地上に現れるのは、ささやかな歴史の一面

稲穂が黄金色に染まった大原新田=島根県奥出雲町大馬木(小型無人機で撮影)

 鉄の里に黄金じゅうたん

 【奥出雲】世界農業遺産の国内候補地に決まった島根県奥出雲町内で、鉄穴(かんな)流しに由来する棚田が色づいた。9月中の稲刈りを前に、黄金色の「じゅうたん」が町内各地に広がる。/ 奥出雲町の棚田の多くは、たたら製鉄の原料となる砂鉄を得るための鉄穴流しで尾根を削った跡地に整備された。/ このうち、大原新田(大馬木)は、江戸時代、松江藩の鉄師を務めた絲原家が開発した。日本棚田100選と、国の重要文化的景観に選定されている。

 現在、4・9ヘクタールでコシヒカリなどを栽培。山を削った緩やかな斜面に、整然とした長方形の水田38枚が並ぶ。秋晴れの柔らかな光に包まれた稲穂はこうべを垂れ、間近に控えた収穫を待つ。/ 町農業遺産推進協議会では9月中に、英語版の世界農業遺産認定申請書をとりまとめ、10月上旬をめどに遺産を審査する国連食糧農業機関に提出する予定。(狩野樹理)(山陰中央新報デジタル・021/09/02)

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 この「棚田風景」を説明するには、複数の領域にまたがる、膨大な歴史事実を記述しなければなりません。とてもぼくの手に余りますし、時間の制約もありそうですので、本日はきわめて簡略化して述べようと思います。

 まず古代の「製鉄法」についてです。この中国産地が、劣島の「製鉄」の中心地として開かれてきたのには理由があります。第一は、気候帯の性格です。高温多雨・多湿、豊かな山林資源があること。それも照葉樹林が望ましい。製鉄には莫大な燃料(材木)が必要です。鉄一貫目を産出するのに、一山丸裸というくらいに、燃料の木材がいるのです。製鉄は、多くは「砂鉄」を原料にして、そこから不純物を取り除いて「鉄分」を得ることから始めます。得られた鉄分を高温で精錬して「鉄」を得るのです。その精製過程で用いられるのが「たたら(多々良・蹈鞴・踏鞴・鑪・鈩)」です。一言で言えば、往時の「溶鉱炉」です(右上)。

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〇 砂鉄(サテツ)magnetite sand=含チタン磁鉄鉱が風化して砂状となったものである.風化してそのまま地表を覆ったものを原成砂鉄,風によって運搬されたのち,堆積したものを風成砂鉄,水により運搬されたのち,堆積したものを水成砂鉄とよぶ.水成砂鉄は堆積した場所によって,川砂鉄,湖岸砂鉄,浜砂鉄とよぶ.堆積後,地殻の沈降,隆起などをうけたもので段丘を覆うものを段丘砂鉄,山地の地層中にはさまれたものを山砂鉄とよび,また,波打ぎわの砂鉄を打上げ砂鉄とよぶ.なお,砂鉄を小鉄(こがね)とよぶ地方がある.砂鉄の成分は産地によって異なるが,主成分はマグネタイトFe3O4,ヘマタイトFe2O3,チタニアTiO2で,これらの酸化物が固溶体あるいは微細な溶離組織をつくっている.主成分がマグネタイトのため磁性を有している.砂鉄は還元されにくいので,直接製鉄法の原料とする以外にはほとんど使用されていない.(化学辞典第2版)

〇 砂鉄【さてつ】=岩石中の鉄鉱物が風化によって分離,原地に,また流水などに運搬されて別の場所に堆積したもの。生成場所により山砂鉄,川砂鉄,浜砂鉄,海底砂鉄などと呼ぶ。鉄鉱物は磁鉄鉱を主とし赤鉄鉱,褐鉄鉱,チタン鉄鉱などからなる。日本では北海道内浦湾,青森,岩手,千葉などに産し,チタン分が比較的高いので,鉄鉱石およびチタン鉱石として利用。なお古くから山陰,特に出雲などで山砂鉄を用いたたたらによる製鉄が行われてきた。(マイペディア)

〇奥出雲町=(略)古くは砂鉄採取と、たたら製鉄が盛んに行われていた。現在もその技術が残されていて、たたら角炉伝承館、可部屋(かべや)集成館、奥出雲たたらと刀剣館では、たたら製鉄の歴史や技法を知ることができる。伝統産業として雲州そろばんの生産があるが、そろばんの消費量が減少しているため、銘木工芸品などに生産を広げている。斐伊川は素戔鳴命(すさのおのみこと)の「八岐大蛇(やまたのおろち)」伝説の舞台となっていて、その支流大馬木(おおまき)川にある国の名勝・天然記念物の鬼の舌震(したぶるい)は県立自然公園になっている。面積368.01平方キロメートル、人口1万3063(2015)。(ニッポニカ)

〇鉄穴(かんな)流し =かんな流し設備(羽内谷かんな流し本場)=(島根県仁多郡奥出雲町竹崎字羽内谷)
推薦産業遺産」指定の地域遺産〔12号〕。山砂鉄を含む母岩を流水で洗場に送り、比重選鉱の原理を利用して5段階の沈殿池を通過させ砂鉄の純度を高め採集する設備。明治末頃建造され、1970年代に休止した。伝統的砂鉄採取法として、日本で唯一残存したとされる。(事典日本地域遺産)

〇 たたら【たたら(鑪∥踏鞴)】=日本古来の代表的な製鉄方法。粘土でつくられた高さの低い角形ので,木炭燃料として砂鉄を製錬する原始的なものであるが,日本刀の素材である玉鋼(たまはがね)はこの方法でつくられていた。炉の下方から風を送って木炭を燃焼させ,十分に温度を上げてから木炭と砂鉄を交互に層状に投入しながら,連続的に3昼夜ほど操業して砂鉄を還元する。操業を終えると炉全体をこわし,還元された鉄のを取り出す。これを〈けら(鉧)〉という。(世界大百科事典第2版)

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 島根県 「日本で生まれた製鉄の伝統技法「たたら」。島根では、中国山地の砂鉄と木炭を原料に、古代から鉄作りが行われてきました。その生産量は、江戸時代後期から明治時代初めの最盛期には国内の生産量の半分以上を占めたといいます。たたらは、第2次世界大戦後、一時途絶えましたが、日本古来の製鉄法を未来に伝えるために復活しています。

 鉄の道具が大陸から伝わったのは弥生時代のことです。古墳時代後期には国内で鉄の生産が始まり、島根では邑南町と雲南市掛合(かけや)町でこの時代の製鉄遺跡が発見されています。この段階の製鉄炉は一辺が50センチほどの小さなものでした。天平5(733)年に編纂(へんさん)された『出雲国風土記』には、仁多郡の三處郷(みところのさと)、布勢郷、三澤郷、横田郷について「以上の諸(もろもろ)の郷より出す所の鉄(まがね)、堅くして、雑具(くさぐさのもの)を造るに堪(た)ふ」との記載があります。
古代には、今の奥出雲町一帯が鉄生産の拠点だったことがうかがわれます。
 中世になると、製鉄炉は長方形になって大型になり、一辺の長さが2メートルを超えるものも現れます。炉の大型化は、鉄の量産化を可能にするとともに、施設の大規模化を促しました。その完成されたものが、江戸時代の「高殿(たかどの)たたら」です。高殿と呼ばれる建物の中で連続した操業が行われ、周辺施設を含め製鉄工場と言えるものに発展しました。

 たたらには「一土、二風、三村下(むらげ)」という言葉があります。土とは製鉄炉の粘土である釜土のこと、風は炉内の温度を上げるために送られるふいごの風のことです。鉄を溶かすには、炉内の温度を千数百度にしなければなりません。送風は製鉄の成否を左右しましたが、江戸時代に足踏み式の天秤(てんびん)ふいごが発明され、鉄の量産が可能になりました。村下とは、たたら操業の責任者のことで、その技は一子相伝(いっしそうでん)門外不出とされました。たたら製鉄は、原料である砂鉄と木炭を大量に確保するとともに、村下をはじめとする職人や家族が生活する集落「山内(さんない)」を維持しなければならず、経営には相当な財力が必要でした。旧松江藩は、有力なたたら製鉄経営者であった田部(たなべ)家(雲南市吉田町)、櫻井(さくらい)家(奥出雲町上阿井)、絲原(いとはら)家(奥出雲町大谷)などを鉄師として製鉄を許可し、藩の財政に貢献させました。たたらは江戸後期から明治初期にかけて最盛期を迎えます。(島根県HP「島根のたたら」より・https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/seisaku/koho/esque/2013/87/01.html)

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 ここまで来て、ようやく「大原新田 棚田」の入口が彼方に見えてきたような気がします。要するに、「砂鉄」を獲るための大掛かりな「鉄穴流し」がおこなわれてきた、その遥か後代の土地利用が「棚田」だったというわけです。全国に大小数千に及ぶ棚田がありますが、その代表的なものは「棚田百選」として公表されています。(全国棚田(千枚田)連絡協議会・https://tanada-japan.com/hyakusen/)ぼくはそのいくつかを見ています。しかし、この「棚田百選」も他の観光用景観と同じで、あまりにも見世物に偏り過ぎているという印象を持ちます。人知れずささやかに、ひそかに経営されている「棚田」こそ愛おしむべきであると考えたりしています。

 千葉県にも有名無名取り混ぜていくつもの「棚田」があります。その景観の美というよりは、こうまでして「田を開く」、農業に従事する人々の稲づくりへの情熱を、ぼくは強く感じてしまうのです。一枚の田圃が稲を収穫するのにどれだけの「灌漑技術」を基として、人々の労働が営々と営まれてきたことか、それを知ろうとするだけでも二千年の歴史を学ぶ必要があるのですね。

 この島国の地表に現れたのは歴史のささやかな、ほんの一瞬に存在した「生活の形」の、しかも一面にすぎません。しかし、その地下(地中)には数千年の存在者の生活が記録されているのです。(右は石川県輪島市「白米の千枚田」) 

〇 棚田【たなだ】=山間の傾斜地に階段状に作られた水田。1枚の水田はごく狭い面積で,これが棚のように斜面をおおう。米の生産だけでなく,水資源の涵養(かんよう)など多面的な機能をあわせもつ。全国700以上の市町村に,全水田面積の約8%にあたる22万1000haの棚田があり,中でも長野更埴(こうしょく)市の〈田毎(たごと)の月〉,石川県輪島市の〈千枚田〉などが有名。近年,農家の高齢化や中山間地域の過疎化などから作業の厳しい棚田の耕作が放棄される傾向にあり,景観および中山間地域農業の保護のため自治体が中心となって棚田の保護活動が行われるようになった。棚田は中国,東南アジアの山間地にもみられる。(マイペディア)

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 まだ石川県能登中島にいる頃、ぼくは近所にあった「鍛冶屋」によく出かけては、その職人さんの仕事ぶりを終日(ひねもす)、飽きもせずに眺めていたものでした。その人は H さんと言って、同級生の祖父でした。おそらくぼくは小学校に入学したかどうかという時期でした。六つ、七つくらいだったろうか。何を作っていたか、鎌とか包丁とか、日常用の刃物だったように思いますが、その装置(仕組み)が大層興味深かった。槌を打つ音、鞴(ふいご)の、シューという響きさえ思い出せそうです。そこへはずいぶんと通った気がします。文字通り、村の鍛冶屋さんでした。その後に覚えた「村の鍛冶屋」という唱歌(大正元年)、(「村祭り」と同じように)、この歌が、思いがけない時に脳裏に響き渡ることが今でもあります。鍛冶屋の現場がありありと、視覚に映し出されてきます。湯気が立ち、槌音が響く。川べりの倉庫も兼ねた「鍛冶場」の風景です。

 鉄穴流しと棚田、この両者の間には数千年の時間が流れています。この二つながら、この島社会の「歴史と文化」を形作ってきた。両者は密接不離の距離を保って、それぞれに「精度」を高めてきたともいえます。日本の農業が早くに普及したのは農機具の開発にありました。その基盤を支えてきたのが「蹈鞴製鉄」だった。鍬や鋤、鎌などの農具が鉄製になるのを期して、開墾の困難な土地も開かれ、耕地面積の拡大がすすめられたのです。「棚田」はその恩恵にもっとも与ったと言えます。大工道具や日常は物の種類の豊富さは、韓国や中国の比ではありません。それもこれも、高温で、雨が多い、そのため森や林の木々が費消されても、短時間で復元するという気候風土の利点です。加えて、当然のこと、砂鉄が入手しやすいという自然条件がそろっていた。また「製鉄職人集団」である「山内」を形成するだけの資力を持つ資本家がいたことです。(*山内(さんない)=「中国山地の砂鉄精錬は,鉄穴(かんな),炭山,韛(たたら),鍛冶屋の4部の山内(さんない)という特異な組織をもったが ,(後略)」(世界大百科事典)

 豊葦原の瑞穂の国といわれるのも、水と緑に恵まれてきた気候と土壌の自然の恵みがあったればこそだったといえるでしょう。この数日、拙宅の近辺の稲田では、さかんに稲刈りが行われています。ヤンマーだかヰセキだか知りませんが、作業のすべてが機械化されて、実に手際よく刈り取られています。脱穀はおろか、乾燥までも機械(コンバイン)が処理するのです。これは便利であるのはもちろんですが、機械化促進させられてきた結果、田圃に纏わる多くの「文化」「習俗」「伝統」「芸能」が喪失していきました。結とか巻という、結合の力が地域から消えた結果、いろいろな意味で農耕社会の変質・変貌が余儀なくされることになりました。

(「此の豊葦原の瑞穂(ミツホ)の国を挙(のたまひあ)げて、我が天祖(あまつみをや)彦火の瓊瓊杵の尊に授へり」(神武紀)

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ふいご(鞴)=火床の燃焼力を高める装置

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 追記 製鉄や鈩(たたら)について考察する時、今では欠かせない記録となっているのが「もののけ姫」です。これについても語れば際限がなくなりそうですので、機会を設けていずれの日にか、新たな主題を立てて考察してみたい。いろいろな視点から考える必要がある作品ですから。このアニメのメッセージは何だったんでしょうか。

「百億の人口がねぇ、二億になったって別に滅亡じゃないですからね。そういう意味だったら、世界中の野獣は、もう滅亡、絶滅していますよね(笑)。そうですよ。元は百匹いたのに、今は二匹しかいないなんて生きもの一杯いますからね。そういう目に、今度人類が遭うんでしょ、きっと。でもそれは滅亡と違いますね。僕等の運命ってのは、多分、チェルノブイリで、帰ってきた爺さんや婆さん達が、あそこでキノコ拾って食ったりね、その『汚染してるんだよ』って言いながら、やっぱり平気でジャガイモ食ってるようにして生きていくだんろうなっていうね…まぁ、その位のことしか言えないですよね。それでも結構楽しく生きようとするんじゃないかぁっていうね、どうも人間ってのは、その位のもんだぞって感じがね…」—( 宮崎駿、『「もののけ姫」はこうして生まれた。』)

 (「もののけ姫」の想を得るのに、「照葉樹林帯文化」の提唱者だった中尾佐助氏の仕事(一例として『栽培植物と農耕の起源』)があったと、宮崎駿さんは言われています)

(https://bunshun.jp/articles/-/47831より)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)