【滴一滴】スマートフォンを手にした子どもたちがどんな被害に遭っているか。岡山県は昨年3月、疑似体験できるアニメ風のコンテンツを作った▼主人公の中学生は会員制交流サイト(SNS)の利用を始める。どんな使い方をすればいいか。選択肢が示されて、選ぶと場面が展開していく。知り合いが増え、相談に乗ってくれる人も現れる。「会って話を聞こうか」。誘われた時にどうするか。「ケータイ・スマホの正しい使い方」で検索できる。子どもたちにはぜひ試してほしい▼監修したのは、県内の高校や大学で講師を務める筒井愛知(よしとも)さん(54)。最終的には表現を和らげたが、当初は会いに行った主人公が帰ってこない最悪の展開も考えたという。現実の事件を見れば大げさではないだろう▼東京の女子高校生が殺され、群馬県に住む20代の男と妻が逮捕された。高校生は2年前にSNSで男と知り合ったという▼子どもの交友関係は大人の想像をはるかに超えて広がっている。「コロナ禍で自宅にいる時間が増え、ネットを通じて人と会う機会が増えている」と筒井さんは警鐘を鳴らす▼保護者向けの講演で筒井さんは親子の会話の大切さを訴えているそうだ。勉強以外の、たわいない話題がいい。「虹が出ているよ。きれいだね」。そんなふうに親子で空を見上げたことが最近、あっただろうか。(山陽新聞デジタル・2021年09月08日)
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子どもたちが携帯電話(ケータイ)やスマートフォン(スマホ)を持つことにより、子どもたちを取り巻く環境は、親世代が子どもだった頃に比べ、大きく変化しています。/ 親世代が子どもの頃には今ほどは巻き込まれる可能性がなかった問題に子どもたちは日常的に直面しています。/ このサイトでは、子どもたちがケータイ・スマホを使うときに巻き込まれるかもしれない問題について説明しています。/ 子どもたちの安全を守る一番身近な存在である「親」として、子どもと一緒にケータイ・スマホの使い方について考えるきっかけとしてお役立てください。※ このサイトでは、携帯電話、スマートフォン及びそれらと同様にインターネットに接続可能な機器(ゲーム機や音楽機器等)を「ケータイ・スマホ」と表現しています。(https://www.okayama-smartphone.jp/)
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携帯やスマホは、実に便利な道具です。この道具が新たに登場することによって、人間は自身の手足が、あるいは自分自身が大きくなったり、何でもできるような気持になったのでしょう。身の程を忘れるくらいに、それを手にして「鬼に金棒」という、身の丈に合わない錯覚を抱いたのかもしれない。人間の発明は、たしかに人間の欲望や願望を限りなく実現してくれることになりますし、そのことがまた新たな展開を生み出していくのでしょう。「文明の利器」などと言われて、この百年、さまざまな「道具」が作り出されてきました。原理は昔から分かっていたものもあれば、新たな発明や発見によってもたらされた新機軸もあります。
ぼくは、今や生活に欠かせなくなった、この手の「新機軸」を持っていないので、その良し悪しについて、なんとも言えません。未だに、これからもですが、ぼくは携帯・スマホは持たないはずです。持つつもりはないんです。出先で電話を掛ける必要があっても、公衆電話がないので、大変に困ったという経験が何度もあります。それでも、ぼくは持つ必要性を感じないんですね。一種の拘束・束縛感を常に感じさせられるというのは、ぼくには堪え難いこと。まるで犬のリードや首輪のような「絆」で、それで飼い主とつながっているという安心感を得る代わりに、解放されているという感覚を失ってしまった、そんな不自由な犬のようにはなりたくないのです。でも、今どきの人は、案外「束縛感」を求めているのかも。誰彼のみさかいなしに、とにかくつながっていたい、絆を求めたい(拘束されていたい)という強迫観念が渦巻いているのかもしれません。これは、新機軸である携帯やスマホがもたらした、新たな「文明病(civilization disease)」です。特効薬もワクチンも、まだ開発されていません。それなのに、感染者は激増中です。
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便利だから使うことに、ぼくも異論はない。問題は道具というものの「属性」を知らなければ、ついには道具に使われてしまうことになるということです。その「道具性」の必要性をどのように考えるかという視点が第一です。人類史の近年において、自動車はもっとも画期的な道具でした。これが作られたために、日常生活における「距離と時間」に対する感覚が、根本的に変化しました。それはその通りですが、車が異常に増えることによって、交通事故は激増し、事故死も驚異的な増加を見せてきた。さらに、化石燃料の典型であるガソリンを多用した結果、致命的な環境破壊に一役を買うことになった。自動車は事故死や環境汚染を創出するために生み出されたものでないことは言うまでもありません。でも、物には両面がある、くたちはそれをぼくたちは思い知らされたに違いありません。を自動車は現代の生活に欠かせませんが、必要を満たす以上に、自動車そのものに関心を持つとどうなるか。このような問題はあらゆる「道具」に付随して生じています。
携帯やスマホを使った事件や事故、あるいは犯罪が多発しているから、そのような危険な道具は使用禁止、ということにはならない。面倒ですから、途中を省きます。携帯と犯罪は、直接には関係ないということ、「酒」は車の運転には危険だから、一切禁止ということにならないのは当然です。酒を飲む飲まないに無関係に、自動車事故は起こります。飲酒運転ならなおさらに危険が増すのは当たり前です。携帯電話が普及し始めた当時、「援助交際」などというものが盛んに話題になり、未成年者が犯罪にかかわる、悪の温床になるとも言われました。たしかに携帯電話によって見知らぬ他人と接触する機会は格段に増え、その危険への性に警戒心が緩んだことも事実でしょう。だから、携帯を持つのはダメということにはなりませんでした。

以下の記事にある、つい最近の凶悪事件と、携帯やスマホは、直接のつながりはありません。まさか誤解する人がいるとは思われませんが、携帯やスマホを持つ人は須(すべか)らく、この手の事件を起こすなどというのは根拠のない戯言です。持っていてもいなくても、事件や事故を起こす人間は後を絶たないのは現実です。そして、便利な道具があるために、そのような禍々しい事件が起こる可能性が増えることは否定できない。だから、携帯やスマホがこんな事件を起こしたんだとは言えない道理です。問題はそれを使う人間の側にあります。
人間も、その身体を一つの「道具」として備えている。みずからの身体を使って、何かを実現する、あるいは表現するというように。何をか、言ってみれば、「自分らしさ」を。あるいは「自分が言いたいこと、したいこと」を、です。かなり以前ですが、身体は目的ではなく道具であるという「哲学」を学んだことがあります。例えば、カントなどはその代表者でしたね。道具の功利性・有効性(利用価値)に対して、人間性の「目的それ自体」=存在すること自体に、意味や価値(存在価値)を認めるというような哲学でした。今日(に限りません)、ここに奇妙な事態が生じているのです。「(人間という)道具が(機械・器械という)道具を使う」ことから、さまざまな事件や故事が生じているのです。「道具」には、どこまでいっても「判断能力」はないのですね。(この点については、どこかで触れたい)
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女子高生遺体遺棄 容疑者夫婦「静岡で解放するつもりだった」

東京都墨田区の私立高3年の女子生徒(18)の遺体が山梨県の物置小屋から見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕されたともに職業不詳の小森章平(27)と妻和美(いずみ)(28)の両容疑者が「女子生徒の親戚がいる静岡で解放しようと思っていた」という趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材で判明した。警視庁向島署捜査本部は、両容疑者が群馬県内の自宅を8月29日夜に車で出発した後、殺害を決意したとみて調べる。/ 捜査関係者によると、女子生徒は28日午後3時半ごろに外出し、墨田区内の駐車場で両容疑者の車に乗車した。3人は群馬県渋川市の両容疑者宅で1泊した後、29日夜に再び車で外出して山梨方面へ向かった。両容疑者は調べに「警察も動いているだろうと思い、直接東京には帰せないと考えた。女子生徒を静岡で解放した後、(章平容疑者の)実家がある三重に行こうと思っていた」などと説明しているという。 / 山梨県早川町の小屋には30日朝に到着。両容疑者はその日に遺体を遺棄したとして逮捕された。和美容疑者は「小屋に着いたあたりから気持ちの整理がつかなくなった」と供述している。 / 一方、章平容疑者と女子生徒は、約2年前にツイッターで知り合っており、捜査本部は和美容疑者が2人の関係を邪推していたとみている。章平容疑者は「妻からツイッターでのやり取りをやめるよう言われ、アカウントを削除した」と話しているという。【最上和喜、鈴木拓也、木原真希】(毎日新聞・9/2(木) 12:35配信)
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携帯やスマホが登場して、確実に広がったのは、見知らぬ人と接触する機会であり、そのことに対する躊躇・恐怖がなくなったことでしょう。(この辺は、ぼくにはよくわからない。そんな道具を使って未知の人と連絡をとったことはないのですから、あくまでも推察です)この点は、この「ブログ」のようなものでも変わりません。誰が読者になるのか、まったくわからないで文章を書くというのは、論文や著書を執筆する場合と基本はおなじでしょう。でも、確実に違うのは、不特定多数というけれど、論文や著書を読むことがない人たちが、関心のある問題や事件について「書き込む」「つぶやく」ということです。ぼくは、くりかえして言うように、この駄文・雑文集は「記憶の確かめ」のために、たった一人で練習しているメモ帳のつもりです。一人でも多くの人に読まれたいなどという心づもりは皆無です。一年半になりますが、この心づもりは一向に変化する気づかいはない。このブログ自体が「(記憶力維持のための)自主トレ」に過ぎないからです。つまり、ブログを続けるのは、ぼくにとっては「道具」の利用であり、腹筋運動やストレッチのための手段(道具)でしかないんです。(その無様な練習風景を、覗いてくださる方がいるというのは、ぼくには驚きそのものです。もちろん、胸のうちでは、深く感謝、です。当たり前ですが)
道具はどこまで行っても道具であることを止めません。自動車が移動や荷物運搬の道具(手段)であるのを止めたらどうなりますか。道具の役割をもたなくなれば、それは「所有すること」自体が目的になるのです。道具と目的というのは、哲学の難問でもあります。車が乗りものではなく、絵画や宝石のように「嗜好品」であることを求める人もいるでしょう。今や、スマホは通信の手段に留まらない、実に間口の広い多用途の道具(機器)です。だからこそ、その道具を使う能力というか技術を、使う側が養う必要があります。AT車が急激に増加したのと同時に、その便利で簡単な車(道具)を使いこなせないために、悲惨な事故が後を絶たないのを、ぼくたちは毎日のように見ています。便利な道具を使いこなすだけの技術(能力)を持たないから、事故は起こる。スマホと凶悪事件とは、直接の関係がないと、ぼくが言うのここにあります。

岡山県の取り組みをとやかく言うのではありません。大変に大事なことだと思う反面、もっと他にやることがありそうな気もするのです。これはまさしく「教育問題」であり「家族の問題」であり、「学校問題」でもあります。したがって、できるところが、できる範囲で、子どもも含めてスマホを利用する際に、困った落とし穴にはまらないために必要な「技術」(識字)を身につけるのための訓練を始めることでしょう。なにも、これは特別の教育ではない。自らの判断力を働かせるために求められる、算数や国語の(能力を高める)教育です。肝心なのは、注意力や判断力を養い育てることです。
<保護者向けの講演で筒井さんは親子の会話の大切さを訴えているそうだ。勉強以外の、たわいない話題がいい。「虹が出ているよ。きれいだね」。そんなふうに親子で空を見上げたことが最近、あっただろうか> というのは、コラム氏の言。これはダメです、というつもりはありません。「親子で空を」もいいけれど、子どもをどのような存在として受け止めているか、そこから、すべてが始まるのではないでしょうか。「虹が出ているよ。きれいだね」とは、なんという陳腐。子どもを「所有物」と見ていないか、尊重心・尊敬心というものを以て付き合っているか、そこからですよ。
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蛇足 たったの一度も、スマホを持ったことも、使ったこともない人間が言うことです。まるで寝言のように思われるでしょう。でも、それはともかく、スマホも車も、まちがいなしに「道具」です。道具には道具の使い方があり、それを使う技(技量)を持たない限り、道具は「凶器になる」ほかないんです。それが言いたかっただけ。
斧(おの)や鑿(のみ)は道具ですよ。それを使って仕事をする人には欠かせない道具です。でもそれを使いこなすだけの訓練も技術もなければ、「✖✖に刃物」となります。携帯やスマホの便利さは、「✖✖に刃物」になるような便利さでもあるのですね。どんな道具でも、使うためにはそれにふさわしい使いかたを習得する必要があります。その訓練は欠かせない。パソコンが使われだした際、ネット時代の「(情報)リテラシー教育」などとさかんに言われました。それから時代が過ぎた今、リテラシーの必要性を声高に叫ぶ人が、あまりいなくなったのでしょうか。横文字や縦文字をどうこう言うのではありません。「道具」をうまく使うだけの技術を持たない限り、いずれ機械(道具)に使われるだけになり、その結果として、事件や事故が起こるのは不可避だからです。それだけをぼくは言いたいんですよ。
自動車は「走る凶器」とも言われます。一方では便利だけれど、他方では危険でもあるというんでしょ。「諸刃の剣(もろはのつるぎ)」というらしい。便利と危険が背中合わせというのでしょうか。でも、ぼくに言わせれば、車でもスマホでも、「危険を顧みないで、危ない使い方をしている」、そんな人が後を絶たないようにも思われてくるのです。「便利」が重なると、反対に「不便」になってしまう。「便利」を使いこなせないんですね。そもそも、「諸刃の剣」という言葉自体、剣の捌(さば)きが未熟でしかないと白状しているようなもの。そんな人は、剣を使わないことです。ぼくがスマホ・携帯を持たないのは、ここに、本当の理由があったかもしれない。「諸刃の剣」だったんだ、な。
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● もろは【諸刃】 の 剣(つるぎ)=(両方に刃のついた剣は、相手を切ろうとして振り上げると、まず自分を傷つけるところから) 相手に打撃を与えると同時に、こちらもそれなりの打撃を被るおそれのあることのたとえ。また、役に立つものも使い方によっては、危険なものになりうることのたとえ。※浄瑠璃・雪女五枚羽子板(1708)厄払ひ「両刃(もろハ)の剣にて人をきるに、振上げさまに我まづ斬らるると云ふ譬へ有」(精選版日本国語大辞典)
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