか。すでにLP時代でしたが、17センチのシングル盤でした。たしか「ドーナツ盤」と言って、ちいさな部品を用意してプレーヤーに置きました。その当時のジャケットは右に示したものです。不思議というか、まことに恥ずかしいのですが、A面の「雨の花園」の記憶はゼロです。それだけB面(「川は流れる」)が強烈にすぎたのでしょう。こんなことは、他にいくらでもあるかもしれません。心理学などでは「意図的不注意」(intentional inattention)などと言われることかもしれない。都合の悪いこと、見たくないことには目を塞ぐ、聞きたくないことには耳を塞ぐ、やがて、それらは見えも聞こえもしなくなるというのです。まさに、高校生のぼくに生じたのは、これでした。それ以後、この都合のいい「目塞ぎ・耳塞ぎ」はよく起こることになりました。他方では、見たくない、聞きたくない、それにもにもかかわらず、後々までよくない影響を及ぼすこともあります。(その典型は PTSD です)

 「あばた(痘痕)もえくぼ」というのは、どうでしょう。

(● ピー‐ティー‐エス‐ディー【PTSD】=《posttraumatic stress disorder》心的外傷後ストレス障害忍耐限界を超えたストレス、たとえば、戦争・災害(地震など)・テロ・事故・犯罪事件などを体験した後に生じる心身の障害のこと。不安・鬱(うつ)状態パニックフラッシュバックなどが代表的な症状。日本では、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災後に問題になった。デジタル大辞泉)(阪神・淡路大震災の際には、精神分析医の中井久夫さんが「PTSD」について、詳細な調査研究報告をされました)

 ぼくは、このレコードに関しては、ある種の狂気状態を過ごしていたと思う。今もその後遺症がある。いったいどれくらい、この曲を聴き続けたか。数えられないくらい、というしかない。七歳年上の兄貴に「いい加減にしなあかん」と、たった一度でしたが、叱られた。これは最近かみさんから聞いたこと、「あいつはおかしかったんや、こっちまで気が変になりそうやった」と兄が言っていた、と。狭い家でしたから、うるさいとか、やかしいということもあったでしょうが、常軌を超えていたんです。牧野富太郎さんは「草木の精」になられましたが、ぼくは「狂気」のままで生きることになった。この「川は流れる」(聴き取り)状態が数年続いたと思う。いまでもときどき、この「狂気」が疼くんですよ。(健全状態からの逸脱した「異常・insanity」とは区別される状態が「狂気(mania)」とされる。あのときの、何気ない兄貴の「叱責」が、大学に入ってから心理学や精神分析問題をぼくが学ぼうとしたきっかけ(根拠)であったかもしれない、それはものにはならなかったが)

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 仲宗根美樹さんについても、当時は、まったく何も知らなかった。知りたいとも思わなかった。ひたすら、彼女が謳う「川は流れる」を聴き浸ったのでした。(そういう状態にありながら、「川は流れる? 違うやろ、水が流れるや」ということが気になったりした。川が流れたら、大水害が発生するぞ)何も考えないで、つまりは「歌詞の意味」などいっさい無視したままで聴いていたのです。後年になって、美樹さんが「歌っていた当時、歌の意味はまったく分からなかった、それがわかるようになったら、もう歌えなくなった」と振り返っておられました。「病葉」という言葉を覚えたのは、この曲からでした。

 横井さんは新宿は四谷の生まれ。四十五年五月に空襲で家を焼かれ、六月に召集された。茨城で、米軍の上陸に備えるため、初年兵として沿岸防備隊に配属された。八月に「終戦(敗戦)」。除隊後は長野に転居。そこで書いたのが「あざみの歌」でした。NH✖の「ラジオ歌謡」として公開された。(経歴など、詳細はすべて省略)

 さて、「川は流れる」です。いったい、ぼくは何を聴いていたのだろう、気も狂わんばかりに。仲宗根美樹という人が「沖縄」に関係した人(両親が沖縄出身、一種の疎開で東京に来た)だということは知っていたと思う。このジャケットの写真しか知らなかった。当時は、もっぱら「ラジオ」だけが娯楽の種でしたから、情報はまったく閉ざされていた。きっと、ラジオから流れてきた曲を聴いて、即、痺れた。レコードをどこで買ったか記憶にはないのです。でもそれを、来る日も来る日も、聴き続けた。隣室には兄貴がいた。「お前、おかしいんとちゃうか」と怒られた。その記憶はある、それだけです。

 何年もたって「沖縄返還」が問題になっていたし、ぼくは「川は…」とは別の方面で沖縄に関心をいだくようになった。歴史や文化、あるいはおかれた位置など、沖縄に無知だっただけに、その問題に深く這入り込んでいきました。もうそのころになると、「川はまだ、流れてるんですか」という具合に、すっかり関心を失っていた。二十年、三十年経って、何かの折に仲宗根美樹が話題になり、そういえば、「お前、狂ってんか」と言われた兄貴のことも思い出された。(京都で、兄貴は健在です)

 ここまでで終わりです。「一枚のジャケット」という話に「オチ」も何もありません。これを書くついでに仲宗根美樹さんの情報を少しばかり覗きました。大変な苦労をされたようです。それに関しては、ぼくは無関係。今もなお元気で、銀座で「お店」を経営(実業家)されているそうです。さらに達者に過ごされることを祈るばかりですね。

 最後に、横井さんの「歌詞」についてです。あてずっぽうで言えば、これは横井さんの「かなわなかった夢」を背景にして、現実の「街の谷」に、まるで「病葉」のように浮き沈みしている「庶民」の健気さを、悲しみを底に秘めながら、なお生きようではないかという、自他へ呼びかけであったと、ぼくは今にして思います。戦争や空襲がなかったら、こんなことにはならなかったのに、そんな思いで、戦後の「都会」で翻弄されながら生きてきた、女性に対する「応援歌」でもあったか(敗戦後十五年余が経過した時代でした)。

「ともし灯も 薄い谷間を ひとすじに 川は流れる

 人の世の 塵にまみれて なお生きる 水をみつめて

 嘆くまい 明日は明るく」( 仲宗根美樹 https://www.youtube.com/watch?v=3O5zNfaC7kI

 今から思っても、このような歌を十七歳が謳う、それを狂ったように聴き続けていたのも十七歳。人生には、背伸びしても届かない、「高見」というものがあるのでしょう。高みに登ろうとするのも、若さの挑戦だったかもしれません。当時、スマホがあったら、ぼくは間違いなく授業中にも「聴き狂って」いただろうと、ちょっと恐ろしくなるほどです。こんな難しいこと(人生問題)は、まず学校では扱えなかったし、今でもそうでしょう。「街の谷 川は流れる」んですか、「ささやかな望み破れて 哀しみに染まる瞳」も黄昏の水がまぶしいって、高校生にはわからんなあ? このような情景を思い描けなかったにもかかわらず、それを不思議にも疑問に思わなかったのだろうかと、ぼくは我ながら、その狂気の沙汰を振りかえった次第。(「自主トレ」のペースが狂ってきた。どうすれば、調子を取り戻せるか。「なに、はなから狂っていたんだよ」、という声あり)

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 余話にして  この時代は「60年安保」と言われた「政治の季節」でした。国の「独立」をかけた政治対決が民衆と権力者の側で闘わされていました。ぼくは高校生、社会科の男性教師が、授業中に「東京の政治決戦」の報告をしていました。彼は、授業の合間に「現地」に赴いていたのです。とても、そのような行動力のある教師には思われませんでした。やがて、劣島の各地に降り続けたのは「アカシアの雨」でした。「日米安全保障条約改定」が政治問題となっていた最中、さらには「条約の自然成立」で、反対運動に奔走して「負けた」人々は、このアカシアの雨に打たれ続けていたのです。

 「アカシアの雨がやむとき」(1960年4月発売)。歌は西田佐知子さん(夫は関口宏氏)。ぼくの中・高校の同級生で熱烈な「サッチャンのファン」がいました。(彼は追っかけをしていたそうな)青春時代とは、まちがいなく「狂気の時代」をいうのでしょう。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです