花曇り曼殊沙華咲き稲の波(無骨)

 【越山若水】田の畦(あぜ)に、川の土手に、民家の片隅に、墓地の近くに、真っ赤なヒガンバナが群生している。彼岸が近づくと忽然(こつぜん)と現れ、燃え立つような朱色、毒さえ持つという妖しい花である▼その容姿や特徴から多くの別名がある。仏典にある赤い花の名から「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」、炎を連想させるため「火事花」「狐(きつね)のろうそく」と称され、亡くなった人のよみがえりとする「死人(しびと)花」「幽霊花」、花と葉が同時に見られないため「葉見ず花見ず」とも呼ぶらしい▼「歩きつづける彼岸花咲きつづける」。大正―昭和の俳人、種田山頭火の一句である。托鉢(たくはつ)と放浪の旅を生涯続け、大いなる自然や自らの心情を自由律俳句で表現した。紹介した句は、鮮烈すぎるヒガンバナの赤に、漂泊するわが身の生き方を重ね合わせたのだろう▼ヒガンバナの葉は花が枯れた後で生えてくる。競争相手が少ない晩秋から春先にタップリ光を浴びる戦略。また農家にとっては、有毒とはいえ球根を水でさらせば飢餓をしのぐ救荒食品になる。畦や土手に植えれば雑草の発芽を抑制し、モグラなどの防除にも役立つ▼華麗で人目を引く半面、内に毒を秘めた魔性の花…。数ある呼び名が示すように、ヒガンバナには誤解もあるようだ。ただ他の植物と一線を画す生存戦略、それを利用した先人の知恵はお見事。納得ずくのその理由を知ると、親しみを覚える花である。(福井新聞・2021/09/12)

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 「じゃがたらお春」に呪われたかのように、昨日は、いったいどれだけの時間を「長崎物語」に費やしたでしょうか。歌謡曲と侮るなかれ、流行り歌と蔑むなかれ。長崎を歌った歌は数知れませんが、この四百年の歴史を呼び覚まさんばかりに、遥かの時代に生きた一人の女性を、たった三分のドラマにしたものは、他に例を見ないのです。この島社会の政治や権力が振り落とす刃に翻弄された一女性、それも異国の地で果てた女性に思いを寄せながら、一介の歌謡曲、たかが流行歌にしてなしとげられた歴史物語だったと、ぼくは感じ入っていたのです。四百年も前の一女性の生涯を、人馬の「長崎物語」に仕立て上げた心持ちは、いったいどこにあったのか、ぼくにはそれが不思議でならなかったのです。歌が🏁になる、そんな事例は腐るほどあって、ぼくたちはその🏁の下に、一億一心、欲しがりません勝つまでは、とわが身の「奴隷」あることを忘れて滅私奉公させられてきた、あるいは喜んで「奉公」もしたのでした。

 本日もまた、「赤い花なら曼殊沙華 ♫」と相成りました。昨日から漠然と感じていたのですが、いよいよ、もう一つの「長崎物語」を、同じような曲調で歌わなければなりません。幸か不幸か、今回は主題曲はなさそうですが、テレビドラマや舞台では、もう一つの「長崎物語」はしばしば上演されてきたのです。(右は楠本イネさん)

 「オランダおいね」と呼ばれた女性をご存じでしょうか。あるいは楠本イネ。昨日は「ジャガタラお春」だったから、今度は「オランダおいね」というのも調子がよぎますが、実在の方です。このような命名は当時も今も健在で、いずれも男どもが野次馬根性を丸出しにして命名したものかもしれません。詳細は下に示した事典に譲りますが、江戸期は文政十年、長崎で生まれ、明治三十六年東京にて死去された。よく知られているのは「本邦最初の女医」と言われた職業婦人でした。ドイツの医師だったフォン・シーボルトの娘で、イネの母親・滝(瀧)は長崎の遊郭の「其扇(そのぎ)」という源氏名を持ったシーボルト専任(おかかえ)の女性でした。異国の人だった父親は幕府禁制の「大事件」を起こし、彼女が二歳の時に国外追放。

 (父親であるシーボルトはドイツ人。しかしそれではこの長崎に上陸できなかったので、「オランダ人」と偽って日本に入国したのです。もちろん、初めからの計画でした。その顛末はまだ解明されていないと、ぼくには思われます。彼の国籍が、事前に明らかになっていたら、「おイネさん」はこの世に存在しなかった。運命の妙ですか)

 いねさんは、「異人」と「遊女」と噂される二親から生まれた、「混血児」だということで差別を受けることもあった。成人前に医学にこころざし、大変な努力の末に「産科医」として開業するに至る。この間、彼女は様々な男性の援助や手助けを受けた。詳細は避けます。一、二の名前を挙げると、二宮敬作(外科)、石井宗謙(産科)、村田蔵六(後の大村益次郎ー日本陸軍創設者。イネは益次郎に恋心を持っていたというのが、小説家の司馬遼太郎さん)、福沢諭吉、ポンぺ。後年には皇室の御用係に任命されています。

 (あまりここで触れたくないのですが、岡山の医師だった石井宗謙によって、望まない妊娠をし、生まれてきたのが長女「高(子)」です。その娘も医学の勉強をしますが、やがて、母親と同様に、医師による、願わなかった子どもを妊娠しています)(このところを含めて、吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘」を参照。また司馬遼太郎の「花神」は大村益次郎が主人公の小説です。1977年だったかにNH✖で「大河ドラマ」になっています。ぼくは小説は熱心に読みましたが、ドラマは見ませんでした )

● 楠本イネ(くすもとイネ)=[生]文政10(1827).5.6. 長崎 [没]1903.8.26. 東京 女医で P.シーボルトの娘。失本 (しいもと) ともいう。 19歳で伊予に行き,二宮敬作に外科を学び,弘化2 (1845) 年,岡山で石井宗謙に産科を学ぶ。嘉永5 (1853) 年,石井との間のタカを出産。同4年から安政1 (1854) 年まで長崎で阿部魯庵に産科,外科を学び,同年宇和島に行って二宮および村田蔵六 (大村益次郎) に蘭学および産科を学ぶ。文久1 (1861) 年,シーボルトの再来日のため長崎に戻って開業のかたわら,長崎養生所の J. L. C.ポンペなど歴代のオランダ人教師の講義を受け,明治3 (1870) 年上京。 1877年まで築地で産科を開業。 1873年,権典侍葉室光子の懐妊の際,宮内省御用掛に任命されてその出産を扱った。(ブリタニカ国際大百科事典)(右写真はイネと高)(イネさんは娘の高(高子)のなまえを「タダ」とつけたとされます。意味深な命名だったようです)

● シーボルト=ジーボルトとも。江戸後期のオランダ商館医。ドイツ人。ビュルツブルクの生れ。医学と博物学を学び,1823年長崎出島に着任,日本研究のかたわら日本人患者を診療し,1824年長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾を設けて高野長英高良斎(こうりょうさい),伊東玄朴,戸塚静海,美馬順三,二宮敬作ら多くの門人を指導,1826年には商館長の江戸参府に同行した。1828年シーボルト事件を起こし翌年追放されたが,日蘭通商条約締結後の1859年長子アレクサンダー〔1846-1911〕を伴って再び来日した。著書に《日本》《日本動物誌》《日本植物誌》《江戸参府紀行》などがある。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)(滝)との間に生まれた娘〈いね〉(楠本いね)はのち女医となっている。アレクサンダーは英国公使館などの通訳を経て,1870年―1910年日本外務省に勤めた。(マイペディア)

● シーボルト事件=江戸後期、ドイツ人医師シーボルトの国外追放事件。1828年(文政11)9月、オランダ商館付医官シーボルトが任期を終えて帰国しようとした際に、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。そのオランダへ持ち帰る荷物のうちに、伊能忠敬(いのうただたか)作成の日本地図など多くの禁制品のあることが発覚して、事件が起こった。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、シーボルトはおよそ1年間出島(でじま)に拘禁され、29年9月25日(陽暦10月22日)「日本御構(おかまえ)」(追放)の判決を受け、同年12月日本より追放された。この事件に連座した日本人は、江戸では書物奉行(ぶぎょう)兼天文方高橋作左衛門景保(かげやす)(入牢(にゅうろう)、吟味中病死)、奥医師土生玄碩(はぶげんせき)(家禄(かろく)・屋敷没収)、長崎屋源右衛門など。長崎では門人二宮敬作高良斎(こうりょうさい)、出島絵師川原登与助(とよすけ)(川原慶賀(けいが))はじめ、通詞(つうじ)の馬場為八郎、吉雄(よしお)忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門(やえもん)、同弥七郎から召使いに至るまで五十数人の多数に上った。[片桐一男](ニッポニカ)

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「シーボルトの娘で、日本初の産科女医となった「楠本イネ」の生涯を紹介します。

【楠本イネ】長崎出島に赴任していたドイツ人医師シーボルトと日本人妻の楠本滝の娘として、1827年長崎に生まれる。/ 父シーボルトは、イネが2歳の時日本を追放され、幼少期は母のもとで暮らす。/ 18歳の時、向学心から、シーボルトの弟子であった二宮敬作を頼り、この地(西予市宇和町卯之町)を訪ねた。/ 敬作の下で医学を学び、数ヶ月後、産科修行のため岡山に向かう。その後、28歳で再び敬作に師事し、卯之町、宇和島、長崎と敬作に同行。共に開業し、多くの人を助けた。/ 47歳で宮内庁御用掛になるなど、高い医術を持ち、日本初の女性産科女医といわれる。(後略)」西予市HPより(https://www.city.seiyo.ehime.jp/miryoku/shinogaiyou/shinoijin/ijin/6393.htm)

 (ゆかりのある地域が「イネ」さんをめぐって、いろいろな「張り合い(本家争い)」をしています、岡山県はどうなんですか。後輩が役所にいるので、近々、伺ってみたいですな)

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 お春さんは四百年近くも前の人。おイネさんは二百年近く前の人。いずれも女性で、「混血(ハーフ)」であったことなど、その境涯は似ていなくもありません。この二人を、ぼくが続けて考えてみたかったのは、「女性が生きる」、その環境というか時代についてでした。男社会であり、封建体制下、身分制もまだ根強く残っていた時、「男尊女卑」という価値観を疑わなかった「世間」に立ち向かうのに、どのような手段・方法(生き方)があったのか。それを考えるにはあまりにも不勉強ですから、ほとんど何も語れないという仕儀にお落ち込んでいます。ただ言いたいのは、体制や慣習の軛(くびき)から解放されるには、それを飛び越えるだけのエネルギーが必要だったということです。その先には何が待っているか。(この二人の外に、「軛を乗り越えよう」と果敢に挑戦した、何人もの女性がおられます。いずれ、触れてみたい)

 狭い価値観に逼塞するのも一つの生き方であり、それを否定するだけのエネルギーを燃やして生きるのもまた人生です。おそらく、いろいろな面において、今日は彼女たちの時代や社会とは雲泥の差があると言いたいところですが、どっこい、そうはいかないんじゃないですか。時代が進んだという感覚(錯覚)があるだけに、むしろ、事態は悪化していると、ぼくは考えています。国家という「絆」はすでに綻(ほころ)びているにもかかわらず、かえって時代認識や感覚は「旧態依然」というか「先祖返り」をしているのではないかとさえ言いたくなります。(時代が過ぎていくというのは、あるいは「堕落」や「退歩」の道を選ぶということではないでしょうか)

 そんなときに、時代や社会の「牢固たるアンシャンレジーム」を打破する力学はどのように働くのか、それを少しはまじめに考えたいと思った次第です。(ぼくの耳底には、まだ「赤い花なら曼殊沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る ♯」というメロディが流れ続けています。その「雨」に打たれているのは二人の女性、お春さんとおイネさん。「風邪をひかないように」、「きっと明日は晴れるからね」、そう言いながら、すり寄る「狼ども」がいる。時代が変わらないのか、あるいは、「おのこども」の莫迦さ加減が変わらないのか。「女性が変わる」というのは、まちがいなく、「男が変わる」ことを意味しています。男性の解放がなければ、女性の解放もまた、生じないのは、水は高きから低きに流れるのに等しい。だからこそ、いい変り方をしたいものだね。まだまだ、水流は濁り、かつ滞ったままです。

 現状の「体制」を放置しておくと、やがて生き物はすべて窒息死する運命にある。「男尊女卑」を固守するのはだれか。偏見や差別は、まるでウィルスのように感染し、誰かに宿る。でも感染した当の宿主(しゅくしゅ・やどぬし)が死ぬと、当たり前のこと、ウイルスも死滅する。偏見や差別を感染させる者は、自分を殺すことになる、それを知らないんですか。

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 気がつくと、ふっと横を通りすぎる、一人の托鉢。耳をそばだてると、確かに何かを、口の中で呟いている。かすかに聞こえる。<「歩きつづける 彼岸花咲きつづける」。大正―昭和の俳人、種田山頭火の一句である>

 この「俄(にわ)か托鉢」は、時代や社会(の旧慣・旧習)を乗り越えていたのだろうか。それとも、歩き続けた挙句に、果して、如何しようという算段でもしていたのだろうか。遠くから、また一人大儀そうに歩いてきました。いかにも弱り切った、老人でした。彼は、矢立から筆を取り出し、何か書いていま。

  ・此道や行人なしに秋の暮   

  ・秋深き隣は何をする人ぞ   

  ・旅に病で夢は枯野をかけ廻る

‘‘‘‘

  ひ弱いかな、おのこごたちよ。時代の際(きわ)も国境の壁も、やすやすと突き抜けてみようではないか。(今日は歌はありません。五七五で済ませます)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)