「車両の異常」をいう前に、何をするか

 【天風録】ハンドルを握る責任 慢心や油断があったのだろう。慣れた道で車を走らせていて、バイクと接触した。双方とも幸いけがはなく、車にキズが入っただけで済んだ。お互い気を付けようと確かめ合った▲以来、自分が怖くなった。思えば、視力をはじめ体のあちこちにガタが来ており、物忘れも多い。それでも生活上、車が欠かせない。せめて少しでも安全な車を―。17年間乗ってきた車を手放し、乗り換えると決めた▲最近の車は安全サポート機能がいっぱい。とはいえ、どれだけ車が進化しても、やはり人間次第である。気持ちを引き締めて運転するつもり。なのに納車の見通しが悪い。半導体不足でまだ先になりそう▲暴走車が母子の命を奪った東京・池袋の事故。「ブレーキが利かなかった」「車のせい」。ペダルの踏み間違いという断定にも非を認めぬ被告に実刑判決が出た。責任を認め、謝って―。裁判長の言葉をどう聞いたか▲妻子を思う涙とともに、被告の無罪主張への悔し涙を流してきた遺族。「2人の命を無駄にしないように生きたよ」。天国で伝えたくて事故撲滅の活動を続けているそうだ。私たちには何ができるか。しっかりと責任を持って、ハンドルを握ることだろう。(中国新聞デジタル・2021/9/3)

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 「前を向くきっかけに」 被告に控訴断念と謝罪要望―遺族の松永さんら・池袋暴走

 池袋暴走事故で妻の真菜さん=当時(31)=と娘の莉子ちゃん=同(3)=を失った松永拓也さん(35)らは2日午後、飯塚幸三被告(90)への東京地裁判決後に記者会見。被告に誠実な謝罪を求めた裁判所の姿勢を評価し、「救われる気持ちになったので感謝している。少しでも前を向いて生きていくきっかけになる」と語った。

 東京地裁で2日、実刑判決が言い渡された飯塚幸三被告(90)。判決言い渡し後、裁判長から「判決に納得するなら、過失を認めた上で遺族に真摯(しんし)に謝ってほしい」と説諭されると、大きくうなずいた。(時事通信・2021/09/02)

90歳元院長に実刑判決 禁錮5年「過失は重大」―池袋暴走事故・東京地裁

 東京・池袋で2019年4月、母子2人が死亡、9人が重軽傷を負った乗用車暴走事故で、自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)罪に問われた旧通産省工業技術院元院長、飯塚幸三被告(90)の判決が2日、東京地裁であった。下津健司裁判長は「過失は重大。事故への反省の念もあるとはいえない」として禁錮5年(求刑同7年)の実刑判決を言い渡した。/ 下津裁判長は事故原因について、アクセルとブレーキの踏み間違いによるものと認定。事故車両には定期点検や事故後の検査でも異常はなかったとし、車両の不具合が事故原因とする弁護側の無罪主張を退けた。/ その上で、アクセルとブレーキを的確に操作することは、「年齢にかかわらず求められる最も基本的な注意義務の一つ」と指摘。被告は義務を怠り、踏み間違いに気付かないまま車両を加速させており過失は重大だと批判した。/ 母子2人が死亡したことについて、「2人の無念さは察するに余りあり、遺族の喪失感も全く埋められていない」と言及。被告は法廷で謝罪の言葉を口にしたものの、過失を否定する態度に終始しており、高齢なことや厳しい社会的非難を受けたことを踏まえても「長期の実刑は免れない」とした。(同上)

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 もう半世紀ほども車を運転してきました。運転が好きというわけでもなく、必要に迫られてという理由だけでした。しかし時には、気分転換にドライブに出かけたり、あるいは近間で歩けるのに、わざわざ運手していくということもしばしばでした。今は、辺鄙(へんぴ)な、つまりは不便な、山中に住んでいますから、車の運転は、日常生活には、まあ不可欠とも、いえばいえます。この五十年、幸運にして事故を起こしたことはない(交通違反はかなりしてきました。でも、この三十年以上は無違反でしょう)。数十年前、東北道のドライブインで、大型トラックによって、ドアに傷を付けられたことはありました。考えてみれば、事故に遭わなかったのは偶然だったし、事故を起さなかったのは運転が上手だったからではなく、勿怪の幸いだっただけ、まるで綱渡りのような運転経験を重ねてきたともいえるでしょう。

 頻繁に、高齢者事故己が報じられています。その多くがアクセル・ペダルとブレーキ・ペダルの踏みまちがいだと言われます。旧来のマニュアル(MT)車では考えられない事故です。それにはアクセルとブレーキとクラッチという三種のペダルがあって、クラッチでギアの入れ替えを行わなければ運転がスムーズにいかないし、クラッチを踏むと、アクセルもブレーキもいっしょに踏むことが出来ないのです。オートマ(AT)車は、運転術は容易だし、気軽に車操作の楽しみが味わえるというので一気呵成に普及しました。ぼくは、半世紀前の教習所ではマニュアル式の、排気量が2リットル超の車で免許証を取得したので、かなり長く、マニュアル車に乗っていたほどです。いまでも、手動式を希望している。運転の楽しみや運転操作の向上が目に見えて体験できるからです。現在使っている自家用車は、年間で二千キロも乗っていません。

 AT車が普及し始めたころ、やたらに急発進する車が続出し、一時は「欠陥車」が走っているとまで言われました。その際にも、ぼくはアクセルとブレーキの踏みまちがいだといっていたし、実際にはそうだったのです。オートマ車の普及は、メーカーと運転希望者の要求が合致し、だから車社会が急速に進んだし、それと並行して事故件数、死傷者の数も急激に高くなりました。細かいことは言いませんが、要するに運転技術が単純化された結果、いろいろな悲劇や不幸が生じているのです。これをもとの手動式の車に戻すことできないし、それならば、と、残された課題や事故防止方法はいくつもないでしょう。細心の注意を失なわないで運転するというだけです。

 車開発が進むというのは、運転技術が「より易しくなること」に比例します。運転に際して、神経を使わなくなればなるほど、それは「いい車」ということになる、その分、運転する側の「判断力」や「注意力」は極度に使わなくなるから、事故が多くなるのは必然という成り行きです。

 ここに、少し古いデータですが、簡単なものを出しておきます。車社会の状況を見ると、その「社会」の傾向というか「性情」というものが明らかになるように思われてきます。そこからすれば、この社会は、あいもかわらずに「未熟」そのものの時代に踏みとどまっているようです。ぼくも、その一員ですよ。(https://www.car-hokengd.com/koutuu-unten/mt-at-accident-rate/)

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 数字を見れば一目瞭然です。AT(オートマチックトランスミッション)車とMT(マニュアルトランスミッション)車の(構造の)違いが、一面では事故発生件数に相当に関係していると言えるでしょう。不思議ですが、外国ではまだまだMT車が主流です。背景にはいくつもの理由がありそうですが、彼我の差をここで述べても始まりません。しかし、ここにも、この社会の一つの傾向が見て取れるようにも思われのです。簡単・便利・手軽などという側面を重視する、そんな価値観が驚異的な勢いでその威力を発揮しているということです。(比較できるかどうかわかりませんが。LPレコードの普及と消滅、CDやMDの出現と減少。LPレコードなどの再普及…。同じようなことが車にも起こるのでしょうか。その前に「電気自動車」普及が勢いを増すのかな)自動車は「走る凶器」とよく言われてきました。カーナビやドライブレコーダーが装備されて、いよいよ運転者はアクセルとブレーキに足を置くだけ、ハンドル操作も、すでにAIがやってくれる時代に入っています。これが「便利」だというのでしょうが、人間のまともな感覚や判断力にとっては、かつてない危機の時代でもあることを忘れたくない。「凶器」の殺傷力はさらに増しているのです。

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 自販機、コンビニ、外食店、各種チェーンストアなどの目を見張る拡張・普及が、流行というものの行方を示しています。その良し悪しをいうのではありません。しかし、本来は自分の「判断力」「実行性」の発揮が求められたのに、今ではそれはわきに置かれてしまい、何処までも機器に代用させる風潮が加速しています。使う側の「能力」はほとんど無用になるという意味では、なかなかに怖い事態が進行しているのです。「自動車社会」と言われて久しいのですが、それはまた自動車事故との闘いでもありました。年間にニ万人近くの事故死者が出るという事態は、異常をはるかに超えていました。何十年にもわたる、人手と資金を投入して「交通安全」「交通事故防止」政策を推進してきた結果、今日では3千数百人程に減少しています。いい傾向ではありますが、死者がゼロ、ここを見すえることが、当たり前の「交通安全」社会です。

 「人命の尊重」ということからすると、「いのち」は統計数字では表せないと言わなければなりません。失われたいのちは、かけがえがない、唯一の「いのち」です。生活に自動車は不可欠、しかも、人命尊重をもとに社会が組織運営される、その方向を決して見失ってはならないでしょう。人命は地球よりも重い、誰もがそのように認めながら、日々に「人命は」は棄損・破壊されているのです。ぼくたちが生きている「社会(人間関係の総和)」というものは、さまざまな矛盾や撞着(contradiction)を含んで、ようやく機能しています。

 池袋での暴走事故に関しては、裁判が適正に判断されることと思うし、それを願っています。あらゆる手段や方法を尽くして「交通事故の撲滅」に取り組む、それがぼくたちに突き付けられてきた課題です。車を運転する人間がしなければならないこと、まず第一に、運転をしないこと。それが無理であれば、必要最低限度の運転に限るということ。それも困難であれば、…と理屈を言えば切りがありません。自分は大丈夫ということが出来ないのは、地震や豪雨の発生と同じことです。それは天災(自然災害)だからと、言いきれない状況にぼくたちは置かれていますから。自然災害をもたらすのは「自然現象」です。しかしその自然現象に大きな影響(多くは悪影響)を及ぼすのは、人為によるものが大半です。自動車事故は自然災害ではなく、人為的な災害・災厄であるから、なおのこと、それを無くすることは可能だし、一歩一歩それに近づく必要があります。 

 「 私たちには何ができるか。しっかりと責任を持って、ハンドルを握ることだろう」とコラム氏はいう。言うは易く、行うは難し。自分が起こさなくても、外から事故がやってくる。ぼくは、かなりの昔に読んだ、アメリカの一老人の小話を忘れないようにしている。後期高齢者の老人が、高速道路を走っていて、料金所に差し掛かった。ゆっくりと速度を落とし、料金を支払おうと停車した途端、後方から自動車が追突してきた。老人は、車を降りて、ぶつけてきた車に向かう。すると、中から年若い男が降りてきたという。その顔を見た瞬間、「こんな若造にぶつけられるなんて、俺も衰えたものだ」と言って、即座に免許証を棄てたという内容です。果たして、こんな「事故」が、この先にぼくを待っているのか、その時に臨んで、「俺も衰えたものだ」と異国の老人と同じような「セリフ」が口をついて、なおかつ、同じような行動がともなうだろうか。あるいは、そこに行く前に「俺もホントに衰えたなあ」ということになるのでしょうか。

 凄惨な事故が起こった。多くの方々が、降ってわいたような被害に遭われた。まず、加害者がなすべきだったのは、事故原因は「車両の異常だ」と主張する(あるいは、万が一、それが「事実」だったということであったとしても)前に、起こした事故に対して深甚の責任意識の表明と、亡くなられた方に対する深い哀悼の意と、真率な謝罪の態度(言葉と姿勢)、これこそが求められていたのです。

 (ぼくは、加害者家族の方々の、事故後に浴び続けておられる「社会的制裁」(という名目での「非難」「バッシング」であると言っていいと思う)に対して(その心ない他者の言説を、あるところで読むことが出来ました)、じっと耐えている姿勢というか態度に向かって、なにか語りかける言葉を持っていません。ただただ、同情に堪えないのです。一つの「事故」は、多くの人々に言い知れぬ苦しみ、悲しみを必ず与えるのだ、車を運転する人間として、このことを、肝に銘じていたい)(やがて、ぼくも衰えが来て、車を運転できない時がきっと来ます。その場合に、どのようにして生活を維持しうることが出来るか、今からいくつかのこと(方法)を想定し、その準備を始めているのです。この駄文集のどこかで、この問題について触れるかもしれません。老化は必然、ある意味では、生きる最中の救いでもあるのです)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)