
土佐路に秋 凜と白い彼岸花 香美市土佐山田町平山
朝晩はすっかり過ごしやすくなった県内。人里近いあぜ道や土手には、彼岸花がぽつぽつと色づき始めた。マンジュシャゲと呼ばれる晩夏の花。土佐路も少しずつ秋色に染まりつつある。
香美市土佐山田町平山地区の道路脇。燃えるような深紅の花々に囲まれて、白い彼岸花が凜(りん)とたたずんでいた。この時季にしか見られない赤と白とのコントラストが、散歩中の住民にひとときの涼を運んでいる。/ 辺りには、新改川のせせらぎ。いつしか小さくなったセミの声が、過ぎゆく夏を惜しんでいるように聞こえた。(小笠原舞香)(高知新聞・2021/09/12)
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この花が咲くころになると、柄にもなく、いろいろなことが思い出されます。そのほとんどは、六歳か七歳ころまでの田舎(石川県)の記憶です。京都時代にも、少し思い出そうとすれば、何かが出てきますが、さて東京に来てからは、何も思い浮かばないのですから、ぼくにとって都会は「鬼門」だったということです。この山中に越してきて(七年前)から、散歩に出かける田圃の畦道(あぜみち)や農道に、季節になると、実に見事に咲き競っています。いったい誰が植えたのでしょうか。だれも手入れをしている風には思えないのに、きっと彼岸の頃には、みごとに咲いているのです。誰かに見られるために咲くのではない、時期が来れば自分から咲こうとするのです。
「花神」という言葉があります。広く知られたのは司馬遼太郎さんの小説「花神」によってです。大村益次郎を書き切った、歴史小説でした。この花神は「花をつかさどる神。花の精」(デジタル大辞泉)というもので、山中深くか、天上においてか、それぞれの花々を、きっと時期に合わせて咲かせるのだそうです。彼岸花を見ていると、なんだかそのようなことなのかなあと思わされてきます。反面で、この花はあまり縁起の良くない花という印象がぼくにはある。「しびとばな」「ゆうれいばな」「すてごばな」「葉見ず花見ず」などなど、「いい加減にしなさい」と言いたくなるような「悪名」が残されています。仏さまの世界では「天の国」に咲く花なんですって。

きっと、まだまだ小さかった頃、だれかに教えられて、この花の験(げん)の悪さを覚え込んだのもかもしれません。別名「曼殊沙華」でもよく知られています。「〘名〙 (「まんじゅしゃけ」とも) (mañjūṣaka の音訳) 仏語。赤色(一説に、白色)で柔らかな天界の花。これを見るものはおのずからにして悪業を離れるという。四華の一つ、紅蓮華にあたる。日本では、彼岸花(ひがんばな)をさす。《季・秋》 〔いろは字(1559)〕 〔法華経‐序品〕」(精選版日本国語大辞典)
中国伝来と言われています。仏教にも縁の深い植物で、異説取り混ぜ、多くの事々が交錯しています。「マンジューシャカ(読み)まんじゅーしゃか=…日本に野生するのは三倍体で,種子はできないから人間が持ち歩いたものである」【堀田 満】 「曼珠(殊)沙華ということばはサンスクリットのマンジューシャカmañjūṣakaの音写で,如意花,檻花などとも漢訳されるが,このインドの植物は中国や日本の赤いヒガンバナではなく,白い花を咲かす類品と思われる。仏典では,曼殊沙華は曼陀羅華,摩訶(まか)曼陀羅華,摩訶曼殊沙華,蓮華とともに〈五天華(てんげ)〉の一つとされる。…」(世界大百科事典)

ことばの迷い道に入り込まないように、ここらで引きかえします。ぼくは、小さい時から草花大好き人間で、自分で育てた花を、荒み切っていた学校(教室)に持って行って、教卓に飾ったことも数え切れないほどでした。今の自分からは考えられないような一面を持っていたのですね。家族のための糧秣を獲るため勤めるようになってから、よく出かけた職場近くの喫茶店に、たくさんのユリの花を束にして持参したこともある。自庭で育てたのです。店のママは誤解はしなかったと思いますよ。ぼくは面倒を必ず避ける人間ですから、余計な邪念は一切持たないように気を付けていました。君子でないぼく、小人も危うきに近寄らず、でした。
まったく相反する含意がこの花にこめられています。「曼殊沙華」と言って「これを見るものはおのずからにして悪業を離れる」とされてきました。さすれば、ぼくなどはもっと「いい人間」になっていてよかったのに、と思わないでもありません。これまでどれくらい、この花の満開と散華を見てきたことか。「天人が雨のように降らすという」と仏説にもあるようで、この花に託されたお釈迦さん一統のこころ尽くしが感じられもします。また、田畑の畔などに植えられているのは、野ネズミの害を防ぐためだとも言われ、その球根には猛毒があると言われているのです。バラに棘(とげ)あり、ヒガンバナに猛毒ありです。「美しいもの」に惹かれて、手を出すと祟りがあるということですかね。こんな経験はしないに越したことはないですね。

この花を取って首飾りなどを作った記憶もあります。ずいぶんたくさんの花を折り取って、花束にしては遊んだこともあります。それを好きな女の子にあげたという記憶はまったくありません。多分、ぼくは相当に晩稲(おくて)だったので、小学校を終わるころまでは(ひょっとしたら、中学校を終わるころまで)、ジェンダーレスで生きていたのではなかったか。色気も食い気も、なかなか育たなかったようです。「今はもう秋、誰もいない海 ♬」、そんな気分で生きている。
● ひがん‐ばな【彼岸花】=〘名〙 ヒガンバナ科の多年草。中国原産といわれ、古く日本に渡来し、本州以西の各地の土手、路傍、墓地などの人家の近くに生え、また、まれに栽培もされる。高さ三〇~五〇センチメートル。地中にラッキョウに似た鱗茎があり外皮は黒い。秋、葉に先だって花茎が伸び、頂に六個の花被片をもつ赤い花が数個輪生状に集まって咲く。花被片は長さ約四センチメートルの披針形で外側に巻き縁がちぢれている。花後、鱗茎から線形の厚い葉を叢生する。古くは救荒作物の一つとされていた。全草に有毒成分を含むが、煎汁を腫れもの・疥癬(かいせん)などに塗ると効果がある。漢名、石蒜。まんじゅしゃげ。しびとばな。てんがいばな。ゆうれいばな。すてごばな。はみずはなみず。《季・秋》 〔和漢三才図会(1712)〕(精選版日本国語大辞典)
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この駄文を書いているのは、午後一時半過ぎです。今朝は早くから(強い日が差さない前に)、草取りに専念。このところ雨が続きましたので、なかなかはかどらないのですが、ようやく三分の一ほどの草取りが終わったところです。もたもたしていると、また成長しだしますから、油断も何もありません。草取りをしながら、さかんに考えていたのは、「ジャガタラお春」という女性のことでした。ぼくが彼女の「名前」に出会ったのはまだ五歳になる前だったと思う。「ジャガタラお春」と聞いて、どうにもその名前がこびりついてしまった。その元凶は「長崎物語」という流行歌でした。題名などはすっかり忘れていましたが、「お春」さんて、誰だろうという謎がぼくに取りついたのでした。やがてその謎は氷解するのですが、ますます「ジャガタラお春」さんに惹かれていきました。詳細は以下の事典を参照してください。
こんなことは学校では絶対に教えてはくれませんでした。「混血児」「異教徒」、江戸時代の禁教政策、鎖国政策。当時は、いうまでもなく、長崎が最重要地でした。イタリア人の航海士と日本女性の間に生まれたのは「お春」さんでした。今でいうところの、「ハーフ」でした。時の幕府の異教徒取締り強化によって、彼女はインドネシア(バタビア・ジャカルタ)に移送される。その消息も、少なからず残されていたのです。いわば国外追放です。江戸時代と今日の政府の外国人に対する政策に、根本的な違いがあるのかどうか。今春、名古屋入管で、不法滞在(残留?)を問われた、一人の女性が死亡(殺されたのかもしれない)するという事件が起こり、それに対して当局は十分に情報を明らかにしないまま、女性の死を闇に葬ろうとしています。

「異質との共存」という大きなテーマを掲げて、ぼくの友人は七十年以上も苦悩されてきました。何時も電話をくれる、京都在の「在日コリアン」の友人です。「異質」とみなされる側ではなく、「異質」とみなす側が、その問題にどのように立ち向かうのか、何時でも、それが問われているのですが、それに向き合うことすら避けている人があまりにも多すぎます。四百年前の「お春」さんは江戸期の長崎で「異人」とされ、まるで「流罪」のようにインドネシアに流されました。この島社会で、「異質との共存」問題で、変わらない、変わろうとしない、変えたくないという、その理由、いったい何だというのでしょう。
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スリランカ人女性死亡、名古屋入管の局長ら4人処分…調査報告書を公表

名古屋出入国在留管理局(名古屋市)で3月、収容中のスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)が死亡した問題で、出入国在留管理庁は10日、同局の医療体制や情報共有などに複数の問題があったとする調査報告書を公表するとともに、同局の佐野豪俊局長ら幹部4人の処分を発表した。/ 処分は、佐野局長と当時の渡辺伸一次長が訓告、処遇部門の幹部2人が厳重注意。同庁の佐々木 聖子 長官は、「出入国在留管理局の施設でお亡くなりになり、お元気な姿で本国のご家族の元へお帰り頂けなかったことについて本当に申し訳なく思う」と述べた。/ ウィシュマさんは日本語を学ぶため2017年6月に来日したが、日本語学校に通わなくなり1年で除籍。その後不法残留となり、昨年8月に警察に出頭して同局に収容された。今年1月中旬から体調不良を訴え、3月6日に死亡した。(読売新聞・2021/08/10)
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大げさではなく、ぼくの人生において、殆んど七十年以上に及ぶ、かすかな記憶が「ジャガタラお春」さんに纏わって、残り続けているのです。いったいどうしてか。その理由は、実に明解です。上でも書いたように流行歌「長崎物語」を、話言葉さえ使いきれていなかった幼児期に、ぼくは耳から、その歌詞を入れてしまっていたのです。成人してから「蝶々夫人」などというつまらない歌劇には、殆んど心を動かされませんでしたが、この「お春さん」を唱いあげた流行歌は、ぼくをつかんで放さなかった。下に歌詞を出しておきました。ずっと疑問のままに残り続けていることもあります。何故、この歌が世に出たのは、昭和十四年だったかということ。

「赤い花なら曼殊沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る」いつだったか、ぼくはグラバー邸を訪ねたし、オランダ坂も歩きました。高校時代だったか。「濡れて泣いてる じゃがたらお春」と、五歳にも満たない幼児が、歌の意味を知る由もなかったままで、歌っていたのです。想像できますかな。哀愁を帯びた調子に身も心も痺れた(かどうか怪しい)、そんなことすらわかりもしないで、ひたすらこの歌がぼくの胸中で響いていました。中高で、江戸時代の鎖国、キリシタン禁止令、島原の乱、…と、いろいろなことを学んだといいたいんですが、そんなことはすっかり忘れました、でも、少なくとも禁教令下にあったキリスト教信徒たちが、どのような運命を歩かなければならなかったか、お春さんの生涯を通して学んだようにも思ったのです。その意味では、ぼくはこの歌をうたった「由利あけみ」という未知の歌手に感謝している。幼いぼくの頭にこびりついてしまった歌は、彼女が歌ったものでしたから。
今朝は草取りを早々に切り上げて、何十年ぶりかで、由利さんのレコードを聴いていました。以下に、物好きにもほどがあると非難されますでしょうが、この「長崎物語」(youtube)を、何人かの歌手で紹介しておきます。何時にも増して冗談が過ぎますね、悪しからず。ぼくが感心するのは、この歌謡曲が作られたのは昭和十四年でした。まだ、調べてはいませんが、この「ジャガタラお春」さんの運命と「太平洋戦争」にどんな関係があったのか、戦時下、あるいは、その後の日本とインドネシアとの国交回復後の交流を考えるにつけ、ぼくには興味津々です。もちろん、デヴィ・スカルノさんともつながるようにも見ているのです。「うつす月影 彩玻璃(いろガラス) 父は異国の 人ゆえに 金の十字架 心に抱けど」と、この詩を作った梅木さんについても、まだ十分に調べが終わっていません。
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● ジャガタラお春=没年:元禄10(1697) 生年:寛永2(1625) 江戸前期,鎖国によってジャガタラ(ジャカルタ)へ追放された,長崎生まれの混血女性。お春は父イタリア人航海士ニコラス・マリンと日本人の母マリアとの娘で,洗礼名はジェロニマ。寛永13(1636)年に江戸幕府はキリシタン取り締まり強化のため,ポルトガル人およびその妻子287人をマカオへ追放した。さらに島原の乱後の同16年イギリス人,オランダ人などと結婚した日本人およびその混血児ら32人を追放した。その中に15歳のお春や母,姉もいた。6年後,21歳のお春は平戸生まれのオランダ人シモン・シモンセンと結婚。東インド会社の事務員補であったシモンセンは,のちに税関長へと昇進し,同社の外交折衝においても活躍した。公職引退後は手広く貿易業を営み,奴隷を多数使って裕福な生活を送った。お春との間に4男3女をもうけ,そのうち3人は早世した。一家は本国オランダへの召還命令を受けたこともあったが,日本人の血統であることから引き続き居住することを許された。1672(寛文12)年5月夫の死後,お春は高額な遺産を相続し,残された家族と共に,経済的には何不自由のない生活を送った。1692(元禄5)年5月17日にお春は遺言状を書き,若くして未亡人になった娘マリアや孫達に遺産を分配し,自らの手で「ぜらうにま しるし」と日本の仮名で署名した。 お春は「千はやぶる神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや,ゆかしや,見たや」というジャガタラ文(鎖国下,ジャガタラへ追放された人々が母国へ宛てた手紙)によって,江戸時代から今日に至るまで,悲劇のヒロインとして知られ,短歌や流行歌にも歌われている。しかしお春のジャガタラ文は,長崎の文人西川如見による創作といわれ,史実のお春との間には大きな落差がある。<参考文献>西川如見『長崎夜話草』,『長崎市史―通交貿易篇西洋諸国部』,岩生成一『朱印船と日本町』,同『日本の歴史』14(岸野久)(朝日日本歴史人物事典)

● オランダ屋敷(オランダやしき)=江戸幕府がキリシタン根絶を目的として,ポルトガル人を隔離,集合居住させるため長崎江戸町前の海を埋立てて造った築島 (つきしま) ,出島の総称。鎖国の結果,寛永 18 (1641) 年以後オランダ人の専用居留地となり,カピタン (甲比丹) 部屋をはじめ,事務所,倉庫,庭園などがあり,鎖国期間中は唯一の西洋情緒を伝えた場所であったので,この称がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

作詞:梅木三郎、作曲:佐々木俊一、唄:由利あけみ 1 赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ) 阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の ああ 鐘が鳴る ララ鐘が鳴る 2 うつす月影 彩玻璃(いろガラス) 父は異国の 人ゆえに 金の十字架 心に抱けど 乙女盛りを ああ 曇り勝ち ララ曇り勝ち 3 坂の長崎 甃路(いしだたみ) 南京煙火(なんきんはなび)に 日が暮れて そぞろ恋しい 出島の沖に 母の精霊(しょうろ)が ああ 流れ行く ララ流れ行く 4 平戸離れて 幾百里 つづる文さえ つくものを なぜに帰らぬ じゃがたらお春 サンタ・クルスの ああ 鐘が鳴る ララ鐘が鳴る
①由利あけみ https://www.youtube.com/watch?v=idBI3SKymhs

②渡辺はま子 https://www.youtube.com/watch?v=ZK5FhCTxqHU
③谷真茜美 https://www.youtube.com/watch?v=-xHIJ9nfphs
④平野愛子 https://www.youtube.com/watch?v=2-HzT8sI18E
⑤美空ひばり https://www.youtube.com/watch?v=91-WfmHfjqw
⑥三沢あけみ https://www.youtube.com/watch?v=ttGmDq_aYnM
⑦森昌子 https://www.youtube.com/watch?v=650lXIEt3bo
ここに挙げた歌手のそれぞれに、ぼくにはいくつもの想い出があり、いったいどれだけ彼女たちの歌を聞いてきたことか、まるで学校の「勉強」はそっちのけで、流行歌を聞いたり演奏したり(ギターやアコーディオンなどで)、まったく自己流でしたが、自分が楽しむためだけの時間をぼくはたくさん使ってきました。何十年ぶりに、この「長崎物語」を聴いて、七十年前からの、わが悪童ぶりがよみがえる心地がしました。なにしろ、昭和十四年の歌です。まだ、ぼくは「存在の痕跡」すらなかった時代でした。それを五歳くらいで歌っていました。周りの大人たちの素振りを真似ていただけでしたが、「ジャガタラお春」さんについては、「混血」などと謗られたり蔑まされた、そんな存在が四百年近くも前に、「異国」で生き死にしたという運命を、物心がつかない、幼いぼくが、どのように感じていたか、それはもう微かな断片すら、記憶には残っていません。(「ジャガタラ」というカタカナ表記で、ぼくの脳細胞にこびりついています。「自主トレ」をしていると、思わないことが生じるんですね)
(*ジャガタラ【(オランダ)Jacatra】 の解説=インドネシアの首都ジャカルタの古称。また、近世、ジャワ島から日本に渡来した品物に冠したところから、ジャワ島のこと。デジタル大辞泉)(ジャガイモは、「ジャガタラ芋」の略で、ジャカルタから渡来したとされる)
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蛇足です。彼岸花(曼殊沙華)の英語名も参考までに。・Red spider lily ・Hurricane lily ・Red magic lilyなど、まことに刺激的な呼称ですね。また、花言葉もいろいろ、多彩です。「情熱・独立・再会・諦め・つらい想い出・再会を楽しみに」などだそうです。花の色は、主に「赤・白・黄」で、なお新たな改良が進められています。ぼくには、赤と白、それがいいですね。
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