秋の七草に、牧野富太郎さんを想う

 【日報抄】春の七草は、正月のごちそうに疲れた胃をいやすため粥(かゆ)に入れる。秋の七草はどんなふうに食べるのだろう。昔はそう思っていた▼〈秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(くさ)の花〉。ハギ、ススキ、クズ、ナデシコ…。秋の七草は万葉歌人の山上憶良の和歌を基に選ばれたという。薬にはなっても、食べるものでない。つつましくも控えめな野花をめでて慈しむ。古来の花見の風情を知り、食い意地を少し恥じた▼そもそも、なぜ「七草」なのか。洋の東西を問わず、身の回りには「7」の数が付く言葉は多い。「七福神」や極楽浄土にかかわる「七宝」。「ラッキーセブン」は、米国での野球の試合で七回に劇的な一打が生まれた逸話が基になったとの説がある▼この国の一大与党は事実上の首相選びとなる総裁選を前に、七つの派閥が右往左往している。誰を推せば主流派になれるか、自らの選挙に有利なのか。思惑が入り乱れる▼派内ではさまざまな声が上がり、まさに「七嘴八舌(しちしはちぜつ)」の感がある。感染禍のただ中というのに、国会そっちのけの大騒ぎは見ていて悲しい。派内がまとまれず、裂き破れそうな姿は「七花八裂(しちかはちれつ)」か▼七草をはじめ、秋の花の季節である。花を巡っては「移花接木(いかせつぼく)」という言葉もある。花の枝を接ぎ木するように、人や物をすり替えたり、論点をずらしたりして、自らの非をごまかすことだ。思えば2代続けて、これが得意な首相だった。総裁選の混迷の末に生まれる首相はどんな花を手にするのだろう。(新潟日報モア・2021/09/12)

● 秋の七草(あきのななくさ)=観賞を目的として選んだ秋草7種をいう。『万葉集』巻8に収められた山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に「の花 尾花(をばな)花(くずはな) なでしこが花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔(あさがほ)が花」と、日本の代表的秋草が詠まれたことに始まる。このなかのアサガオについては、キキョウ説、ムクゲ説、ヒルガオ説、アサガオ説と意見が分かれているが、キキョウ説をとる場合が多い。また江戸時代に好事家(こうずか)が「新秋の七草」を選んでいるが、リンドウ、オシロイバナ、トロロアオイ、ヒオウギ、ゴジカ、ユウガオ、カラスウリと、外来種なども取り入れられている。1935年(昭和10)ごろにも新聞に発表された別の「新七草」があり、それは、ハゲイトウ、ヒガンバナ、ベゴニア、キク、オシロイバナ、イヌタデ、コスモスであった。そのほか、「薬用秋の七草」として、オケラ、クズ、キキョウ、マンジュシャゲ、リンドウ、ヤマトリカブト、ミシマサイコが選ばれたこともある。[杉山明子](ニッポニカ)

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 七草(七種)のそれぞれに、触れたいこともないわけではありませんが、余計なお世話のような気もします。ぼくは、とにかく「ハギ」が大好きで、拙宅の荒れ庭にも「江戸小紋」というのがあります。何故だか、よくわからないままに、「ハギ好き」人間を続けてきました。無理に理屈をつければ、長州の「萩藩」と関係づけられるのかもしれません(話が逸れすぎる)。その「江戸小紋」も、今は「雑草」に囲繞されきっています。クズも困ったもので、なんともしぶとい植物です、蔓が。漢字では「葛」、これに春のフジ(藤)が蔓の強さでは代表格。この二つで「葛藤」です。どちらが凱歌を挙げるのか。クズはくずもちの原料だし、「葛根湯」の原料でもあります。長年、お世話になっている。

 なぜ、オミナエシは「女郎花」という字があてられたのか。「敗醤」という植物はオトコエシ(男郎花)とよばれ、オミナエシとは別物です。という具合に、無駄なことを書いても仕方がないので止めておきます。拙庭には撫子(ナデシコ)以外が、今のところは揃っています。(左は「男郎花」)どうでもいいことのついでに。何故サッカーの女性チームは「ナデシコ」なんですか、どこが?野球の「サムライジャパン」も気は確かか、と言いたい。なんで今頃、誤解されそうなロゴ(でしょ)を内外にふりまくんでしょうねえ。(「女子サッカー」と今でも名乗って(名乗らせて)います。スポーツの場面では、このへんてこりんな呼称が多いのはどうしてでしょうか。公正公平とか言いながら、「東京五輪」でも「女子✖✖」が連呼されていた。メッキすらなかったんですから、この「男根社会」は手に負えないレガシーだな) 

 コラム氏流に喋ると、さしずめ、ぼくには「なくて七癖、あって四十八癖」というようですね。悪癖のかたまり、それが「この私」、名うての「癖者」、あるいは「曲者」(この言葉を自分に向けて言うの間抜けだ)です。「どうしようもないわたしが書いている」(山頭火風?)

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 植物分類学の碩学だった牧野富太郎さん。ぼくの愛読書でもある「花物語」から一、二のエピソードを。

 「植物に趣味をもてば次の三徳がある。/ 第一に人間の本性がよくなる。野に山にわれらの周囲に咲き誇る草花を見れば、何人もあの優しい自然の美に打たれて心和(なご)やかになるであろう。/ 第二に健康になる。植物に興味を持って山野の植物を探し求むれば、戸外の運動をするようになる。したがって健康が推進せられる。/ 第三に人生に寂寥を感じない。世界中の人間がわれに背(そむ)くとも、我が周囲にある草花は永遠の恋人として、われに優しく笑みかけるであろう」(牧野富太郎「花物語」ちくま学芸文庫)

 その同じ文章の中に「私は植物の精である」という短文があります。牧野さんは土佐の生まれで、一人子でした。早くに父(四歳の時)と母(六歳)が亡くなり、祖母に育てられた。

 「私は生まれながらに草木が好きであった。故に好きになったという動機は別に何にもない。五、六歳時分から町の上の山に行き、草木を対手に遊ぶのが一番楽しかった。どうも不思議なことには、私の宅では両親はもとより誰一人として草木の好きな人はなかったが、ただ私一人生まれつき自然にそれが好きであった。それ故に私は幼い時から草木が一番の親友であったのである。後に私は植物の学問に身を入れて少しも飽くことを知らなかったのは、草木がこんなに好きであったからです。そして両親が早く亡くなり、むつかしく言って私に干渉する人がなかったので、私は自由自在の思う通りに植物学を独習しつづけて、ついに今日に及んでいるのです」「…天性植物が好きであったから、その他のどんな困難なことに出会ってもこれを排して愉快にその方面へ深く這入(はい)り這入りしてきてあえて倦(う)むことを知らず、二六時中ただもう植物が楽しく、これに対していると他のことは何にもかも忘れて夢中になるのであった。こんなありさまゆえ、時とすると自分はあるいは草木の精じゃないかと疑うほどです」(同上)

 長い引用になりましたが、「植物・草木の精」と自称する人は、おそらく牧野少年くらいなものでしょう。この文章は昭和十九年に書かれています。八十二歳の時です。(牧野さんについては、この駄文集録の、どこかで触れています)

● 牧野富太郎(まきのとみたろう)(1862―1957)=植物学者。土佐国(高知県)佐川(さかわ)村(現、高岡郡佐川町)の酒造家の生まれ。幼くして父母、祖父を失い、祖母に育てられ、6歳で明治維新を迎えた。9歳のとき寺子屋に入り、植物に興味を覚え始めた。1872年(明治5)寺子屋廃止に伴い藩校の名教(めいこう)館に入りヨーロッパの科学に接した。2年後、学制発布に伴い名教館は廃止となり、新制の小学校に入学(12歳)。2年間で教程を終えて退学、植物の調査・採集に熱中した。1879年、17歳で師範学校教諭永沼小一郎(ながぬまこいちろう)に師事、近代科学の精神について自覚、本草(ほんぞう)学から植物分類学へと転進、1881年、東京で勧業博覧会を見学の際、田中芳男(たなかよしお)に面接、東京大学植物学教室を訪ね、標本と海外の文献に接した。郷里に帰り理学会を創立、科学思想の普及に努めた。/ 1884年、再度上京、東京大学教授の矢田部良吉に認められ植物学教室に出入りを許され、植物分類学の専門的研究頭した。1888年『日本植物志図篇(へん)』創刊。以後、精力的に新植物の発見命名、記載の業績を積み、植物分類学の第一人者となった。1890年、一時、教室出入りの差し止めを受けるなど圧迫があったが耐え、1893年帝国大学助手、1912年(明治45)講師となる。教務のほか、民間の植物同好会による採集会を指導し植物知識の普及に尽力し影響を残した。1927年(昭和2)65歳で理学博士、1939年77歳で退職した。1950年(昭和25)日本学士院会員、翌年文化功労者、1953年東京都名誉都民となり、95歳で死去するとともに文化勲章を受章。[佐藤七郎]『『牧野富太郎選集』全5巻(1970・東京美術/複製・2008・学術出版会)』(ニッポニカ)

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 牧野富太郎さんは、特異な人だったと、改めてぼくは感じいっています。幼児、両親に先立たれ、天涯孤独の生活を「草木を友」とし明け暮れたし、成長してからは「草木を恋人」として惚れぬいて、ついには未曽有の「植物分類学」を生んだ。「常軌を逸する」という語がありますが、牧野さんは、そういっただけでは足りない、けた外れの波乱万丈の生涯だった。常軌を逸すると、ある人は狂気に見舞われるが、牧野さんは「狂気を逸する」人だった。だから彼は「草木の精」になったのでしょう。物事に引き付けられると、人は何をするのか、何をしてしまうのか、その好個の典型を「牧野富太郎」に見ていました。ある面において、牧野富太郎という存在は、「学校教育」を、根底において考えさせてくれる、ぼくにとっての「教師」でもあるのです。彼を、学校が寄せつけなかったのか、彼が、学校を寄せつけなかったのか。

 ぼくが好んで使う表現に「端倪すべからざる」というのがあります。「[名](スル)《「荘子」大宗師から。「端」ははじめ、「倪」はおわりの意》 物事の初めと終わり。事の始終。 物事の本と末、終わりと始めを推しはかること。あらかじめ予想すること。推測。「この子の才能には端倪すべからざるものがある」」(デジタル大辞典) ー どうにも破天荒な、桁外れな「努力」「精進」を指して使いたいんですね。ぼくは、若いころからクラシック演奏会によく出かけていました。「この演奏家なら、いちばんいい席で聴いてんみたい」という願いが強かった。予想にたがわない演奏だと、ぼくは心からの拍手(感動)を覚えたものでした。「素晴らしいから、ブラボー」じゃない、彼や彼女の演奏の裏付けとなっている技術や感性、それを育て上げるには、凡人の想像もつかない「練習」(努力・精進)があったハズで、いわば、心からの拍手は「ぼくにはとてもできなかった精進・向上心」と「この人が続けた長い長い訓練の積み重ねには、手を叩くしかないという讃嘆の念」、「自分を忘れての、無条件の脱帽」、そういう意味があったんだとぼくは何度も納得したのでした。だから、「俺だって、やろうと思えば」という気にさせる程度の演奏などは、歯牙にもかけたくなかった、たまに間違えて、そんな演奏に出くわしたら、入場料を返せ、と言いたくなります。実際には二度ばかり、そんなのがありましたよ。

 疑いもなく、 牧野さんは「草木の精」だったでしょう。「秋の七草」を取り上げたのも他意はありません。牧野植物学をまた、ゆっくりと考えたくなっただけでした。牧野さんには、今でいう「学歴」はほとんどありません。もし彼が当たり前に学校に縛られ続けていたら、「草木の精」になるどころか、植物学にさえ興味を失っていたかもしれません。学校はある種の人々には、こらえきれない「鬼門」だったのではないでしょうか。牧野さんなどのような存在は、軽々と(ではなかったと思います)学校制度の軛を突き抜けて、好きなことに専心することが出来る人生を送られた人でした。

 その反対に、学校という「軛」「絆」に、早い段階で「道(行く手・将来)」を阻まれた若い人たちの無念を、どのように受け止められるのか、それを想うのは、今のぼくに与えられた責務(課題」でもあると、強く考えてもいるのです(そう思い続けて数十年が経ちました)。学校から弾かれ・阻害されたからこそ、「こんな人生」を粒粒辛苦して生きてきた、多くの人からぼくは学んできました。何十人もいます。この雑文集にも、その何人かを取り上げてみました。いずれ、あまり美しくもない、(日常的に発生している「虐殺」や「暴力」に対して、隠蔽し、なかったものにしておきながら)空々しくも個性を尊重しますなどという、「(いかにも取り澄ました)学校の顔貌」に対して、いろいろな方法で、精一杯に「ナンセンス」をぶっつけた「青春の像」を語ってみたいですね。驚くほど、たくさんいるんですよ。

 彼(彼女)を、学校が寄せつけなかったのか、彼(彼女)が、学校を寄せつけなかったのか。学校は「センス」(常識)を振りかざします。しかし、それはおかしいではないかと「ノンセンス」(常識を無化する)という「異議」を突き付けた人々の系譜というものもあるんですね。異論が存在しない「集団」は存続できニア。遠からず解体します。(学校という仕組みは、せいぜい百五十年そこそこの来歴しかないものです。それがなかった時間の方がはるかに長く、その状態こそ「当たり前(センス)」だったんだね。でもいま、この「センス」が「ノンセンス」を突き付けられているのです)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。